第二話:火種
第二話:火種
尾張の国の冬というものは、凍てつく刃を喉元に突きつけられているかのように、暮らす人々の命を音もなく、かつ静かに削り取っていく過酷なものであった。
北国のように万物を白一色に染め上げる激しい吹雪が村々を覆い尽くすわけではなく、また深山のように膝の高さまで雪が降り積もるわけでもない。
しかしながら、この地にはどこを向いても厳しい寒さから逃れる術がなく、逃げ場そのものが最初から奪われているという絶望が存在していた。
伊勢の海から川筋を伝って容赦なく流れ込んでくる湿り気を帯びた冷気は、昼夜の区別なく絶え間なく凍土の上を這い回り、粗末な衣服のわずかな隙間から肉体へと忍び込んで、ついには骨の真髄にまで重苦しく沈殿していく。
それは単に肌を乾かすような乾いた寒風ではなく、まるで氷水に浸した濡れ布を臓腑の周りにきつく巻き付けられているかのような、肌に粘りつく湿潤な冷えに他ならなかった。
朝、目覚めたその瞬間に、かじかんだ手の指先が思うように動かなければ、そのまま床から起き上がることすら叶わずに静かに冷たくなっていく。
夜、獣の寝床のような小屋の中で薪の火を絶やしてしまえば、翌朝の薄明かりの中には、ただ物言わぬ硬直した骸だけが残される。
誰を恨むこともなく、ごく当然のこととして命が消えていく、ただそれだけの理不尽な現実がこの土地を支配していた。
とりわけ広大な川沿いを吹き抜ける冬風は、遮るものとてない平野を容赦なく駆け抜け、荒れ狂う勢いをもって人々を打ち据えていく。
凍てついた水面を激しく舐めながら走る風は、野良仕事に励む日吉の剥き出しの頬を、剃刀のように鋭く切り裂き、その痛みは感覚を失わせるほどであった。
足元の泥水を吸い込んで重く湿ったわらじは、歩くたびに冷酷な冷たさを足裏に伝え、指先の感覚などはとっくの昔にどこかへ置き去りにしてしまっていた。
寒さのあまりひび割れ、ぱっくりと裂けた皮膚の隙間から滲み出た赤黒い血が、乾いた泥と混ざり合い、かさぶたとなって不快極まりなくこびりついている。
日吉は荒涼とした川辺で泥にまみれ、腰を深く屈めながら、上流から流れ着いた流木の枝や枯れ木の切れ端を、一筋ずつ拾い集めては背負い籠へと放り込んでいた。
水を含んで重くなった流れ木は、見た目以上に細い子供の腕にずっしりとした負荷をかけ、それを持ち上げるたびに、冷たい滴が容赦なく袖口を伝って脇の下へと流れ落ちていく。
背中に羽織っている、もはや幾度も継ぎ接ぎを重ねて原型を失った粗末な麻の着物は、防寒としての役目などはとうに果たしておらず、ただ冷たい風で直接皮膚が裂けるのを防ぐだけの、薄い獣の皮のような役割しか担っていなかった。
薪が不足すれば、その夜に家族を温めるべき火が消え去り、火が消え去れば、待っているのは凍死という名の冷徹な終焉に他ならない。
この戦乱と飢餓の時代において、薪を拾うという地味な作業は、単なる日常の燃料を確保する雑務などではなく、命そのものを一日ずつ繋ぎ止めるための命がけの戦いであった。
「兄上」
冷たい風の音を切り裂くようにして、背後からまだ幼さの残る、だが妙に落ち着いた声がかけられた。
日吉が重い背負い籠を揺らしながら振り返ると、そこには自らの身体よりも一回りも大きな竹籠を背負った、弟の小竹が佇んでいた。
まだ五歳にも満たないはずの幼子であるにもかかわらず、その双眸には幼子らしい甘えや恐れの色は微塵もなく、ただ静まり返った深い井戸の底のような、怜悧な光が宿っている。
「また、何やら別のことを考えておいででしたね」
「そんなことはない、ただ薪を拾っていただけだ」
「いいえ、確かに考え込んでおられました。兄上は何か深く思案されている時、必ず手の動きが不自然に止まりますから」
日吉は、我が弟の底知れない観察眼に思わず苦笑いを浮かべ、肩の力を抜いた。
この幼い弟は、他人の心の動きや表情の微細な変化を読み取ることに、大人の誰もが及ばないほどの異様な才能を有していた。
