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豊臣兄弟、最底辺から始める天下奪取 ――現代営業の知略で、戦国の理不尽を喰い破る――  作者: チャプタさん


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第四話:盾と知恵の境界線

第四話:盾と知恵の境界線


 夜明け前の張り詰めた大地というものは、息を吸い込む生き物の微かな吐息すらも、その冷徹な威圧をもって断固として拒絶しているかのようであった。

 凍てついた土の奥深くに閉じ込められていた僅かな水分が、夜間の激しい冷却によって結晶となり、膨れ上がることで、乾いた地表を内側から軋ませ、押し上げている。

 みし、みし、と何か硬い骨が折れるかのような乾いた不気味な破裂音が、静まり返った極寒の冬の村のあちこちから、断続的に響き渡っていた。

 それはまるで、凍土の上に築かれた貧しい共同体そのものが、容赦なき寒さに耐えかねて、自らの骨をきしませて悲鳴を上げているかのようでもあった。

 この尾張の地に訪れる冬の牙というものは、決して全ての人間に平等にその過酷さを分け与えるような慈悲深いものではなかった。

 持てる豊かな者からではなく、日々の蓄えを持たぬ最も弱い立場の者から順番に、冷酷な手つきで命を毟り取り、削り落としていくのである。

 備えの乏しい底辺の家から順番に貴重な薪が尽き果て、肉体の衰えた老人から寝床の中で静かに体温を失って冷たくなっていく。

 痩せ細った子供たちほど冷たい大気に喉を痛めて激しい咳をこじらせ、待ち望んだ暖かい春の訪れを目にすることなく、闇の底へと消えていく。

 この戦乱の乱世において、冬という過酷な季節は決して抗えぬ天災などではなく、富を持たぬということ、すなわち貧しさそのものの残酷な具現化であった。


 大気は鋭く澄み渡り、皮膚に触れるだけで、まるで研ぎ澄まされた薄刃をもって肉を削がれているかのような激しい痛みを伴っていた。

 冷え切った空気を不用意に肺の奥深くへと吸い込むたび、気管の内側をざらついた粗悪な鑢で擦り剥かれるかのような苦痛が走り、激しいむせびを誘発する。

 鼻腔の奥は乾ききって血の匂いが漂い、露出した手足の皮膚はひび割れて赤黒く裂け、耳たぶはもはや自らの肉体の一部とは思えぬほどに感覚を完全に失っていた。

 見渡す限りの田畑は一面が白く強固に凍り付き、黒ずんだ畔道の土手には、鋭利な霜柱がまるで大地の牙のように不気味にその鋭さを競い合っている。

 周囲の木々はすべての葉を落としきり、灰色の寒空に向かって、痩せ細った灰色の枝を無数に伸ばし、静かに佇んでいた。

 その光景は、天に向かって必死に救いを求め、届かぬ手を差し伸ばしている哀れな亡者たちの群れのようにも見え、胸に迫る寂寥感をもたらす。


 日吉は、我が家の裏手の土手に築いた、泥と川石で固めた手作りの竈の前へ低くしゃがみ込み、その火口の奥深くをじっと無言で見つめ続けていた。

 特別に設えられた狭い竈の内部では、真っ赤な炎がごうごうと低い唸り声を上げながら、猛烈な勢いで渦を巻いていた。

 空気の流れを細かく絞り込み、発生した熱源を一切外へ逃がすことなく、調理を施す一点へと効率的に集中させる。

 それは、前世の知恵からすれば至極当然の、ごく単純な空気の対流を応用した工夫にすぎないものであった。

 しかしながら、その「ごく単純な物理の応用」こそが、この未開で非合理的な時代においては、誰一人として思いつくことのなかった驚異的な新技術であったのだ。

 わずか数本の細い枯れ枝しか焚べていないにもかかわらず、泥の燃焼筒の内側では、真紅の炎が飢えた獣のように激しく暴れ回っている。

 火口から吹き出してくる強烈な放射熱が、凍りついていた日吉の頬の皮膚を瞬時に温め、かじかんでいた手足に生気を取り戻させていく。

 村の各家にある原始的な地べたの囲炉裏であれば、これほどの圧倒的な火力を得るためには、少なくともこの数倍以上の大量の貴重な薪を消費せねばならなかった。

 しかも、この竈は煙突効果によって完全燃焼を起こしているため、家屋を白く包み込むような不快な不完全燃焼の煙が、驚くほどに少なかった。

