第十一話:野火の均衡
第十一話:野火の均衡
夜半からひっそりと降り続いていた細かな白い雪は、周囲を包み込む朝の光が完全に白む時刻を迎えても、一向にその勢いを衰えさせる気配を見せなかった。
尾張の冷え切った空を遮るように低く、かつ重苦しく垂れ込めた灰色の雲の切れ間からは、陽光の温もりなど露ほども感じられず、庄内川の流れはその下で、磨き損ねて錆が浮き出た鈍い鉛板のようになって冷たく沈み込んでいる。
河原の広大な吹きさらしを吹き抜ける冬の風には、川面から湧き上がった濃厚な湿り気が不快に混ざり合っており、ただ剥き出しの頬を優しく撫でて通り過ぎるだけで、皮膚の表面だけでなく、肉体の奥底、骨の隙間にまで溜まっていた僅かな体温を、一寸ずつ冷酷に削り取っていくかのようであった。
日吉は、自らの痩せた肩を不自然なまでに小さくすぼめながら、湿った泥の川縁を、自らの足元を確かめるようにして静かに歩み進めていた。
昨日、あの冷酷極まりない庄屋の一行を相手に、冷や汗を流しながら命がけの交渉を行って以降、村の周囲を漂う空気の性質は、明らかにそれまでとは異なる不穏な冷たさを帯び始めていた。
新しく完成したあの古石の竈を遠巻きに眺めていた村人たちの、どこか猜疑と驚愕の入り混じった複雑な眼差し。
刃物を携えて自分たちの周囲を静かに包囲していた、庄屋の若衆たちの、品定めをするかのような鋭い視線の数々。
そして何より、交渉の最期の瞬間に、あの恰幅の良い庄屋の男が浮かべて見せた、すべてを冷徹に計算し尽くしたような、あの傲慢で底知れぬ笑み。
それらの不穏な事象のすべては、単なる知恵に対する素朴な興味や称賛などでは決してなく、そこに眠る絶大な「利益の匂い」を敏感に嗅ぎつけた、欲深い大人の男の本性の現れそのものであった。
日吉のすぐ隣では、弟の小竹が、一言の不平をも漏らすことなく、無言のまま凍てついた泥道を並んで歩いていた。
破れかぶれの古い麻布を、自らの小さな身体の上に幾重にもきつく巻きつけた程度の、あまりにも粗末な防寒の衣服では、この大自然の容赦なき冷気を完全に防ぎ切ることなど、到底不可能なことであった。
歩みを進めるたび、その華奢な肩は寒さのためにぴくりと小さく、そして不自然に震え、そのたびに、ぼろぼろになった袖口の奥から、凍えのために赤黒く腫れ上がった指先が、痛々しく覗いていた。
しかしながら、小竹は、自らの口からは、決して寒いとか辛いといった弱音の言葉を、頑なに口にしようとはしなかった。
昨日の交渉の際、極限の恐怖と緊張のあまり、自らの本心の弱音を日吉の耳元で漏らしてしまった出来事を、未だに自らの中で少しばかり恥じ、悔やんでいるに違いなかった。
日吉は、そんな強がりを必死に維持しようとする幼い弟の横顔を、歩きながらちらりと盗み見た。
本当に、どうしようもないほどに、幼い子供の顔立ちであった。
まだ、本来の平穏な世であるならば、母親の温かい膝の上にしがみつき、囲炉裏の火桶の前で安らかにまどろんでいて良いはずの、生を受けて数年しか経っていない幼児なのだ。
それにもかかわらず、この弟は、鋭い刃物を携えた屈強な大人たちに完全に周囲を取り囲まれた過酷な河原において、自らの命を人質に取られた、一歩も退けぬ緊迫した駆け引きを強いられている。
そのあまりにも理不尽で残酷な現実の姿が、日吉の胸の奥底に、消え去ることのない鈍く重い痛みを、傷跡のように残していた。
前世における、あの平和で行き届いた社会の記憶を鮮明に保持しているからこそ、日吉は余計に、この現状に対する強い嫌悪を禁じ得なかった。
これは、決してあってはならない、狂った出来事であるはずなのだ。
まだ骨格も発育しきっていない小さな子供が、ただ明日を死なずに生き延びるためだけに、他者を騙し、欺くための狡猾な策略を必死に学ばねばならぬような世界。
