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豊臣兄弟、最底辺から始める天下奪取 ――現代営業の知略で、戦国の理不尽を喰い破る――  作者: チャプタさん


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第十話:利の深淵

第十話:利の深淵


 夜明け前の薄暗い時間帯から、絶え間なく地表へと降り注ぎ始めた細かな白い雪は、昼近くの刻限を迎えても、一向にその勢いを衰えさせる気配を見せてはいなかった。

 広大な空は、まるで汚れた濡れ布を何重にも引き伸ばしたかのような、分厚く重苦しい灰色の雲に一面が覆い尽くされ、その下を流れる庄内川の深い水面は、鈍い鉛色に沈み込んで冷たく澱んでいる。

 荒涼とした川面を縦横に吹き抜ける冬の風は、大量の湿り気を不快に帯びており、衣服の隙間を潜り抜けて肌に触れるたび、肉体の奥底、骨の真髄に蓄えられていた僅かな温もりを、一寸ずつ冷酷に削り取っていった。

 日吉は、堤の下の荒れ果てた河原に直立し、寒さのために感覚を完全に失いかけていた自らの指先を、麻の袖の奥深くに差し込んで、きつく握り締めていた。

 足元に広がる細かな砂利や砂は、夜間の急激な冷却によって半ば凍りついて固まっており、一歩を踏み込むたびに、大地のきしむ硬い冷たい音が、靴底を通じて直接伝わってくる。

 吸い込む空気は、まるで細かな氷の刃物そのものであるかのように、鼻の奥を鋭く突き刺して喉の粘膜を痛め、肺腑の奥深くに重苦しい不快感をもたらす。

 寒い。

 それは、単に感覚的に不快であるとか、衣服が足りなくて辛いといったような、現代の温室の社会において語られるような生易しい次元の出来事では決してなかった。

 この何らの保護も存在しない中世の冬というものは、ほんの僅かな油断や怠慢を見せたその瞬間に、人間の肉体からたちまちのうちに生命活動の火を奪い去り、冷たい土の塊へと還してしまう、死に直結した自然の猛威そのものであった。

 生を受けて未だ八歳に満たない、筋肉も骨格も発育の途上にある脆弱な子供の身体にとっては、その大自然が突きつけてくる生々しい生存の現実は、あまりにも重く、かつ過酷にのしかかっていた。


 日吉のすぐ隣で、古びた鍬を地に突き立てて佇んでいた父親の弥右衛門が、冷たい風を遮るようにして、静かに鼻の奥で荒々しい音を鳴らした。


「日吉、寒さのあまりそのように小さく肩を竦めるな。そのように縮こまっておれば、余計に凍てつく冷気が衣服の隙間から骨の奥へと容易に入り込んでしまうぞ」


「……分かっているよ、父ちゃん。でも、これほど冷たい風が吹き荒れていては、どうしたって身体が勝手に震えてしまうんだ」


 必死になって言い返したものの、その口元から漏れ出た声は、自らの意思とは無関係に、ガタガタと激しく細かく震えていた。

 弥右衛門は、その息子の情けない様子を目にしても、それ以上は何らの言葉をかけることもなく、ただ自らが羽織っていた、古びた藁の蓑の裾を、そっと無造作な動作で日吉の側へと寄せてやった。

 それは、他者から見れば、注意深く観察しなければ気づかぬほどの、本当に僅かな、そして不器用な動作にすぎないものであった。

 しかしながら、その大きな蓑の陰に自らの小さな身体を滑り込ませただけで、それまで容赦なく肉体を打ち据えていた風当たりが、劇的に和らいでいくのが感じられた。

 日吉は、その父親の不器用な温もりに深く感謝しながらも、無言のまま自らの唇をきつく噛み締め、ただ眼前の泥を見つめ続けた。

 この不器用で、普段は乱暴な言葉ばかりを口にする父親という男は、優しい道徳の言葉や甘やかすような振る舞いなどは、ただの一度として日吉に見せたことはなかった。

 しかしながら、その無骨で、泥にまみれた行動の端々には、いかなる困難が立ちはだかろうとも、自らの家族だけは確実に生かしてみせるという、凄まじい「生の執念」が、常に静かに、かつ強固に滲み出していた。


