第三十三話:五十俵
第三十三話:五十俵
熱田の浜から戻った日吉の足は、自らの意思とは無関係に、前へ前へと泥を蹴っていた。
歩かねば、頭の芯で鳴り響く久兵衛の声に追いつかれる気がした。
――次は百俵運べ、いや、その前に。
違う。あの男が最後に宣告したのは、もっと短く、より重い実務の鉄槌だった。
――三日で五十俵。保存食を揃え、津島へ運べ。
五十俵という塊が、脳裏で巨大な米の壁となって日吉の行く手を塞ぐ。
忘れたら荷が止まる。荷が止まれば首が飛ぶ。
その言葉だけが、乾いた草鞋の底から這い上がってくる冷気のように、日吉の全身の毛穴を縛り上げていた。
懐の帳面が、歩くたびに脇腹を硬く圧迫する。
日吉は前方を見据えたまま、その手垢まみれの紙片を、着物の合わせ越しに強く掴んだ。
いま自分が握っているのは、ただの紙ではない。自分の首の皮一枚をこの世に繋ぎ止めている、歪んだ数字の連なりだった。
五十俵。
ただの米ではない。「保存食」だ。
通常の糒か、あるいは塩漬けの干し肉か、はたまた味噌を練り込んだ保存用の塊か。久兵衛は具体的な中身を一切指定しなかった。
――無理か。なら他を探す。
あの感情の窺えない実務の壁は、日吉が「できぬ」と言いかけた瞬間に、すべてを切り捨てる構えを見せていた。代わりなどいくらでもいる。この乱世、清洲城の周辺には、泥の底から這い上がろうとして足を滑らせ、そのまま消えていく小者が無数に転がっている。自分もその一つに過ぎない。
日吉は、熱田の拠点の前に辿り着いた。
板壁が並ぶ古い倉の前に、人足たちの吐き出す荒い息が白く淀んでいる。
いつもなら、荷の数を確かめ、人足の顔触れを睨み、帳面に筆を走らせるところだった。だが、いまの日吉の手は細かく震えていた。
一人では抱えきれない。
脳内で計算が激しく決壊を始めていた。五十俵の保存食を三日で揃えるための銭がどこにある。それを積むべき船は本当に動かせるのか。誰から買い付けるのか。現場の揉め事を誰が収めるのか。
日吉は、帳場の畳に上がるよりも早く、おとよの姿を探した。
「おとよ、おとよはいるか」
声をかけたが、喉が渇いていて掠れた音しか出なかった。
倉の奥から、木桶を持ったおとよが顔を出した。その前垂れには、薄く味噌の跡がついていた。
「なんですか、日吉さん。そんなに血相を変えて」
日吉はおとよの前に、懐から取り出した小さな革袋を叩きつけるように置いた。
中から、鈍い銅の擦れ合う音が響く。
「銭だ。あるだけ集めた。これを持っていけ」
「これ、って……何のことですか」
「小六には川筋のことを聞く。お前は銭だ。おとよには銭のこと。これで買い付けの帳尻を合わせろ。いくら使っても構わん。足りなければ、問屋の隠し金を引っ張り出してでも揃えろ」
「お待ちください、日吉さん。何を買うかも言わずに銭だけ投げ出されても、私には――」
「保存食だ! 五十俵分だ。三日で津島へ届ける。猶予はない」
日吉はおとよの返事を聞かなかった。おとよが呆然とした顔で革袋を拾い上げるのを見届ける前に、すでに背を向けていた。
胃の腑が雑巾のように絞られる。
おとよの困惑した視線が背中に刺さるのを感じながら、日吉は倉の裏手、川に面した泥の荷揚げ場へと走った。
投げ出したのだ、と頭の片隅で自覚があった。
ほんの数日前までなら考えられなかった。銭勘定を他人に任せるなど、自分が最も嫌うやり方だった。一文でも帳尻が合わなければ夜中に目が覚め、翌朝には必ず問い質す。そういう男だった。だが今は違う。一人で抱えれば沈む。沈めば自分だけでは済まない。川並ごと沈む。おとよも、角蔵も、与助も、小六も、全員が巻き込まれる。それだけが、日吉の背中を前へ押しやる力だった。
いつもなら、銭の一文にいたるまで自分で帳簿に付け、その使途を厳しく監視していた。それをしなければ、どこかで誰かが抜く。だが、いまは「抜かれる損」を恐れるよりも、「納期に間に合わない死」の方が、圧倒的な質量で迫っていた。
