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豊臣兄弟、最底辺から始める天下奪取 ――現代営業の知略で、戦国の理不尽を喰い破る――  作者: チャプタさん


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第一話:泥の底の光

第一話:泥の底の光


 夜明け前の空は、研ぎ澄まされた刃のように鋭く冷たい光を帯び、どこか濡れた鉄の肌を思わせる暗灰色に染まっていた。

 東の地平は未だ白む気配すら見せず、尾張の国に点在する寂れた寒村は、底の知れない深い闇の底に沈み込んだまま静まり返っている。

 吹き抜ける風こそ弱くはあるものの、その微風が肌を撫でるたびに、かえって骨の隙間に凍てつくような冷たさが染み通り、静寂そのものが寒さを際立たせる役目を果たしていた。

 この冬の尾張は雪こそ大して降り積もらぬものの、海や川から湧き上がる容赦のない湿気が土を腐らせ、民家に敷かれたわずかな藁を湿らせて、そこに暮らす人々の肺を容赦なく蝕んでいくのである。

 まだ朝の勤めを始めるには早すぎる時間であるにもかかわらず、粗末な小屋のあちこちからは、引き裂かれるような乾いた咳の音が断続的に響き渡っていた。

 それは痰の絡んだ重苦しい湿った音であり、あるいは肺腑の底を無理に裏返すような激しい喘ぎであって、決して健やかな目覚めを告げる合図などではなかった。

 今日という一日をまた生き延びねばならぬという、絶望にも似た生存の証明であり、互いにまだ冷たい骸になっていないことを確認し合う、悲痛な交信の響きに他ならない。


 湿った藁敷きの上で、日吉は重い瞼をゆっくりと持ち上げ、闇の中に浮かぶ天井の隙間を見つめた。

 煤で黒ずみ、あちこちが損なわれた屋根の隙間から、容赦なく吹き込んでくる冷気が、剥き出しの頬を刃物のように鋭く突き刺す。

 身体を横たえている床のすぐ下では、凍てついた極寒の土がまるで墓石のように硬く固まり、容赦なく体温を奪い去っていく。

 あまりの寒さに手足の感覚はとうに失われていたが、それは単なる肌寒さという生易しいものではなく、五臓六腑の奥底から命の火が少しずつ、だが確実に削り取られていくような、死に近い恐るべき感覚であった。

 腹の中は空っぽで、もはや飢えの苦しみを感じる段階すら通り過ぎ、ただ胃袋が静かに縮み続けて背中に張り付いているかのような錯覚さえ覚える。

 飢えを訴えるために腹を鳴らす、そのわずかな力さえも、今の自分の身体には残されていないのだと自覚せざるを得ない。

 この名もなき貧しい村では、この厳しい冬が訪れてからというもの、既に六人もの人間が静かに命を落としていた。

 高熱を出して二日ともたずに息を引き取った幼子や、お産を終えた後に立ち上がることなく冷たくなった女、足を悪くして動けなくなり、そのまま衰弱した老人、そして長らく乾いた咳を止められずにいた身寄りのない独り者。