 まさにその時であった。

 静まり返った街道の向こう側の角から、複数の人間による、湿った雪を踏み潰す不穏な足音が、規則正しいリズムを伴ってこちらの耳へと届き始めた。

 降り積もった雪を自らの足並みで力強く踏み砕く、重苦しい足音。

 武士たちの用いる、槍の鋭い鉄の石突が、凍りついた硬い土を規則正しく打つ、冷徹な金属の響き。

 そして、身体を動かすたび、男たちの防具である革具や帯が、ミシミシと不吉な音を立てて摩擦する気配。

 弥右衛門の細められた瞳の奥に、一瞬にして、戦場を生き抜いてきた足軽としての、鋭い警戒の闘志が蘇り、男は静かに顎を上げた。


「……いよいよ、来たな」


 雪煙を切り裂くようにして川堤の前に姿を現したのは、中村の村落を実質的に支配している、あの尊大な庄屋の一行であった。

 先頭を堂々たる足取りで歩く庄屋の男は、他の貧しい農民たちとは明らかに一線を画しており、その首元には貴重な獣の毛皮で作られた襟巻きを誇らしげに掛け、その身体には、分厚く綿が詰め込まれた高級な綿入れの衣服を、何重にも贅沢に重ねて羽織っていた。

 日頃から十分な食物を摂取し、他者から富を収奪し続けている証拠であるかのように、その顔つきには、浅黒い小作農たちとは明らかに異なる、脂の乗った艶やかな輝きが漂っている。

 その庄屋の背後には、彼に忠実に付き従う、村の屈強な若衆たちが五人、影のように隙なく並んで歩を進めていた。

 若衆たちの全員が、衣服の帯の間に、剥き出しの鋭利な刃物をしっかりと差し込んでおり、その佇まいは、単なる野良仕事の農民のそれではなく、いつでも他者を暴力でねじ伏せることのできる、武装した私兵たちの気配を色濃く帯びていた。

 しかも、彼らが河原へと足を踏み入れた瞬間の、それぞれの立ち位置の取り方が、日吉にとって極めて不快で、危険な性質のものを感じさせた。

 彼らは、ただ庄屋の後ろを愚鈍に歩いて追ってきたのでは決してなかった。

 一歩を踏み出すたびに、それぞれの男たちが、自然な、そして無駄のない動作で左右へと緩やかに散り、日吉たち親子の退路を完全に遮断し、包囲するための最適な位置を、最初から完璧に占めていたのだ。


(……この連中、ただの力自慢の荒くれ者じゃない。他者を力で威圧し、暴力で追い詰めるという実戦の駆け引きに、異常なまでに慣れきっている)


 日吉の小さな背中を、一筋の冷たい脂汗が、不快な感覚を伴ってゆっくりと伝い落ちていった。

 この庄屋に仕える若衆たちは、日頃から小作農たちのわずかな蓄えを暴力的に没収し、逆らう者を躊躇なく叩きのめすという「支配の実行」に、何らの倫理的な躊躇も抱かぬ、冷酷な実行部隊であった。

 庄屋の男は、河原の最も安定した場所に組まれた、自らの設計による新しい竈を、侮蔑を含んだ冷ややかな眼差しで一瞥しただけであったが、やがて、その視線を下へとずらし、しゃがみ込んでいた日吉の顔を、じっと威圧的に見下ろした。


「弥右衛門の倅」


 男の口から漏れ出たのは、自らの高い身分と権力をこれ見よがしに誇示するような、低く、重苦しい響きを伴った声であった。


「村の掟を乱し、炭焼きの連中の商いを著しく妨害しているという、噂の不気味な竈を作ったのは、お前だな」


「……日吉にございます。庄屋様におかれましては、本日はこのような寒冷な河原へ、わざわざ足を運んでいただき、恐悦至極に存じます」


 日吉は、自らの頭を地べたの雪に擦り付けるようにして、静かに、かつ慎重に頭を下げてみせた。

 しかしながら、その頭の下げる角度というものは、相手に対して過剰な恐怖を晒して軽んじられるほどに深く平伏するものではなく、同時に、相手の側の自尊心を不必要に傷つけて怒りを買うような、反抗的な不遜さを僅かも感じさせない、極めて絶妙な均衡を保ったものであった。

