第三十四話:揉め事
第三十四話:揉め事
墨が乾かない。
日吉は、端切れのような懐紙にさらに数文字を書き殴り、それを小さく折り畳んでおとよに突き出した。
「これを持って熱田の源蔵のところへ行け。銭の話は通してある」
「通してあるって、いくらよ」
おとよは、突き出された紙切れを親指と人差し指の先でつまみ、あからさまに嫌そうな顔をした。鼻先に近づけて匂いを嗅ぐような仕草をする。彼女の手はいつも、古土と銅銭の、青錆びた硬い匂いがした。
「五貫だ。いや、四貫文でいい。残りは戻せ。いや、戻さなくていいから角蔵の船の頭数に回せ」
「あんた、さっきから『いや』ばっかりじゃない。頭が腐ってんじゃないの」
「腐る暇があったら、とっくに腐らせている」
日吉は左の目蓋を強く押さえた。昨日から、奥のほうが引きつるように痙攣して止まらない。
清洲城の回廊で久兵衛のあの冷え切った双眸を見下ろして以来、日吉の脳の半分は、常に「首が飛ぶ瞬間の生々しいイメージ」で占拠されていた。忘れたら、荷が止まる。荷が止まれば、久兵衛は何も言わずに日吉の首を刎ねる。それだけだ。理由も弁明もいらない。ただ、実務の歯車が噛み合わなかったという事実だけで、人間の命は容易に紙切れのように消える。それが、この清洲の、ひいては尾張の現実だった。
「おとよ、頼むから動け。銭を動かせ。私は今から与助のところへ行く。あいつが買い付けた米の数が、どうしても合わない」
「合わないって、当然でしょう。与助は文字が読めないんだから。あの馬鹿に銭の出入りをやらせるほうが間違ってるのよ。だいたいね、日吉、あんたが持ってきたこの五貫の割り振りだけどさ……」
「いいから行け!」
叫ぶと、おとよは一瞬だけ口を真一文字に結び、それから忌々しげに地面へ唾を吐いた。
「死ねばいいのよ、みんな」
小声でそう呪詛を吐き捨て、おとよは泥の浮いた街道を熱田の方角へ向けて歩き出した。その背中を見送りながら、日吉は自分の胸の底にある、鉛のような冷たい塊を必死に飲み込もうとした。
役割を振れば、仕事が減る。
前世の、あの果てしなく遠い記憶のどこかにあった「組織」というやつは、確かそういう仕組みになっていたはずだった。長がいて、配下がいて、それぞれに領分を割り振れば、自分の負担は軽くなる。だからこそ、日吉はあの〈小六には川筋のこと〉〈おとよには銭のこと〉という、みすぼらしい覚え書きを殴り書きしたのだ。あれを渡したとき、一瞬だけ、肩の荷が軽くなったような錯覚すら覚えた。
だが、それは中世の泥を這う現実の前で、一瞬にして瓦解した。
役割を振るということは、それぞれの「生の論理」を持った獣たちに、勝手な武器を渡すということと同義だった。彼らは日吉の組織の構成員などではない。それぞれが自分の面子と、身内の利権と、明日の飯のために生きている、独立した暴力と欲望の塊だ。
日吉は、与助が籠もっているはずの萱津の物置小屋へと足を急がせた。
足の裏が、泥水に浸かるたびにぐちゅぐちゅと嫌な音を立てる。草履の紐が指の間に食い込んで痛むが、それを直す時間すら惜しかった。五十俵。清洲の城が求めているのは、ただの数字としての五十俵ではない。それが、戦の燃料として、いつでも動かせる状態で揃っているという「事実」だ。
「日吉さ、日吉さ!」
小屋の手前で、与助が血相を変えて飛び出してきた。
その顔は泥と汗で汚れ、髪は雀の巣のように乱れている。与助の手には、細い割り木が握られていた。何かを数えるために、一本ずつ傷をつけたものだろう。
「どうした、数は揃ったのか」
「揃わねえ、揃わねえんだわ。お万のところの親父が、急に『米は出せねえ』って言い出しやがった」
「なぜだ。銭は握らせただろう」