 だが、誰一人としてその死を嘆き悲しみ、大声で泣き叫ぶ者などおらず、村は奇妙なほど静まり返ったままであった。

 涙を流せばそれだけで貴重な水分と体力を失い、声を荒らげて嘆けば腹が減るだけであり、ここでは感情を動かすこと自体が贅沢な自傷行為に等しい。

 人が死ねば、生き残った者が黙ってその遺体を破れた筵に包み、村の外れにある荒れ地へと運び去って泥の中に埋める、ただそれだけのことで全ては完結していた。


 日吉は胸の内に溜まった重苦しい吐息を、白く濁った息として暗闇の中に静かに吐き出した。

 きつく瞼を閉じると、この極限の窮状とはおよそかけ離れた、まばゆいほどに白い光に満ちた別世界の情景が、記憶の底から鮮明に浮かび上がってくる。

 それは蛍光灯の冷たい光に照らされた、酷く狭苦しい会議室の光景であり、鼻を突く安価な煙草の臭いと、鳴り止むことのない携帯電話の耳障りな電子音であった。

 今期の売り上げの数字はどうなっているのかと怒鳴り散らす声や、取引先が激怒しているから誰が責任を取るのだと詰め寄る上司の傲慢な顔が、脳裏をよぎる。

 前世における自分は、大企業の末端で胃を痛めながら働く営業部長であり、ただひたすらに他人に頭を下げ続けるだけの日々を送っていた。

 理不尽極まりない要求を突きつける顧客と、保身のために全ての責任を押し付けてくる上司、そして同じ過ちを何度も繰り返す部下の間に挟まれ、摩耗していく。

 強い胃薬を噛み砕き、眠気を覚ますための苦い珈琲を胃袋へ流し込み、終電を逃しては冷え切った事務所の長椅子で泥のように眠る、そんな日々であった。

 そして最後は、激務の果てに深夜の誰もいない事務所で突然倒れ、そのまま呆気なく息を引き取ったはずであった。

 次に目を覚ました時には、五感を刺激する強烈な泥と腐草の臭いの中で、この貧しい子供の身体に宿り、見知らぬ天井を見上げていたのである。

 ここが一体どこの国で、どのような年号の時代であるのか、最初のうちは全く判然としなかった。

 しかし、四方八方から聞こえてくる噂話や、道行く人々が帯びている物々しい雰囲気から、ここが戦や飢饉が日常茶飯事として存在する、古き時代の日本であることだけは嫌というほど理解できた。

 それと同時に、かつて自分が当たり前のように享受していた現代社会の仕組みが、どれほど奇跡的なまでに恵まれたものであったかも、身に染みて理解することとなった。

 いつでも蛇口を捻れば出てくる温かい湯や、清潔な布団、頑丈な鍵の掛かる防寒の施された家、そして何より、三食を不自由なく食べられることの価値。

 以前の暮らしの中では平穏すぎて感謝の念すら抱かなかったそれらの事物が、今や手の届かぬ天上の楽土の幻影のように思えてならない。

 ただ白い米を腹いっぱい食べられる、それだけの単純な出来事で、人間は涙を流して感謝できるのだという真理を、日吉はこの泥の底のような暮らしの中で初めて思い知らされた。


