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豊臣兄弟、最底辺から始める天下奪取 ――現代営業の知略で、戦国の理不尽を喰い破る――  作者: チャプタさん


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第十二話:猿の狡知

第十二話:猿の狡知


 朝靄の深く立ち込める冬の庄内川は、まるで極限の寒さの中で息を絶やしかけている巨大な野獣の肌のように、鈍く、澱んだ灰色を湛えて静まり返っていた。

 空を一面に覆う分厚い灰雲は、水面を押し潰さんばかりの威圧感をもって低く重苦しく垂れ込め、夜半に降り積もった真っ白な雪は、河原の泥土と混ざり合うことで、一帯を泥濘む不快なぬかるみへと変貌させていた。

 一歩を踏み締めるたびに、凍りついていた土がぐずぐずと嫌な音を立てて崩れ、足元から容赦なく体温を奪い去っていく。

 骨まで沁み渡るような、容赦のない戦国の厳寒であった。

 しかしながら、その過酷な泥にまみれた河原の一角だけは、周囲の冷気を力強く押し返すかのような、奇妙な熱気と生命の気配を帯びていた。


 そこには、昨日のうちに日吉が父親と小竹の手を借りて築き上げた、泥と強固な古石の噛み合わせによる小さな竈が、どっしりとした佇まいを見せて稼働していた。

 炉口から吸い込まれた冷たい空気が、内部の気流の対流設計に従って激しく渦を巻き、わずかな細枝程度の薪を、まるで赤々と唸る獣の舌のように激しく、かつ均一に燃え上がらせていた。

 その火は、通常の囲炉裏のように周囲に火の粉を撒き散らす不完全燃焼を起こすこともなく、無駄に薪を食い潰すこともない。

 ただ、据えられた土鍋の底だけを的確に狙って舌を伸ばす、賢い蛇のように、熱源が一点へと鋭く、美しく集中していた。

 鍋の隙間からは、真っ白な粥が煮え立つ、甘酸っぱく芳醇な香りが、朝の冷たい大気の中へとゆっくりと漂い広がっていく。

 ただそれだけの、普段であれば何でもないはずの素朴な食物の匂いだけで、竈の周囲を取り囲んでいた村の百姓たちの喉が、渇望のためにごくりと音を立てて激しく鳴り響いた。

 彼ら村人たちの誰もが、連日の飢えのために、頬は落ち、目は窪み、その肩は驚くほどに細く、この厳しい冬を無事に越せるかどうかの、瀬戸際の淵に立たされている過酷な顔つきをしていた。

 その彼らの、すがるような、そして飢えた獣のような視線のすべてが、今、赤々と燃え上がる竈の火、そして、その竈を作り出した張本人である、わずか八歳に満たない子供の日吉へと一斉に向けられていた。


 日吉は、鍋の煮え立つ様子を横目で見つめながら、一切の余計な表情を作ることなく、黙って火口へと細い薪を一本、静かに差し込んだ。

 これまでの非効率な囲炉裏であれば、到底使い物にならなかったであろう、そこらの道端に転がっている極細の枯れ枝一本で、十分であった。

 それだけで、炉内の火勢はたちまちのうちに赤々と戻り、鍋の粥を力強く沸騰させ始める。

 周囲にいた百姓たちの間から、驚愕と感嘆の入り混じった、小さな、だが確かな地鳴りのようなざわめきが広がっていった。


「……本当に、この竈という泥の塊は、驚くほどに薪を食わぬのだな」


 ざらついた、低く重みのある声が、静まり返った河原に響き渡った。

 庄屋の男であった。

 男は、自らの分厚い綿入れの衣服を汚れから守るように、雪混じりの泥を慎重に踏み締めながら、ゆっくりとした足取りで竈の前へと近づいてきた。

 その背後には、昨日と同様に、腰に鋭い刃物を帯びた屈強な若衆たちが、油断なく周囲を取り囲むようにして付き従っている。

 さらに、その男たちの後ろの物陰からは、これまで村で薪の伐り出しや炭の管理を独占し、それを他者に高く売りつけることで生計を立てていた、強欲な男たちが、露骨に顔をしかめながら、敵意に満ちた視線を投げかけていた。