ほんのわずかな視線の揺らぎ、不自然な沈黙の間、ため息の深さ、あるいは行動を起こす直前の僅かな躊躇。
それらを一瞬にして見抜き、相手の心理を推し量るその姿は、およそこの寒村で泥にまみれて生きる幼児のそれではない。
極限の飢餓に晒された子供は、生き延びるために肉体より先に知性が急速に発達すると言われるが、小竹のそれはすでに野生の獣の生存本能を遥かに超越していた。
あの狂気とも知性ともつかぬ強烈な眼光を放つ、吉法師と名乗った風変わりな少年と対峙してから、早くも数日の時が経過していた。
その少年の家柄や詳細な身元など、今の泥まみれの日吉に知る術はなかったが、彼がただの農民や野武士の類ではないことだけは、直感的に理解できていた。
まだ十歳にも満たないような幼い身でありながら、鍛え上げられた武者たちを指先一つで従え、自らの意思を他者に強いることに一片の躊躇も持たないあの佇まい。
あれは、生まれながらにして人の上に立つことを許された、圧倒的な力を背負う者の姿に他ならなかった。
前世におけるあの息の詰まるような会社員生活の中でも、日吉は同じような人物を幾度か目にしたことがあった。
それは役員室の革張りの椅子に腰掛け、冷徹な数字だけを見て、何百人もの勤め人の人生を紙切れ一枚で左右する、冷酷な支配者たちの眼差しであった。
もっとも、前世の支配者たちの権力は、法律や組織という目に見えぬ規則の上に築かれた間接的なものであったが、あの吉法師が背負っていたものは、刀の切れ味と血の匂いが漂う、はるかに直接的で生々しい物理的な暴力であった。
しかしながら、その暴力の支配を間近で体感したにもかかわらず、日吉の胸の奥底では、それまでに味わったことのない熱い感情の残り火が、今もなお小さく燻り続けていた。
ただじっと泥を舐め、誰かに奪われるのを恐れて怯えながら生きるだけではなく、自らの頭を使い、手を動かすことで、この最悪の現実を変えることができるのではないか。
ほんの少しの知恵と工夫があれば、明日を生き延びる確率を、自らの力で手繰り寄せることができるのではないかという、奇妙な高揚感であった。
かつての人生においては、一人の個人がどれほど知恵を絞り、必死に足掻いたところで、巨大な社会の仕組みや組織の理不尽な命令の前に、ただ押し潰されて終わるのが常であった。
終わりのない売上目標、手柄を掠め取る上司、責任のなすりつけ合いに終始する毎日。
だが、このすべてが荒廃した乱世においては、ほんのわずかな生活の工夫や知恵こそが、人々の生死を文字通り直接的に左右する強力な武器となるのだ。
「兄上は、この骨の折れる薪拾いの仕事を、ひどく嫌っておられますね」
小竹は、兄の横顔を見つめながら、静かにその核心を突いてきた。
「嫌うも何も、これほど無駄が多く、骨折り損なやり方は他にない。もっと別のやり方があるはずだ」
「むだ、とは?」
「一日中、凍えるような寒さの中で川辺や野山を歩き回り、身体をボロボロにしながら集めてくるのが、水を含んでろくに燃えもしない湿った細木ばかりなのだぞ。自分の肉体を削って得られる温もりが、あまりにも少なすぎるということだ」
小竹は背負い籠を背負い直しながら、兄の言葉をただ黙って頭の中で反芻していた。
その言葉の意味を完全に把握できているわけではないだろうが、兄の語る言葉の端々には、この村の誰もが考えもしない、新しい世界の理が含まれていることを、本能的に察知しているようであった。
日吉は川の向こうに広がる荒涼とした枯れ野を見つめながら、さらに言葉を重ねた。
「俺たちがしなければならないのは、今日一日を何とかしてやり過ごすための、場当たり的な手段ではない」
「……」
「明日も、その次の日も、そして何年先であっても、凍えずに安定して生き残り続けるための、確固たる仕組みを築き上げることだ」
小竹の鋭い双眸が、その言葉を聞いて微かに細められた。
