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豊臣兄弟、最底辺から始める天下奪取 ――現代営業の知略で、戦国の理不尽を喰い破る――  作者: チャプタさん


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第三十六話:消えた

第三十六話:消えた


 懐が、まだ乾かない。

 日吉は熱田の臨時の倉の前に立ち、土間に残った米粒を踏んだ。踏むと、ぐしゃりと潰れて泥に混じる。人足たちの足跡が、何重にも重なって、もう誰のものとも分からない模様になっていた。

 昨日まで、ここには俵が積まれていた。神社の印のついたもの、寺の経文の一字が書かれたもの、味噌の匂いの染みたもの。それらはすでに船で運ばれ、清洲の城へ消えた。残っているのは、こぼれた米粒と、踏み荒らされた泥だけだ。

 日吉は懐に手を入れた。役所から下りてきた新しい書付の角が、指の腹に触れる。その下には、おとよに渡した四貫文の残りを記した帳面の端切れがある。

 喉の奥に、まだ乾いた墨の味が残っている。何日洗っても取れない味だった。


 物置小屋の戸を開けると、おとよが奥に座っていた。

 日吉が入ると、彼女は何も言わずに、泥のついた革袋を土間に叩きつけた。袋の中で、銭がじゃらりと音を立てる。

「おとよ、何だこれは」

「四貫文。源蔵に渡した分の、残りの精算」

 おとよの声は、いつもの苛立ちとは違っていた。日吉はその違いに気づいた。彼女の目が、いつもより落ち着きなく、戸口の方を何度も見ている。

「どうした」

「……あんた、昨日の朝、源蔵の隣の店、見た?」

「見ていない」

「閉まってた。板戸が全部、釘で打たれてた」

 おとよは膝の上で両手を握り合わせていた。

「源蔵の隣だけじゃない。あの、米を高く売り渋ってた問屋。お万の親父に圧かけてた、奥の方の連中。全部。今朝、もう一回見に行ったら、誰もいない。人っ子一人いない」

「夜逃げか」

「分からない。近所の女が言ってたけど……夜中に、清洲の役人が来たって。数十人。提灯も持たずに、静かに歩いてきたって」

「役人が、何のために」

「分からないってば。誰も見てない。誰も聞いてない。ただ、朝になったら誰もいなかった、それだけ」

 おとよは革袋の口を強く縛り直した。

「家財ごと持っていかれたって言う人もいる。店を畳んで逃げたって言う人もいる。どっちが本当かも分からない」

 日吉はおとよの言葉を聞きながら、もう一度聞いた。

「店の中は、どうだった」

 おとよは少し間を置いた。

「……看板が外されてた。帳場も空っぽ。釜だけが残ってたって、隣の魚屋が言ってた。釜は持ち運びが重すぎたんだろうって。それ以外は、何も残ってなかった。まるで最初から誰もいなかったみたいに、そこだけ綺麗に、空になってた」

 日吉は何も言わなかった。

 久兵衛の、あの冷え切った双眸が脳裏に浮かんだ。だがそれが、今おとよの語ったことと繋がっているのかどうか、日吉には分からなかった。


 川筋に出ると、いつもの杭がなかった。

 お万の田んぼの脇、あの小六の若い衆が打ち込んだはずの杭の跡だけが、地面に黒い穴を残している。

 杭の周りにいたはずの川並衆もいない。

 日吉が立ち止まっていると、泥の音を立てて小六が近づいてきた。草鞋の先が、抜いた杭の穴を踏んでいる。

「小六、お前の若い衆が、杭を抜いたのか」

「俺が抜かせた」

「なぜだ。お前、あれだけ面子だの何だの言っていたじゃないか」

 小六は答えなかった。視線は川の流れに向けられたままだった。

 しばらくして、小六がぼそりと言った。

「清洲の犬どもが、夜中に動き回っていたらしいな」

「私は知らない」

「知らない、か」

 小六は日吉の方を見た。その目には、いつもの嘲りがなかった。

「お前、何か上に言ったのか」

「言っていない。何も」

 小六は鼻を鳴らした。それが信じたのか信じなかったのか、日吉には分からなかった。

「源蔵の隣の問屋、川向こうの三軒、全部だ。あそこは俺たちの縄張りの境目にも食い込んでた連中だった。それが、一晩で消えた」

「お前たちが何かしたのか」

「俺たちじゃねえ」

 小六は短く言って、川並衆の方へ顎をしゃくった。

「杭、もう抜いとけ。今は、変に目立つことはするな」

 若い衆たちが、何も言わずに散っていった。

 日吉はその後ろ姿を見ていた。あれだけ威勢のよかった川並衆が、今は何かに怯えるように、誰とも目を合わせずに歩いている。


 数日前まで、ここにあったはずの怒鳴り声がない。

 あの、銭を寄こせと迫っていた声。荷を通すなと脅していた声。それらが、夜のうちに、まとめて拭い去られたかのようだった。

 日吉は川岸に立ち、流れを見ていた。

 水は変わらず、同じ速さで流れていた。


 日吉は源蔵の店の前まで歩いた。

 板戸は閉まっていた。おとよの言った通り、釘が横に一本ずつ打ち込まれている。乾いた木の色をしていて、昨日今日に打ったものではないように見えた。打ち込まれてからまだ一日も経っていないはずなのに、妙に古びた印象があった。