目の前に立つ権力者たちの僅かな表情の変化や顔色を窺いながら、一体どこまで平伏して頭を下げ続ければ、無惨に首を撥ねられずに済むかを、脳内で冷徹に計算せねばならぬ現実など、本来であらば、絶対に存在してはならない不条理であった。
しかしながら、この血生臭い戦国の世においては、そのような生温かい人道や綺麗事など、何の意味も持たない。
他者よりも弱ければ、ただ一方的に富を奪われて死に至る。
強者にとって役に立つ存在であり続けなければ、用済みとしていとも容易く、塵のように踏み潰される。
高尚な綺麗事や道徳を並べ立てたところで、ただの一杯の温かい粥すら手に入らず、自らの大切な家族の命一人すら、守り抜くことなど叶わないのだ。
その冷酷極まりない現実の質量が、降り注ぐ白い雪よりもさらに冷たく、重苦しく、日吉の胸の奥底へと、絶え間なく積もり続けていた。
「兄上」
不意に、自らの足元を見つめたまま歩いていた小竹が、前触れもなく静かな声を漏らした。
「……昨日の、あの庄屋との交渉の結末ですが、奴は決して、私たちの言葉を完全には信用したわけではありませんよ」
「ああ、分かっている。それは百も承知だ」
「今はただ、あの竈の利便性と、私たちが提示した『火災の危険』という僅かな利用価値の天秤があるからこそ、一時的に手出しをするのを控えているだけにすぎません。もしも明日、我らよりも遥かに都合よく、言う通りに竈を作り出すことのできる新しい職人が現れれば、奴らは何の躊躇もなく、私たちを不要な存在として切り捨てるでしょう」
「それについても、最初から分かっていることだよ、小竹」
日吉は、視線を川面から逸らすことなく、短く、かつ落ち着いた語気で答えた。
十分に、理解しているのだ。
あの強欲な庄屋の男は、決して慈悲の心や、貧しい者への哀れみから、我が家に向けて貴重な薪を分け与えてくれるわけではない。
日吉たちを「便利な竈を作り出すための都合の良い家畜」として自らの支配下に囲い込み、その暖房と保存の技術を、他者から抜きん出て独占するために他ならない。
あの男は、自らの利益に繋がるものを見逃さない狡猾さを有しているが、それと同時に、利益を生み出すための人間を、ただの使い捨ての「道具」として冷酷に扱うことに対しても、一片の良心の痛みすら感じない男なのだ。
昨日の緊迫したやり取りを通じて、彼ら権力者たちの精神の底知れぬ非情さは、日吉の脳髄に嫌というほど焼き付けられていた。
「だからこそ、あの強欲な庄屋の一族だけに、この技術を独占させておくような真似だけは、絶対にさせてはならないのだ」
日吉は、白く濁った川面のゆらぎをじっと見つめ直しながら、低く呟いた。
「え? それは一体、どういう意味ですか」
「あの竈の知恵を、庄屋の屋敷の中だけで固く秘匿して独占させてしまえば、その瞬間に俺たちの価値は終わり、彼らに一生搾取され続ける運命になる。だから、その囲い込みを未然に防ぐために、あえて真逆の手を打つのだ」
小竹は、歩みを僅かに緩め、驚きを帯びた瞳を兄へと向けた。
「真逆の手、とは」
「この泥竈の知恵を、庄屋に独占させる前に、あえて村中の全ての家々に向けて、自分たちの手で広く、一気に普及させてしまうのだよ」
「……村全体に、広く教えてしまうのですか」
「そうだ。もしも村のすべての貧しい小作農たちが、この竈を日々の暮らしの中で当たり前のように使うようになれば、庄屋であっても、そう簡単には俺たちの命を奪って口を封じるような真似はできなくなる。なぜなら、俺たちを消し去ってしまえば、それによって村全体が蒙る不利益の怨嗟の矛先が、すべて庄屋自身の身へと返ってくることになるからな」