「兄上は、時折まるでこの浮き世とは異なる、遥か遠い国からやってこられたかのような、奇妙なお話をされますね」
「そう見えるか?」
「ええ。村の者たちは誰もが、今日の夕餉にありつけるか、明日の朝を迎えられるか、それだけを血眼になって考えて生きています。ですが兄上は、まだ訪れてもいない、遥か先の不確かな時間ばかりを見据えておられる」
日吉はその鋭い問いかけには答えず、ただ静かに口を閉ざした。
自らが前世という異なる世界の記憶を保持しているなどという真実を、今更この幼い弟に打ち明けたところで、まともに信じてもらえるはずがない。
しかしながら、高度な文明と合理性に満ちた現代社会の恩恵を知っているからこそ、この時代における生活様式の非効率さと、それに伴う無駄な死の多さは、彼にとって耐え難いほどの精神的苦痛であった。
人々は冬の寒さにあっさりと凍え死に、粗末な囲炉裏から立ち上る有害な排気で肺を病み、長期間の食糧の保存方法を知らないがために、凶作の年に易々と餓死していく。
現代の基準からすれば、ほんのわずかな物理の法則や生活の知恵を応用するだけで、容易に避けることができたはずの無駄な死が、あまりにも当たり前のこととして放置されているのだ。
日吉は拾い集めた重い薪を縄で厳重に縛り上げ、小竹を従えて村の外れにある人通りの絶えた土手の方へと歩みを進めた。
周囲を雑木林に囲まれ、村人たちの生活動線から完全に隠れたその窪地には、日吉がここ数日間、誰にも見つからぬように心血を注いで作り上げていた「あるもの」が鎮座していた。
それは、周囲から集めてきた平たい川石を幾重にも積み上げ、その隙間を粘り気のある川泥で丁寧に塗り固め、排気口には割れた陶器の壺の破片を巧みに嵌め込んだ、異形とも言える奇妙な泥の構造物であった。
村の各家庭にある、ただ地べたを掘って灰を敷いただけの原始的な囲炉裏とは、その設計思想において明らかに異なる形状をしていた。
「……兄上、これは本当に火を焚くための道具なのですか。まるでお墓か何かのように見えますが」
小竹は不思議そうに眉の根を寄せ、その泥の塊を斜めから覗き込んだ。
「これは竈だ。ただの竈ではないぞ」
「ですが、村にあるものとは随分と形が違います」
「熱と火を外に逃がさず、限られた空気の流れを一箇所に集中させて効率よく燃やすための、特別な形なのだ」
日吉は地面に膝をつき、泥で固められた竈の吸気口に指を這わせながら、微調整を施した。
本来であれば、熱を均等に通す頑丈な鋳物の鉄板や、高熱に耐えうる耐火煉瓦を用いたいところであったが、鉄すらも貴重な武器の材料となるこの時代において、そのような贅沢品は到底望めない。
ゆえに、身近にある川石と、熱を加えることで固まる粘土質の泥だけを使い、知恵によってその不足を補うほかなかった。
設計の鍵となるのは、熱された空気が急速に上昇し、それによって下部の吸気口から冷たい空気が自然と吸い込まれる「煙突効果」と呼ばれる物理現象の再現であった。
この空気の循環を意図的に生み出すことで、炉内の燃焼効率を飛躍的に高め、湿った粗悪な薪であっても、極めて少ない量で絶大な火力を引き出すことができるのだ。
「村の囲炉裏は、せっかくの火の熱が四方八方に散りすぎてしまっている」
日吉は竈の最下部に、よく乾燥させた枯れ草と細かな木屑を丁寧に押し込みながら語った。
「熱も煙も家の中に充満して、人間の体力を奪うだけで、肝心の熱が煮炊きに活かされていない。あれは、薪をただ無駄に燃やして捨てているようなものだ」
日吉は懐から火打石を取り出し、鋭い音を立てて何度も打ち合わせた。
散った火花が乾燥した木屑に引火し、小さな、だが確かな赤い火種が生まれ、ゆっくりと揺らめき始める。
その小さな炎に、空気を通す隙間を維持しながら、少しずつ太い枝を注意深く差し込んでいく。
すると、その瞬間であった。
泥の竈の奥底から、まるで大地の底で眠っていた地響きのような、ごうという低い唸り声が響き渡った。