 この何らの法も守ってくれない乱世に生きる人々は、自らの面目や、上下の身分関係という形式的な事柄を、現代人の想像を遥かに超えるほどに激しく、かつ執拗に気にする性質を持っていた。

 もしも形式的な無礼を僅かでも働けば、それだけで「支配に対する反逆」とみなされ、その場で命を奪われても一切の文句は言えない。

 前世におけるあの息詰まるような会社組織の会議室の中で、傲慢な取引先の役員たちを相手に、言葉尻の一つにまで神経を研ぎ澄ませて行っていたあの折衝の駆け引きに比べても、この眼前の交渉は、遥かに面倒で、極限の緊張を強いられるものであった。

 あちらの世界における交渉の失敗は、せいぜい他部署への冷遇や左遷といった、社会的な死で終わるだけであった。

 しかしながら、この血生臭い世界における交渉の僅かな過ちは、その場で物理的に自らの首が胴体から切り離され、白い雪の上に赤黒い血をぶち撒けるという、生々しい肉体的な「死」へと直結しているのだ。


 庄屋の男は、しばらくの間、無言のまま日吉の下げた頭を品定めするように見下ろしていたが、やがて不快そうに鼻の奥で息を鳴らした。


「講釈は良い。まずは、その竈の本当の力というものを、この俺の目の前で見せてみろ」


「ははっ、畏まりました。今すぐに、極上の火を立ち上げてお目にかけます」


 日吉は頭を上げ、自らの設計によるその泥の竈へと、静かに歩み寄った。

 泥竈の最も重要な燃焼筒の芯には、昨日のうちに裏の蒸し小屋から、父親と小竹の手を借りて苦労して持ち出してきた、あの黒く焼け焦げた強固な「古石」が、緻密に配置されていた。

 何十年もの間、激しい熱に晒され、その直後に冷たい水を浴びせられても、決して形を崩すことなく生き残ってきた、自然の淘汰を経た本物の耐火素材である。

 日吉は、竈の下部に設けられた小さな吸気口に向けて、丹念に乾燥させた枯れ草と細かな木屑を押し込み、懐から取り出した火打石を、鋭い金属音を響かせながら勢いよく打ち合わせた。

 放たれた僅かな火花が、乾燥した藁へと容易に引火し、小さな赤い火種が生まれる。


 次の瞬間。


 泥竈の内部から、地鳴りを思わせるような、ごうっ、という低く太い唸り声が、力強く立ち上がった。

 発生した熱の上昇気流に乗って、周囲の冷たい空気が吸気口から凄まじい勢いで内部へと吸い込まれ、炉内の炎は瞬時に完全燃焼の激しい渦を巻き始めた。

 放り込まれた湿り気を帯びた細木は、黒い不快な煙をほとんど外へ吐き散らすこともなく、一瞬にして赤熱し、凄まじい熱量を放ちながら燃え上がっていく。

 周囲を取り囲んでいた庄屋の若衆たちの顔色が一瞬にして変わり、彼らの間から「おおっ……」という、驚きを隠しきれぬ低いざわめきが広がっていった。


「これは、一体どういう仕掛けだ……。これほど細い薪しか焚べていないというのに、なぜこれほど凄まじい火が立ち上がるのだ」


「煙がほとんど外へ出ていないぞ。これならば、家の中で目を痛める必要もないではないか」


 庄屋の男もまた、それまでの冷淡な態度を崩し、思わず竈のすぐ近くへと自らの足を歩ませ、その吹き出す熱気に向けて、毛皮に包まれた両手をそっとかざした。

 衣服を焦がさんばかりの、圧倒的な放射熱が、男の恰幅の良い顔を直接打ち据える。

 その瞬間であった。

 日吉は、庄屋の男の瞳の奥深くに灯った、あの不気味で、ギラギラとした「欲望の光」の変化を、絶対に見逃さなかった。

 それは、新しく画期的な技術を目の当たりにした際の、純粋な驚きや技術への称賛などでは決してなかった。

 この驚異的な熱の仕組みが、自らの支配権において、一体どれほど莫大な経済的な利益を生み出し、他者を支配するための有益な道具となるかを、脳内で冷徹に計算し始めた、支配者特有の「欲」の輝きに他ならなかった。