「兄上」


 すぐ隣の暗闇から、衣服の擦れる微かな音とともに、低く抑えられた声が聞こえてきた。

 それは弟の小竹であり、まだ五歳ほどのごく幼い子供にすぎないはずの身空であった。

 しかし、この弟は年齢にそぐわない奇妙な静けさを常に身にまとっており、同年代の子供のように無邪気に泣き叫ぶこともなければ、駄々をこねることもない。

 激しい空腹に苛まれたとしても、決してそれを声に出して不満を漏らすことはなく、ただじっとその場に座り込んで周囲を鋭く見つめていた。

 誰が飢えて身体を弱らせているのか、誰が生き延びるために他者から奪おうと企んでいるのか、そして誰の命の灯火が消えかけているのか。

 まるで飢えた野生の獣が獲物を品定めするかのような、怜悧で冷徹な光を宿した瞳で、この狭い村社会の生態を観察し続けているのである。


もっとも、小竹は生まれながらにしてこのような目を持っていたわけではない。

 物心つく頃から、誰よりも長く日吉の傍らにいた。

 兄が人を見て何を考え、何を恐れ、何を見抜いているのか。その背中を追うように真似続けた結果、幼い頭脳は奇妙な方向へ育ってしまったのである。

 日吉には未来を見通す知恵があり、小竹には人を見抜く目が育った。

 それは兄弟でありながら、まるで異なる才能であった。


「起きておられたのですね」


「この凍えそうな寒さの中で、いつまでも安らかに眠っていられるわけがなかろう」


「それもそうですね。寝入ってしまえば、そのまま二度と目が覚めないやもしれません」


 弟の口から返ってきたのは、幼子のものとは思えぬほどに冷ややかで、淡々とした現実的な返答であった。

 日吉は口元に自嘲気味の乾いた苦笑を浮かべ、闇の中で小さく首を振った。


「お前は、もう少し子供らしく甘えるような振る舞いはできんのか」


「子供らしく愛嬌を振りまいたところで、手に入る飯の量が増えるのであれば、いくらでもそういたしましょう」


「……残念ながら、一粒たりとも増えはせんな」


「ならば、そのような無駄なことに体力を使うのは、全くの無意味というものです」


 本当に可愛げのない、早熟すぎる弟であった。

 だが、法も秩序も満足に機能していないこの過酷な乱世においては、その冷徹さこそが生死を分かつ最大の武器であり、正しい生存戦略であることも間違いなかった。

 周囲に甘え、他者の慈悲を期待するような脆弱な子供から順番に、容赦なくこの厳冬の寒さの中に淘汰されていくのである。


「兄上」


「今度は何だ」


「川の向こう岸に住んでいた独り者の男が、今朝方に息を引き取ったようです」


 日吉はそれ以上何も言わず、ただ天井の闇を見つめたまま押し黙った。

 少し前から、村の端で肺を病んでいるかのように激しく咳き込んでいた、あの哀れな男の姿が脳裏をかすめる。


「やはり、あの酷い病であったのか」


「いえ、病というよりは、単なる飢えでしょう」


 小竹は感情の起伏を一切交えずに、冷たい事実だけを淡々と告げた。


「この三日間、男は井戸の水しか口にしていなかったのを、私はこの目で見ておりました」


 それだけの短い期間、食物が途絶えるだけで、人間の肉体はこれほどまでに呆気なく崩壊し、泥の塊へと還ってしまう。

 飽食が当たり前であった前世の感覚からすれば、到底信じ難いような脆弱な生命の現実が、この時代においては至極当然の日常として眼前に転がっている。

 自らの肉体を動かして働くことができなくなれば、その瞬間に生存の権利を失い、食い扶持を失った者はただ死を待つのみとなる。