 当然のことであった。

 日吉の竈が村中に広まり、各家での薪の消費量が劇的に減ってしまえば、それだけ彼らが独占していた薪や炭の価値は暴落し、彼らの手に入るはずであった取り分は、一瞬にして奪い去られてしまうからだ。

 どれほど多くの人々を寒さから救い出す、素晴らしい合理的な知恵であったとしても、それが新しく出現した瞬間には、必ず、これまでの古い不便な仕組みに依存して甘い汁を吸っていた人間たちの、利権や喉元を力ずくで締め上げることになる。

 日吉は前世における、あの生き馬の目を抜くような社会競争の現場において、そのような「技術の進化がもたらす、古い世代の排除と憎悪の衝突」の構図を、嫌というほどに目にしてきた。

 効率化、合理化、省力化。

 それらは、表向きには社会をより良くするための美しく、高尚な言葉として語られる。

 しかしながら、その綺麗事の裏側では、必ず、その変化についていくことのできない古い仕組みの人間たちが、無惨に押し潰され、居場所を失っていくのだ。

 この戦乱の乱世においても、本質的には全く同一の、残酷な人間の利害関係の不条理が支配していた。

 時代がどれほど変わり、暮らす環境が異なろうとも、人間の精神が有する本性というものは、何一つとして変わることはないのだ。


 庄屋は、完成した竈の前に低くしゃがみ込み、自らの毛皮に包まれた両手を、炉の上部へと慎重にかざした。

 放出される圧倒的な熱を自らの皮膚感覚で確かめながら、その恰幅の良い顔を、僅かに驚きのために強張らせる。


「これほどまでに火力が強く、瞬時にお湯が沸き立つのに、立ち上る嫌な煤煙の量は、通常の囲炉裏に比べて驚くほどに少ないではないか」


「はい、炉の内部に取り込む空気の量を、泥の隙間によって緻密に絞り込んでおりますので」


 日吉は、相手に対して過剰な畏怖を晒すことなく、静かに、かつ対等な響きを伴った声で答えた。


「火の熱が、無駄に四方八方へと逃げ散ってしまわぬよう、竈の内側へと力強く押し込めて対流させているのです」


「ほう、なるほどな……」


 庄屋の男の瞳が、深く、鋭く細められた。

 それは、目の前にある竈という道具の価値だけでなく、これを作り出した「日吉」という名の子供自身の存在の危うさを、自らの支配者としての頭脳で、冷徹に値踏みしている眼差しに他ならなかった。

 この驚異的な知恵が、今後、村全体の年貢の納入や、自らの支配権に対して、どれほどの絶大な影響をもたらすか。

 そして、もしもこの突出した知恵を持つ異分子を放っておけば、いずれ自分の頭上を飛び越えて、村の秩序そのものを根本から乱す、恐るべき脅威となるのではないか。

 日吉は、胸の奥底で静かにため息を漏らした。

 やはり、自分が恐れていた通りの、最悪の政治的な駆け引きの場へと、事態は着実に引きずり込まれつつあった。

 自分は、ただこの過酷な冬の厳寒から、大切な家族を寒さで死なせたくないという、極めて素朴で、ささやかな生存の要求から、竈を工夫しただけにすぎない。

 それだけの、極めて凡庸な出来事であったはずなのに。

 しかしながら、人間という生き物は、自らの支配を脅かしかねない、あまりにも突出した「有益な技術」が出現したとき、それをただ無防備に野放しにしておくような慈悲深い真似は、決してしないのだ。

 特に、他者を暴力と権力によって従えることで、これまでの地位を守ってきた支配者層にしてみれば、なおさらのことであった。


「日吉」


 庄屋の男が、沈黙の果てに、ゆっくりと自らの重い口を開いた。


「お前が作り出したその風変わりな泥竈の知恵は、この中村全体にとっても、極めて大きな役に立つものであることは認めよう」


「庄屋様におかれましては、そのように過分なるお言葉をいただき、恐悦至極に存じます」


「故に、わしもこの村を支配する者として、お前たち親子の存在を、決して無下には扱わぬ。もしも何か、これまでの貧しい暮らしに対する望みや、我が家に対する要求があるならば、今のうちに申してみるが良い」