荷揚げ場では、角蔵が船のともづなを握り直していた。
川の水は濁り、上流の雨のせいでわずかに水位が上がっている。川の増水の臭いが、鼻腔を突いた。
「角蔵! 船だ。大舟を動かせ」
日吉はぬかるみに足を滑らせながら、角蔵の肩を掴んだ。
角蔵は、日吉の泥だらけの顔を見て、眉をひそめた。
「日吉、何を慌ててやがる。大舟なら、昨日言った通り十二艘のうち動かせるのは六艘が限界――」
「違う! 全部だ。大舟十二艘、すべて集めろ。三日だ。三日後にすべての船をこの川筋に並べろ」
「無茶を言うな。船頭どもは熱田の宿で酒を飲んでるか、別の荷を積んで下っちまってる。三日で集めるなんて、神様仏様でもなきゃできねえよ。だいたい船は怒鳴っても増えねえんだ!」
「集めるんだ。集まらなければ、船頭の髪の毛を引っ掴んででも連れてこい。角蔵には船のことだ。お前が船を揃えろ。一艘でも足りなければ、俺たちの首が飛ぶ。いいか、船だ、お前が全部やれ!」
角蔵が何かを怒鳴り返そうとしたが、日吉はそれをも振り切った。
耳を塞ぐようにして、再び倉の土間へと戻る。
角蔵の「できるわけがない」という怒声が、川風に混ざって遠ざかっていく。日吉の頭の中は、すでに次の「丸投げ」先を探していた。
自分で考えたら、計算が破綻する。
船頭の数、日当の交渉、浅瀬の確認。それらを一つずつ処理していたら、三日など一瞬で吹き飛ぶ。
だから、渡すのだ。彼らの専門の領域へ、責任ごと放り出す。それが中世のリアルな「役割分担」などという生易しいものではなく、ただの「逃亡」であると分かっていても、そうせねば足が止まる。
土間には、買い付けの差配をする与助が、藁束の上に座って帳面を睨んでいた。
日吉は与助の前に立ちはだかり、その細い肩を揺さぶった。
「与助、買付だ。与助には買付のこと」
「ひ、日吉さん? 何ですか、いきなり」
「保存食の材料を、今すぐこの周辺の郷からすべて掻き集めろ。米でも、麦でも、干し魚でもいい。何でもいいから、五十俵の塊になるものを三日以内にこの倉に叩き込め。値の交渉はお前に任せる。おとよから銭を受け取れ。お前が商人と話せ」
「無茶です! この時期、そんな大量の保存食を一箇所に集めたら、市場の値が跳ね上がります。それに、どこの問屋も急な買い付けには応じませんよ。商人は刀じゃ動きません! せめて書付を――」
「書付などない! 久兵衛様からの直命だ。断れば城の役人が来る。お前が頭を下げて、商人の尻を叩いて、荷を引っ張ってこい。与助、お前の腕を見込んで言っているのではない。お前がやらねば、誰もやらんのだ!」
与助の顔から血の気が引いていくのが見えた。
日吉の目は、おそらく狂気じみた光を放っていた。与助は、日吉のその尋常ではない様子に圧倒され、ただ小さく首を縦に振るしかなかった。
日吉はそれを見るや、すぐに与助からも視線を外した。
ありがとうも、頼むぞという言葉も出ない。ただ、自分の手元から「買付」という名の地雷を一つ、他人の懐へ放り込んだだけの感覚だった。
最後の一人。
この混乱の現場を、力づくで抑え込める男。
日吉は、倉の入り口の柱にもたれかかり、退屈そうに爪を削っていた小六の元へと歩み寄った。
小六は、日吉が近づいてくるのを、薄い目で見上げていた。その手には、いつも川筋の揉め事を解決する際に使う、短い棍棒が握られている。
「小六」
「おう、小猿。随分と景気よく、周りに糞を撒き散らしているじゃねえか。おとよも与助も、今にも泣き出しそうな面をしてるぞ」
「小六には川筋のことだ」
日吉は、小六の皮肉をすべて無視し、その胸元に指を突きつけた。
「お前が現場を仕切れ。角蔵が船を集め、与助が荷を持ってくる。その過程で必ず揉め事が起きる。人足が足りない、船頭が動かない、商人が値を吊り上げる。それらをすべて、お前の力で、お前の理屈でねじ伏せろ」
「ほう。お前は何をするんだ、小猿」
「俺は……俺は帳面を付ける。だが、現場の揉め事には一切口を出さん。お前が現場の王だ。小六、頼むのではない。命令でもない。お前がやらなければ、全員が泥の中に沈むだけだ」