 優しさや同情といった生温かい感情だけで、他人の命を救うことなど決して叶わない、厳格で容赦のない自然淘汰の世界なのだ。


「日吉、小竹、いつまでそこに転がっているのだ」


 土間の薄暗い入り口から、低く掠れた、だが刺々しい鋭さを持った声が響いた。

 それは二人の母親であり、頬の肉は削げ落ち、その指先は度重なる酷使と寒風によってひび割れ、赤黒く腫れ上がっている。

 実の年齢はまだ十分に若いはずであったが、日々の過酷な労働と心労の重なりによって、その佇まいは実年齢よりもはるかに老け込んで見えた。


「いつまで無駄に時間を潰している。早く森へ行って薪を拾ってこなければ、今朝の薄い粥を炊くことすらできないのだよ」


 日吉は重い腰を上げ、痛む関節を無理に引きずるようにして身体を起こした。

 立ち上がった瞬間、脳への血流が不足しているためか、視界が一瞬だけ激しく揺らぎ、暗緑色の火花が散る。

 栄養が著しく不足している肉体は、常に飢餓の警告を発し続けていたが、それでも立ち止まることは許されない。

 少しでも身体を休めようと横たわり続ければ、それはすなわち死への坂道を転がり落ちることを意味しているからだ。


 粗末な板戸を押し開けて外へ出ると、冷徹な大気が容赦なく顔の皮膚を切り裂くように襲いかかってきた。

 見渡す限りの畑は一面が霜に覆われて白く硬直しており、耕作されることのない土は寒気によって石のように冷たく締め固まっている。

 遥か遠方の畦道からは、何事かを激しく争う飢えた野犬の遠吠えが聞こえていた。

 痩せ衰えて骨の浮き出た野犬の群れが、泥にまみれた何かを狂ったように奪い合っている様子が、かすかに視界に入る。

 それが、一昨日に亡くなった村の死者の片腕であることに気づき、日吉は急いで視線を逸らした。

 このような地獄絵図のような光景に、自らの感覚をこれ以上慣れさせたくはなかった。

 だが、その凄惨な光景を目にしても、以前ほど強い嫌悪や衝撃を覚えなくなっている自分自身の精神の摩耗こそが、彼にとって何よりも恐ろしく、不快極まりない変化であった。


 村の唯一の共有物である古ぼけた井戸の周りでは、数人の女たちが互いに身を寄せ合い、白い息を吐き散らしながら声を潜めて囁き合っていた。


「川向こうの弥助の奴、とうとう今朝死んだそうだね」


「まあ、この厳しい寒さだ、長引かずに逝けただけ、あいつにとっても仕方のない幸せさ」


 その会話のどこを探しても、死者を心から悼むような哀愁や涙の気配はなく、ただ自らにも明日訪れるかもしれない運命に対する、冷え切った諦念だけが漂っていた。

 他人の死を冷ややかに見届けることで、心の奥底では「死んだのが自分でなくて本当に良かった」という浅ましい安堵を抱く。

 この閉鎖的で不毛な村社会においては、それこそが正気を保ち、明日を生き延びるために必要な唯一の心の防壁なのであった。


「兄上」


 背後を歩いていた小竹が、他人に聞こえぬほどの微小な声で話しかけてきた。


「昨日の夕暮れ時に仕込んでおいたあの噂、狙い通りに村の子供たちの間で広まっているようです」


「そうか、首尾は上々というわけだな」


 昨日の夜、日吉はわざと村の童たちの前で、もっともらしい口調で不気味な作り話を披露しておいたのだ。

 村の外れに広がる底なしの泥地には、大昔に非業の死を遂げた落ち武者の怨念が宿っており、その泥を不用意に踏み抜いた者は、恐ろしい熱病に侵されて数日のうちに悶絶して死に至るという、他愛のない偽りの怪談である。

