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豊臣兄弟、最底辺から始める天下奪取 ――現代営業の知略で、戦国の理不尽を喰い破る――  作者: チャプタさん


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第三十二話:問い

第三十二話:問い


 城門を出て、ぬかるんだ道を半町ほど歩いたときだった。

 背後から、走ってくる足音が聞こえた。泥を跳ね上げる、荒い足音だった。

「おい。そこの、帳面持ち」

 呼び止められて、日吉は足を止めた。振り返ると、先ほど廊下ですれ違った代官所の小者が、息を切らせて立っていた。手には、日吉が先ほど渡されたものとは別の、赤黒い漆が塗られた木札が握られていた。

「久兵衛様がお呼びだ。戻れ」

 日吉は手の中の木札を見た。五十俵、三日、津島。その三つの文字が刻まれた木札は、まだ日吉の体温で温まってもいなかった。

「これは」

「それはそのまま持っておけ。別の御用だ。急げ、お待たせするな」

 小者はそれだけ言うと、日吉の返事も待たずに踵を返した。

 日吉はぬかるみの中に佇み、一度だけ深く息を吸った。冷たい空気が肺の奥を突き、泥の臭いが鼻腔を抜けた。

 なぜ、戻されるのか。

 さっきの帳面の中に、何か致命的な間違いが見つかったのか。あるいは、さらに重い沙汰が待っているのか。

 頭の中で、二十五、十二、という数字がまた乱れ始めた。日吉は木札を握り締め、泥に足を取られながら、再び清洲城の城門へと歩みを戻した。

 通されたのは、先ほどの狭い奥の間ではなかった。

 城の東側にある、大きな板敷きの広間だった。窓は大きく開け放たれており、外から冷たい風が吹き込んでいたが、部屋の中には異様な熱気が籠もっていた。

 部屋の隅には、十を越える米俵が積み上げられ、その横にはいくつかの木箱が並んでいた。中央には大きな机が置かれ、その上には数冊の厚い帳面と、乾いた墨の臭いを放つ硯が置かれている。

 久兵衛は、その机の前に座っていた。

 先ほどとは違い、彼の背後には二人の書役が控えていた。どちらも筆を構え、白紙の紙を前にして身を固くしている。

 日吉は入り口で膝をついた。板敷きの床は冷たく、ぬかるみで濡れた草鞋が、床の上に小さな泥の池を作った。

「日吉と申し——」

「名は要らぬ」

 久兵衛が、日吉の言葉を鋭く遮った。その声には、怒りも、嘲りもなかった。ただ、無駄なものを削ぎ落とした、刃物のような冷たさだけがあった。

「ここにいるのは、お前という人間ではない。川並の算盤だ。お前の名が何であろうと、荷の数には関わりがない」

 久兵衛は手元の帳面に目を落としたまま、言った。その手にあるのは、先ほど日吉から取り上げた、あの手垢で汚れた帳面だった。

「船は何艘か」

 一度目の問いだった。

 日吉は床に伏せた目を少しだけ上げ、久兵衛の袴の裾を見た。

「五手二十五艘にございます。うち、荷を積んで動ける大舟は十二艘。残りの十三艘は、川底の浅い場所を往来する小舟、あるいは網舟にございます」

「大舟十二」

 久兵衛が呟くと、背後の書役が同時に筆を動かした。紙を擦る筆の音が、広い部屋に小さく響いた。

「これより、問いを投げる」

 久兵衛が帳面を閉じ、机の上に置いた。その手が、日吉の帳面の表紙を軽く叩いた。

「お前の頭の中にある数字が、この帳面と同じか、あるいはそれ以上か。それを検分する。お前がここで淀めば、その時点でこの帳面は燃やす。川並の利権も、明日には別の者に渡ると思え」