吸気口から、周囲の冷たい空気がものすごい勢いで内部へと吸い込まれていくのが、肌で感じられる。
次の瞬間、炎は泥の筒の中で激しく渦を巻きながら暴れ立ち、上部の小さな穴から、青白い熱線を伴った鋭い火柱となって一気に吹き上がった。
完全燃焼を起こしているため、立ち上る煙の量は驚くほどに少なく、不快な臭いもほとんど感じられない。
小竹は信じられないものを見たかのように、その場に立ち尽くし、目を見開いていた。
「……凄まじい熱量ですね、兄上」
かざした小さな手のひらに、刺すような、皮膚がちりちりと焼けるほどの強烈な熱波が真っ直ぐに叩きつけられていた。
「どうやら、算段通りに成功したようだな」
日吉は胸の奥に溜まっていた重苦しい緊張の息を、ようやく安堵とともに吐き出した。
前世のあやふやな記憶と、手探りの工作だけで、この高度な熱効率の仕組みを再現できるかどうかは一種の博打であったが、出来上がった竈は見事にその期待に応えてくれた。
「これほどの熱量があれば、今まで使っていた薪の量の、わずか半分以下で十分な煮炊きができる」
小竹は言葉を失ったまま、無言で泥竈の周囲を何度も回り、その精緻な構造を隅々まで観察し始めた。
石の絶妙な積み方、泥で塞がれた隙間の厚み、そして風を誘い込む絶妙な角度。
まるで、名工が作った最高峰の罠の仕組みを一つずつ解き明かそうとするかのような、執拗で冷徹な視線であった。
「兄上」
「どうした、小竹」
「これは、単に火を強くして、煮炊きを早く終わらせるためだけの道具ではありませんね」
「……何が言いたい」
「薪が半分で済むということは、これまで薪拾いに割いていた村人たちの労力が、丸ごと半分浮くということです」
日吉は、我が弟の底知れない先見性に、背筋が寒くなるような驚愕を覚えた。
「薪を拾う時間が減れば、女たちは他の仕事に手を回すことができます。男たちもまた、無駄な労働から解放され、余った体力を別のことに使えるようになる。老いた者たちも、少ない薪で暖を取れるようになれば、この冬を越せずに凍え死ぬ者が劇的に減るでしょう」
小竹の冷たい瞳に、竈から吹き上がる猛烈な炎の朱色が、不気味に揺らめいていた。
「そして、人間というものは、時間と体力にほんの少しでも余裕が生まれれば、必ず次の『欲』を抱き始める生き物です」
「欲、か」
「はい。今までの村は、ただ今日を死なずに終えるだけで精一杯でした。しかし、この竈によって生活にわずかでも余力ができれば、人々はもっと多くの食物を食べたい、もっと楽をして生きたい、もっと他人よりも抜きん出て豊かになりたいと、貪欲な欲を膨らませていくに違いありません」
小竹はそこから先の言葉を呑み込んだが、日吉にはその沈黙の意味が、痛いほどによく理解できた。
前世の高度に発達した車輪の如き競争社会においても、全く同じ原理が働いていたからだ。
技術の進歩によって生まれた生活の余白は、人々を平穏へと導くのではなく、さらなる激しい競争と格差、そして権力争いを生み出すための苗床となる。
余剰は競争を生み、競争は明確な階層の差を作り出し、そしてその差こそが、他者を支配するための絶対的な『力』へと変換されていくのだ。
「兄上の一吹きしたその火は、ただの暖を取るためのものではなく、この怠惰な村の形を根本から変えてしまう、恐ろしい火種となりますよ」
その卓越した洞察を投げかけられ、日吉はしばしの間、返す言葉を見失って立ち尽くすほかなかった。
自分はただ、少しでも薪拾いの辛い労働から解放され、効率よく温かい飯を口にしたいという、個人的な生存欲求からこの竈を作ったにすぎない。
しかし、五歳に満たない弟は、この一つの道具がもたらすであろう、共同体全体の構造変化と、それに伴う欲望の暴走までを正確に予見していた。
この小竹という男は、歴史の表舞台に立てば、どれほどの知略を張り巡らせる化け物へと成長するのだろうか。
その日の夜。