 その言葉が発せられた瞬間、周囲を取り囲んでいた百姓たちの間に、一瞬にして、張り詰めた緊張のざわめきが走った。

 彼らは、庄屋の側が、これほどまでに身分の低い農民の子供に対して、対等の「取引」を持ちかけているその異常な状況に、深く息を呑んでいたのだ。

 父親の弥右衛門は、日吉の少し後ろの物陰において、一言の言葉も発することなく、まるで不動の岩のように静かに佇んでいた。

 しかしながら、その太く荒れた右手は、自らの衣服の帯の間に差し込まれた、手作りの鋭い鉈の柄を、白くなるほどの力強さで、一寸の弛みもなく握りしめ続けていた。

 全身の筋肉を限界まで緊張させ、もしもこの交渉の場が最悪の決裂を迎え、相手が力ずくで日吉に襲いかかってきたならば、自らの命を賭してでも、その場で血の嵐を巻き起こして家族を救い出すという、不退転の覚悟の表れであった。

 小竹は、さらにその後方の、雪の積もった泥の上に静かにしゃがみ込みながら、庄屋に従う若衆たちの立ち位置の推移を、冷徹な瞳でじっと観察し続けていた。

 誰が、どのタイミングで、どの武器に手を伸ばそうとしているのか。

 もしも乱闘が始まった際、どの経路を伝って逃げ延びるのが最も生存確率が高いのか。

 あの幼い弟は、この緊迫した状況の中にあっても、自らの恐怖に支配されることなく、そのような戦術的な冷徹さをもって、周囲を監視し続けていたのだ。

 まだ生を受けて数年しか経っていない、幼児の年齢であるはずなのに。


 日吉は、自らの胸の中でゆっくりと、冷たい空気を深く吸い込み、自らの思考を限界まで研ぎ澄ませた。

 ここで、相手の好意に甘えて、当面を生き延びるための「米」や「銭」を安易に要求してしまえば、自分たちの勝利はそこで終わりを告げる。

 一時的な空腹を凌ぐことは叶うかもしれないが、それでは、庄屋に対して自らの価値をすべて明け渡してしまい、二度と対等の立場での折衝を行う権利を失うことになる。

 自分たちがこの無法の乱世において、今後も長く、確実に生き残り続けるために、今ここで庄屋から勝ち取らねばならぬものは、そのような一時的な物資などでは決してなかった。


「……庄屋様、私のような若輩者の餓鬼の身でありながら、畏れ多くも、我が家族の生存のために、三つの願いを聞き届けていただきとう存じます」


「良いだろう、遠慮なく申してみよ」


「まず、一つ目にございます」


 日吉は、自らの下げていた頭をゆっくりと上げ、庄屋の男の目を真っ直ぐに見据えた。


「この新しく完成した古石の竈の作り方を、私から、村の他の貧しい小作農の皆々様に対しても、広く、等しく教え伝える許しを、庄屋様の手から直々に頂きとう存じます」


 その想定外の要求が日吉の口から発せられた瞬間、周囲を取り囲んでいた百姓たちの間に、それまで以上に激しい動揺のどよめきが沸き起こった。

 庄屋の男も、僅かに驚きのためにその太い眉を動かし、不審そうに目を細めた。


「どういうことだ、日吉。お前は、これほどまでに絶大な利益を生み出す価値ある知恵を、自らの一族だけで独占し、富を独り占めにしようとは考えぬというのか」


「知恵というものは、弱者が一族だけで独占しようと企てれば、それはたちまちのうちに周囲の者たちの激しい嫉妬を呼び寄せ、最後には暴力によって根こそぎ強奪される原因となる、危険な火種にすぎません」


 日吉は、自らの声を一寸も震わせることなく、整然とした論理の言葉を淀みなく紡ぎ続けた。


「一人だけが突出して得をすれば、周囲の全員が敵へと変わります。しかしながら、この竈を村の全員に教え、皆が日々の薪の消費を半分に減らして少しずつ暮らしを楽にできるようになれば、今度は誰も、この素晴らしい仕組みを力ずくで壊したがる者はいなくなります。村の全員が、自らの生活の利益を守るために、自発的に、この知恵を生み出した我が家の存在を、全力で保護するようになるのです」