「それがよ……小六の旦那のところの若い衆が、今朝がた、お万の田んぼの脇の川筋に杭を打ちやがったんだ。これからはここを通る荷には、一俵につき二文ずつ川銭をもらうってな。それに怒ったお万の親父が、大喧嘩を始めちまって、米どころじゃねえんだ」
日吉の頭の中で、何かがパチンと弾ける音がした。
「小六……」
あの蜂須賀の頭目が、また勝手に動いた。川筋のことは任せる、と言ったのは確かだ。だがそれは、荷の通り道を確保しろという意味であって、そこに勝手に独自の関所を設けて身内の利権を貪れという意味ではない。
「日吉さ、どうするべ。お万の親父は、小六の旦那が杭を引き抜くまで、一粒も米は引き渡さねえって息巻いてる。だけど、小六の旦那のところに文句を言いに行ったら、今度は俺たちの首が危ねえべ?」
与助の怯えきった目が、日吉の顔を覗き込んでくる。
与助にとっては、日吉が「清洲の久兵衛」という巨大な壁を背負っているように見えているのだろう。だが、日吉からすれば、自分はただの、いつ踏み潰されるかもわからない虫ケラにすぎない。久兵衛という壁が少しでも前に傾けば、その下で日吉は肉片も残さず潰れる。
「与助、お前はお万のところにいろ。引き渡さないと言われても、そこを動くな。米が他のやつに買われないように、ただ見ていろ」
「だけどよ、怒鳴られるの、俺だべ?」
「怒鳴られるだけで済むなら安いものだ。首が飛ぶよりはいい」
日吉は与助の肩を強く突き放し、そのまま川筋へと走った。
喉の奥が、乾いた墨の味で満たされているようだった。胃のあたりが、ギリギリと雑巾を絞られるように痛む。
川沿いに出ると、じっとりとした湿気とともに、川魚の生臭い匂いと、刈り取られた草の匂いが混ざり合って漂ってきた。
いた。
数人の男たちが、川べりで怒鳴り合っている。
一方は、百姓着に身を包んだお万の一族とおぼしき者たち。手には鎌や鍬を握っている。もう一方は、肌に直接渋紙の小袖を引っ掛けた、小六の配下の川並衆だ。彼らは抜身の槍をだらりと下げ、せせら笑いながら百姓たちを睨みつけていた。
「おい、何をやっている」
日吉が泥を跳ね上げながら突っ込むと、川並衆の一人が面倒くさそうに振り返った。
「ああん? 何だお前。日吉か。小六の頭から、この川筋の差配は任されたって聞いてるぜ。頭がな、『日吉の小僧が紙切れをくれた。川筋は俺たちに好きにしろってよ』って、嬉しそうに言ってたわ」
「好きにしろとは言っていない! 荷を通すために、揉め事を起こすなと言ったんだ!」
「知るかよ。俺たちは川の人間だ。川を通る荷から銭を取るのは、先祖代々の決まりだ。日吉、お前が清洲の威光を傘に着て、俺たちの縄張りをタダで使おうなんてのが虫のいい話なんだよ」
中世の論理だった。
彼らにとって、尾張を誰が治めているか、清洲の城で誰が米を求めているかなど、二の次、三の次の話でしかない。目の前を流れる川、そこから得られるわずかな通行銭、そして自分たちの属する「蜂須賀」という縁故の面子。それだけが、彼らを動かす絶対の法なのだ。近代的組織の命令系統など、この泥まみれの川べりでは、一切の効力を持たない。
「小六はどこだ」
日吉は声を絞り出した。
「頭なら、熱田の問屋と話があるってんで、朝から出かけてるぜ」
熱田。おとよが向かった場所だ。
不吉な予感が、日吉の背中を冷たい手でなぞった。
おとよは四貫文の銭を持って熱田へ向かった。そこへ、小六が「川筋の利権」を背景にした何らかの交渉、あるいは脅しをかけるために熱田の問屋へ向かっている。もし二人が鉢合わせをしたらどうなるか。おとよは銭に関して一歩も引かない。小六は自分の面子にかけて日吉の指図を無視する。
仕事が減るどころか、火種が次々と互いに引火し、巨大な炎となって日吉の足元を焼きに来ていた。
日吉は、川並衆の男たちの嘲笑を背中に浴びながら、再び熱田へと走り出した。