 日吉の胃の腑の奥底に、言いようのない重苦しい嫌悪感が、じわじわと沈殿していく。


 前世のあの洗練された高度な産業社会にあっては、優れた効率化の技術や、省力化をもたらす革新的な発明は、等しく社会全体の発展として称賛され、人々から拍手を以て迎えられていた。

 しかしながら、このすべてのルールが崩壊し、弱肉強食の論理だけが支配する戦国という時代においては、そのような高尚な建前は一切通用しない。

 どれほど多くの人々を救う優れた知恵であっても、それを作り出した人間が、自らを守るための十分な「暴力」を持たぬ弱者であるならば、その瞬間に、その知恵は強者によってただ当たり前の権利として、力ずくで毟り取られ、囲い込まれてしまう運命にあるのだ。


(……やはり、この世界の人間は、新しい技術を見た瞬間に、頭に浮かぶのは『誰からそれを奪うか』ということだけなのか)


 自らの胸の奥底から、この理不尽な世界の性質に対する、激しい嫌悪と静かな怒りが、止めどなく込み上げてくるのを防ぐことはできなかった。

 優れた道具を作れば、それによって村の多くの人々が、少しでも楽に、安全にこの厳しい冬を越すことができる。

 本来であれば、ただそれだけの、至極単純で、温かい話であるはずであった。

 なのに、この世界においては、すべての出来事が、誰がその権利を独占するか、誰を自らの配下に服従させるかという、醜い「権力闘争」の道具へと、いとも呆気なく貶められてしまう。

 前世の社会においても、出世や保身のための汚い権力争いは確かに存在していたが、少なくともそこには、社会全体の利益を騙る、最低限の「綺麗な建前」という防壁が存在していた。

 しかしながら、この泥の底のような乱世においては、そのような生温かい仮面など誰一人として被ろうとはせず、剥き出しの強欲が、そのまま白い雪の上へと無残に転がっているのだ。