 無論、そのような呪いや祟りなど、現代の知識を持つ日吉からすれば根も葉もない荒唐無稽な迷信にすぎない。

 しかし、医療も科学も存在しないこの未開の時代においては、目に見えぬ病の恐怖も、怨霊の呪いも、人々の心にとっては全く同一の絶対的な脅威となる。

 時に強固な木の柵や鋭い槍による警戒よりも、人々の心に植え付けられた実体のない恐怖こそが、侵入者を防ぐ最も強固な障壁となり得るのだ。

 彼らが暮らす粗末な小屋の床下奥深くには、母親にも隠して、わずかばかりの干し柿が密かに保管されていた。

 もしもその存在が飢えた他の村人たちに露見すれば、暴力によって瞬時に強奪されるか、あるいは村の掟を盾に強制的に分配させられることは火を見るより明らかであった。

 だからこそ、物理的な力を持たない子供の身で大切な備えを守り抜くためには、周囲の者をその隠し場所に近寄らせないための「恐怖の結界」を張る必要があったのだ。

 人間という生き物は、高尚な理屈や道徳によって動くものではない。

 ただ、自らにとって得となるか損となるか、あるいは目の前の事象が恐ろしいか恐ろしくないか。

 突き詰めれば、その極めて単純な二つの天秤だけで、全ての行動を決定しているにすぎないことを、前世の過酷な商売の交渉の中で日吉は嫌というほど学んでいた。


「おい、待ちやがれ」


 不意に、前方の曲がり角から低く威圧的な声が響いた。  進路を塞ぐようにして立ちはだかったのは、同じ村に住む三人の少年たちであった。

 彼らは村の中でも比較的耕作面積が広く、冬場の備えに余裕のある、いわば富裕な農家の倅たちであった。

 日吉や小竹とは明らかに異なり、その頬には血色が残り、衣服も破れが少なく、身体全体の肉付きが明らかに違っている。

 それは、飢えに怯えることなく、日々を生きるに十分な食物を摂取できている「持てる者」の傲慢な顔つきであった。


「日吉、お前たちの小賢しい動きは、最近どうも怪しいと睨んでいたのだ」


「一体何のことを指して言っているのか、俺にはさっぱり見当もつかないな」


「とぼけるな。お前たちの小屋の周辺から、最近になって妙に甘酸っぱい、美味そうな匂いが漂ってくるのを俺たちは嗅ぎ逃さなかったぞ」


 主導権を握る先頭の少年の後ろで、取り巻きの二人が卑屈な笑みを浮かべながら距離を詰めてくる。

 その匂いの正体は、間違いなく床下に秘匿している干し柿のものであった。

 日吉は内心で、己の見通しの甘さに激しい舌打ちをせざるを得なかった。

 飢餓の極限状態にある人間の嗅覚は、現代人の想像を遥かに超えるほどに鋭敏であり、わずかな食物の気配すらも見逃さない野生の鋭さを帯びているのだ。


「それはお前たちの気のせいにすぎない。我が家にそのような美味いものがあるはずがないだろう」


「ならば、今すぐその小屋の床下を俺たちに細かく調べさせろ。やましいことがないと言うのなら、拒む理由はあるまい」


 もしここで引き下がり、彼らの侵入を許してしまえば、床下の貴重な栄養源は全て奪い去られ、自分たちのこの冬の生存権は完全に消失する。

 この時代における交渉とは、対等な話し合いなどではなく、どちらの力が上であるかを確かめ合う、実力行使の小競り合いに他ならない。

 日吉は静かに、だが素早くその場に身をかがめ、足元に転がっていた赤黒く粘り気のある冷たい泥を、自らの両手で一掴みすくい上げた。


「……これの恐ろしさを知らずに、よくもそこまで大言壮語が吐けたものだな。これこそが、例の落ち武者の怨念が染み込んだ呪いの泥だ」


 それを見た三人の少年たちは、一瞬だけ呆気に取られた後、腹を抱えて大声で嘲笑し始めた。


「ハハハ、お前は飢えのあまり頭がおかしくなったのか! そんなくだらない子供騙しの迷信を、本気で信じているとでも思うのか!」


 しかし、日吉の表情には一切の笑みはなく、ただ冷徹な深淵のような瞳で、嘲笑する彼らを見つめ返していた。


「信じるか信じないかは、お前たちの自由だ。だが、昨日この泥を不用意に踏み抜いた川向こうの男が、今朝どのような有様で冷たくなっていたか、お前たちは知らないわけではあるまい」