 日吉は板戸の隙間に目を近づけた。

 暗い。しかし、目が慣れると輪郭が見えてきた。

 帳場があった場所に、台だけが残っている。台の上には何もない。算盤も、帳面も、銭箱も、すべてない。床に、薄く埃が積もっている。その埃に、幾つかの足跡が残っていた。急いで歩いたような、引きずるような足跡だった。

 奥に、釜が見えた。

 黒く煤けた大きな釜だった。三日前まで、ここで飯を炊いていたはずの釜が、床の上にただ置かれている。持ち運ぶには重すぎて、置いていくしかなかったのだろう。

 日吉は板戸から目を離した。

 理由が、分からなかった。これが誰の意思で、何のために起きたのか。久兵衛が動いたのか、それとも久兵衛の上の、日吉が名前も知らない誰かが動いたのか。あるいは自分の知らない別の事情があったのか。

 何も分からないまま、釜だけが暗い中に残っていた。


 熱田の往来を歩くと、町の空気が違うことに気づいた。

 いつもなら、荷を担いだ人足が声を張り上げながら行き来している。魚屋が値段を怒鳴り、餅屋が客を呼ぶ。そういう音が、熱田の朝の定常だった。

 今朝は、それが薄かった。

 人はいる。荷も動いている。だが誰もが、少しずつ声を抑えていた。隣の者と何かを囁き合っている者もいたが、日吉が近づくと口を閉じた。目を逸らして、足を速めた。

 荷を運んでいる人足の一人が、すれ違いざまに別の人足に何か言いかけた。しかし相手が首を横に振ると、そのまま黙って歩き続けた。

 誰も、名前を出さなかった。

 日吉は往来の真ん中で立ち止まった。人の流れが、日吉を避けるように動いていく。

 そこへ、おとよが戻ってきた。

 次の銭の精算を終えて帰るところらしく、懐に帳面を挟んでいた。日吉の顔を見ると、いつもなら「まだそんなところでぼんやりしてんの」と言うはずだった。しかし今日は何も言わなかった。

 ただ、日吉の横に並んで、往来を見た。

「おとよ」

「何よ」

「何か、聞こえてきたことはあるか。誰かから」

 おとよは少し黙った。

「……魚屋の女将が、何か言いかけた。でも途中でやめた」

「何と言いかけた」

「分からない。やめたから」

 おとよはそれ以上、何も言わなかった。いつもなら、相手が口をつぐんでもこじ開けるのがおとよだった。それが今日は、ただ黙って往来を見ている。

 日吉は横顔を見た。おとよの目が、少し落ち着きなく動いていた。

 それだけだった。

 二人とも、何も言わずに立っていた。往来の音が、いつもより遠く聞こえた。


 清洲への道を歩いていると、前を行く人足二人が、声を潜めて話しているのが聞こえた。

「熱田の米屋、四軒まとめて潰れたらしいぞ」

「潰れた? 夜中に役人が来たんじゃないのか」

「知らん。ただ、名前を出すなって言われた。誰にも」

 二人は日吉に気づくと、口を閉じた。そのまま足を速めて、先へ行ってしまった。

 日吉は追わなかった。

 名前を出すな、という言葉だけが、泥道に残るように聞こえた。


 清洲城の回廊は、相変わらず誰かが怒鳴り、誰かが走り、誰かが喧嘩をしていた。

 日吉はその混沌の中を歩き、奥の間の前で膝をついた。

「日吉、参りました」

「入れ」

 久兵衛の声が、戸の向こうから聞こえた。

 部屋の中は、いつもと同じだった。薄暗く、墨の匂いがする。久兵衛は文机の前に座り、筆を動かしていた。日吉が入っても、顔を上げなかった。

「熱田の物流、整いました。五十俵、お納めいたしました」

「知っている」

 久兵衛は筆を止めずに言った。

「次の荷の手配も、すでに済んでおります」

「それも知っている」

 日吉は唾を飲んだ。喉が乾いていた。

「久兵衛様。熱田の問屋どもが、姿を消しました。あれは……」

 久兵衛の筆が、止まった。

 日吉は顔を上げた。久兵衛は、まだ帳面を見つめたままだった。日吉の方を見なかった。

 短い沈黙があった。

「五十俵は、欠けなかったか」

 久兵衛の声は、変わらなかった。

「はい。五十俵、揃えました」

「欠けずに届いたか」

「届きました」

 また沈黙があった。

 久兵衛は、ゆっくりと筆を持ち直した。そして帳面に、何かを書き込んだ。日吉には見えなかった。書き込まれた数字が何を意味するのか、何が記録されたのか、分からなかった。