 それは、彼が前世のあの生き馬の目を抜くような社会競争の中で、何年にもわたって磨き上げ、実践してきた、組織における絶対的な不敗の生存戦略であった。

 利益の独占は、他者の嫉妬と敵対を呼び寄せる。

 しかしながら、利益の適切な分配は、他者の強固な「依存」と協力を生み出すのだ。

 人間という生き物は、一時的な善意や道徳の呼びかけなどでは決して動きはしない。

 ただ、自らの前にぶら下げられた「利害の天秤」の損得によってのみ、自発的に動き始める生き物なのだ。

 庄屋の男は、その日吉の整然とした論理の前に、一言の反論も挟むことができず、ただ黙ってその言葉の深さを噛み締め、驚愕の眼差しで見つめ返していた。

 男の瞳の奥からは、かつて目の前にいる存在を、ただの貧しい小作農のガキとして侮っていた傲慢さが、完全に霧散し、消え去っていた。


「……実に、おもしろい知恵だな。続けよ」


「ははっ、二つ目のお願いにございます」


 日吉は、踵を返し、すぐ脇を流れる庄内川の、凍てついた泥の河原へと自らの細い指先を向けた。


「川辺の周囲に、誰からも省みられずに捨てられております、大量の川貝の殻を、我が家の者たちが自由に拾い集める許しを、頂きとう存じます」


「貝殻だと……? あのような、中身の抜けた、ただのゴミ同然の石コロを集めて、一体何に使うというのだ」


「あれらの貝殻を集めて、竈の火でじっくりと焼き、細かく砕いて灰に混ぜるのです」


「灰に混ぜる? それに、どのような意味がある」


「焼き締めた貝殻の灰を粘土に混ぜることで、泥竈の壁面を、通常の泥だけでは到底得られないほどに、石のように強固に焼き締めることができるようになります。それによって、泥竈の強度は飛躍的に高まり、熱の内圧によって壁面が簡単に割れて崩れ落ちる心配が、完全になくなるのです」


 日吉は、相手が理解しやすいように、中世の言葉に言い換えながら、自らの前世の知識(焼成カルシウムによる粘土の石灰化、あるいは漆喰の初期技術)を、さも当然の生活の工夫であるかのように説明してみせた。

 この時代において、漆喰や石灰を用いた建築の補強は、一部の寺社仏閣や、極めて高度な城壁の構築においてのみ用いられる、一般の百姓たちにとっては神秘の領域の知恵であった。

 庄屋の男は、腕を組みながら、その日吉の説明を頭の中で必死に咀嚼しようと試みたが、やはり、その合理的な仕組みの全貌を、完全に理解することはできないようであった。

 男はしばらくの沈黙の果てに、低く、警告を含んだ声で呟いた。


「……川辺に転がっているゴミ同然の貝殻を拾い集める程度のこと、確かに村の者たちにとっては取るに足らないことではある。しかしながら、川の渡しを拠点にしている、あの『川辺の徒』の連中が黙っているかどうかは、わしの立場であっても、何ら保障はできんぞ」


「川辺の、徒……ですか」


「ああ、そうだ。あの庄内川の渡し場を勝手に縄張りにして生きておる、百姓でもなければ、領主に仕える高貴な武士でもない、法の外に身を置く、あの凶暴な『川並衆』と呼ばれる荒くれ者たちのことだ。奴らが、お前たちの川辺での動きをどのように受け止めるか、それだけは十分な警戒をしておくことだな」


 その庄屋の言葉を聞いた瞬間、百姓たちの誰もが一様に怯えたように視線をそらし、若衆たちまでもが、不吉なものを避けるかのように沈黙した。

 日吉の脳裏には、昨日、あの庄内川の渡し場の近くで遭遇した、あの痩せ細っていながらも、隙のない肉体を誇り、鋭い野生の獣の眼光を放っていた、あの「小六」と名乗った大男の、物物しい佇まいが、鮮明に蘇っていた。