 煙が少なければ、暮らす人々の目を不必要に刺激して涙を流させることもなく、煤によって肺を痛めて咳き込む老人の数も劇的に減少する。

 消費する薪の量が減れば、それだけ極寒の山林へ危険を冒して薪拾いに赴く回数も減り、結果として冬を無事に越せる生存の可能性が飛躍的に高まるのだ。

 理論立てて説明すれば、それは子供であっても理解できる極めて明快で単純な道理にすぎなかった。

 しかしながら、人間の暮らす社会というものは、いつの時代であっても、そのような合理的な理屈だけで平穏に動くほど、甘いものではなかった。


「……火の回りが良すぎるというのも、時には厄介な火種を招く原因になるものだな」


 日吉が呟いた口元から、白く濃い吐息が大きく広がり、朝靄の冷たい空気の中へと静かに溶けて消えていった。

 このほんの数日間の出来事を通じて、村の周囲を漂う空気の性質は、明らかにそれまでとは異なる不穏な色合いを帯び始めていた。

 最初は、新しく出現した妙な形の泥の塊を、不気味なものとして恐る恐る遠巻きに眺めていた村人たちであったが、一度その利便性を身を以て体験してしまえば、その後の変化は劇的であった。

 家庭を守る女たちは、日々の煮炊きに必要な時間が劇的に短縮されたことに驚き、その快適さに一瞬で心を奪われた。

 山へ深く分け入って薪を拾い集めるための過酷な労働から解放され、その分だけ家族のための他の作業に時間を割くことができる。

 家の中が有害な煤煙で満たされることがなくなったため、寝たきりであった老人たちの激しい喘ぎや咳が、目に見えて軽くなっていった。

 夜中、寒さのあまり小屋の片隅で凍えて泣き叫ぶ子供たちの痛々しい声も、村のあちこちで劇的に減少していった。

 それらは、この泥の底のような極限の暮らしにあって、確かに人々を救うための、神仏の恵みにも勝る絶大な「救い」そのものであった。

 しかしながら、それと同時に、彼らの心の奥底では、その恩恵に対する素朴な感謝とは正反対の、歪んだ別の感情が確実に育ち始めていたのである。


 それは、周囲から向けられる、妙に長く粘りつくような視線の変化であった。

 日吉やその家族が道を歩くたび、立ち話をする村人たちの目が、どこか探るような、冷ややかな間を置いて向けられるようになる。

 その視線の内実に含まれているものは、温かい恩恵に対する純粋な感謝などではなく、自らの理解を超えた技術に対する、本能的な「警戒」であり、他者が先に豊かになることへの「嫉妬」であり、そして何より、未知の存在に対する底知れぬ「怯え」であった。

 彼らにとって、日吉がもたらした竈は、自らを守ってくれる有益な道具であると同時に、自らの既成の秩序を脅かしかねない、不気味で理解し難い異物として映っていたのである。


「兄上」


 静かでありながら、どこか背筋を冷たく撫でるような声が、不意に日吉の背後の闇から届けられた。  それは弟の小竹であった。

 その歩みには一切の足音がなく、まだ五歳にも満たないはずの幼子とは思えぬほどに、自らの存在感を周囲から完璧に消し去る術を身につけていた。

 小竹は日吉のすぐ隣へと自然な動作でしゃがみ込むと、泥の隙間から漏れ出す火の光に向けて、自らのかじかんだ小さな両手をそっとかざした。

 燃え盛る炎の真紅の色彩が、その光を一切反射することのない暗い瞳の奥深くで、不気味にゆらゆらと揺らめいている。


「その暖かくありがたいはずの火は、いずれその熱によって、私たち自身を根こそぎ焼き尽くす恐ろしい凶器となりますよ」


「朝から、随分と縁起の悪い不吉な予言をしてくれるな」


「縁起が悪いのではなく、これは避けられぬ冷酷な事実です」


 小竹は、目の前の炎から決して視線を逸らすことなく、淡々と、まるで他人の事柄を評するように答えた。


「人間という生き物は、周囲の全員が等しく不幸せで、等しく飢えに苦しんでいる間は、案外大人しく静かに耐え忍んでいるものです。しかしながら、ある日突然、自らと同じ泥の中にいたはずの隣人が、自分たちを差し置いて先に寒さや飢えから逃れる姿を目にした瞬間、胸の奥から湧き上がる激しい嫉妬と屈辱の炎に、急に耐えられなくなる生き物なのです」