「……実におもしろい、想像以上の仕上がりだ」


 庄屋の男は、自らの顎の髭を何度も撫でながら、低く満足げな声を漏らした。


「日吉とやら、この竈を用いれば、通常の囲炉裏に比べて、冬の間の薪の消費量は、一体どれほど減らすことができるのだ」


「通常のやり方に比べれば、少なくとも半分以下、工夫を凝らせば三割程度の薪だけで、十二分に部屋を温め、煮炊きを完了させることが可能にございます」


「ほう、半分以下、だと……」


 その言葉が、日吉の口から発せられた瞬間、周囲に控えていた若衆たちの間に、それまで以上に激しい動揺のざわめきが広がった。

 この冬の時代において、暖を取るための薪の存在は、そのまま人間の生死を分かつ最大の生命線であった。

 それが、従来のわずか半分の量で済むという意味の持つ、絶大な経済的・生存的な価値を、この場にいる大人の誰もが、完璧に理解していたからである。


「さらに、熱効率が高いため、お湯を沸かすことも、温かい雑穀の粥を炊くことも、従来の囲炉裏に比べて遥かに早い時間で完了させることができます」


 日吉は、自らの言葉に更なる実用的な説得力を伴わせるために、淡々とその利便性を説明し続けた。

 庄屋は、赤々と燃え盛る竈の炎をじっと凝視したまま、深い沈黙の中に没入していった。

 その、男が何を考えているのか判然としない不気味な沈黙の時間が、日吉の胸を激しく焦がし、本能的な恐怖を呼び起こす。

 この男は、ただ暴力だけを頼りにして威張り散らしているような、愚鈍な荒くれ者などではない。

 自らの頭を使い、利益を計算し、最も効果的に他者を支配する術を知っているからこそ、村の頂点に君臨し続けている、極めて老獪で危険な統治者であった。


 やがて、庄屋の男は、自らの冷たい唇をゆっくりと開き、低い、試すような声音で問いかけてきた。


「……この便利な泥の竈を、今すぐ村中の一家一家へと一斉に広めてやれば、一体この中村はどうなると思う」


 その、自らの出方を試そうとする極限の質問を突きつけられ、日吉は袖の中でそっと冷たい汗を拭い、慎重に呼吸を整えた。


「この冬の間に、寒さのあまりに命を落とす、哀れな小作農たちの数を、劇的に減らすことができるかと存じます」


「それだけか」


「さらに、薪拾いの山を巡って、毎年村の境界線で発生している、血の流れるような激しい小競り合いを、大幅に減少させることができるかと思います」


 庄屋の鋭い両目が、不気味に細められた。

 その日吉の指摘は、まさしくこの村を統治する男にとって、最も頭を悩ませていた長年の「統治の課題」の急所を、的確に射抜いたものであったからだ。

 毎年冬が訪れるたびに、僅かな薪の採取権を巡って、隣村や、村内部の主立の連中との間で、殴り合いや強奪といった、血生臭い揉め事が絶え間なく発生し続けていた。

 時にはその小競り合いの果てに死人が出て、領主への年貢の納入に著しい支障をきたすことも珍しくなく、庄屋にとって、それは常に頭の痛い、統治の火種となっていたのだ。


「ふむ……」


 庄屋の男は、低く唸り声を漏らしながら、再び自らの髭を弄び、思考を巡らせた。


「お前は、わずか八歳の餓鬼でありながら、随分と、賢しらで大人のようなものの見方をするのだな、日吉」


 その時であった。

 庄屋のすぐ後ろに控えていた、若衆の中でもひときわ狡猾そうな顔つきをした若い男が、自らの口元ににやりと下劣な笑みを浮かべ、庄屋の耳元へとにじり寄った。


「庄屋様。このような、他所の村の者たちが誰も知らぬ素晴らしい技術を、わざわざ我が村の貧しい小作人どもにまで、広く教えてやる必要など、どこを探してもないのではございませんか」


 その男は、鼻筋が不自然に尖り、まるで獲物を狙う狐のような狡猾な瞳を輝かせながら、執拗に自らの卑しい進言を繰り返した。


「この、薪を半分にする特別な竈の作り方を、庄屋様の御屋敷と、その一族の家々の中だけで固く秘匿して囲い込んでしまえば良いのです。そうすれば、我らの一族だけが、冬の間の燃料の蓄えにおいて、他所の村や領主に対しても、圧倒的な優位に立ち、彼らを手玉に取ることができるようになりますよ」


 その進言が発せられた瞬間、河原を支配していた空気が、一瞬にして氷結したかのように、さらに一段と冷たく張り詰めたものへと変貌していった。

 日吉は、自らの胸の奥で、激しい悪寒とともに、その言葉の背後にある「最悪のシナリオ」を、即座に、かつ完璧に理解せざるを得なかった。

 こいつは、極めて危険な男だ。

 自らの欲望に忠実であり、他者からすべてを搾り取ることに何の躊躇も抱かない、この時代の縮図をそのまま肉体化したかのような存在である。

 庄屋の男は、その若衆の言葉を聞いても、それを大声で否定して嗜めるような真似はせず、ただ無言のまま、深く考え込むような沈黙を保ち続けていた。

 それはすなわち、彼自身もまた、その「技術の独占と囲い込み」という非情な略奪の選択肢を、自らの頭の中で、大真面目に検討し始めている何よりの証拠であった。


 日吉の背筋を、冷たい蛇が這い回るかのような、凄まじい悪寒が走り抜けた。

 もしも、彼らの企む通りに技術の囲い込みを許してしまえば、自分たち親子は、彼らにとって都合の良い「便利な竈を密かに作り続けるための、逃げ場のない職人奴隷」として、一生涯にわたって幽閉され、搾取され続ける人生を送ることになるのだ。