なぜこうなる。
日吉の脳裏に、あの〈小六には川筋のこと〉と書かれた紙切れを、鼻で笑いながら懐に仕舞った小六の顔が浮かぶ。あのとき、小六は「役割を与えられた」と喜んだのではない。「日吉という清洲の窓口から、川筋の排他的な支配権(お墨付き)をもぎ取った」と解釈したのだ。中世の人間にとって、文字で書かれた役割とは、責任ではなく「権利の境界線」にほかならなかった。
熱田の町に入ると、潮の匂いと、生魚の匂い、そして荷車の車輪が軋む音が、ごった返す人混みの中から押し寄せてきた。
源蔵の問屋の前に、すでに人だかりができていた。
「だから、この銭じゃ足りないって言ってるのよ!」
甲高い、しかし硬い声が響く。おとよだ。
人混みをかき分けて進むと、そこには案の定、腕を組んで大胡坐をかいている小六と、その足元で端切れの紙を握りしめて激昂しているおとよの姿があった。間の悪いことに、与助までもがいつの間にかそこに追いついており、小六の若い衆に胸ぐらを掴まれて泣きそうな顔をしている。
「おとよ、小六、やめろ!」
日吉が叫びながら割り込むと、小六は面倒くさそうに片目を細めて日吉を見た。
「おう、日吉。ちょうどいいところへ来た。この小娘、俺たちが熱田の源蔵と交わした約束に、いちいちケチをつけやがる」
「約束って何だ」
「何だ、じゃないわよ!」
おとよが日吉の胸ぐらを掴み、小六以上の力で揺さぶってきた。その指先から、銅銭の青錆びた匂いが日吉の鼻腔を刺す。
「この髭達磨、源蔵から米を買い付ける代わりに、来月の塩の運搬を全部蜂須賀で引き受けるって、勝手に約束しちゃったのよ! そのための前金として、私が持ってきた四貫文をそのまま源蔵に渡しやがった!」
「何……?」
日吉は小六を睨みつけた。
「小六、それはどういうことだ。その銭は五十俵の米のためのものだ。来月の塩など、私は一言も……」
「おめえは黙ってろ、日吉」
小六の声が、低く地を這うような重みを持った。
その目は、もはや冗談を言っている男のそれではない。数多の死線を越えてきた、川泥の凶賊の目だった。
「源蔵のオヤジはな、清洲の城の威光なんぞ信じちゃいねえんだよ。今、清洲に米を出して、もし織田がひっくり返ったら、自分たちが真っ先に干されるって怯えてる。だから、俺たち蜂須賀が『後ろ盾』になって、来月の塩の利権を保証してやることで、ようやく重い腰を上げたんだ。おめえの書いたあの薄っぺらい紙切れ一枚で、人が動くと思ってんのか?」
日吉は言葉を失った。
小六の言うことは、中世の現実として、あまりにも正しかった。
清洲の久兵衛という名前は、城の周辺では絶対的な恐怖であっても、この熱田の、独自の自治と利権を持つ商人たちにとっては「いつ変わるかわからない不確かな権力」の一つにすぎない。彼らが信じるのは、目の前の確実な利害と、それを物理的に担保できる小六のような暴力組織だけだ。
しかし、それでは日吉の勘定が狂う。
「四貫文をすべて前金に使ってしまったら、角蔵の船への支払いはどうする。米を運ぶ人足への賃金はどこから出すんだ」
「そんなもんは、お前が清洲からむしり取ってくればいいだろうが」
小六は吐き捨てるように言った。
「俺たちは、俺たちのやり方で米を確保してやったんだ。役割ってのはそういうことだろ。川筋のことも、熱田のことも、俺たちの面子を潰さねえように回してやる。その代わり、銭の帳尻を合わせるのは、城の役人であるお前の仕事だ」
ぐるぐると、世界のすべてが反転していくような感覚に、日吉は襲われた。
仕事は減らない。
自分が「役割」という名の権限を彼らに小分けにして与えた結果、彼らはそれぞれの領分で、それぞれの身内を潤すために最善(彼らにとっての最善)を尽くし、その結果として生じたあらゆる矛盾と、借金と、揉め事のすべてが、巨大な雪だるまとなって「長」である日吉の元へと転がり込んできている。
