第三話:灰の下の牙
第三話:灰の下の牙
夜半をとうに過ぎ去った尾張の冷え込みというものは、暗闇の中に潜む飢えた野獣が、生き物の微かな体温をそっと舐め取るかのように、執拗で非情なものであった。
土壁に生じた幾筋もの細かな隙間から、容赦なく室内に忍び込んでくる湿った北風が、囲炉裏の細い火の粉をゆらゆらと揺らすたび、油煙で煤けた天井の梁の影が、巨大な蜘蛛の足のように怪しく伸び縮みを繰り返している。
地べたに掘られた囲炉裏には、赤々と熾火が残されているはずであったが、家屋の隅々には冷たい空気が重く澱み、底冷えのする寒さが容赦なく足元から這い上がってくる。
幾度も湿気を吸って重くなった古い藁、完全に乾き切ることのない湿った土間の土の匂い、そこに暮らす人々の酸っぱい汗、そして目に染みる燻煙。
貧しい農民の家屋に特有の、何とも言えず重苦しく排他的な生活臭が複雑に混ざり合い、呼吸を阻害するほどの濁った空気となって日吉の肺腑の奥深くに張り付いていた。
しかしながら、その特別な夜に限り、その澱んだ空気の隙間を縫って、それまでは決して我が家に漂うはずのなかった芳醇な香りが、静かに満ち満ちていた。
囲炉裏の片隅に置かれた、編み目の粗い古い竹籠の内部から、かつてないほどに濃厚な、香ばしい美味そうな気配が漂い出ていたからである。
じっくりと時間をかけて煙にいぶされた川魚の脂が、炉内の微かな余熱によってじわじわと滲み出し、焦げた皮の香りと相まって、閉ざされた家の中に豊かな満足感をもたらしていく。
それは、単に日々の飢えを凌ぐためだけに義務的に口へ放り込む粗末な雑穀などとは異なり、人間の生存への本能を根底から揺さぶる、生への乾いた執着に満ちた匂いに他ならなかった。
父親の弥右衛門は、太く荒れた指先で無言のまま籠の中から燻り魚を一尾掴み上げると、それをそのまま無造作に口へと運び、骨ごと力強く噛み砕いた。
静まり返った部屋の中に、ばり、ボリと、小魚の硬い骨が頭から圧し潰されていく乾いた鈍い音が、何とも生々しく響き渡る。
目を閉じたまましばらくの間、無表情に咀嚼を繰り返していた弥右衛門であったが、やがて喉の奥で魚を飲み込むと、深く重い吐息とともに静かに言葉を漏らした。
「……美味いな、これは」
返ってきたのは、短く簡素な、ただそれだけの一言にすぎなかった。
しかしながら、普段は寡黙で滅多に自らの感情を口に表すことのない、気難しき父親が漏らしたその感嘆には、確かな真実の重みが伴っていた。
母親のなかもまた、夫のその様子を見て恐る恐る小さな一尾を指先でつまみ上げ、自らの口元へと運んだが、一口噛んだ瞬間に、驚愕のあまり両目を丸く見開いた。
「川魚だというのに、特有の泥臭さや生臭さが、どこを探しても全く感じられないねぇ……」
「それは、特別に設えた竈の中で、煙の熱を使って余分な水気を完全に吹き飛ばしたからだ」
日吉は、赤々と揺らめく囲炉裏の残り火を見つめ直したまま、努めて淡々とした語気で答えた。
「魚の身の中に余分な水分が残っていれば、それはたちまちのうちに腐敗を招き、それを口にした者はひどく腹を壊して身を滅ぼす。だからこそ、腐る原因となる水分を、煙の力を借りて先に取り除いておくのだ」
語られた言葉自体は極めて簡素なものであったが、その背景にある理屈は、自然の恵みをただその場しのぎで消費してきた、この時代の村人たちの常識からは完全に逸脱した知恵であった。
なかは、自らの理解を超えたその不思議な食べ物を不思議そうに手元で眺め回しながら、どこか怯えるような困惑の表情を浮かべた。
「お前という子は、時折まるで何かの憑き物でもついたかのように、本当に妙なことばかりを語るねぇ……」
その母親の怯えを他所に、すぐ隣にちょこんと座っていた小竹だけが、一言も発することなく、ただ静かにその暗い双眸を兄に向けていた。
囲炉裏の激しい火の揺らぎをそのまま映し出した弟の瞳は、底知れぬほどに暗く、そして静かに澄み渡っている。
まるで、兄が発した言葉のさらに奥底に隠されている、この世のものとは思えぬ異質な知恵の源泉を、力ずくで探り出そうとするかのような、冷徹な視線であった。