小六は、日吉の突きつけた指を、大きな手のひらでゆっくりと押し下げた。
その顔に、不敵な、しかし酷く冷たい笑みが浮かぶ。
「丸投げか。気に入ったぜ。いつもは小賢しく数字を並べて、俺たちを枠に嵌めようとするお前が、ついに頭を抱えて逃げ出したわけだ」
「逃げてはいない!」
「いや、逃げてるさ。首が飛ぶのが怖くて、実務の泥を俺たちに押し付けたんだ。だがな、小猿。俺たちが動くってことは、俺たちのやり方で暴れるってことだぞ。後で『帳面が合わない』なんて泣き言を言っても、一切聞かねえからな」
「構わん。荷が動けば、それでいい」
日吉は吐き捨てるように言うと、小六の前からも立ち去った。
これで、すべてを配り終えた。
おとよには銭。
角蔵には船。
与助には買付。
小六には現場。
日吉は、自分のために用意された、帳場の小さな机の前に座り込んだ。
膝が笑っていた。
懐から取り出した帳面を、机の上に広げる。
白紙の頁が、日吉を嘲笑うように広がっていた。
確かに、役割を振った。だが、役割を振ったことで仕事が減るような、近代的で美しい組織図など、この乱世の現場には存在しない。
それぞれの思惑、それぞれの利権、それぞれの面子で動く生き物たちが、日吉の手を離れた瞬間に暴走を開始する。
楽になるどころか、これから自分の元に持ち込まれる揉め事が倍増し、頭を抱えることになるのを、日吉は本能的に予感していた。
しかし、そうせねば、いまこの瞬間に脳内が決壊し、三日後の納期に自滅することは確実だった。
日吉は、震える手で筆を握った。
墨の匂いが、奥の間を小さく満たしていく。
帳面の隅に、なぐり書きのような文字が並ぶ。
〈おとよには銭のこと〉
〈角蔵には船のこと〉
〈与助には買付のこと〉
〈小六には川筋のこと〉
それは組織の図ではなく、日吉が自らの恐怖から逃れるために、世界を切り刻んで他人に押し付けた、逃亡の覚え書きに過ぎなかった。
窓の外で、風の音が一段と高くなった。
木曽川の濁流が、遠くで家々を揺らすような、言葉にならない不気味な響きを立てている。
日吉はただ、帳面の白い余白を見つめ、次なる揉め事の足音に怯えながら、最初の一文字を書き入れるために筆を落とした。
忘れたら、死ぬ。
その事実だけが、冷たい畳を通じて、日吉の身体をどこまでも縛り付けていた。
帳場の戸が、乱暴に叩きつけられた。
日吉は筆を止めた。
「日吉さん!」
おとよだった。
顔色が紙のように白い。手に握りしめた紙が、細かく震えている。
「どうした」
「足りません」
たった四文字だった。
「何がだ」
「全部です」
日吉の胃の腑が、また雑巾のように絞られた。
おとよは握りしめた紙を机の上へ叩きつけた。数字が乱れた筆跡で並んでいる。日吉はそれを手に取り、一瞬で読んだ。
「米の値が上がっています。今朝から急に。干し魚はすでに別の買い手に押さえられていて、問屋が話を聞いてくれません。三日で五十俵という話をした途端、どこも値を吊り上げてきます。革袋の中身を全部吐き出しても、三十俵分の銭にしかなりません」
日吉は紙を机に置いた。
頭の中で、数字が冷たく並び替わっていく。三十俵。残り二十俵。銭がない。買い手がいない。荷がない。
久兵衛から受けた最初の仕事は、まだ荷一つ動いていないのに、すでに二十俵分だけ、確実に破綻していた。
「与助はどこだ」
「商人の所へ走りました。でも、こんな短い時間では——」
「小六を呼べ」
「小六さんは角蔵さんと揉めています。川筋で怒鳴り合っています」
日吉は立ち上がった。膝がまだ笑っていた。
机の上の帳面を見る。
〈おとよには銭のこと〉
〈角蔵には船のこと〉
〈与助には買付のこと〉
〈小六には川筋のこと〉
役割を振った。だが、世界はその通りに動かなかった。
銭は足りない。船は揃っていない。荷はない。現場は割れている。
三日後、久兵衛の前に並ぶべき五十俵は、いまこの瞬間、どこにも存在していなかった。