「そ、それはただの病だろ……嘘を言うな!」


「ならば、自らの身体を使って試してみれば良い。この怨念の泥が本物か偽物か、その身を以てな」


 少年の顔にわずかな動揺が走るのを、日吉は見逃さなかった。

 日吉自身の胸の鼓動は激しく脈打っており、もし彼らが迷信を恐れずに力ずくで殴りかかってくれば、体力で劣る自分たちに勝ち目など万に一つもないことは分かっていた。

 だが、前世の過酷な営業現場において、百戦錬磨の交渉相手と対峙した経験が、彼に無言の教訓を与えていた。

 少しでも弱気を見せ、怯んだ態度を示した瞬間に、相手は獲物と確信して容赦なく喰らいついてくるのだ。気圧されてはならない。


 先頭の少年が、自らの怯えを払拭するかのように、大声を上げながら一歩前へと踏み出してきた。


「今です、兄上」


 背後から小竹の鋭く短い、冷徹な合図が飛んだ。  その声を合図に、日吉は手の中に隠し持っていた泥の塊を、渾身の力を込めて少年の顔面に向けて投げつけた。


「うわっ!」


 不意を突かれた少年の両目に、冷たい泥が容赦なくこびり付く。

 視界を奪われ、慌てて手で泥を拭おうとしたその一瞬の隙を突いて、背後に控えていた小竹が、まるで音もなく滑り込むようにして少年の膝の裏を鋭く蹴り抜いた。

 支えを失った少年の身体は大きく傾ぎ、そのまま轟音とともに、すぐ脇を流れる深く冷たい用水路の中へと真っ逆さまに転落していった。

 凍てつくような冬の水が衣服を濡らし、少年の口から悲鳴とも絶叫ともつかぬ悲痛な声が響き渡る。

 この厳冬期における冷水への転落は、現代における軽傷などではなく、体温を急激に奪い去り、数日以内に高熱を引き起こして命を奪いかねない凶器そのものであった。


「おい、たった今、その呪いの泥が確実にお前の口の中に入り込んだな」


 日吉は水路の中で震える少年を見下ろし、あえて感情を排した不気味なほど低い声で囁きかけた。


「三日後の朝、お前の身体がどのような姿に変わっているか、今から実に楽しみだ」


 その言葉を聞いた水路の中の少年は、恐怖のあまり顔面を土気色に変え、ガタガタと全身を震わせながら必死の形相で這い上がろうとした。

 背後に控えていた残りの二人の少年たちも、目に見えぬ呪いと冷水の現実的な恐怖に完全に圧倒され、それ以上足を進めることができずに後退りしていく。

 彼らにとって、実体のない病や死の影は、何よりも忌避すべき絶対的な恐怖そのものであったのだ。

 三人は互いに助け合うことも忘れ、ただ蜘蛛の子を散らすようにして、一目散にその場から逃げ去っていった。


 小竹は自らの着物の裾に付着した泥を、何事もなかったかのように静かに払い落としながら、日吉の方を振り返った。


「兄上」


「どうした、小竹」


「先ほどの脅しですが、少々言葉が多すぎましたね」


「お前は本当に身内に対して手厳しいな」


「脅しというものは、言葉を短く、核心だけを突いた方が、相手の脳内で恐怖が勝手に膨らみ、より深く効くものです」


 日吉はその的確すぎる指摘に思わず苦笑し、安堵の息を漏らした。

 しかし、その安堵が完全に身体に染み渡るよりも早く、林の奥深くから、カサリと不自然に枯れ葉が擦れ合う音が響いた。

 それも、一人や二人のものではない。複数の足音が、規律を持って均整の取れた間隔で近づいてくる気配であった。

 周囲の空気が、まるで一瞬にして氷結したかのように、張り詰めた緊張感に支配される。

 木々の間から姿を現したのは、一人の奇妙な少年であった。

 年齢はまだ十歳にも届かぬほどの幼さに見えたが、その全身から放たれる独特の存在感は、およそ子供のそれとはかけ離れていた。

 何よりもその両瞳が異様であった。  それは、獲物を執拗に追い詰める飢えた孤高の狼の眼光であり、底知れぬ狂気と知性を同時に宿した鋭い光を放っている。

 少年の背後には、抜き身の凶器を帯び、静かに呼吸を整えた本物の武士たちが数人、影のように控えていた。

 日吉は、前世での経験と、この地獄のような世界で培った生存本能から、直感的に悟らざるを得なかった。

 目の前にいるこの少年の後ろに従う者たちは、これまでに幾人もの人間の首を平然と切り落としてきた、本物の殺戮の徒であるということを。


「ほう、実に見事なものを見せてもらった」


 その少年は、無邪気でありながらも、どこか背筋が凍るような冷ややかな笑みを浮かべて語りかけてきた。

 その笑顔は一見すれば愛らしい子供のものであったが、次の瞬間には、まるで仮面を剥ぎ取るかのようにすっと表情が消え失せる。

 何の理由も持たず、ただその場の気分や思いつきだけで他人の命を奪うことができる、絶対的な強者の側にある人間。

 前世の企業社会においても、地位や権力に溺れ、他者を精神的に破壊することに微塵の躊躇も抱かない歪んだ存在が稀にいたが、目の前のこの少年が放つ気配は、それらとは比較にならぬほどに原始的で、生々しい暴力の匂いに満ちていた。


