第三十五話:分散
第三十五話:分散
熱田の神社から立ち上る白い湯気を見つめたまま、日吉の足は止まっていた。
視界の隅で、与助がまだ何かを訴えるように口を動かしているが、その声は耳を通り抜けて泥の中に消えていく。日吉の脳裏では、ただ一つの冷酷な数式が、狂った歯車のように回転し続けていた。
――四十一日。
源蔵の倉の裏にある六口の釜では、二千五百升の米を糒にするのにそれだけの時間がかかる。しかし、久兵衛が与えた猶予はあと二日。明日の暮れには進捗の報告をせねえといけない。遅れれば、あの小者が言っていた「処分された三人」の列に、自分の名前が四番目として書き加えられるだけだ。
「日吉さ……聞いてるべ? お万の親父がよ……」
「与助、黙れ。少し黙っていろ」
日吉は右の手のひらを与助の鼻先に突き出し、視線は境内の大釜から動かさなかった。
一カ所で炊くから四十一日かかる。ならば、分ければどうなる。
前世の記憶が、泥の底から不意に浮かび上がってきた。分散処理。あるいは、アウトソーシング。一つの巨大な工場で作れないものを、町中の小さな町工場に小分けにして発注し、同時に並行して作らせる仕組みだ。
熱田の町には釜がある。神社、寺、味噌屋、酒屋、旅籠。それぞれが個別の目的で、毎日火を焚いている。もし、あの釜をすべて「糒の製造ライン」として同時に動かすことができれば、四十一という絶望的な数字は、一気に数日、あるいは数刻の単位まで縮まるのではないか。
「……できるか?」
呟いた声は、乾燥した喉に張り付いてかすれた。
「何がだべ、日吉さ」
「おとよ、小六、こっちへ来い!」
日吉は振り返り、まだ源蔵の店先で睨み合っていた二人を怒鳴りつけた。
おとよは不機嫌極まりない顔で泥を蹴り、小六は「また何か小癪なことを思いついたか」と言わんばかりに、唇の端を吊り上げて歩み寄ってくる。
「小六、熱田の町にある旅籠や酒屋、寺社に、蜂須賀の若い衆を今すぐ走らせろ」
「ああん? 何のためにだ」
「釜を借りる。今ある生米を、それぞれの店や寺に数升ずつバラバラに持ち込んで、一斉に炊かせるんだ。炊き上がった飯は、それぞれの軒先や境内でそのままゴザに広げて干させる」
日吉の言葉に、おとよが真っ先に目をつり上げた。
「あんた、本当に頭が狂ったの? そんなことして、どこの馬鹿が他人の米をタダで炊いてくれるわけ? ただでさえ銭が足りなくて、角蔵の船賃すら浮いてるっていうのに!」
「タダじゃない。米を炊いて干してくれたら、その炊き賃として、炊いた米の一割をその場でその店に置いていく、と言え」
「一割!?」
おとよの悲鳴のような声が響いた。
「ただでさえ五十俵必要なのに、一割も引いたら、手元に残る米が減るじゃない! そんなの、勘定が絶対に合わなくなるわよ!」
「合わなくていい。今は四十一日かかる加工を二日に縮めることが最優先だ。米が減る分は、後でどうにでもする。久兵衛様に首を飛ばされたら、五十俵もクソもないんだ!」
日吉は懐から帳面を引っ張り出し、白紙のページに熱田の町の主な通りを素早く書き殴った。
「小六、お前の若い衆の腕力と面子は、こういう時に使うんだ。商人や寺の坊主に『清洲の命令だ』と言っても誰も動かない。だが、蜂須賀の身内が『頼む、釜を貸してくれ。色は付ける』と言えば、無用な警戒はされない。断ろうとする奴がいたら、凄むんじゃない、お前たちのやり方で『貸した方が得だ』と思わせろ」
小六は腕を組んだまま、日吉の書いた泥臭い地図をじっと見下ろしていた。その目が、じわじわと細くなっていく。
「……なるほどな。一カ所の倉に集めてやれば、役人の目が光る。だが、町中の炊き出しに混ぜちまえば、誰がどこの米を炊いてるか、外からは分からねえ。それに、一割の取り分がありゃあ、旅籠の親父どもも役人のお墨付きよりよっぽど喜んで火を焚く。おめえ、小賢しい算盤を弾くだけのガキかと思ったが、随分と泥棒の手口に似たことを考え出すじゃねえか」
「褒め言葉はいいから、人を動かせ! 時間がねえんだ!」
日吉が叫ぶと、小六は「カカッ」と短く笑い、背後の若い衆に向かって顎をしゃくった。