小竹は、自らの小さな手を口元に当て、その驚異的な戦略の意味を頭の中で冷徹に計算し始めた。
その幼い顔立ちには、とても生後数年の幼児のものとは思えぬほどの、鋭く、かつ冷徹な思案の光が、不気味に宿り始めていた。
「なるほど……。つまり兄上は、自らの技術を強固な金庫の中に隠して『盾』にするのではなく、あえてその利益を村全体に広く分け与えて巻き込むことで、崩れることのない巨大な『利害の均衡』を作り出そうとしているのですね」
「優れた知恵を一人占めにすれば、それは他者からの激しい嫉妬と強奪の恨みを呼び寄せる。しかしながら、その知恵によって誰もが少しずつ得をするような、相互依存の仕組みを構築してしまえば、今度は多くの人間が、自らの利益を守るために、自発的にその仕組み(俺たちの存在)を全力で保護しようとするようになるのだよ」
それは、日吉がかつて生き抜いてきた前世の、あの冷酷で合理的な経済活動の場において、嫌というほど目にしてきた不敗の心理戦の論理そのものであった。
一つの部署や企業だけが、画期的な利益を不自然に独占し続ければ、それは必ずや、周囲の競合他社や別の派閥からの激しい嫌がらせや、組織的な包囲網によって無惨に叩き潰される運命をたどる。
しかしながら、その利益を周囲の他者にも適切に分配し、誰もがそのシステムの一部として利益を得られる構造を作ってしまえば、今度は周囲の誰もが、その構造が崩壊することを恐れ、自発的に仕組みを護持するために動き始めるのだ。
結局のところ、人間という生き物は、一時的な善意や道徳の呼びかけなどでは決して動きはしない。
ただ、自らの前にぶら下げられた「利害の天秤」が、どちらに傾くかによって、すべての行動を決定しているのだ。
その本質は、戦国の荒廃した農村であっても、前世の近代的な競争社会であっても、驚くほどに何一つとして変わることはない。
ただ一つ、決定的に異なる点があるとすれば、こちらの世界における失敗の代償として支払うべき対価が、社会的な失脚などではなく、文字通り自らの「命」そのものであるという点だけであった。
まさにその時であった。
前方の折れ曲がった冷たい河原の雑木林の陰から、数人のみすぼらしい衣服を身にまとった村人たちの姿が、静かに浮かび上がってきた。
彼らは、昨日、日吉が作った新しい竈の圧倒的な火力を、遠巻きに眺めながら、不審そうにヒソヒソと囁き合っていた、あの貧しい小作農の百姓たちであった。
男たちは、行く手から歩いてくる日吉たちの姿を視界に捉えると、どこかきまずそうに互いに顔を見合わせ、その場に躊躇するようにして立ち止まった。
やがて、その小作農たちの中でもひときわ痩せ細り、骨の浮き出た中年の男が、自らの羞恥心を必死に押し殺すかのようにしておそるおそる、震える口を開いた。
「お、おい……弥右衛門のところの日吉よ……」
「何でしょうか、私に何かご用でもございますか」
「昨日の昼間、お前たちが河原で見せていた、あの特別な泥竈の火のことなのだが……あれは本当に、いつも使っている薪の量が、半分以下で済むというのは、本当のことなのか」
日吉は、自らの歩みを止め、少しだけ細めた瞳で男たちの様子を観察した。
――来た。
庄屋の側が動くよりも先に、まず極限の生活に窮している村の農民たちの側が、我慢できずに自発的に接触を求めて動いてくるであろうことは、日吉の計算の範疇であった。
この何らの保護もない過酷な冬の厳寒にあっては、暖を取るための薪は、そのまま家族の「命」そのものであったからだ。
他人が手に入れた、凍えずに済むための驚異的な新技術に対して、彼らがいつまでも関心を持たずに黙って見過ごせるはずが万に一つもなかったのだ。
「ええ、泥の配合と古石の配置を、正しく行って築き上げれば、消費する薪の量は、従来の半分以下にまで劇的に減らすことが可能にございますよ」