 あの男は、決して安易な取引が通用するような、生温かい相手ではない。

 小六が去り際に投げかけてきた、あの不気味な警告の言葉の意味が、今になって日吉の胸に、重苦しい現実感となって再び突き刺さる。


「承知しております。その危険についても、十分に自らの手で対策を講じる所存にございます」


「ほう、ならば良い。で、最期の三つ目のお願いとは、一体何なのだ」


「村の役役で、使い古されて捨てられる予定の、古い古布や、端切れの革を、僅かばかり我が家に向けて分けて頂きとう存じます」


「古布と、端革だと? あのようなボロ屑を集めて、一体どのように用いるのだ」


「この厳しい冬の河原で、貝殻を拾い集める子供たちの足元を保護するための、足当てを作りたいのです。極寒の河原には、氷のように鋭い川石や、割れた陶器の破片が多数転がっており、もしも子供たちが足元に深い傷を負ってしまえば、そこから病を侵されて熱を出し、命を落とす危険が極めて高くなりますからね。子供たちの足元を保護し、無駄な病死を防ぐために、どうかそれらのボロ屑を、我が家に向けて恵んで頂きとう存じます」


 それは、半分は真実であり、半分は、自らの真の目的をカモフラージュするために日吉が巡らせた、高度な「狡知」の策略に他ならなかった。

 子供たちを集めて、まるで遊びの延長であるかのように楽しげに河原で貝殻を拾い集めさせる。

 そうすれば、周囲の炭焼きの連中や、川並衆の男たちに対しても、何らの警戒心を抱かせることなく、自分たちの真の「漆喰開発」の知恵の試行を、日常のありふれた光景の中に完全に溶け込ませて、隠蔽することが可能になるのだ。

 優れた知恵や、新しい新技術を他者から守るためには、それを強固な蔵の中に隠し立てするのではなく、周囲の日常の風景の中に、カメレオンのように完全に同化させて見えなくしてしまうのが、最も優れたカモフラージュである。

 庄屋の男は、長い間、沈黙を保ちながら、目の前に立つこの幼い日吉の姿を、まるで底知れぬ怪異でも見るかのような、深い畏怖の念を込めて見つめ続けていた。

 そこには、もはや、身分の低い百姓のガキを、一方的に従えて排除しようとするような、昨日の傲慢な支配者の表情は、どこを探しても見当たらなかった。


「……実におそろしい、狡賢い小僧だな、お前は」


 庄屋は、自らの内に生じた、得体の知れぬ敗北感を吹き飛ばすかのように、低く笑い声を漏らした。


「目の前の一時の飯を縋るのではなく、村全体を巻き込んで、自らが生き残るための巨大な『流れ』そのものを、その小さな手で掴み取ろうとしている」


 日吉は、その指摘に対しても、余計な弁明をすることはなく、ただ静かに佇んでいた。

 この乱世において、口を滑らせ、余計な手の内を他者に晒してしまった者から順番に、容赦なく敵の罠に嵌まり、呆気なく生き埋めにされて終わる。

 沈黙を守り、相手に勝手な深読みをさせ、こちらを必要以上に不気味な存在として恐れさせておくことこそが、最も確実な安全保障の盾となるのだ。


「よかろう。お前が提示したその三つの願い、このわしの立場において、すべて確実に聞き届けてやるように手配してやろう」


 庄屋がその決定を厳かに宣告した瞬間、周囲の百姓たちの間に、それまで以上の驚きと安堵のどよめきが沸き起こった。

 薪や炭を管理していた一部の男たちは、自らの不利益を察知して、露骨に悔しそうに顔を歪めていたが、絶対的な権力者である庄屋が公式に認めてしまった以上、これ以上の異議を唱えることは、彼らにも不可能であった。


「ただし、忘れるなよ、日吉」


 庄屋は去り際に、その鋭い瞳の光を、日吉の胸元へと突き刺すようにして向けた。


「知恵というものは、あまりにも便利であればあるほど、その熱に吸い寄せられて、周囲から無数の不審な人間を勝手に呼び寄せる、凶悪な火種となるのだからな。自らが灯したその火の熱によって、自らの身を焼き尽くすことのないよう、十分に自制することだ」