弥右衛門が、さらに二尾目の魚を取り上げて豪快に噛み砕きながら、再び言葉を発した。
「この煙でいぶした魚、単なる飢え凌ぎの蓄えというだけでなく、戦の場においても極めて使い勝手が良いはずだ」
その実戦に即した一言が引き金となり、家族の間に流れていた空気が、一瞬にして物々しい緊張感を帯びたものへと変化した。
日吉は、自らの中で微かに弾けた警戒の糸を感じながら、静かに視線を上げて父親の顔を見つめた。
「戦の場、とは」
「ああ、そうだ。命を懸けた合戦の最中というものは、誰もが激しい空腹に苛まれる。しかしながら、そこで迂闊に薪を集めて煮炊きの煙などを立ち上げれば、敵方に自らの陣処を容易に察知され、たちまちのうちに奇襲を受ける命取りとなる。ゆえに、兵たちの糧食をどのように確保するかは、戦の勝敗を分かつ極めて重要な事柄なのだ」
弥右衛門は、かつて自らが足軽として戦場を這い回り、凄惨な殺し合いを生き延びてきた日々の過酷な記憶を呼び覚ますかのように、囲炉裏の熾火をじっと凝視した。
「この魚は限界まで乾いていて極めて軽く、持ち運びにも一切の荷とならぬ上、腐りにくく長持ちする。さらに、塩気が十分に効いているため、そのまま食しても力が出るし、水さえ手に入れば、即座に塩気のある粥へと変じることもできる。ただの干物とは格が違うな」
それは、単なる一人の農民としての素朴な感想ではなく、過酷な実戦を肌で知る、一人の武芸の末端に連なる者としての、極めて現実的で実用的な評価であった。
弥右衛門は、この燻り魚の存在の中に、単なる味覚の満足ではなく、厳しい戦場において敵より優位に立つための、明確な軍事的な価値を見出していたのである。
日吉はその鋭い視線が自らに向けられているのを敏感に察知しながらも、敢えてそれ以上の釈明をすることなく、ただ沈黙を守り続けた。
なぜなら、この戦乱が支配する時代においては、他者より優れた「役に立つ知恵」や「便利な仕組み」を不用意に誇示することは、自らの安全を担保するどころか、かえって破滅を招く呼び水となるからだ。
富を生み出す優れた道具や技術は、それを守るだけの強大な武力を持たぬ限り、必ずそれより上位にある力強い支配者たちの目に留まり、暴力によって根こそぎ強奪される運命にある。
それは、日吉がかつて生き抜いてきた前世の冷酷な組織社会においても、本質的には全く同一の残酷な摂理であった。
末端の者が血の滲むような思いで築き上げた利益を生む仕組みや、優れた新技術は、常に組織の上層部にいる権力者たちによって、体よく吸い上げられ、手柄を横取りされるのが常であった。
ただ一つ、かつての世界とこの戦国時代において決定的に異なる点があるとすれば、こちらでは知的財産の侵害などという生温かい言葉ではなく、文字通り首を撥ねられるという「生々しい暴力」によってすべてが奪い去られるという点だけであった。
「日吉」
弥右衛門が、押し殺したような、低い響きを伴った声で息子の名を呼んだ。
「この風変わりな泥の竈と、この魚の作り方、これらは本当にお前一人の頭で考え出したことなのか」
「……はい、誰に教わったわけでもなく、ただ自ら工夫を重ねて作ったまでにございます」
「本当か。どこぞの通りすがりの野武士や、旅の素破から密かに教わった知恵ではないのだな」
「誰にも。そのような怪しげな者たちとの関わりなど、露ほどもございません」
親子の間に、冷ややかで重苦しい沈黙がどさりと落ちてきた。
室内には、ただ囲炉裏の中で燃え盛る古い薪が、パチパチと微かな音を立てて爆ぜる音だけが、虚しく響き渡っている。
母親のなかは、言葉に言い表せぬ不吉な予感に襲われたかのように、夫と息子の険しい顔つきを、不安げに交互に見比べるばかりであった。
やがて弥右衛門は、フンと鼻の奥で短く息を鳴らし、目を細めた。
「何とも気味の悪い、分不相応な智恵を持つ餓鬼だ」
しかしながら、その荒々しい声音の中に混ざっていたのは、我が子の聡明さを喜ぶような親らしい慈しみではなく、得体の知れぬ化け物を目の当たりにした時のような、本能的な警戒心と恐怖であった。