「ただの泥の塊と、小賢しい口先だけで、優位にある敵を退けるか」


 少年は面白そうに、片手に持った頑丈な木刀を弄びながら言った。


「そおれ、名を何と申す」


「……日吉と申します」


「ふむ、ではその後ろに控えている小兵は」


「私の実の弟にございます」


 少年はその鋭い視線を、日吉の背後にいる小竹へと転じた。

 小竹は持ち前の負けん気の強さから、必死になってその視線を睨み返そうとしていたが、日吉が握る弟の手は、これまでに見たことがないほどに小刻みに震えていた。

 あの冷静沈着な小竹が、本能的な恐怖に支配されているのだ。


「実にいい目をしているな」


 少年は愉快そうに、喉を鳴らして笑った。


「何よりも、激しく腹を空かせている者の目だ」


 日吉は沈黙を守り、それ以上余計な言葉を発することはしなかった。  だが、その無言の沈黙そのものが、少年に対する何よりの回答となっていたようであった。


「お前、今この瞬間に何が欲しい」


 少年は唐突に、だが極めて真摯な響きを伴った問いを投げかけてきた。


「山ほどの黄金か。美しき女か。それとも、他者をひれ伏させる広大な土地か」


 そして、その瞳の奥に狂気的な光を宿しながら、さらに続けた。


「それとも、この乱れた天下そのものか」


 その言葉は、子供の他愛ない夢物語などではなく、自らの手で必ずそれを掴み取るという、確固たる意志に裏打ちされた本物の響きを持っていた。  狂気の沙汰である。

 しかし、そのあまりにも荒唐無稽な問いかけが、なぜか嘘偽りのない真実として、日吉の胸に重く突き刺さる。

 日吉は乾ききった喉を一度大きく鳴らし、自らの魂の底から湧き上がる最も純粋な願いを、そのまま言葉にして吐き出した。


「……私は、ただ温かい飯が食べたいのです」


「何だと?」


「腹の底から、白い米の飯を、何にも怯えることなく満腹になるまで食べたいのです」


 少年の切れ上がった両目が、驚きを帯びて微かに瞬いた。


「風の吹き込まない、寒さに凍えることのない頑丈な家で、安らかに眠りたい」


 日吉の脳裏には、前世で当たり前のように存在していた、湯気の立ち上る炊き立ての白い米、温かい味噌汁、そして清潔な布団の温もりが、鮮烈な色彩を伴って蘇っていた。

 かつての人生においては、ありふれすぎてその価値に気づくことすらなかった、あまりにも凡庸なそれらの事物が、今の自分にとっては、いかなる金銀財宝をも凌駕する至高の夢なのであった。


「毎日、ただ腹いっぱい食べること」


 日吉は小さく自嘲するような笑みを浮かべ、言葉を紡いだ。


「そして、寒さに震えることなく眠ること。私が望むのは、ただそれだけでございます」


 静寂が、その場を支配した。  周囲に控えていた厳めしい武士たちが、そのあまりにも矮小で卑俗な返答に白けた表情を浮かべ、ため息をつきかけた、まさにその瞬間。

 少年は突然、腹を抱えるようにして、天を仰いで大声で笑いだした。


「ハハハ! 天下を差し置いて、ただの一杯の飯だと! これは実におかしな奴だ!」


 武士たちが困惑し、互いに顔を見合わせるほどに、少年の高笑いはしばらくの間、冬の枯れ林の中に響き渡っていた。

 しかし、その笑い声が突如として止み、少年の顔が冷徹な真顔へと戻った。


「だが、お前の言うことは至極正しい」


 その声には、先ほどまでの子供じみた響きはなく、他者を圧倒する重厚な説得力が宿っていた。


「真に腹を空かせた奴こそが、この世で最も強く、最も恐ろしい牙を持つものだ」


 その言葉には、ただの知識ではなく、彼自身が何らかの精神的な渇望に苛まれているという、深い実感が込められているように感じられた。

 この少年もまた、自分とは異なる次元において、何かを激しく渇望し、飢えているのだ。


「私の名を聞かせてやろう」


 少年は肩に担いだ木刀の重みを確かめるように位置をずらし、不敵な笑みを浮かべた。


「吉法師という」


 一陣の鋭い寒風が吹き抜け、地面に積もった枯れ葉が乾いた音を立てて舞い上がる。

 吉法師はすでに背を向け、林の奥へと歩みを進めながら、振り返ることなく言い放った。


「その貪欲な目、決して泥の中で腐らせるなよ」


 そして、その背中から再び、楽しげな笑い声が聞こえてきた。


「飢えた獣というものは、見ていて実におもしろい」


 林の暗闇の中へと静かに消えていくその後ろ姿を、日吉はただ黙って、その目に焼き付けるように見つめ続けていた。

 周囲を取り巻く過酷な寒さは何一つ変わらず、自らの胃袋は相変わらず虚脱したように空っぽのままであり、両手は泥にまみれたままであった。

 だが。  日吉の胸の奥深く、これまで冷え切っていた心の中心で、何かが確かに熱い音を立てて動き始めていた。  死んでなるものか。

 もっと強く、もっと貪欲に、この泥まみれの地獄のような乱世を生き抜いてみせる。

 いつの日か、あの白い温かい飯を、腹いっぱい食べるその日まで。

 この泥の底から、這い上がって見せるのだと、彼は心に深く誓うのであった。

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