「……そ、それに、家の中に立ち上るあの嫌な煤煙の量も、通常の囲炉裏に比べて、驚くほど少ないというのは本当なのか」
「はい、内部で空気が完全燃焼を起こすように気流を絞り込んでおりますから、囲炉裏の火に比べて、煙の量は遥かに少なくて済みます」
その言葉を聞いた瞬間、集まった小作農たちの喉が、渇望のためにごくりと音を立てて大きく鳴り響いた。
彼らの濁った瞳の奥深くに浮かび上がっていたのは、紛れもない、剥き出しの「生存への欲望」そのものであった。
しかしながら、その欲望の性質は、昨日あの庄屋の男が浮かべたような、他者から搾取して支配を強めるための傲慢な欲とは、その本質において決定的に異なるものであった。
それは、ただ今日を死なずに生き延びたい、家族をこの過酷な寒さから救い出したいという、生命が放つ最も切実で、最も悲痛な「生の執念」に他ならなかった。
家族を凍えさせたくない。
自らの愛おしい幼子を、寒さの病によって失いたくない。
そのための、必死の防衛の欲求であった。
日吉は、彼らのその必死な様子を見つめるうちに、それまで交渉のために張り詰めていた自らの肩の力を、ほんの少しだけ緩めることができた。
この不条理極まりない不毛な村社会であっても、そこに暮らす人々が、最初からすべて冷酷な悪人ばかりで構成されているわけでは決してない。
皆、ただこの終わりのない地獄のような貧しさの中で、一日でも長く生き延びるために、必死に足掻いているだけの、哀れな人間にすぎないのだ。
「……日吉よ、頼む、その素晴らしい竈の作り方を、俺たちにも教えてはくれないか」
別の、背を丸めたみすぼらしい男が、自らのプライドを完全に投げ捨てるようにして、子供である日吉の前で深く頭を下げて懇願してきた。
「うちの、寝たきりの婆さまがな、今年のこの厳しい冬は、もう到底越せそうにないと、諦めかけておるのだ……。夜になると、家の中に充満する煤煙のせいで激しく喘ぎ、寒さのために咳がいつまでも止まらず、本当に見ていて痛々しくて仕方がねぇのだよ……」
日吉は、その懇願の声に対して、即座に返答を返すことはせず、ただ静かに佇んでいた。
彼の代わりに、すぐ隣にいた小竹が、一言の言葉も交えずに、その物静かな双眸で、必死に頭を下げる男の様子を冷徹に観察していた。
その視線は、どこまでも澄み切っており、目の前の男が、自らを騙して技術を盗み取ろうとする打算だけで動いているのか、あるいは、本当に切実な危機に瀕して縋り付いてきているのかを、正確に見極めようとする野生の鋭さを有していた。
しかしながら。
次の瞬間、小竹は、自らの鋭い視線を、僅かに耐えかねたように下へと伏せた。
必死に頭を下げる男の背後の影から、生を受けてまだ数年と思われる、痩せ細った幼い少女が、泥だらけの裸足に近い姿で、父親の着物の袖を、不安げにぎゅっと握りしめて佇んでいるのが見えたからである。
少女の鼻先は寒さのために赤く染まり、その薄い唇は、凍えのために青紫色に変色して震えていた。
日吉は、その少女の痛々しい姿を視界に捉えた瞬間、胸の奥底に、言いようのない重く苦しい感情が、雪崩のように沈み込んでいくのを感じざるを得なかった。
日吉の脳裏に、かつて暮らしていたあの前世の、当たり前すぎるほどに温かかった冬の情景が、一瞬にして鮮明に浮かび上がってくる。
ボタン一つ押すだけで部屋全体を満たしていた温かい空気、いつでも不自由なく口にすることができた温かい食事、そして、何の脅威に怯えることもなく安らかに眠ることができた、頑丈な寝床。
あの高度に発達した平和な世界においては、子供が冬の寒さによって凍え死ぬかもしれないなどという恐怖は、誰一人として想像すらしない、あり得ない出来事であった。