それは、理解の範疇を超えた超自然的な存在に対する、防衛的な反応に他ならない。
日吉はその父親の冷たい拒絶の眼差しを、逸らすことなく、その小さな身体全体で真正面から静かに受け止めた。
彼らからすれば、わずか八歳に満たない貧農の子供が、村の年寄りたちの誰もが知らぬような、高度で合理的な火の制御技術を突然披露したのだから、恐れを抱くのは当然のことであった。
しかもその新しい知恵は、長年続いてきた村の伝統的な共同体の生活様式を、根本から揺るがし、変容させてしまうほどの強烈な潜在能力を秘めていた。
貧しい寒村というものは、構成員全員がギリギリの生活線の上で何とか踏みとどまっている脆弱な社会であり、ゆえに「新しい変化」や「突出した存在」というものを、社会の秩序を乱す最大の脅威として極端に嫌う性質がある。
皆と同じように泥を舐め、皆と同じように飢え、皆と同じように静かに死んでいくことこそが、この小さな閉鎖社会が有する平穏の正体なのだ。
突如として現れた「出る杭」を、集団の力で執拗に叩き潰そうとするその陰湿な同調圧力の構図は、かつて彼が胃を痛めながら勤めていた前世の会社組織の体質と、驚くほどに酷似していた。
まさにその膠着した沈黙を破るようにして、弟の小竹が静かに口を開いた。
「兄上」
「何だ、小竹」
「明日の朝、間違いなく村の連中が我が家に押し寄せてまいります」
なかが、その突然の不吉な予言を聞いて、ぎょっとしたように身体を強張らせた。
「な、何をおかしなことを言い出すのだい、小竹。こんな夜更けに」
「我が家から立ち上る、この竈の尋常ならざる煙の勢いを、今日の昼間のうちに村の者たちが気づかぬはずがありません。それに、このこれまでに嗅いだことのない美味そうな燻り魚の匂いは、すでに夜風に乗って、周囲の家々へ十分に流れてしまっています。飢えた者たちが、これほどの美味い気配を見逃すはずがありません」
その言葉遣いは、とても五歳に満たない子供のものとは思えぬほどに論理的であり、かつ冷徹な事実の積み重ねに基づいていた。
「おそらく、腕力自慢の庄助あたりが、真っ先に不機嫌な顔をしてやってくるでしょう」
その名が弟の口から発せられた瞬間、父親の弥右衛門の太い眉が、ピクリと不快そうに跳ね上がった。 庄助。
この村で最も多くの肥沃な田畑を所有する、実質的な支配者である主立の次男坊であり、その強靭な肉体と粗暴な気性をもって、村の若者たちを暴力的に従えている男であった。
他者から力ずくで食物や権利を奪い去ることを、当然の生存の特権であると頑なに信じ込んでいる、この乱世の縮図をそのまま肉体化したかのような傲慢な存在である。
「兄上が生み出したその竈も、そしてこの美味い燻り魚も、彼らは必ずや力ずくで自らの所有物にしようと画策するに違いありません」
「……まあ、そうなるだろうな。奴らが黙って見過ごすはずがない」
「そして、自分たちの都合の良いように、すべてを支配下に置こうとするでしょうね」
小竹は淡々とした口調で、まるで明日の天気や風の向きを告げるかのように、ただ冷酷な未来の予測を口にした。
なかが不安のあまり顔を真っ青に染め、衣服の端をきつく握り締める。
「頼むから、そんな不吉なことはやめておくれ……! あの庄助のような乱暴者に目をつけられてしまったら、我が家などひとたまりもなく潰されてしまうよ!」
「もう、避けて通ることはできませんよ、母上」
小竹は、揺らめく火を見つめたまま、静かに語りかけた。
「火というものは、一度灯ってしまえば、その熱と光を自らの意思で消し去ることは容易ではないのです」
日吉は弟のその重みのある言葉を聞きながら、自らの目を細め、胸の内で驚嘆を禁じ得なかった。
この幼い弟は、この竈が単なる煮炊きのための道具ではなく、この閉ざされた共同体における「既存の力関係」を根本から覆し、新たな支配と被支配の構図を生み出すための、凶悪な装置になり得ることを、完璧に理解しているのだ。
技術がもたらす生活の余剰は、必ず人間の欲望を刺激し、その欲望がさらなる激しい奪い合いの連鎖を引き起こす。