 日吉は唾を飲み込んだ。喉の奥が引き攣るように痛んだ。

 ここにあるのは、日吉の命だけではない。小竹や、おとよや、川並で船を操る男たちの暮らしそのものが、久兵衛の指先一つに懸かっている。

「お答えいたします」

 日吉は、自分の声が震えないように、腹の底に力を込めた。

「三日なら」

 久兵衛が、最初の条件を提示した。

「熱田から津島まで、米二千俵を動かす。期間は三日だ。人足は何人要る。倉はどこを使い、船はどう動かす」

 二千俵。

 先ほどの木札の四十倍の数字だった。日吉の頭の中で、巨大な米の山が音を立てて崩れ、数字の列となって並び替わった。

 一俵四斗。二千俵なら八百石。重さにして十二万斤。

「……三日では、不可能でする」

 日吉は即座に答えた。

 背後の書役の一人が、一瞬、筆を止めた気配がした。久兵衛の顔は動かない。ただ、冷徹な目が日吉を値踏みするように見つめていた。

「なぜだ」

「船が足りませぬ。大舟十二艘をすべて投入しても、一艘あたりに積める限界は五十俵から六十俵。川の深さが足りぬ今の時期、満載すれば底を叩きます。十二艘で一度に運べるのは、せいぜい六百俵。熱田から津島まで、行って戻るのに丸一日。三日では、どう足掻いても二往復、千二百俵が限界にございます。残りの八百俵が川に取り残されます」

「小舟を使えばどうだ」

「十三艘の小舟をすべて出しても、一艘に積めるのは十俵が限界。十三艘で百三十俵。これも一日に一往復。三日で三百九十俵。合わせても千六百俵に届きませぬ。何より、小舟をそれだけ動かせば、船頭と人足の数が足りなくなります。今の川筋は水量が戻っておりますが、濁りが残っています。無理に動かせば、夜間の座礁も出ましょう」

「人足の数を聞いている」

 久兵衛の声が、一段と低くなった。

「三日で二千俵を動かすとすれば、人足は何人必要か。不可能な数字であっても、その計算を言え」

 日吉は目を閉じ、頭の中に熱田の湊と、津島の湊を思い浮かべた。

 荷を担ぎ、船に積み、船から下ろし、倉へ収める。その一連の動きの中に、人間の体を当てはめていく。

「熱田の湊での積み込みに、一艘あたり四人。十二艘で四十八人。小舟十三艘にそれぞれ二人、二十六人。計七十四人が、熱田側で常に動き続けねばなりませぬ。津島の湊でも同数が要ります。これで百四十八人。さらに、船を操る船頭が大舟に三人ずつで三十六人、小舟に一人ずつで十三人、計四十九人。さらに——」

 日吉は一度、目をあけた。

「倉でございます。津島のどの倉に収めるかによって、人足の数は倍に変わります。湊に最も近い代官所の第一倉、第二倉であれば、船から下ろしてそのまま運び込めるため、臨時の人足は五十人で足ります。しかし、もしそこが満杯で、町外れの第三倉まで運ぶとなれば、馬車か大八車が要ります。その場合、人足はさらに百人、大八車が三十台必要になりまする。つまり、三日で二千俵を動かすために必要な人足は、最も条件が良くとも、一日あたり二百五十人。これだけの数を、今すぐ熱田と津島で集めることはできませぬ。集めたとしても、飯の手配だけで一日が潰れます」

 日吉が言い終えると、部屋の中はしんと静まり返った。

 書役の筆が、猛烈な勢いで紙の上を走っている。久兵衛は、日吉が吐き出した数字を一つ一つ、頭の中で吟味しているようだった。

「飯か」

「はい。二百五十人の男が動けば、一日に米五斗が消えます。三日で一石五斗。その飯を炊くための女手、薪、鍋の数。それらをすべて合わせれば、荷を動かす前に、熱田の宿場が破綻いたします」