 その最悪の未来だけは、何としてでも、自らの知恵と策略をもって、断固として阻止せねばならなかった。


 その時、日吉の着物の袖口が、下からくい、くいと、微かな、だが確固たる力によって引っ張られた。

 日吉がふと視線を落とすと、そこには、いつの間にか自らのすぐ隣ににじり寄っていた、弟の小竹の姿があった。

 しかしながら、その弟の姿を目にしたその瞬間、日吉は一瞬だけ、自らの両目を疑うほどの激しい衝撃を覚えた。

 小竹の小さな鼻先は、寒風のために不自然なほどに真っ赤に染まっており、その小さな身体全体が、寒さと恐怖のために、微かに、かつ小刻みに震え続けていたのだ。

 いつもであれば、どのような窮地にあっても氷のように冷静沈着であり、大人のような不気味な理性を崩さなかったあの弟の姿は、そこには存在しなかった。

 そこにあったのは、ただの五歳に満たない、極寒の河原で寒さに震え、眼前の屈強な大人たちの暴力の気配に、本能的な恐怖を覚えて震えている、年相応の無力な幼児の姿そのものであった。

 しかしながら、小竹はその全身を支配する激しい震えを、自らの小さな奥歯を噛み締めることで必死に押し殺しながら、日吉の耳元へと、自らの顔をそっと寄せ、極小の声で囁きかけた。


「……兄上」


 その声は、いつもとは異なり、涙を堪えるかのように、ひどく震えて頼りない響きを帯びていた。


「少しだけ……本当に、怖くて仕方がありません」


 日吉は、自らの胸の奥が、熱い鉄を直接押し付けられたかのように、激しく熱く脈打つのを感じ、息を呑んだ。

 この弟が、他者に対して、自らの弱さや恐怖の感情をはっきりと口にして打ち明けたのは、日吉がこの世界に生まれ変わってから、ただの一度としてなかった、初めての出来事であった。

 小竹は、恐怖のために自らの薄い唇を激しく噛み締めながらも、その澄んだ双眸だけは、決して曇らせることなく、眼前に立ちはだかる庄屋の一行を、じっと、逃げることなく見つめ続けていた。

 怖い。

 本当に、怖くてたまらないはずであった。

 しかしながら、彼は、決してここから自ら一人だけで逃げ出そうとはせず、日吉とともに踏みとどまり、この過酷な現実と戦おうとしていたのだ。

 その、健気で、かつ必死な弟の覚悟の姿を目にした瞬間、日吉の胸の奥底からは、これまでに感じたことのないような、凄まじい怒りと「守るべきものへの執念」の火が、爆発的な勢いをもって燃え上がった。


 守らなければならない。

 この、自分を信じて寄り添ってくれる、無力で愛おしい弟を。

 自らの帰りを、あばら屋の中で必死に祈りながら待っている、母親や姉を。

 そして、命を削りながら自らを支えてくれている、あの不器用な父親を。

 その家族への激しい執念が、今度こそ日吉の魂の深淵へと、二度と消え去ることのない不敗の「牙」として、強固に定着していった。


 小竹は、日吉が頷くのを確認すると、震える自らの身体を無理に引きずるようにして、庄屋たちの前へと、一歩、果敢に歩み出でてみせた。


「庄屋様」


 その幼い声の響きは、寒さのために僅かに震えてはいたが、不思議なほどの気品を伴って、河原の寒冷な大気を切り裂いた。


「兄上の生み出した、この古石の竈から立ち上る炎というものは……あまりにも、その力が強すぎるのです」


「何だと? 火の力が強くて、何が不都合があるというのだ」


「この竈は、空気の流れる対流の仕組みを完璧に調整して作られており、もしもその微調整を僅かでも誤って真似てしまえば、火は炉の内部で異常な逆流を起こし、最悪の場合、家屋そのものを一瞬にして焼き尽くす、恐るべき大火事を引き起こす危険を秘めているのです」


 その、予期せぬ「家屋炎上」の警告を突きつけられ、庄屋の後ろに控えていた若衆たちの顔色が、一瞬にして不穏なものへと変わった。

 小竹は、寒さのために小さな喉を上下させ、呼吸を整えながら、必死に言葉を紡ぎ続けた。


「私の兄上だけが、その熱を安全に逃がすための、古石の積み方や泥の配合の、絶妙なバランスの調整の仕方を完璧に把握しているのです。もしも、その技術を勝手な素人考えで真似てしまえば、取り返しのつかない恐ろしい事態を招き、我が身を滅ぼすことになりかねませんよ」