「日吉さ……お万の親父がさ、やっぱり杭を抜かねえと、米の袋に火をつけるって言ってるべ……」
与助が、日吉の袖を引っ張ってシクシクと泣き始めた。
「日吉、どうするのよ。清洲に泣きついて、あと五貫文引っ張ってくるの? それとも、この髭達磨を殴り殺して銭を取り返す?」
おとよの冷徹な、しかし切迫した目が日吉を射抜く。
日吉は、自分の脳が、恐怖と過負荷によってじわじわと溶解していくのを感じていた。
誰も、日吉の言う通りには動かない。
小六の独断、おとよの反発、与助の無能。
そして、そのすべての背後で、ただ「名より荷、人より納期」の基準だけを持って、じっと砂時計を眺めている久兵衛の、あの底冷えする横顔。
「……書く」
日吉は、かすれた声で呟いた。
「え? 何だって?」
おとよが眉をひそめる。
「書くんだ。もう一度、帳面を、すべて書き直す」
日吉は懐から、手垢と泥で汚れた帳面を引っ張り出した。震える指で筆を握り、熱田の往来の泥の上に膝をつく。
小六。おとよ。与助。源蔵。お万。角蔵。
名を書き並べ、その横にやるべきことと、誰が誰に何を約束したかを書き付けていく。書けば書くほど、墨の行は増えた。本来なら、仕事を分けた分だけ自分の負担は減るはずだった。だが現実には逆だった。一人に任せれば、その一人を管理する仕事が新たに生まれる。三人に任せれば、三人分の揉め事が生まれる。日吉は初めて、自分が集めていたのは部下ではなく、新しい問題そのものだったのだと理解した。
日吉はそこで、ようやく認めざるを得なかった。
自分はずっと、人を集めれば問題は解決に向かうと思っていた。前世の記憶の中では、それが正しかった。人が増えれば仕事を分けられる。責任を割り振れる。自分がすべてを抱え込まなくて済む。だが、この尾張では違った。人を一人増やすたびに、その人間の欲と事情と面子まで、まるごと抱え込むことになる。自分は部下を作っていたつもりだった。実際には、新しい火種を集めていただけだったのだ。
前世では、人を増やせば仕事は進んだ。できない者は切り、できる者を上に置けばよかった。給与があり、契約があり、規則があり、それを破れば本人が損をするという仕組みが、人を縛っていた。だがここには、そのどれもない。あるのは面子と血縁と縄張り、そして剥き出しの欲だけだ。日吉はようやく理解した。自分が作ろうとしていた「組織」というものは、まだこの尾張のどこにも存在していないのだと。
日吉は筆を止めた。墨が紙の上で滲み、〈小六〉の文字の端をゆっくりと黒く侵していく。
前世では、こういう時のために管理表があった。進捗表があった。契約書があり、上司の命令があった。部下は従った。少なくとも、従うふりはした。それで物事は動いた。動いたことになっていた。
だが今、自分の前にいる人間は、誰一人として従わない。小六は面子で動く。おとよは損得で動く。与助は恐怖でしか動かない。そして久兵衛は、動いた結果だけを見る。
前世で覚えた知識が、一枚ずつ、まるで濡れた紙のように剥がれていく気がした。自分は賢かったのではない。ただ、仕組みに守られていただけだったのだ。日吉は初めて、自分が裸で戦場に立たされていることを理解した。
忘れたら、荷が止まる。
荷が止まれば、首が飛ぶ。
小六の勝手な約束も、おとよの怒りも、与助の怯えも、すべてをこの帳面の中に叩き込んで、物理的な事実として繋ぎ合わせるしかない。近代的組織などという幻想は捨てる。これは、泥沼の中で、互いの足を引っ張り合う獣たちを、一本の縄で縛り付けて同時に引きずるための、命がけの泥仕合だった。