しかしながら、この未開の戦国の世においては、暖を取るための火がたった一つ失われるだけで、昨日まで笑い合っていた人間が、翌朝には容易に冷たい死体へと変わってしまう。
そのあまりにも呆気なく、残酷な生命の限界が、何の隠し立てもなく眼前に転がっているのだ。
「……兄上」
小竹が、静かな、だが僅かに震える声を漏らしながら、日吉の服の端をそっと引っ張った。
日吉は、深く、長く呼吸を整え、自らの胸の奥で腹を決めた。
「分かりました。その竈の作り方、私たちが皆さんに教えて差し上げましょう」
日吉がその肯定の返答を口にした瞬間、必死に頭を下げていた小作農たちの顔が一瞬にして驚喜に満ち溢れ、明るい色彩を帯びた。
しかしながら、日吉は彼らの歓喜を嗜めるように、即座に、冷徹な響きを伴った声を重ねた。
「ただし、教えるのは、竈の基本的な泥の固め方と、石の組み方の外殻の部分だけにございます」
「え? それは一体、どういうことだ。すべてを教えてはくれないのか」
「この竈は、内部で極めて強い気流のうねりを発生させる特別な設計になっており、もしも空気を取り込む隙間の割合や、熱を逃がすための排気の角度を僅かでも誤って真似てしまえば、火は炉の内部で異常な逆流を起こし、最悪の場合、家屋を一瞬にして焼き尽くす恐るべき大火事を引き起こす、極めて危険な性質を秘めているのです」
それは、半分は真実であり、半分は、自分たちの身を守るために日吉がその場で捏造した、意図的な「嘘」に他ならなかった。
しかしながら、自分たちのような物理的な力を持たぬ子供が、この無法の乱世において自らの価値を維持し、生き残り続けるためには、このような「技術の核心部分の秘匿」という防衛の嘘こそが、何より強力な武器となるのだ。
もしも、竈の技術のすべてを何の条件もなしに彼らに明け渡してしまえば、彼らはたちまちのうちに日吉たちの恩義を忘れ、自分たちを「用済み」として見捨ててしまうであろう。
だからこそ、技術の最も重要で危険な「制御の秘訣」だけは自分たちの手元に固く秘匿し、新しく竈を築く際には、必ず自分たちを現場に呼んで調整を行わせるという、絶妙な「依存の構造」を作り上げる必要があったのだ。
「まずは、最も安全で、誰にでも作ることのできる簡単な形状の基礎だけをお教えいたします。実際に古石を配置して炉を稼働させる際には、必ず、私か、あるいは私の父親を現地に呼んで、最終的な火の調整を行わせてください。そうしていただければ、決して火事の心配なく、安全に温もりを得ることができますから」
村の男たちは、その日吉の合理的な説明を聞いて、一片の疑念を抱くこともなく、何度も必死に頭を下げて納得して見せた。
彼らにとっては、多少の不便があろうとも、これで家族を冬の寒さから救い出すことができるという希望の価値の方が、遥かに大きかったからである。
男たちの、感謝に満ちた平伏の姿を静かに見つめながら、小竹がそっと、他人に聞こえぬ極小の声で日吉の耳元へと囁きかけてきた。
「……実にお見事な、老獪な手際ですね、兄上」
「何のことだ、小竹」
「自らの持つ知恵のすべてを無防備に明け渡すのではなく、安全の担保という名目を巧みに用いて、村全体が常に兄上の存在を必要とし、依存し続けざるを得ない形を、一瞬にして築き上げてしまいましたね」
「ただ優しさや同情の感情だけに流されて、自らの武器を全て無償で差し出すような真似をしていれば、この過酷な世界では、私たちは明日にも喰い殺されて、骨も残らずに終わってしまうのだよ」
日吉は、自らの口から漏れ出たその冷徹な言葉の苦さを噛み締めながら、乾いた苦笑を浮かべるしかなかった。