「聞いたか、野郎ども。熱田の釜を片っ端から押さえるぞ。日吉の紙切れの通りに動け。ただし、無理に奪うんじゃねえ。来月の塩の件もある、源蔵の顔を潰さねえように、愛想良く『頼み事』をしてこい」
男たちが一斉に散っていく。中世の暴力組織が、その縁故の網の目を熱田の町に広げていく瞬間だった。
「おとよ」
日吉は、まだ納得のいかない顔で帳面を睨んでいるおとよに向き直った。
「あんたは源蔵の裏にいろ。小六の連中が各所から集めてくる『炊き上がった糒』が、本当に使い物になるか、品質をすべてここで見極めるんだ。生煮えのものや、泥がついたものは撥ねろ。その撥ねた分は、小六の若い衆にその場で持ち帰らせて、もう一度やり直させろ。銭の出入りはお前しか見られない」
おとよは、日吉の手にある手垢まみれの帳面をひったくるように奪い取った。
「……一割よ。一割以上、絶対に一粒も余分に渡さないように、私が目を光らせておくわ。あんたが滅茶苦茶にした勘定の泥は、私が全部集めて、後で清洲の役人の前に叩きつけてやるからね」
吐き捨てるように言うと、おとよは源蔵の倉の奥へと早足で戻っていった。
「日吉さ……俺は、俺はどうすればいいべ」
与助が、自分の割り木を握りしめたまま、おろおろと足元を見ていた。
「与助、お前はお万のところから届いた二十七俵の米を、小六の連中に小分けにして渡す役目だ。一箇所に渡すのは三斗まで。どこの旅籠に何斗渡したか、お前は文字が書けないなら、その割り木に傷をつけて絶対に覚えておけ。数が一つでも合わなくなったら、お前が米を盗んだと小六の若い衆に思われるぞ」
「ひぇっ……わ、わかったべ! 絶対に間違えねえ!」
与助は割り木を胸に抱きかかえ、牛車の影へと走っていった。
全員が動いた。
しかし、日吉の肩が軽くなることはなかった。
前世の組織であれば、これで「発注」は完了し、あとは進捗報告を待つだけで済むはずだった。だが、ここは中世の熱田だ。
半刻もしないうちに、第一の揉め事が日吉の元に転がり込んできた。
「日吉! お前のところの与助の野郎、どこの釜にどれだけ米を分けたか分からなくなって、泣きながら地べたを這い回ってるぞ!」
小六の配下の男が、怒鳴り込んできた。
「何だと?」
「割り木の傷が多すぎて、どれが旅籠の分で、どれが寺の分か、自分でも分からなくなったんだとよ! あいつがもたついてるせいで、米の配給が止まって、旅籠の竈の火が虚しく消えかけてる!」
日吉は胃の腑を雑巾で絞られるような痛みに耐えながら、往来を走った。
与助のいる牛車の前に行くと、彼は泥の中に座り込み、十数本の割り木を前にして「わかんねえ、わかんねえだわ」と涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしていた。
「与助! 木に傷をつけるなと言っただろう!」
「だってよ、日吉さ! 旅籠の親父が『もっと寄こせ』って言うから、ついいっぱい傷をつけちまって……」
日吉は与助から割り木を取り上げ、それを地面に投げ捨てた。
「もういい、割り木は使うな! これからは、米の入った袋の縄の結び目で数えろ! 旅籠に渡す袋は一重結び、寺に渡す袋は二重結びだ! それならお前でも分かるだろう!」
「む、結び目……? それなら分かる、分かるべ!」
与助は慌てて起き上がり、泥のついた手で米袋の縄を縛り直し始めた。
それを解決したかと思えば、今度は熱田の北側にある寺から、おとよの使いが走ってきた。
「日吉様! おとよさんが『今すぐ来い』と! 西の旅籠から上がってきた飯が、どれもこれも水を吸いすぎてベタベタで、これじゃ干しても糒にならずに腐るって、問屋の前で大喧嘩になっています!」
日吉は息を荒くしながら、再び源蔵の問屋へ引き返した。
問屋の裏手では、おとよが旅籠の飯炊き女の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで怒鳴り合っていた。足元のゴザには、確かに水分を多く含みすぎて、団子のように固まった米飯が転がっている。
「これのどこが糒用の飯よ! ただの安粥じゃない! こんなものに一割の米なんて払えるわけないでしょう!」