日吉は、完成した新しい竈の排気口に、あらかじめ用意しておいた即席の竹籠を被せ、その中で近くの川で捕らえたハヤやフナといった小魚を、じっくりと煙で燻していた。
竈の内部に濃厚な木煙を閉じ込め、じわじわと小魚の水分を奪い去っていく。
魚の脂が熱によって静かに滲み出し、やがて夜の冷気の中に、何とも言えず香ばしく、食欲を激しくそそる特有の匂いが立ち込め始めた。
すぐ隣で竈の火加減を監視していた小竹の喉が、我慢できずにコクりと小さく鳴る。
「食べてみるか」
日吉が煤で黒ずんだ手で、燻されて飴色に輝く小魚を差し出すと、小竹はそれを恭しく両手で受け取り、警戒するように慎重に一口齧り取った。
その瞬間、弟の無表情であった顔が劇的に変わり、両目が驚愕のために丸く見開かれた。
「……美味い、美味すぎます、兄上」
日頃、塩気のない薄い雑穀の粥や、ただ茹でただけの野草しか口にしてこなかったその舌にとって、凝縮された魚の旨味と、塩気、そして煙の芳醇な香りは、脳を直接揺さぶるほどの凄まじい衝撃であった。
噛み締めれば噛み締めるほどに、豊かな魚の脂と香ばしさが口いっぱいに広がり、冷え切った身体の奥底から熱が湧き上がってくるような感覚を覚える。
「これほどまでに水分を飛ばして燻してあれば、カビも生えにくく、驚くほど長期間の日持ちがするはずだ」
日吉は、残りの小魚を丁寧に並べ替えながら、確信に満ちた声で語った。
「これさえあれば、外がどれほど猛烈な吹雪に覆われようとも、無理をして危険な川へ魚を獲りに出る必要はなくなる。冬を乗り切るための、確実な保存食となるのだ」
小竹はしばらくの間、手の中の半分残った魚をじっと見つめ、その価値を頭の中で冷徹に計算していたが、やがて決意を秘めた目で兄を見上げた。
「兄上」
「何だ」
「この素晴らしい仕組みと美味い魚を、真っ先に村の力自慢の男たちに見せてはなりません」
「それは一体、どういう理由からだ」
「この村の男どもは、自らの腕力や経験が否定されることを何よりも嫌います。己の預かり知らぬところから湧いて出た新しい知恵を、ただの小賢しい悪だくみと決めつけ、警戒し、排除しようとするでしょう」
小竹の言葉は、中世の村社会における閉鎖的な心理の要害を、的確に射抜いていた。
「ですが、女たちは全く違います。日々の薪拾いの重労働が目に見えて減り、煮炊きがこれほどまでに楽になり、子供たちに美味いものを食べさせられると分かれば、男たちの反対など押し切って、万難を排してでもこの技術を欲しがるはずです」
日吉はあまりの納得感に、思わず声を上げて快活に吹き出してしまった。
「お前は、本当にまだ五歳なのか?」
「五歳にございます」
「全く、とんでもなく恐ろしい智恵袋を、俺は弟に持ってしまったものだな」
「兄上の生み出す、正体の知れぬ怪しげな知恵の数々に比べれば、私の言葉など、ただの子供の邪推にすぎませんよ」
その後の展開は、小竹の冷徹な予測通り、極めて迅速かつ確実に推移していった。
最初にこの新しい竈の利便性に食いついたのは、他でもない二人の母親である「なか」であった。
最初は、日吉がまた人目のつかない窪地で怪しげな泥遊びにうつつを抜かしていると、声を荒らげて怒鳴り散らしていた。
しかしながら、日吉が実際に薪に火をつけ、その凄まじい上昇気流と驚異的な熱効率を目の当たりにした瞬間、母親の怒りの表情は、言葉を失った深い困惑へと変わっていった。
「これほどの細木だけで、これほど強い火が起きるというのか……」
なかは、薪がほとんど減らないにもかかわらず、勢いよく燃え続ける炎を、まるで神仏の奇跡でも見るかのように、呆然と見つめ続けていた。
しかも、煙が周囲にほとんど散らないため、煮炊きの最中に煙が目に染みて涙を流す必要もなく、作業は劇的に快適なものとなった。
数日もしないうちに、母親は日吉の作った竈の有用性を完全に認め、自ら進んでそれを使いこなし始めていた。
薪を拾い集めるために極寒の外を這いずり回る時間が大幅に削減されたことで、なかの手元には、これまで決して得られなかった「時間」のゆとりが生まれたのだ。