「だが、村の連中だって、この竈の知恵のおかげで随分と助かっているはずだろう」


「ええ、実際に大いに助かっております。だからこそ、事態はより厄介で、根が深いのです」


 小竹の声の響きには、同年代の子供が有するはずの無邪気さや甘えは微塵も存在しなかった。


「彼らは、自らの一日の暮らしが劇的に楽になったという事実を、十分に理解しています。しかしそれは同時に、『なぜ自分たちはこれまで、この程度の簡単な工夫にすら気づくことができなかったのか』という、自らの無知と無能の冷酷な現実を、毎日目の前に突きつけられているということでもあるのです」


 竈の内部で、薪がパチリと大きく爆ぜた。

 飛び散った小さな朱色の火の粉が、暗い朝靄の中へと一瞬だけ光り輝き、そして呆気なく冷たい空気の中に溶けて消え去っていった。


「自分たちはこれまでの長い年月、どれほど多くの無駄な薪を燃やし、無駄に極寒の山を歩き回り、無駄に家族の身体を壊して死なせてきたのか。その数々の過去の過ちの蓄積を、兄上の築いたこの賢い竈は、毎日無言のまま彼らに突きつけ、自尊心を傷つけているのです」


 日吉は深く息を吐き、そのまま黙って弟の言葉の重みを噛み締め続けた。

 小竹が指摘したその醜くも哀しい人間の精神構造は、彼がかつて生き抜いてきた前世の組織社会においても、全く同様に観察された現実であった。

 仕事の無駄を徹底的に省く画期的な仕組みを新たに構築し、業務の効率を飛躍的に改善させれば、組織の全体の業績は確かに向上する。

 しかしながら、その改革を素直に喜び、賞賛する人間ばかりではないのが、組織というものの歪んだ実態であった。

 むしろ、これまでの非効率極まりない古いやり方の中で、無駄な権威を振り回し、自らの居場所を確保していた古い世代の者たちほど、その新しい効率的な仕組みを激しく憎み、潰そうと躍起になる。

 新しい知恵を認めるということは、それまでの自分たちの生き方や、守ってきた伝統が全て「間違っていた、あるいは無駄であった」と、自らの非を公式に認めさせられることに等しいからだ。


「特に、あの庄助たちの動向は、今極めて危険な状態にあります」


 小竹は言葉を切り、鋭い視線を村の集落の方へと向けた。


「これまで、日吉たちの貧しい家を見下し、自らの優位を確信して安心していた者ほど、今のこの力関係の静かな変化を、絶対に許すことができないのです」


「……全く、生きるだけでも精一杯だというのに、どうしてこれほどまでに面倒なことばかりが起こるのか」


「人間が集まって暮らす以上、それは避けられぬ道理ですよ」


 小竹の態度は、どこまでも他人事のように冷ややかで、透き通っていた。


「己よりはるかに身分が低く、取るに足らないと思っていた相手が、自分たちよりも先に『生き延びるための最善の術』を自力で見つけ出してしまった。ただその動かし難い事実一つだけで、彼らの腹の底は、煮え返るような憎悪と恐怖に支配されているのです」