歴史というものは、常にそのような飽くなき欲望の連鎖によって、残酷に駆動されてきたことを、日吉は身を以て知っていた。
そして翌朝。
足元の硬い土が未だ白い霜に覆われている、薄暗い早朝の時間帯から、日吉たちの小屋の周囲は、不穏な足音とざわめきによって不気味に騒がしくなっていた。
日吉が重い板戸をゆっくりと押し開けると、凍てつく冬の冷気とともに、外に集まっていた村の男たちの、刺すような猜疑に満ちた視線が一斉に室内へと流れ込んできた。
そこに立っていたのは、やはり昨夜の予測通り、粗末な野良着の上からでも分かるほどの頑強な肉体を誇る、あの庄助であった。
その背後には、彼にへつらうようにして付き従う、村の若い男たちが数人、品定めをするような険しい眼差しで、日吉の作った竈をじろじろと見回している。
「ほう」
庄助は鼻でせせら笑うように冷たい笑い声を漏らし、一歩前へと踏み出してきた。
「これが、巷で噂になっている、お前たちの小賢しい火遊びの跡か」
日吉は、一切の表情を変えることなく、無言のままその場に佇んで相手の様子を観察していた。
庄助は勝手に敷地内へと踏み込み、泥竈の周囲を乱暴に歩き回りながら、足元に積み上げられた薪の山を足先でつついた。
「おい、どういうわけだ。お前たちの家の前に積まれている薪の量は、他の家に比べて随分と少なすぎるではないか。まさか、村の共有地から密かに良質な木を盗み出しているわけではあるまいな」
「薪が少なくて済んでいるのは、この竈を使えば、これまでの半分の量で十分に強い火を維持できるからだ」
「はっ、小賢しい言い訳を」
庄助は不快そうに顔を歪め、乾いた笑いを漏らした。
「ただの貧乏人の餓鬼のくせに、随分と生意気な口を利きやがるな」
その瞬間、周囲に集まっていた男たちの間に、ピリピリとした一触即発の緊張感が走った。
しかしながら、日吉は自らの視線を逸らすことなく、庄助の濁った双眸を真っ直ぐに見つめ返し続けた。
ここで一歩でも弱気を見せ、相手の威圧に屈してしまえば、自分たちの築き上げたすべては、その瞬間に奪われ、二度と取り戻すことは叶わなくなる。
この弱肉強食の世界においては、自らの弱さを示すことこそが、最も致命的な敗北の引き金となるのだ。
「それで?」
日吉は敢えて、自らの側から静かに、かつ毅然とした声で問いかけた。
「庄助様ほどの村の有力者が、このような我が家のささやかな竈の前に、一体何のご用があって来られたのですか」
周囲の男たちが、その子供とは思えぬ対等な物言いに、一瞬驚いたようにざわめき立った。
まさか、支配される側であるはずの貧農の子供が、自らに対してこれほど落ち着き払った態度で問いかけてくるとは、夢にも思っていなかったのだろう。
庄助の両目が、不快感と警戒のために細く鋭く狭められた。
「最近、お前たちの家だけが、妙に他の家よりも暮らしに余裕を見せているという話が、村のあちこちから聞こえてくる。村全体の平穏を乱すような勝手な真似をされては、俺たちとしても困るのだよ」
庄助は言うが早いか、日吉の細い胸ぐらをその大きな手で手荒に掴み上げ、自らの顔を至近距離まで力ずくで引き寄せた。
男の口からは、安物の濁酒の饐えた臭いと、獣の生脂のような不快な体臭が、混ざり合って漂ってくる。
「お前のような小賢しい餓鬼が、知恵があるからとて賢しらに村の中で立ち回ると、長年守られてきた村の秩序というものが乱れるのだ。大人しく俺たちの言う通りにしていれば良いものを」
日吉はその男の威圧的な瞳を、恐怖に怯むことなく、冷徹に見つめ返した。
その顔は、彼が前世の商売の場で何度も対峙してきた、自らの役職や立場という外殻だけで、中身のない威圧を他人に押し付けようとする、無能な上役たちの顔と寸分違わぬものであった。
論理的な話し合いや道理ではなく、単なる力関係と恐怖による支配。
ただ一つ、この乱世において異なるのは、目の前の男の手が滑れば、本当に命を奪われかねないという、生命の直接的な危機が常に隣り合わせであることだ。