その浮いた時間を用いて、長らく放置されていた家族の破れかぶれの着物の繕い作業がみるみるうちに捗り、家の中の空気が、ほんの僅かではあるが、確実に明るい方向へと変化し始めていた。
日頃、気難しく無口な父親である弥右衛門すらも、出来上がった温かい粥を口にしながら、感心したようにボソリと呟いた。
「どうやら、我が家には妙なことを考え出す、悪賢い餓鬼が生まれたようだな」
しかしながら、日吉の胸中に描かれていた野心は、単に自らの狭い家庭を少しばかり豊かにすることだけで完結するほど、安易なものではなかった。
数日後の冷え切った昼下がり。
日吉と小竹の二人は、村の中心にそびえ立つ、巨大な大榎の古木の下へと足を運んでいた。
そこは、野良仕事の合間や、暇を持て余した村の老人たちが寒風を避けて集まり、他愛のない噂話や世間話を交わす、村の広場のような役割を果たす場所であった。
「まずは、あの甚兵衛という爺から崩していきましょう」
小竹が、人混みに近づく直前に、日吉の耳元で極小の声で囁いた。
「あの爺は村一番の寂しがり屋で、同時に何よりも口が軽い。あそこに一つ知恵を落とせば、明日の朝には村中へ噂が広まります」
日吉は無言で頷き、自らの懐の中から、竈で丁寧に燻し上げたハヤの燻り魚を一本、静かに取り出した。
そして、老人たちが群れている場所から、ちょうど風上にあたる位置に立ち、魚を包んでいた笹の葉をゆっくりと開いた。
乾燥した冷たい空気の中に、燻製特有の、凝縮された魚の脂と香ばしい煙の匂いが、目に見えぬ波のように広がっていく。
途端に、背を丸めて寒さに震えていた老人たちの鼻腔が、ピクリと不自然に蠢いた。
「おい、そこの餓鬼……今、何やら酷く美味そうな匂いが漂ってきたが、一体何を持っているのだ」
「ああ、これですか。川で獲れた雑魚を、少しばかり炙ったものでございます」
「雑魚だと? 雑魚がそのような、鼻を突き抜けるほどに芳しい匂いを放つわけがなかろう!」
狙い通り、獲物は一瞬にして仕掛けた罠へと食いついてきた。
この慢性的な飢餓が支配する極限の村においては、食物が放つ豊かな香りそのものが、人間の理性をいとも容易く麻痺させる、暴力的なまでの誘惑となるのだ。
「これは、薪をほとんど消費することなく、長期間の保存ができるように工夫した、特別な燻り魚にございます」
日吉は口元に、極めて人当たりの良い、無害極まりない笑みを浮かべて見せた。
それは、かつて前世において、気難しく頑固な取引先の重役たちを相手に、何度も頭を下げながら信頼を勝ち取ってきた、あの営業活動の最中に磨き上げられた「信頼の仮面」そのものであった。
決して自らの知恵を誇示して押し付けるのではなく、相手の側の隠された欲望を刺激し、向こうから「教えてくれ」と懇願するように仕向けるのだ。
「火の回し方と、煙の閉じ込め方に、ほんの少しばかりの特別な工夫が必要なのですがね」
「おい、日吉。その作り方を、ワシらにも教えてはくれんか」
「ええ、もちろん喜んでお教えいたしますよ。ただ、この竈を築くためには、熱に強い平たい川石や、粘り気のある特別な土、そして大量の藁を集める必要がありまして、子供の私の力だけでは、どうしても材料を集める手が足りないのです」
日吉は決して、この価値ある知恵をただで他人に分け与えるような真似はしなかった。
どれほど素晴らしい知恵であっても、無償で手に入れたものは、受け手側からすれば「価値のない、取るに足らないもの」として軽く扱われ、やがて忘れ去られてしまう。
しかしながら、自らの労働や、相応の対価を支払って苦労して手に入れたものであれば、人間はそれに強い価値を見出し、必死になってそれを維持し、活用しようとする。
時代がどれほど変わり、着ている衣服や言葉遣いが異なろうとも、人間の精神が持つ本質的な弱さと欲望の仕組みは、何一つ変わることはないのだ。