 それだけで、久兵衛の問いは終わった。

 問屋がどこへ消えたのか。一晩で何が起きたのか。久兵衛はそこから先を、一言も語らなかった。聞く気配もなかった。日吉が言いかけた言葉は、久兵衛の静けさの中に、音もなく沈んでいった。

 久兵衛は筆を置き、新しい紙を取った。

「次の荷はどこだ」

 声に、高低がなかった。

「船は何艘動かせる」

 日吉は答えに詰まった。しかし久兵衛の目は、もう次の帳面に向けられていた。そこには、日吉がまだ知らない地名と数字が並んでいた。

「……三艘、確保できます。角蔵の船に加えて、熱田の漕ぎ手をあと一人」

「足りん」

 久兵衛は紙に何かを書き込んだ。

「五艘揃えよ。三日のうちに」

 それだけだった。

 日吉は、もう一度だけ口を開こうとした。問屋がどうなったのか。あれは久兵衛が動いたのか。それとも、もっと別の、日吉の知らない誰かの手だったのか。

 しかし久兵衛は、すでに次の書付を引き出していた。日吉に向けた言葉は、もう何もなかった。

「下がれ」

 日吉は平伏し、後ずさるように部屋を出た。


 城門を出ると、清洲の往来が目の前に広がった。

 米を積んだ荷車が通る。反対側から、空の荷車が戻ってくる。荷車の間を縫うように、人足が荷を担いで走っている。城下の往来は、今日も同じ速さで動いていた。

 日吉は往来の端に立ち、そこに並ぶ商人たちを眺めた。

 干し魚を並べた男がいた。三日前、日吉が銭の話をしに立ち寄ったとき、あの男は品物の前に仁王立ちして、値段を一文も下げなかった。干し魚一本の値を巡って、四半刻も押し問答をした。

 その男が今、別の客の言い値に、あっさりと頷いていた。

 客は驚いたように一度だけ干し魚と男の顔を見比べ、銭を渡して立ち去った。男は受け取った銭を握ったまま、しばらく動かなかった。

 日吉は目を移した。

 向かいの米商の若い衆が、荷の検分に来た役人の前で、背中を丸めるようにして頭を下げていた。以前この若い衆に会ったとき、彼は役人相手でも顎を引かずに話していた。今日は、役人が何か言うたびに首が下がる。役人が帳面に何かを書き込むと、若い衆はその手元を盗み見るように横目でちらりと見た。それだけで、素早く目を逸らした。

 名前を呼ばれた者はいない。

 何かが変わったと誰も言っていない。

 ただ、昨日まで強気だった者たちの態度が、一晩のうちに静かに変わっていた。

 日吉は往来を歩き出した。


 ふと、源蔵の顔が浮かんだ。

 あの男が好きだったわけではない。むしろ何度も邪魔をされた。銭を吊り上げられ、小六を引き込まれ、米の質にまでいちゃもんをつけられた。

 だが昨日まではそこにいた。

 怒鳴り、値を吊り上げ、他人の荷を止める。そんな男でも、生きて店を開けていた。

 日吉は、自分がいつ久兵衛のもとへ初めてあの帳面を持ち込んだか、思い出そうとした。あの帳面に書いた数字と、あの場所の名前と、誰が何をしているかという事実。あれを渡した日から、何かが動き始めたのだろうか。

 分からない。

 自分が告げたわけではない。久兵衛に問屋を潰せと言った覚えもない。ただ、荷が足りないと伝えた。足元を見てくる連中がいると書いた。それだけだ。

 だがあの店には、今朝、釜だけが残っていた。

 人は死ねば、墓が残る。だが消えた人間には、釜だけが残るのかもしれなかった。

 久兵衛は次の帳面を見る。道に泥が残る。それだけだ。

 日吉は足を止めた。

 もし次に消えるのが、問屋ではなく自分だったとしても、おそらく誰も理由を語らないだろう。久兵衛は次の数字を書き込む。また別の者に、次の荷を命じる。名前を出すな、と誰かに言い含める。それだけだ。

 日吉は歩き出した。

 泥が、草履の底に張り付いて剥がれなかった。

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