だが、だからこそ、この瞬間を乗り越えた先に手に入る「主導権」には、前世のいかなる取引よりも絶大な価値があることを、日吉は確信していた。
まさに、庄助の大きな拳が日吉の頬に向けて振り下ろされようとした、その瞬間であった。
「庄助様」
それまで日吉の背後に静かに潜んでいた小竹が、一歩前へと歩み出で、鈴の音のように澄んだ、だが妙に冷ややかな声を響かせた。
庄助はその突然の邪魔に、不快そうに顔を歪めて拳を止めた。
「何だ、その小猿のような子供は」
「庄助様は、兄上が心血を注いで作り上げたこの便利な泥の竈を、今ここで力ずくで叩き壊されるおつもりですか」
「だったらどうした。村の秩序を乱す怪しげな道具など、粉々に壊して土に還してやるのが当然だ」
「もしそうされれば、今年の厳しい冬、この村で寒さに震えて命を落とす者の数は、例年よりも遥かに増えることになるでしょうね」
その感情を全く交えない静かな宣告に、庄助の背後に控えていた若い男たちの顔色が、一瞬にしてさっと変わった。
小竹は、彼らの僅かな動揺を見逃すことなく、さらに言葉を続けた。
「この竈が村中に広まれば、薪拾いのために凍える山や崖へ入る回数は劇的に減り、怪我をしたり命を落としたりする若者の数も減ります。当然、家を守る女たちの重労働も大幅に軽減される。しかし、もし今ここで庄助様がこれを壊してしまえば、村の人々は再び、あの果てしない過酷な労働と、凍え死ぬ恐怖の日々へと力ずくで引き戻されるだけです。果たして、村の者たちがそれを知った時、庄助様に対してどのような目を向けるでしょうか」
「……ぐっ」
庄助は言葉に詰まり、苦虫を噛み潰したような顔をして舌打ちをした。
彼は、自らの持つ暴力の限界と、小竹の語る言葉の背後にある「民衆の不満」という見えざる力の恐ろしさを、本能的に理解したのだ。
すでに、この竈の利便性を身を以て体験し始めた村の女たちの間で、日吉の技術に対する依存度は急速に高まりつつある。
一度でも「便利で快適な生活」の味を知ってしまった人間というものは、決して以前の過酷な不便の極限状態へと自発的に戻ることはできない。
もしここで竈を強引に破壊すれば、自分は村人たちの生活を意図的に破壊した「大悪人」として、激しい反発と怨嗟の標的にされることは火を見るより明らかであった。
小竹は、庄助の頭の中に生じたその僅かな保身の心理を、恐るべき正確さで読み切っていたのだ。
「それに」
小竹の口元に、微かな、だが獲物を罠に嵌めた確信に満ちた笑みが浮かび上がった。
「庄助様ほどの影響力と実力をお持ちの方であれば、この素晴らしい竈の作り方を、自らが先頭に立って村中に広めた『偉大な先長』として、他の村々に対しても大いに自らの名を轟かせることができるはずです。主立としての庄助様の名声は、この尾張のあちこちへ轟くことになるでしょう」
その瞬間、周囲を支配していた空気が、目に見えて弛緩し、別個の色彩を帯び始めた。
庄助の後ろにいた若い男たちの視線が、単なる警戒から、別の期待へと移り変わっていく。
庄助自身もまた、その大きな顎を僅かに誇らしげに上げ、自らの支配欲と名誉欲を大いに刺激されている様子を隠しきれずにいた。
人間という生き物は、単なる物質的な利益だけで動くのではない。
他者より優れた地位に立ちたいという優越感、そして自らの名を周囲に誇示したいという強烈な自己顕示欲によって、いとも容易く操られてしまう。
小竹は、庄助という単純な男が有するその精神的な急所を、最も効果的なタイミングで的確に射抜いて見せたのだ。
日吉は胸の内で、この驚異的な弟の恐るべき精神年齢の高さに、再び激しい戦慄を覚えざるを得なかった。
「……なるほど、面白いことを言う餓鬼だ」
庄助は日吉の胸ぐらを掴んでいた手をゆっくりと緩め、乱暴に放り出すようにして身を引いた。
「ならば、今ここで実際にその竈の力とやらを、この俺の目の前で見せてみろ。もし語った言葉に僅かでも嘘偽りがあれば、ただでは済まさんぞ」
日吉は無言のまま深く頷き、すぐさま竈の前にしゃがみ込んで火を起こす準備に取り掛かった。
極限まで乾燥させた僅かな小枝、細かな枯れ草、そして手のひらに隠し持っていた火種。