「小六、塩の件はそのままにしろ。ただし、源蔵の倉から船着き場までの人足は、蜂須賀の若い衆にタダでやらせろ。おとよ、お前は今から源蔵の裏に回って、米の品質を確かめろ。一俵でも腐ったものがあれば、その分の銭を差し引く。与助、お前はお万のところへ戻れ。小六の打った杭は、私が今から引き抜きに行く」
「おい、日吉、俺の打った杭を抜くってのは、俺の面子を……」
小六が立ち上がろうとするのを、日吉は、血走った目で睨み返した。
「面子で腹が膨れるか! 米が届かなければ、久兵衛様がこの熱田を丸ごと焼き払うぞ! それでもいいなら、その面子とやらを抱いて川に沈め!」
怒鳴った瞬間、自分でも驚いた。
怖かった。久兵衛が怖い。首が飛ぶのが怖い。だが今だけは、それ以上に腹が立っていた。誰も荷を見ていない。皆、自分の面子と、自分の銭と、自分の恐怖しか見ていない。
その気迫に押されたのか、小六は一瞬だけ口を(ぐ)と結び、それからフンと鼻を鳴らして再び腰を下ろした。
「……クソガキが。少しは骨があるじゃねえか」
小六は腰を上げながら、笑った顔のまま、目だけを据えて日吉を見た。
「だがな、日吉。次に俺の面子をお前の紙切れ一枚で潰すような真似をしたら、その時は久兵衛がどう出ようと知らねえぞ」
それは軽口の体をした、宣告だった。
日吉は立ち上がり、泥まみれの着物の裾も直さず、お万の田んぼへと向かって走り出した。
杭を引き抜くのに、半刻かかった。
それだけではなかった。杭の周りには、小六の若い衆が三人、腕を組んで突っ立っていた。日吉は彼らを久兵衛の名で恫喝し、小六が源蔵から確保した米の荷を蜂須賀の船で優先的に運ぶという約束を口頭で交わし、それでようやく彼らは道を開けた。
恫喝と取引。
それだけが、この熱田の往来で人を動かす言葉だった。
杭が抜けると、お万の親父は何も言わずに小屋の中に引っ込み、しばらくして与助が、うっすら泥のついた俵を二十七個、牛車に積んで引っ張ってきた。
「これだけかよ」
「すいません、日吉さ。これが限界で……」
「水が悪かったんだ、今年は」与助は俵に手をかけたまま、目を逸らした。「お万の親父が言ってた。春先の堰が崩れて、田の三分の一がまともに穂を付けなかったって。残った分も、半分は冬越しの備蓄に取っておかねえと、村が保たねえらしい」
「わかった。お万には後でまた銭を持っていく」
二十七俵。五十俵まで、あと二十三俵足りない。
しかし、足りないのはそれだけではなかった。
源蔵の問屋の裏から戻ってきたおとよが、日吉の前で開口一番こう言った。
「米の品質は悪くない。だけど、問題は米じゃないわ」
「何だ」
「保存食よ。久兵衛様は五十俵の保存食を求めているんでしょう。米をそのまま積んでも、保存食にはならない。糒にするには、炊いて干さなくちゃいけない。干し魚にするには、塩を揉んで干場に並べなくちゃいけない。その工程をこなせる釜と薪と干場と人手が、今の熱田にどれだけあると思う?」
日吉は口を閉じた。
頭の中に、数字が並び始めた。冷たく、容赦のない数字だった。
糒一俵を作るためには、生米をまず炊き、それを天日に干す。晴れた日で半日から一日。曇れば二日かかる。釜は一度に米五升が限界。五十俵は二千五百升。一釜で一日に二回炊けたとして、五十俵分を炊くだけで何日かかるか。
「釜は何口ある」
「源蔵の倉の裏で確かめた。使えそうなのは六口。あとは割れているか、錆びているか」
六口。一日二回。一釜五升。六口で一日に炊けるのは六十升。二千五百升を六十升で割れば——。
日吉は指を折った。暗算が走る。追いつかせた。
四十一日。
三日ではなく、四十一日。日吉は、自分が最初の計算から根本的に間違っていたことを理解した。
声に出さなかった。出せなかった。