 まさに、その時であった。


「日吉ぃっ!! お前たち、一体そこで何をしている!!」


 我が家の薄暗い土間の奥から、引き裂かれるような母親のなかの悲鳴が、重苦しい朝の空気を切り裂いて響き渡った。

 周囲の空気が、一瞬にして刺すような緊張感へと変貌する。

 日吉と小竹は、互いに顔を見合わせることすらなく、弾かれたように同時に立ち上がり、土間へと向かって駆け戻った。

 土間の入り口を潜り抜けた瞬間、狭い室内に充満していた、他者のどす黒い怒りと悪意が凝縮された異様な熱気が、日吉の剥き出しの肌を強く打った。

 そこには、三人の頑強な体躯を持つ村の男たちが、我が物顔で立ち塞がっていた。

 彼らの手には、普段の野良仕事で用いる、使い古された頑丈なクワや木製の鍬、そして鋭利に研ぎ澄まされた草刈り鎌が、不気味な鈍い光を放ちながら握りしめられていた。

 先頭に立つ男の、赤く充血した瞳を見たその瞬間、日吉は彼らがここへやってきた真の理由を、直感的に理解した。

 この男たちは、数日前に日吉たちの知恵と罠によって、冬の冷たい用水路の中へと容赦なく叩き落とされ、命からがら逃げ帰った、あの傲慢な少年たちの父親たちであった。

 その顔に浮かんでいるのは、子供同士の他愛ない喧嘩に対する怒りなどではなく、自らの家族の尊厳を脅かされたと感じている、本気の「排除」の意思であった。

 彼らはただ脅しに来たのではない。  本気で自分たちの理解を超えた不気味な存在を、暴力をもって物理的に叩き潰し、抹殺しに来ているのだ。


「日吉」


 鎌を握りしめた男が、喉の奥から絞り出すような、唸るような低い声で言った。


「最近、お前たちの家だけが、妙に周囲の家に比べて暮らしに余裕を見せ、羽振りが良いという不審な噂が、村中で持ちきりだぞ」


「羽振りが良いなどということはありません。我が家には、他の方々に誇れるような余分な蓄えなど、どこを探しても一粒の米すら残されてはいませんよ」


「とぼけるな、この嘘つきめが!」


 男の瞳は、激しい怒りと飢えの恐怖によって、完全に血走っていた。


「お前たちの小屋の前だけ、使う薪の量が不自然に少なくて済んでいるではないか!

家の中から立ち上る煙も少なく、女房や子供たちの顔色も、他の家に比べて妙に生き生きとしている!

一体、裏でどのような汚い悪だくみをして、食物を独り占めしているのだ!」


「ただ、竈の形を少しばかり工夫して、無駄な熱が外へ逃げないようにしただけにすぎません」


「工夫だと?」


 背後に控えていた別の男が、虫唾が走るといわんばかりに、激しく床に唾を吐き捨てた。


「そのような泥の塊をこねくり回しただけで、これほどまでに冬の暮らしが劇的に変わるわけがなかろう!

貴様、裏山に潜む妖しき狐や、邪悪な魔物でも密かに手懐けて、村を惑わす呪法でも使っているのではないか!」


 土間の片隅では、母親のなかが恐怖のあまりガタガタと全身を激しく震わせ、うずくまっていた。

 父親の弥右衛門は、何事か叫びながら起き上がろうと必死に足掻いていたが、かつて戦場で受けた古い足の傷がこの寒さで酷く痛むのか、思うように身体が動かず、床の上で苦悶の表情を浮かべていた。

 男たちが放つ、剥き出しの野蛮な殺気が、狭く薄暗い土間の空間を完全に支配し、呼吸することすら困難なほどの重圧となって立ち込めている。

 これほどの極限状態にあっては、どのような論理的な釈明や、技術的な解説を試みたところで、相手の耳に届くはずがなかった。

 彼らは最初から、合理的な「答え」など求めてはいないのだ。

 彼らが真に欲しているものは、自らの理解を超えた新しい技術に対する恐怖から逃れ、自分たちの無知を正当化するための、「自分たちが納得し、怯えなくて済むための都合の良い理由」に他ならなかった。

 鋭い鎌の刃先が、日吉の目の前、わずか数寸の距離まで容赦なく突きつけられ、冷たい金属の匂いが鼻を突いた。


「村の神聖な掟を乱し、妖しき力で皆を惑わすような不届き者は、ここで徹底的に叩き潰してやるのが村のためだ」


 まさに、その破滅的な一撃が日吉の身に振り下ろされようとした、その刹那のことであった。


「……ごめんなさい、ごめんなさい……!」


 不意に、周囲の張り詰めた空気を完全に脱力させるような、哀れに震える幼い声が、土間の中に響き渡った。  それは、小竹であった。

 先ほどまで日吉の隣で、底知れぬ冷徹な眼差しを宿していたあの異様な気配は跡形もなく消え去り、そこにはただ、突然の暴力に恐怖し、肩を小さく震わせて涙を大粒にこぼしている、完全に怯えきった可哀想な幼子の姿だけがあった。


「ぼ、僕たちが、本当に悪いことをしてしまったのです……ごめんなさい……」


 あまりにも急激な事態の変化に、獲物を追い詰めていた男たちの動きが、戸惑ったようにぴたりと停止した。


「父様の足の傷が、この寒さで本当に辛そうだったから……兄上と一緒に、毎日山の奥深くにある、山の神様の祠へ行って、必死にお願いを繰り返していたのです……」


「神様だと……? 一体何のことを言っているのだ」


「はい……昔、死んでしまったお祖母様が、僕たちに静かに教えてくれたのです。土を固めて特別な形を作り、そこで神聖な火を絶やすことなく守り続ければ、山の神様がその健気な姿を哀れに思って、我が家の周りの冬の寒さを和らげてくださるのだと……」