「何言いつけやがる! こっちはいつも通りに炊いたんだよ! 文句があるなら他の奴に頼みな!」
「やめろ、二人とも!」
日吉は二人の間に割って入った。
前世の知識が頭をかすめる。糒にするための飯は、少し硬めに炊かなければ、干したときに粒が離れない。そんな基本の「仕様」すら、熱田の旅籠の女たちに伝わっていなかったのだ。役割を振るということは、その役割のやり方まで細かく規定しなければ、中世の現場では必ず各自の「いつも通り」という手抜きに変形してしまう。
「女将さん、怒るのは無理ねえ。俺の伝え方が悪かったんだ」
日吉は膝をつき、飯炊き女の手を握った。その手は、長年の熱い湯気で赤くひび割れていた。
「糒の飯は、いつも客に出す飯より、水を指二本分少なくして炊いてくれ。焦げ付いても構わない、そのお焦げの分も、来月の塩の運搬の時に蜂須賀が色を付けるから」
「……指二本分ね? それならそうと、最初に言いなよ」
女はフンと鼻を鳴らし、固まった飯の入った桶を抱えて戻っていった。
「日吉、あんたさっきから『来月の塩』って、小六の嘘に便乗して何勝手なこと約束してんのよ!」
おとよが日吉の背中を拳で小突いた。
「いいから、今は帳面にその『指二本分』と『お焦げの猶予』を書き留めておけ! 次の奴らにも同じようにやらせるんだ!」
日吉は懐から筆を取り出し、自身の手も泥と墨で黒く染めながら、帳面の余白に新たな「現場の規則」を書き加えていった。
〈与助、縄の結び目で数を計るべし〉
〈旅籠の飯は水指二本分減らすべし〉
〈小六の若い衆には、炊き上がりの回収時に必ずおとよの改めを受けさせるべし〉
仕事を分ければ分けるほど、その繋ぎ目で火花が散る。
前世の洗練された組織というものは、これらの無数の「繋ぎ目のルール」が、何百年もの歴史を経て最初からインフラとして整っていたからこそ、機能していたのだ。この尾張の泥の上には、そんなものは何一つない。
日吉は、自分が作っているのは「組織」ではなく、ただの「燃え盛る火種の束」であることを、痛いほどの重労働の中で実感していた。誰一人の善意も信用できない。あるのは、一割の米という目先の欲と、小六の面子と、久兵衛への恐怖だけだ。その歪な感情のパズルを、日吉は自分の体を使って一つずつ無理やり噛み合わせ、熱田の町という巨大な「分散工場」をなんとか回し続けていた。
夜が訪れても、熱田の町は眠らなかった。
あちこちの旅籠や民家の軒先から、昼間とは違う、少し焦げ臭い米の匂いと、白い湯気が立ち上り続けている。蜂須賀の若い衆が、松明を掲げて町を走り回り、炊き上がった飯を源蔵の倉へと次々に運び込んでくる。
神社の境内からは、印に小さな鳥居の刻みを入れた俵が届いた。寺からは、墨で経文の一字だけ書かれた俵が届いた。味噌屋の蔵からは、味噌の匂いの染みついた俵が届いた。旅籠からは、ただ縄を二重に巻いただけの俵が届いた。
出自の違う俵が、倉の中で次々に積み上がっていく。
明日の暮れ。
久兵衛への報告の期限が、刻一刻と近づいていた。
倉の奥には乾いたものから順に俵が積まれていた。別の隅には、まだ湯気の残る飯のゴザが並んでいた。
だが、まだ五十俵には遠く及ばない。まだ二十三俵足りなかった。
夜半過ぎ、空が変わった。
風の匂いが変わったのを、日吉は最初に鼻で感じた。土と泥の匂いに、湿った重さが混じる。
「降るぞ」
誰かが叫んだ。
ぽつ、と一粒、日吉の額に当たった。次の瞬間にはもう、瓦と土塀を叩く雨音が、町中を覆っていた。
「干場の糒、しまえ! しまえ!」
おとよの声が裏路地から響いた。日吉は源蔵の倉へ向かって走った。
軒先に広げられたゴザの上で、まだ生乾きの飯粒が、雨を吸って指に張り付くほど色を変えていく。それを見た瞬間、おとよの顔色が変わった。
「全部しまえ! 濡れたものは別にしておけ、後で炙り直す!」
日吉が叫ぶと、男たちがゴザの四隅を持って、軒下へ次々と運び込んでいった。ある者は転び、米を泥にぶちまけ、舌打ちしながらまた拾い直す。
雨は朝まで降り続いた。
夜が明けても、雨脚は弱まらなかった。
日吉は源蔵の倉の前で、川の方角を見ていた。