生き延びるためとはいえ、かつて前世においてあれほど忌避していた、人間の弱みに付け込んで他者を依存させるという「支配のやり口」を、自らが躊躇なく実行していることに対する、静かな嫌悪の念が消え去ることはなかった。
河原を吹き抜ける風の勢いはさらに強まり、雪が横殴りに激しく舞い散りながら、遠くに見える集落の景色を白く霞ませていた。
その、深い雪の積もる帰り道の途中のことであった。
庄内川の古い渡しの近くの、うら寂しい川縁にあって、日吉は、一人の風変わりな大人の男が、ぽつんと佇んでいるのを視界に捉えた。
その男は、凍てつく川縁にただ一人で深くしゃがみ込み、川底から拾い上げたと思われる流木の切れ端を、手にした小刀を用いて、器用な手つきで黙々と削り取っていた。
男の背丈は驚くほどに高く、その肉体は痩せ細ってはいたが、衣服の上からでもはっきりと分かるほどに、骨の噛み合わせが頑強であり、尋常ならざる身体能力を秘めていることが見て取れた。
羽織っている藁の蓑は赤黒い泥によって酷く汚れており、足元の草鞋もボロボロに擦り切れて原型を失っていたが、その佇まいは、そこらの貧しい百姓たちのそれとは明らかに異なる、独特の物物しい雰囲気を帯びていた。
何よりも、その男の放つ、左右に鋭く光る瞳の輝きが、決定的に異様であった。
それは、田畑を耕す農民が有するような素朴な眼差しなどでは決してなく、他者の懐の奥に隠された秘密や価値を、一瞬にして透かし見ようとする、野生の鋭い「獣の眼光」そのものであった。
日吉は、そのような、社会の暗部に生きる人間特有の、底知れぬ危険な眼差しを、前世におけるあの混沌とした交渉の裏の場において、何度も目にしたことがあった。
男は、日吉と小竹の二人が、自らのすぐ脇を無言で通り過ぎようとしたその刹那、流木を削る小刀の動きをぴたりと止め、不意に、地を這うような低い声を発した。
「……おい、お前さんたちか」
それは、長年にわたって冷たい夜風に晒され続けてきたかのような、不自然に掠れた、重厚な声であった。
「この凍えそうな河原において、煙を食わねぇ不気味な火床をこねくり回しているという、噂の弥右衛門のところの餓鬼どもというのは」
日吉の足が、その呼びかけを聞いて、警戒のためにぴたりと停止した。
小竹は、兄を守るようにして、反射的に半歩前へと進み出て、鋭い瞳で男の様子を凝視した。
男は、その幼い子供たちの過剰な警戒の様子を見て、自らの喉の奥で、クククと低く楽しげな笑い声を漏らした。
「そう、刃を向けられたかのように怖がるな、餓鬼ども。俺は、お前たちを捕らえに来たお役人様でもなければ、あの強欲な庄屋の手先でもないからな」
「……ならば、このようなうら寂しい川辺で、一体俺たちに何の用があるというのだ」
「用事など、どこを探してもねぇさ」
男は、再び手元の木片を小刀で器用に削りながら、淡々と答えた。
「ただ、最近になって、この川沿いのあちこちの噂話のなかに、煙を出さずに薪を半分にする、奇妙な知恵を持つ餓鬼が生まれたという、実に面白い風の噂が紛れ込んでいたのでな。気になって、少しばかりその顔を拝みに立ち寄っただけにすぎんよ」
日吉は黙ったまま、目の前に佇むこの大男が放つ、正体の知れぬ不穏な「空気」の性質を、慎重に推し量ろうとしていた。
この男からは、明確な敵意や、強奪の意図といった生々しい悪意は感じられなかった。
しかしながら、だからといって、無防備に近づいて安易に信用して良いような、生温かい相手でないことだけは、彼の生存本能が激しく警告を発していた。
すると、男はふっと自らの鼻の奥で小さく息を鳴らし、立ち上がった。
「火というものは、人間にとって極めて便利な道具だ。しかしながら、その知恵が便利になればなるほど、その温もりに引き寄せられて、周囲から無数の人間が勝手に寄ってくるようになる」