 庄屋の男は、その弟の巧みな警告を聞いて、不機嫌そうに押し黙り、深く考え込んだ。

 日吉は、その弟の機転の素晴らしさに、胸の中で激しく拍手を送っていた。

 小竹は、技術そのものの価値を語るのではなく、「その高度な技術を安全に制御することのできる、唯一の存在(日吉)」の価値を、庄屋たちに対して、不可欠なものとして認識させようとしていたのだ。

 知恵をただ強奪して囲い込もうとしても、それを安全に稼働させる職人(日吉)がいなければ、それはただの「自らを焼き尽くす危険な呪いの泥竈」へと成り下がってしまう。

 だからこそ、自分たちを奴隷のように幽閉して搾取するのではなく、一定の敬意と報酬を支払って、協力を仰ぐ形を取らざるを得ないように、仕向けたのである。


 しかしながら、それと同時に。

 自らの僅か五歳に満たない弟が、これほどまでに身体を激しく震わせ、恐怖に耐えながら、命がけで家族を守るための駆け引きを行わねばならぬという、この世界の残酷な現実に、日吉の胸は張り裂けんばかりに激しく痛んだ。

 前世のあの平和で豊かな社会であれば、これほどの小さな子供が、武装した権力者たちを相手に、冷たい雪の上で命がけの交渉を行う必要など、どこを探しても存在しなかった。

 それは、決してあってはならぬ、残酷で、狂った出来事であったのだ。


(……チクショウが、本当に、どこまでも狂いきった最低の世界だな……)


 日吉は、自らの奥歯をギリギリと激しく噛み締めながら、胸の内で血を流すような怒りを覚えていた。

 子供が、ただの子供として無邪気に遊ぶことすら許されず、弱ければただ奪われ、踏みにじられて死んでいく。

 このような不条理極まりない世界の理を、自分は絶対に、そのまま認めて引き下がるつもりはなかった。


 庄屋の男は、長い沈黙の果てに、やがてフフと低く冷たい笑い声を漏らした。


「実におもしろい、胆力に満ちた奇妙な兄弟だな」


 その庄屋の笑い声を合図にするかのように、後ろに控えていた若衆たちも、それまでの緊張を解き、乾いた追従の笑い声を周囲に響かせた。

 しかしながら、河原を支配していた空気は、先ほどまでの刺すような殺気の気配から、幾分か、実務的な交渉のそれへと和らいでいるのが感じられた。


「良いだろう」


 庄屋の男は、自らの担いだ鍬を地に突き立てて黙って立っていた、弥右衛門の顔を真っ直ぐに見据えた。


「弥右衛門。明日から、村の共有地から切り出した上質な薪を、お前たちの家に向けて、特別に僅かばかり回してやるように手配してやろう」


 日吉の両目が、その言葉を聞いて微かに動いた。

 薪。

 それは、この極寒の冬にあって、そのまま「命の長さ」を意味する、何より貴重な富に他ならなかった。


「その代わりに、この賢しらな倅の知恵を用いて、来たるべき正月の祭りの日までに、俺の屋敷の奥に、この古石の竈を完璧な形で一つ、組んで見せろ。それが、我が家がお前たちを保護してやるための、最低限の条件だ」