角蔵が、ずぶ濡れのまま走ってきた。
「日吉、川がまずい。庄内川の水位が上がってる。今の船着き場じゃ、荷を積めねえ」
「どれくらい上がった」
「一刻前より二尺は上がってる。あと半刻もすれば、桟橋ごと沈むぞ」
日吉は懐の帳面を握りしめた。墨が雨で滲んでいる。
「積み替えだ。下流の、もう少し高い場所に船を回せ」
「あそこは小六の縄張りの境だ。勝手に使ったら、また揉める」
「揉めてもいい。荷が流されたら全部終わりだ」
角蔵は頷き、雨の中へ戻っていった。
半刻後、川岸では新たな喧嘩が始まっていた。
下流の船着き場を縄張りにしている、別の川並衆の一団が、角蔵の船を取り囲んでいる。
「ここは俺たちの場所だ。誰の許しで荷を積んでる」
「日吉様の差配だ! 久兵衛様の御用の荷だぞ!」
「知るかそんなもん。場所代を払え」
日吉が駆けつけたとき、すでに与助が泥に膝をつき、男たちに向かって何度も頭を下げていた。
「頼むべ、頼むべ……今だけ通してくれ……」
「与助、立て」
日吉は与助の肩をつかんで立たせ、懐から銭袋を取り出した。中身はもう、ほとんど残っていない。
「これで全部だ。場所代と思え」
川並衆の頭が、銭袋の重さを手の中で確かめ、鼻を鳴らした。
「軽いな」
「軽くても全部だ。これ以上は出ない」
しばらくの沈黙の後、頭は銭袋を懐に入れた。
「……いいだろう。だが今日だけだ」
船が動き出した。
積み替えの最中、また問題が起きた。
船に積んだはずの糒の俵のうち、三俵が見当たらない。
「与助、数が合わない」
「えっ……えっ、確かに積んだはずだべ……」
「探せ。今すぐ探せ」
与助は何も言わず、雨の中を泥の上に這うように進んでいった。両手で水面を探り、葦の根元を一つずつかき分けていく。何度も足を滑らせ、泥水を顔に被りながら、それでも止まらなかった。
半刻ほどして、与助の声が川岸に響いた。
「あったべ! ここだ!」
俵の一つが、下流の葦原に引っかかっていた。縄が切れ、米の半分以上が川に流れ出ていたが、与助はそれを両腕に抱え、自分の体で雨から庇うようにして岸まで運んできた。
「半俵分しか残ってねえ……」
日吉は俵を見た。
何も言わなかった。
昼過ぎ、雨が小雨になった頃、小六が無断で動いた。
日吉が知らぬ間に、小六は熱田の別の問屋から、米五俵を独断で買い付けていた。代金は、来月の塩の利権をさらに上乗せする約束だった。
「小六、なぜ私に言わなかった」
「言ったら、お前がまた渋い顔をするからだ。いいだろ、五俵増えたんだぞ」
「その約束、また誰かと揉めるぞ」
「揉めるのは後だ。今は数を揃えるのが先だろう」
日吉は反論する言葉を持たなかった。
その五俵が源蔵の倉に運び込まれた、ちょうどその時、別の使いが駆け込んできた。
「日吉様! お万のところの川筋で、また杭の件です! 別の川並衆が、小六様の杭の跡に、今度は自分らの杭を打ち始めて……!」
「……今度は何だ」
「今度は荷ではなく、銭を寄こせの一点張りで!」
日吉は何も答えず、雨を顔に受けたまま、その場に立っていた。
夕刻、源蔵の倉の前に、荷が積まれていく。
濡れた俵、炙り直した糒、川から半分だけ拾い上げた米、小六が独断で買った五俵。
おとよが、俵の数を一つずつ指で数えていた。
「四十八」
「あと二俵」
「ない。もうどこにも出てこない」
日吉は黙って、源蔵の倉の隅に積まれていた、自分たちの食い扶持として残してあった米俵を見た。
「それも積め」
「日吉さ、それは……」
「積め」
与助が黙って俵を運んだ。
おとよが最後の俵に縄を巻き、印をつけた。
「五十」
雨音の中で、その声だけが聞こえた。
与助が船に俵を担いで運び入れる。鳥居の刻みのある俵、経文の一字が書かれた俵、味噌の匂いの染みた俵、ただ縄を巻いただけの俵、半分しか残らなかった俵、小六が独断で買った俵。
どれも違う場所から来て、どれも違う形に痩せ、違う匂いを纏ったまま、同じ船底に並んで積まれていく。
小六が船頭を怒鳴った。
角蔵が綱を解いた。
船が岸を離れた。
日吉は見ていた。
船はゆっくり川を下っていった。
雨はまだ止まなかった。