 小竹は、しゃくり上げながら、鼻水をすすり、いかにも子供らしい無邪気な嘘を、さも真実であるかのように涙ながらに語り続けた。


「だから僕たちは毎日、兄上と一緒に、山の神様への約束を守るために、必死になってあの火を絶やさないように守り続けていただけなのです……。そしたら、山の神様が本当に我が家を憐れんでくださって、少ない薪でも温かくなるように、奇跡を授けてくださったのです……」


 語られるその荒唐無稽な物語を聞くにつれ、男たちの肩に入っていた凄まじい力が、拍子抜けしたように、少しずつ、だが確実に抜けていくのが目に見えて分かった。

 彼らにとって、日吉が語る「熱効率」や「空気の対流」といった、未知の合理的な技術体系は、自らの世界観を脅かす恐るべき異物でしかなかった。

 しかしながら、「山の神様の加護」や「死んだ祖母の古い迷信」といった、中世の闇に深く根ざした呪術的な理由であれば、彼らの素朴な脳髄にとっては、何よりも自然で、容易に受け入れることのできる、安心に満ちた説明であったのだ。

 その神仏の奇跡という説明であれば、自らの無知を恥じる必要もなく、他者が自らより優れているという不愉快な事実を認める必要もない。

 ただ、運良く神の恵みを得た哀れな子供たちがいた、ただそれだけの、昔ながらの物語として完結させることができるからである。


「……ちっ、紛らわしい真似をして、人騒がせな餓鬼どもめが」


 鎌を握りしめていた男が、自らの振り上げた拳の行き場を失い、不満そうに激しく舌打ちを鳴らした。


「おい、お前たち。山の神の恵みだからとて、あまり村の中で調子に乗って、不穏な噂を立てるような真似はするなよ」


「次にまた妙なことで村を騒がせるような真似があれば、今度こそ庄屋の旦那へ直接話を持っていき、この村から叩き出してやるからな」


 男たちは、自らの面目を何とか保ちながら、吐き捨てるようにそう言い捨てると、そのまま足早に土間から去っていった。

 彼らが踏みしめる、白い霜を踏み砕く規則正しい足音が、次第に遠ざかり、やがて完全に周囲の静寂へと溶けて消え去っていった。


 男たちの気配が完全に消失したことを確認したその瞬間、小竹は、それまで流していた涙を自らの袖口で無造作に拭い去った。

 その瞬間に、弟の表情からは先ほどまでの哀れな幼子の皮が、まるで幻影のように霧散し、あの不気味なほどに冴え渡った冷徹な瞳が、再びその奥底から姿を現した。


「……見ましたか、兄上。これが、愚かなる人々の本性なのです」


「お前は、本当に時折、背筋が凍るほどに恐ろしい役者だな」


「恐ろしいのは私ではなく、知恵をそのまま受け入れることすらできない、この残酷な世界そのものに他なりませんよ」


 小竹は、荒らされた土間の床に残された、男たちの泥だらけの足跡を静かに見つめ直しながら、静かに言葉を続けた。


「村人たちは、常に自らの苦しい現実から救われたいと切望しています。しかしながら、その救いが、自らの理解の及ばない新しい変化によってもたらされることだけは、自尊心が邪魔をして、決して受け入れることができないのです」