 それは、庄屋の側が突きつけてきた、実質的な支配権の確立を前提とした、妥協の取引の条件であった。

 自分たちは、庄屋の側の「便利な傘下」として取り込まれる形にはなるが、差し当たって、この極寒の冬を越すための、確実な薪の供給源を確保することができたのだ。

 日吉は、今はただ、この取引の条件を静かに飲み、力を蓄えるのが、最善の選択であることを十分に理解していた。


「……身に余る、ありがたきお言葉にございます、庄屋様」


 父親の弥右衛門が、無念さをその瞳の奥に滲ませながらも、家長として、静かにその場に平伏して、頭を下げてみせた。

 庄屋の男は、自らの優位を確信したように満足げに何度も頷き、そのまま、自らの従える若衆たちを連れて、雪の街道の向こう側へと足早に去っていった。

 彼らが踏みしめる、凍りついた雪を踏み砕く規則正しい足音が、次第に遠ざかり、やがて川の水音と同化して完全に消え去っていった。


 彼らの気配が周囲から完全に消失したことを確認したその瞬間、日吉は、肺の奥に溜まっていた重苦しい緊張の息を、一気に吐き出した。


「ようやく、終わったな……」


「いいえ、終わってなどいませんよ、兄上」


 小竹が、静かに自らの袖を払いながら呟いた。

 しかしながら、次の瞬間、弟は自らの小さな鼻先をピクピクと動かし、こらえきれなくなったように小さく鼻をすすってみせた。

 やはり、寒さと恐怖の限界を超えて、ただ必死になって耐えていただけなのだ。

 その、いつもの冷徹な表情の裏に隠されていた、年相応の幼い弟の弱々しい姿が、日吉の目にはたまらなく愛おしく、思わず口元に温かい苦笑を浮かべるしかなかった。


「お前、あれほど偉そうに大人のような啖呵を切っておきながら、実際には足がガタガタと激しく震えていたじゃないか」


「……それは、ただここの川風が冷たくて、身体が寒かっただけにすぎませんよ。他意はありません」


「いや、絶対に、怖くて仕方がなかったはずだ」


「半分くらいは……確かに、そのように思っていたかもしれませんね」


 小竹は、自らの本心を見透かされたのが不機嫌極まりなかったのか、ふいと顔をそむけて、不貞腐れたようにうつむいてしまった。

 その、感情を隠しきれぬ素直な姿が、ようやく彼に、年齢相応の愛らしさを取り戻させていた。

 日吉は、そっと近づき、泥で汚れた自らの手で、弟の真っ赤に冷え切った小さな頭を、優しく何度も撫でてやった。


 しかしながら、その穏やかな手の温もりとは正反対に、日吉の胸の奥底、その魂の深淵においては、かつてないほどに激しく、そして凶暴な「怒りの火種」が、青々と燃え上がり続けていた。

 このような、未だ五歳にも満たない無力な幼い弟にまで、自らの命を人質に取られる恐怖を味わせ、生きるための取引を強いねばならぬ、この世界の理不尽に対する、底知れぬ怒り。

 そして何より、その地獄絵図のような過酷な日々の連続に、いつの間にか自らの心が慣れ親しみ、冷酷に適応し始めている、自ら自身の精神の摩耗に対する、激しい嫌悪感。

 足元に築かれた泥竈の内部では、あの古石に支えられた真紅の炎が、なおも力強く、そして激しく唸り声を上げて燃え続けていた。

 それは、周囲の過酷な寒さを確実に遠ざけ、自らの家族を生かすための、奇跡的な温もりをもたらす火であった。

 しかしそれと同時に、その美しく温かい火の光は、人間の内側に潜む、醜く貪欲な「欲望の火」をも、四方八方から容赦なく呼び寄せる、凶悪な呪いの光でもあったのだ。


 日吉は、燃え盛る竈の炎を、吸い込まれるようにしてじっと凝視しながら、自らの衣服の奥深くで、冷え切った拳をきつく、強固に握り締め直した。

 今はまだ、この尾張の荒れ果てた河原で、ひっそりと燃えている、極めて小さく、取るに足らない百姓の知恵の火にすぎない。

 しかしながら、自分たちがこの過酷な乱世にあって、二度と誰からも蹂躙されず、大切な家族を理不尽に奪われることなく、安らかに生き延びていくためには。

 きっと、この手の中にある「知恵の火」をもっともっと大きく、誰の力をもってしても、決して消し去ることのできない巨大な劫火へと、育て上げねばならないのだ。

 他者から容易に奪い去ることすら叶わぬほどに、圧倒的な強大な力を持つ、支配の火へと。

 その過酷な野心の道の先に、一体どのような凄まじい運命や、血生臭い戦いの結末が待ち受けているのか、今の彼に知る術はなかった。

 ただ一つ、彼らの魂にとって、確実な真実があるとすれば。

 自分たちはもう二度と、あのただ奪われるのを恐れて怯えて暮らすだけの、無力な弱者の日々へと後戻りすることなど、決してできないということ。

 白く凍りついた庄内川の河原で、しんしんと降り積もる白い雪を美しく溶かしながら燃え続ける、古石のあの熱い炎は、静かに、だが確実に。

 この戦乱の乱世を根底から食い破る、この貧しい家族の運命そのものを、赤々と焼き始めようとしているのであった。

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