一日二回、六口の釜をすべて使い続けて、四十一日。釜を増やすにしても、熱田の町中をかき集めて十口にしたところで、二十日以上かかる計算だ。三日などという数字は、どこにも出てこない。桁が違う。問題の種類が、違う。
日吉はそこで初めて気付いた。自分はずっと、米という「完成品」がどこかに在る前提で、それを動かす算盤だけを弾いていた。米は市場にある。買えば、そこに在る。だが糒は市場にない。作らなければ、存在しない。久兵衛が三度繰り返した「船は何艘か」という問いは、輸送の能力を測っていたのではなかった。日吉が、荷の手前にある生産そのものを見えているかどうかを、測っていたのだ。
「……四日以上かかる」
日吉は、かろうじてそれだけ言った。実際の数字を口にする気力が、もはやなかった。
「そう。三日では無理なのよ」
おとよは淡々と言った。怒っているのではない。ただ、事実を叩きつけている。その目が言っていた。あんた、最初からこれを計算していなかったでしょう、と。
日吉の背中を、冷たい汗が一筋流れた。
五十俵の保存食。
自分はずっと「五十俵の米」の話をしていた。どこで積んで、どこで下ろして、誰が運ぶか。その計算だけに頭を使っていた。
しかし、そもそも生米は保存食ではない。炊いて干して初めて糒になる。塩を塗って乾かして初めて干し魚になる。その加工の工程を、日吉は丸ごと見落としていた。
これは、物流の問題ではなかった。
加工の問題だった。釜の数、薪の量、干場の広さ、職人の腕。船の艘数でも、人足の頭数でも、川の水深でもなく、五十俵の保存食を三日で作り出すことができるかという、生産の問題だった。久兵衛が「保存食」と言ったとき、あの男はすでにこの罠を見通していたのかもしれない。川並の算盤が弾けるのは、船の数と人足の数と水深だけか。それとも、荷が動く前の工程まで計算に入れられるか。
三度繰り返された問い。
船は何艘か。
あの問いは、数を確かめていたのではなかった。どこまで見えているかを、測っていたのだ。
そのとき、往来の向こうから、足音が近づいてきた。
代官所の小者の身なりをした男だった。日吉を見つけると、迷いなく近づいてきて、一枚の折り畳んだ紙を差し出した。
「久兵衛様よりのお言伝でございます」
日吉は紙を受け取った。震える指で開く。
そこには、たった一行だけ書かれていた。
―― 明日の暮れまでに、進捗を報告せよ。
小者は踵を返しかけ、そのまま二、三歩歩いたところで、ふと足を止めた。振り返らずに、往来の雑踏へ向けたまま、低く言った。
「申し添えまする」
その声は、感情の一切を削ぎ落とした、乾いた事務の声だった。
「先だっての荷遅れの件にて、久兵衛様は三人ほど処分なさいました。ご参考までに」
それだけ言うと、小者は振り返ることなく人混みの中へ消えた。
日吉は、その背中が見えなくなっても、動けなかった。
三人。
日吉は喉の奥に酸い水が上がってくるのを堪えた。
三人。数ではない。誰かの名前だったはずだ。誰かの女房がいたはずだ。誰かの子がいたはずだ。だが久兵衛の口を通り、小者の声を通り、ここまで運ばれてきたとき、三人はもう数でしかなかった。荷が遅れただけで、三人。久兵衛は何も言わずに、ただ消した。理由も、弁明の機会も、おそらくなかった。あの男にとって、荷が動かないという事実は、それだけで人間一人の命と等価だった。
明日には、自分もそうなる。
日吉は初めて、自分の墓も残らない死というものを、はっきりと想像した。誰も悼まず、誰も覚えず、ただ帳面の上の「不履行」という一語だけが残る死だ。
もし明日、まともな報告ができなければ。三人の次に数えられる名前は、おそらく日吉だった。
明日の暮れ。
釜が六口。加工に四十一日。米はまだ二十七俵。銭は底をついた。
五十俵の保存食は、まだ荷の形すら成していない。それどころか、加工する手立てすら、まだ何一つ揃っていなかった。