「だからこそ、彼らの一番信じやすい『神仏の迷信』というオブラートで包んで、知恵を差し出したというわけか」


「はい。優れた知恵をそのままの裸の姿で世に示せば、それはただの異端となり、異端はいつの時代であっても、多数派の暴力によって無残に叩き潰される運命にあるのです」


 日吉は、その弟の言葉の深淵さに、思わず息を呑み、自らの胸の内で激しい衝撃を覚えていた。

 小竹は、人間という生き物の本質を、その醜さも、弱さも、そして愚かしさも含めて、あまりにも正確に理解しすぎていた。

 他者が何を最も恐れ、どのような状況で怒りを爆発させ、そしてどのような嘘で誤魔化してやれば、安心して引き下がるのか。

 その心理の機微を完全に掌握し、指先一つで手玉に取るその姿は、およそこの世に生を受けてまだ数年の子供が持ちうるような、生易しい才能では決してなかった。


「しかしながら、このようなその場しのぎの誤魔化しが、いつまでも通用するほど、この乱世は甘くはありません」


 小竹の視線は、土間の開かれた隙間を通り抜け、外の荒涼とした世界、さらにその先にある、巨大な歴史のうねりへと向けられていた。


「兄上の持つその尋常ならざる知恵と仕組みの噂は、いくら隠そうとしたところで、いずれ必ずこの小さな村の境界線を越えて、外の広い世界へと漏れ出してしまいます。そうなった時、次にお前たちの前に姿を現すのは、村の農民たちの浅ましい嫉妬などではありません」


「……武力、ということだな」


「はい、その通りです」


 室内の空気が、再び氷結したかのように、冷たく張り詰めたものへと変貌していった。


「この戦乱の世においては、価値あるあらゆる事物は、常に武力を持つ強者によって無慈悲に奪い去られる運命にあります。便利な竈も、美味い保存食も、そしてそれを生み出すことのできる優れた人間そのものも、すべては強者の都合の良い道具として、力ずくで掠め取られるのです」


 小竹は日吉の目を真っ直ぐに見据え、一切の迷いのない声で語りかけた。


「だからこそ、私たちには今、どうしても必要なものがあるのです」


「一体、何が必要だというのだ」


「自らの知恵と命を、迫り来る外敵の暴力から完全に守り抜くための、強固な『盾』にございます」


 その言葉は、いかなる疑念をも挟ませぬほどの、絶対的な確信を伴って日吉の胸へと突き刺さった。


「優れた知恵だけでは、この弱肉強食の世界を生き残ることは叶いません。知恵を活かし、それを自らのものとして維持するためには、それを守るための圧倒的な『力』が、どうしても必要なのです」


 日吉は自らの両手をきつく握り締め、その拳に伝わる微かな痛みを噛み締めた。

 自らは、かつて前世において、組織の不条理な競争に敗れ去り、ただ静かに没落していった一人の哀れな勤め人にすぎなかった。

 この世界に生まれ変わった時も、ただ暖かい白い飯を腹いっぱい食べたい、凍えることなく安らかに眠りたいという、極めて素朴でささやかな生存の欲求しか抱いていなかったはずであった。

 しかしながら、この血生臭い戦国の乱世というものは、そのようなささやかな平穏を維持することすら、凡庸な弱者には決して許してはくれないのだ。

 生き延びるためには、他者を圧倒する強大な力を、自らの手で掴み取らねばならない。

 奪われないためには、自らの牙を鋭く研ぎ澄まし、いつでも敵の喉元を食い破る準備をしておかねばならないのだ。


 かつての前世の記憶が、彼の脳裏で静かに甦り、現在の過酷な現実と一本の線で繋がっていく。

 理屈や道理、高尚な道徳だけでは、人間という愚かな生き物は決して動かすことはできない。

 最後に世界のルールを決定し、勝者を決めるのは、いつの時代であっても、圧倒的な『力』と、それを背景にした非情な暴力に他ならないのだ。


(……ならば、そのルールのすべてを、この手で逆手に取って利用してやるまでだ)


 日吉の胸の奥底で、かつてないほどに激しく、そして静かな「野心の火種」が、確かに赤々と燃え上がり始めていた。

 それは、ただの生存の渇望を超え、この狂った時代の不条理な理不尽そのものを、自らの知恵と力をもって根底からねじ伏せてやろうという、傲慢極まりない強者への第一歩であった。


 外の世界では、長きにわたる夜がようやく明け、東の空から冷たい、だが力強い朝日が静かに昇り始めていた。

 白く凍りついていた霜に覆われた村の田畑が、その陽光を浴びて、まるで無数の結晶のようにキラキラとまばゆい光を放ち始める。

 土間の床の上に、並んで立つ日吉と小竹の兄弟二人の影が、朝日に照らされて、細く、そしてどこまでも長く後方へと伸びていた。

 その身体は未だ小さく、無力な子供のものにすぎなかった。

 しかしながら、その細長い影の奥底には、すでにこの戦乱の乱世のすべてを根底から食い破り、新たなる時代を築き上げんとする、恐るべき獣の気配が、確かに静かに息づき始めているのであった。

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