少し離れた大榎の幹の陰から、小竹がじっと動かずに、日吉と老人たちの交渉の様子を観察していた。 誰が真っ先に物欲しそうに魚に手を伸ばすのか。
誰がその奇妙な技術を疑いの目で見つめているのか。 そして、誰の瞳に、激しい嫉妬と警戒の火が灯っているのか。
その幼い瞳は、まるで冷徹な戦場の盤面を見下ろし、敵味方の配置を一手ずつ確認していく、老獪な軍師のそれと寸分違わぬ鋭さを帯びていた。
日吉は交渉の手を休め、ふと灰色の冬空を見上げた。
立ち込める曇天の遥か彼方、遠く霞む高台の上に、うっすらとだが、荒々しい城砦らしき建物の影がそびえ立っているのが見えた。
あの堅牢な城壁の向こう側には、血で血を洗う戦いに明け暮れ、この国の命運を握る武士たちの冷酷な世界が広がっている。
そしてそこには、先日遭遇したあの吉法師という、計り知れない底知れぬ器を持った少年もまた、自らの野心を研ぎ澄ませて生きているはずであった。
日吉は、寒風に晒されて冷え切った自らの小さな拳を、服の中で力強く握り締めた。
自分たちは未だ、何の後ろ盾もない、ただ泥にまみれて今日の飢えを凌ぐだけの、無力な貧農の子供にすぎない。
しかしながら、それでも。 自分たちはもう、ただ嵐が過ぎ去るのを待つように、静かに死を待つだけの無力な存在では決してないのだ。
自らの力で、効率的な火を生み出した。 冬を生き延びるための、保存食の仕組みを開発した。
そして、前世の知恵を現代の生存競争の強力な武器として、周囲を動かし始めた。
これこそが、この理不尽な戦乱の世に対して、自らの爪を立て、自らの存在を刻み込み始めたという、確固たる証明に他ならなかった。
まさに、その時であった。
「おい、こら。そこで小賢しい真似をしているのは誰だ」
不意に、背後の路地から、低く地を這うような粗暴な声が投げつけられた。
日吉が素早く振り返ると、そこには村の屈強な男たちが数人、肩をそびやかし、こちらの出方を窺うようにして冷酷に睨みつけていた。
その先頭に立っていたのは、庄助という名の、筋骨隆々とした体躯を持つ大柄な男であった。
彼は村の中でも比較的広大な田畑を所有する、村を実質的に支配する有力な家系の次男坊であり、その粗暴な性格と、圧倒的な腕力によって、村の若者たちを暴力で支配している男であった。
「最近、お前たち貧乏所帯の餓鬼どもが、何やら妙に美味いものを隠し持っているという噂を耳にしたぞ」
庄助の濁った瞳が、日吉が大事そうに抱えていた懐の辺りを、まるで獲物を探る蛇のように執拗に舐め回す。
「一体、そこに何を隠し持っている。まさか、村の掟に背いて、美味いものを独り占めしているわけではあるまいな」
その一言を境に、周囲を支配していた空気が、張り詰めた緊張感とともにぴたりと凝固した。
先ほどまで美味そうに鼻を鳴らしていた老人たちは、関わり合いになるのを恐れて一瞬にして視線を逸らし、誰も口を開こうとはしなかった。
この法も正義もない極限の村社会においては、知恵や合理性などという生温かいものは、圧倒的な暴力の前にいとも容易く蹂躙される。
奪うことのできる強者こそが常に正しく、奪われる弱者はただ泣き寝入りするしかないというのが、この時代の絶対的な掟なのだ。
小竹が静かに歩み寄り、日吉の着物の袖を、その小さな手できつく掴んだ。 その指先は氷のように冷たく冷え切っていたが、その身体は微塵も震えてはいなかった。
ただ、兄がどのような行動を起こすのかを、じっと見極めようとするかのように、静かに呼吸を整えている。
日吉は、自らを見下ろす庄助の居丈高な視線を、逃げることなく真っ直ぐに見つめ返した。 そして胸の奥深くで、ゆっくりと冷たい空気を吸い込み、腹を決める。
自らが放った火種は、すでにこの冷え切った村の中に、小さく、だが確実に灯り始めている。
ならば、次に行うべきことは、その貴重な火種を、迫り来る理不尽な暴力から力ずくで守り抜き、さらに大きく育てるための、非情な術を身につけることだけであった。