「日吉さ……どうするべ」
与助が、また袖を引いた。
日吉はその場にしゃがみ込み、泥の中に紙を落としたまま、しばらく動かなかった。
ずっと、自分が何とかするつもりだった。前世の知識で。算盤で。少しの工夫で。人より半歩先を見通すことで。気がつけば全部が片付いている、そういう絵を、どこかで描いていた。
だが違った。五十俵の保存食は、日吉一人の知恵からは生まれない。釜を持つ者がいる。火を焚く者がいる。米を運ぶ者がいる。魚を捌く者がいる。塩を揉む者がいる。そのすべてを、誰かが繋ぎ、誰かが頭を下げ続けなければ、荷は一俵も動かない。
自分は、いつの間にか英雄になろうとしていたのかもしれない。一人で帳面を抱え、一人で算盤を弾き、一人で答えを出す者に。だが今この泥の中で必要なのは、おそらくそういう男ではない。必要なのは、面子を持つ獣と、損得を持つ獣と、恐怖しか持たない獣の間を、自分の足で、何度でも往復する者なのだろう。英雄ではなく、泥だらけになって人と人をつなぎ続ける、ただの世話役なのかもしれない。
だが、その考えも本当に正しいのか分からなかった。世話役になれば、荷は動くのか。人を繋げば、問題は本当に解決するのか。小六を立て、おとよを宥め、与助を走らせる。それで今回は何とかなるかもしれない。だが十人になったら。百人になったら。同じやり方で回るのか。日吉には分からなかった。分からないまま、走っている。
だが、本当にそれでいいのかは分からない。人を使うとは何なのか。前世で見た組織と、この尾張の現実はあまりにも違う。ただ一つ分かるのは、今までのやり方では間に合わないということだけだった。
日吉は紙を拾い、泥を払って懐に仕舞った。
与助が、また袖を引いた。
日吉は紙を懐に仕舞い、泥の上に立ち上がった。
「釜を増やす」
「え?」
「干場を借りる。薪を集める。加工の人手を確保する。それが次の仕事だ」
問題が変わった。
銭がない、米がないという問題は、まだ解決していない。しかしその上に、さらに重い問題が積み上がった。米があっても、それを保存食に加工できなければ、久兵衛の前に並べる荷は存在しない。
三日で五十俵。
その言葉の本当の重さが、日吉の脳の奥に、ようやく根を張り始めていた。
立ち上がった日吉の目に、ふと、与助の背後の景色が映った。
熱田の町。
神社の境内から、湯気が立っている。参拝客に粥を振る舞っているのだろう、大きな釜が据えられているのが見えた。その隣の路地には、味噌屋の蔵がある。味噌を仕込むための、人の背丈ほどもある桶と、それを温める竈。さらに先には、旅籠が並ぶ通りがあり、どの店先にも、客の飯を炊くための釜が、軒先に煙を上げている。
六口。
その数字が、急に小さく見えた。
源蔵の倉の裏にある六口だけが、この熱田の釜のすべてではない。神社にも、寺にも、味噌屋にも、酒屋にも、旅籠にも、それぞれの釜があり、それぞれの竈があり、それぞれ今は、粥を作り、味噌を仕込み、客の飯を炊くためだけに使われている。
日吉の頭の中で、何かが繋がりかけた。まだ形にならない、ぼんやりとした輪郭だった。
もし、町中の釜を、たとえ半日だけでも借りられたら。
薪も人手も、まだ何一つ揃っていない。借りられる保証もない。寺は寺の都合があり、味噌屋には味噌屋の理屈があるはずだ。きっとまた、誰かの面子に当たり、誰かの利権に引っかかる。それでも、六という数字が、町全体を見渡せば違う数字に変わるかもしれない、という予感だけが、日吉の中に小さく灯った。
まだ何も解決していない。
二十三俵は足りないままだ。四十一日という数字も、消えてはいない。
ただ、日吉は初めて、霧の向こうに何か輪郭があることに気付いた。それが道なのか、もっと深い泥なのかは、まだ分からなかった。