それらを泥竈の奥へと慎重に配置し、吸気口の隙間を最適に調整する。 火打石を打ち合わせ、生まれた小さな火種が内部の木屑に燃え移った、まさにその瞬間であった。
ごう、と再びあの低い、地鳴りのような燃焼の音が、泥の筒の中から力強く響き渡った。
上昇気流に乗って、炎は凄まじい勢いで一気に吹き上がり、上部の排気口から青白い熱線を伴った猛烈な火柱となって立ち上る。
周囲にいた男たちの間から、一斉に「おおっ……!」という驚嘆とも恐怖ともつかぬ激しいどよめきが沸き起こった。
「これは、本当に煙がほとんど出ていないではないか……!」
「このわずかな枝だけで、これほどの強い火力が起きるとは、まるで神仏の仕業のようだ……!」
先ほどまで傲慢な態度を崩さなかった庄助すらも、その圧倒的な物理の現実の前に言葉を失い、ただ両目を限界まで見開いて火柱を見つめ続けていた。
日吉は、その熱い炎の光の中に浮かび上がる男たちの顔を見据えながら、静かに、だが確信に満ちた声で語りかけた。
「火というものは、その使い方次第で、人を生かすことも、あるいはすべてを焼き尽くすこともできるのです」
その炎の不気味な赤色は、集まった男たちの瞳の奥深くに、これまでに抱いたことのない新たな「欲望の火」として、静かに、そして確実に燃え移っていた。
その日の夜。
日吉は一人、冷え切った外の闇の中へと歩み出て、静かに夜空を見上げていた。
冬の曇天は低く立ち込め、重苦しい雲が星々の光を完全に遮りながら、ゆっくりと流れていく。
遠く霞む高台の闇の向こう側には、やはりあの吉法師という、異様な瞳を持った少年の城の影が、不気味にそびえ立っているかのように感じられた。
あの上位の世界にいる存在は、自分と同じように、この乱世という名の過酷な「盤面」を冷徹に見下ろし、次の自らの一手を静かに研ぎ澄ませているに違いない。
いずれまた、あの少年とは必ず交差する運命にあることを、日吉は確信していた。
だが、その再会の瞬間において、自らが未だにただの無力な貧農の子供のままであったなら、その瞬間に自らの人生は終わりを迎えるだろう。
生き残るためには、他者を圧倒する強大な力がいる。 人を動かすための金がいる。 そして何より、自らを慕って従う、忠実な味方が必要であった。
他者に奪われ、蹂躙されるだけの存在から脱却するためには、灰の下に鋭い牙を隠し持ち、牙を剥くべき一瞬を静かに待ち続ける必要があった。
「兄上」
背後の闇の中から、足音も立てずに小竹が近づいてきた。 振り返ると、弟は静かに佇み、兄と同じように高台の闇を見つめていた。
「こんな時間に、まだ眠らないのですか」
「兄上こそ、こんな極寒の外で、何を考えておられるのです」
二人はしばらくの間、無言のまま並んで城の影を見つめ続けていたが、やがて小竹が、感情の全くこもっていない、平坦極まりない声でぽつりと呟いた。
「あの庄助という男、今は泳がせておきますが、いずれ我が家の計画の邪魔になる時が必ず来ます」
その宣告は、一人の幼子の他愛ない憎まれ口などではなく、邪魔な障害物をどのように効率的に排除するかを冷徹に計算する、大人の思考そのものであった。
日吉は、弟のそのあまりにも頼もしく、かつ恐ろしい横顔を静かに見つめ返した。
「……お前は、これからどうするつもりだ」
「今は、まだ静かに牙を研ぐだけに留めます。ですが、人は一度便利さに慣れてしまえば、二度と元の不便な生活には戻れません。村中がこの竈の恩恵に浸りきったその時、この火を支配する兄上こそが、この村の実質的な『支配者』となるのです」
寒風が吹き抜け、足元の枯れ草がガサガサと不気味な音を立てて鳴り響く。 小竹は、その瞳の奥に宿る冷徹な決意を秘めたまま、静かに言葉を締めくくった。
「兄上。まずは、この小さな村から、私たちの手で確実に掌握いたしましょう」
その言葉は、暗闇の中で生まれた小さな火種が、やがてこの乱世のすべてを焼き尽くす巨大な劫火へと成長していく、不穏な未来の始まりを告げる、静かな遠吠えのように響き渡るのであった。