「……」
「美味い蜜の周りには、黄金も寄るし、他人の富を奪おうとする底知れぬ『欲』も寄る。そして何より、自分たちの命を脅かす、厄介極まりない死の騒動もな」
その、乱世の本質をあまりにも正確に射抜いた男の口ぶりに、日吉は少しだけ両目を細め、警戒の度合いを一段と高めた。
この男は、一見すればただの浮浪の徒にすぎないように見えたが、その言葉の端々には、社会の裏の掟や、生き残ることの厳しさを知り抜いた者だけが有する、生々しい「現実感」が伴っていた。
「おじさん、一体何者だ。ただの百姓ではないだろう」
「ただの川沿いをうろついて、泥にまみれて飯を食っているだけの、名もなき野良犬よ」
男は、ゆっくりとその巨体を直立させた。
近くで見ると、その背丈は尋常ではないほどに高く、その四肢の筋肉は、過酷な放浪の日々によって極限まで無駄を削ぎ落とされ、強固に引き締められていた。
農具を握る百姓のそれとも異なり、かといって、大名に仕える威厳に満ちた武士の気配とも決定的に違う。
法や秩序の通じぬ、社会の境界線のすぐ外側の闇に身を置きながら、自らの腕力と知恵だけを頼りにして生き抜いてきた、川並衆や野武士の類が放つ、独特の獣の匂いがプンプンと漂っていた。
「おじさんの名は、何と申すのだ」
「……小六、という」
男は、自らの小刀を懐へと静かに収めると、短くその名だけを告げた。
「まあ、この尾張のどこにでも転がっている、ただの川っ縁の男よ」
小竹が、その男の名を聞いて、自らの口元で小さく、確かめるようにしてその響きを反芻した。
「小六、ですか……」
小六と名乗ったその男は、自らの口元ににやりと不敵な笑みを浮かべ、去り際に、子供たちに向けて静かな警告を投げかけた。
「お前さんたち、この先、あまり調子に乗って火を振り回さねぇことだな。あの強欲な庄屋の男であれば、まだいい。奴は、自らの利益の計算という『理』によって動くから、話が通じる余地が残されている」
「……他は、違うというのか」
「ああ、そうだ。真に腹を空かせ、明日の命すら定かではない極限の奴らというのはな、そのような高度な理屈や損得の計算などでは、決して動きはしねぇのだよ。ただ自らの飢えを満たすためだけに、目の前にある万物を、力ずくで喰い殺しに来る。火に集まる羽虫どもの本性を、決して見くびるんじゃねぇぞ」
そう言い残すと、小六は泥のついた蓑の裾を翻し、降る雪の白煙の中へと、大股の足取りで音もなく歩み去っていった。
日吉は、その男の背中が、雪の向こう側へと静かに溶け込んで消え去っていく様子を、言いようのない妙な胸騒ぎとともに、いつまでも見つめ続けていた。
あの男は、間違いなく危険極まりない、社会の闇に生きる本物の獣であった。
しかしながら、それと同時に、自分たちに対して向けられたあの警告には、戦国の世の裏の真理を突いた、確かな親切の響きが含まれているようにも感じられた。
「兄上」
小竹が、不意に日吉の袖を軽く引っ張りながら、ぽつりと静かな声を漏らした。
「実におもしろく、そして厄介極まりない男に遭遇してしまいましたね」
「ああ。どう見ても、ただの百姓や大人しく従うような性質の男ではないな」
「ええ。ああいう、社会の境界線の外側に身を置く者というのは、ひとたび敵に回してしまえば、どこまでも執拗に影を追いかけてくる、最も厄介な敵となりますよ」
「味方にするにしても、こちらの知恵をすべて見透かされそうで、ひどく面倒な相手だけどな」
日吉が苦笑を漏らしながらそう答えると、小竹も珍しく、自らの口元に小さな、子供らしい笑みを浮かべてみせた。
まさに、その緊張が解けた一瞬の出来事であった。
ぐううううっ、と。
小竹の小さな、泥に汚れたお腹の底から、隠しきれぬほどの大きな虫の鳴くような音が、静まり返った河原に大きく響き渡った。