「ははっ、庄屋様のお言葉、終生忘れることなく、自らの肝に深く銘じ続ける所存にございます」


 日吉は、再び深く頭を下げて、庄屋の一行を見送った。

 彼らが、雪混じりの泥を踏みしめながら立ち去っていく足音が、次第に遠ざかり、やがて完全に、不毛な庄内川の水音と同化して消え去っていった。

 完全に周囲の気配が消失したことを確認したその瞬間、日吉は、自らの胸の中に溜まっていた、重苦しい緊張の空気を、一気に外へと吐き出した。


「ようやく、最悪の決裂だけは、自らの手で回避して終わらせることができたな……」


「いいえ、これで本当にすべてが平和に終わったわけでは、決してありませんよ、兄上」


 背後から近づいてきた小竹が、静かな、冷ややかな声を漏らした。

 しかしながら、その直後、弟は自らの小さな鼻先をピクピクと震わせ、こらえきれなくなったように小さく鼻をすすってみせた。

 やはり、彼もまた、連日の極限の緊張と恐怖の連続に、ただ必死になって耐えていただけなのだ。

 その、いつもの冷徹な仮面の裏に隠されていた、年相応の幼い弟の弱々しい本性の姿が、日吉の目にはたまらなく愛おしく、思わず口元に温かい微笑みを浮かべるしかなかった。


「お前、あれほど偉そうに庄屋たちを脅しておきながら、実際には、寒さのために身体がガタガタと激しく震えていたじゃないか」


「……何度も言うようですが、これはただの、ここの川風があまりにも冷たかったため、私の肉体が一時的に震えただけにすぎません。他意はありませんよ」


「いや、絶対に、怖くて仕方がなかったはずだ」


「半分くらいは……確かに、本当に怖かったかもしれませんね」


 小竹は、自らの本当の感情を完璧に隠し通せなかったのがきまり悪かったのか、顔を真っ赤に染め上げながら、ぷいと顔をそむけてうつむいてしまった。

 その、感情豊かな素直な姿が、ようやく彼に、年齢相応の本来の幼児の愛らしさを取り戻させていた。

 日吉は、泥で汚れた自らの小さな手で、弟の真っ赤に冷え切った頭を、優しく何度も撫でてやった。


 しかしながら、その穏やかな手の温もりとは正反対に、日吉の胸の奥底においては、かつてないほどに激しい「現実への怒り」が、赤々と燃え上がり続けていた。

 こんな小さな、本来であれば守られるべき無力な弟にまで、自らの命を人質に取られるような恐怖を味わせ、生き残るための取引を強いねばならぬ、この世界の理不尽に対する怒り。

 そして、そのあまりにも過酷な地獄の日常に対して、自らの心が、冷酷に、かつ確実に適応し始めていることへの、深い嫌悪感。

 足元の泥の竈の内部では、あの古石に支えられた真紅の炎が、なおも力強く、そして美しく唸り声を上げて燃え続けていた。

 それは、周囲の過酷な寒さを確実に遠ざけ、自らの大切な家族を守り抜くための、奇跡的な温もりをもたらす火であった。

 しかしながら、その美しい火の温もりは、人間の内側に潜む、醜く貪欲な「欲望の火」をも、四方八方から容赦なく呼び寄せる、恐るべき呪いの光に他ならなかったのだ。


 日吉は、燃え盛る竈の炎をじっと凝視しながら、自らの衣服の奥深くで、冷え切った小さな拳を、強固に握り締め直した。

 自分たちはもう二度と、あのただ奪われるのを恐れて怯えて暮らすだけの、無力な弱者の日々へと後戻りすることなど、決してできはしない。

 白く凍りついた河原で、しんしんと降り積もる白い雪を美しく溶かしながら燃え続ける、古石のあの熱い炎は、静かに、だが確実に。

 この不条理な戦乱の世を根底から食い破る、この貧しい家族の運命のすべてを、赤々と、非情に焼き始めようとしているのであった。

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