弟は、自らの体内の不意の反逆を前にして、一瞬にして自らの顔を、耳の裏にいたるまで真っ赤に染め上げた。
「……いま、今のは、私の本意ではありません」
「何が本意ではないのだ、お前、ただお腹が減っているだけじゃないか」
「違います! これは、ただ周囲の川風があまりにも冷たかったため、私の胃の腑が寒さの刺激によって、一時的に奇妙な音を鳴らしただけにすぎず、決して飢えに苦しんでいるわけでは……」
「そんな言い訳が、この俺に通じると思っているのか。お腹が減ったなら、素直にそう言えば良いものを、本当にお前は、どこまでも強情で不器用な弟だな」
日吉は、その弟の必死の取り繕いの姿に、とうとう堪えきれなくなって、大声を上げて快活に吹き出してしまった。
小竹も、自らの言い訳が完全に通用しないことを悟ったのか、悔しそうに顔を赤くしながらも、やがて諦めたように、自らの口元に小さな、本当に温かい笑顔をそっと浮かべてみせた。
白い雪は、未だに空から絶え間なく降り注ぎ、周囲の過酷な世界を、静かに白一色に染め上げていく。
寒さはどこまでも厳しく、自分たちの行く手には、未だ何の確かな保障も残されてはいない。
庄屋との間で築き上げたあの危うい利害の均衡も、村の小作農たちとの間に築いた奇妙な依存の関係も、ほんの僅かな風の向き一つによって、一瞬にして音を立てて崩壊しかねない、極限の薄氷の上の綱渡りに他ならなかった。
しかしながら。
今この瞬間だけは、自らの大切な弟が、恐怖を忘れて、確かに優しく笑ってくれている。
ただその一つの小さな事実だけで、日吉の胸の奥底には、これまで感じたことのないような、深い救いと、凄まじい「生への決意」の火が、赤々と灯り続けるのを感じていた。
かつて暮らしていたあの前世の社会においては、ただ日々流れる時間に追われ、上役の評価や売上の数字に追われるばかりで、自分が「生きている」ということの意味を深く省みる暇など、ただの一瞬として存在しなかった。
しかしながら、このすべてが荒廃した乱世にあっては、異なる。
肌を刺す寒さ。
闇を照らす火。
空腹を満たすための、たった一杯の温かい食事。
そして、自らの傍らで支えてくれる、大切な家族の存在。
生きるという行為の、その一つ一つの事象が、剥き出しの圧倒的な質量と重みを持って、日吉の心臓を直接叩き、迫り来ていた。
どこまでも残酷で、どこまでも理不尽極まりない、終わりのない地獄のような戦国の世。
しかしながら、だからといって、この世界は、人間から生きることへの尊い「意味」や「温もり」までを、完全に剥ぎ取り、消し去ってしまったわけでは決してなかったのだ。
日吉は、降り積もる白い雪の向こう側、霞みゆく尾張の広大な平野をじっと見つめ直しながら、自らの服の中で、小さな、だが強固な拳を、改めて力強く握り締め直した。
二度と、奪い去らせはしない。
この手の中に辛うじて掴み取った、ささやかな家族の温もりを。
自らを信じて縋り付いてくれる、大切な人々の命を。
そして、この泥の底の中でようやく灯した、自分たちだけの神聖な「生存の火」のすべてを。
そのためであるならば。
前世の知識を悪魔の知恵としてすべて使い尽くし、他者を陥れる冷酷な嘘をも平然と吐き散らし、どれほど汚い泥水の中であっても、平然と這いずり回って見せる。
ただ優しいだけの、ただ正しいだけの綺麗事のままでは、この血生臭い世界においては、自らの大切なもの一つすら、何一つ守り抜くことなど叶わないのだから。
冷たい雪を赤く染め上げながら燃え続ける、古石のあの熱い炎は、彼らの不退転の覚悟の光を浴びて、ますます激しく燃え上がり、この乱世の闇を、静かに、だが確実に、根底から照らし出し始めるのであった。