 久兵衛は何も言わなかった。

 先ほどまで動いていた書役の筆が、一瞬止まった。久兵衛の顔には何も出ていなかった。満足でも、失望でも、驚きでもない。ただ、次の問いを選んでいるような沈黙だった。その沈黙が、日吉には重かった。褒められる方が楽だった。何も言われない方が、次に何が来るか分からない。

「では、五日ならどうだ」

 二つ目の問いが、間髪入れずに飛んできた。

「期間を五日に延ばす。米二千俵。条件は同じだ。どう組み立てる」

 五日。

 日吉の頭の中で、先ほどの計算が一度解体され、新たな時間の枠組みの中に収まっていく。

「五日あれば、大舟十二艘の三往復で千八百俵。残りの二百俵を、小舟が二日間動くだけで運びきることができまする。これであれば、無理な積み込みをして船を沈める危険もございませぬ」

「人足の配置は」

「一日あたりの荷の動きが減るため、熱田、津島ともに、積み下ろしの人足はそれぞれ三十人ずつで回せます。計六十人。船頭は変わらず四十九人。津島の倉が近くであれば、全体の人数は百二十人で足ります。これならば、現在の川並の身内で十分に賄える数にございます」

「倉の容量はどうする。二千俵が一気に津島に流れ込めば、既存の倉では溢れるのではないか」

 久兵衛の指摘は的確だった。日吉は、津島の湊にある倉の大きさを、帳面の手触りとともに思い出した。

「おっしゃる通りにございます。津島の第一倉の容量は千二百石、すなわち三千俵。しかし、現在は伊勢からの買い付け米が六百俵ほど入っているはず。差し引き二千四百俵の空きがございますので、二千俵であれば、第一倉だけで十分に収まります。第二倉を開く必要はございませぬ。これにより、鍵の管理や役人の立ち会いの手間も半分に省けます」

「伊勢の米が六百俵、なぜそれを知っている」

 久兵衛の目が、鋭く細められた。

「四日前、津島の湊で荷揚げを見ておりました。船の喫水と、運び出された俵の数から計算いたしました」

「……」

 久兵衛は何も言わなかった。背後の書役が、驚いたように日吉の顔を見たが、日吉はただ床の一点を見つめ続けた。

 数字は嘘をつかない。人間は嘘をつくが、荷の重さと、それを運ぶ船の沈み具合は、決して偽ることができない。日吉にとって、それは生きるための呼吸と同じだった。

「船は何艘か」

 二度目の問いだった。唐突に、最初の質問が繰り返された。

 日吉は、一瞬の淀みもなく答えた。

「五手二十五艘にございます。大舟十二、小舟十三。大舟のうち、一艘は右舷の板が傷んでおり、重荷を積む際は浸水の恐れがあるため、実際には十一艘として計算しております」

 久兵衛の眉が、わずかに動いた。手元の帳面を開き、あるページを指でなぞる。そこには、日吉が小さな文字で「勘兵衛舟、右舷補修要」と書き殴った跡があるはずだった。

「気づいていたか」

「船頭の勘平が、先週の嵐の際に浅瀬に擦ったと言っておりました。見た目は取り繕ってございますが、米のような濡れてはならぬ荷を積む際は、数を減らすのが鉄則にございます」

 久兵衛は帳面を閉じ、今度はそれを机の端へと追いやった。

「では、最後の問いだ」

 久兵衛が身を乗り出してきた。彼の放つ威圧感が、広い広間の空気を一気に支配する。

「十日なら」

 三つ目の条件。

「十日の猶予を与える。米二千俵。ただし、熱田から津島への移動ではない。熱田から、ここ清洲城まで運ぶ。十日だ。人足、倉、船。すべてを網羅して答えよ」

 清洲城まで。

 日吉の脳裏に、尾張の国を流れる川の筋が、鮮明な絵となって浮かび上がった。

 熱田から津島までは水路でいける。しかし、津島から清洲までは、単純な水路だけでは繋がっていない。五条川を遡るか、あるいはどこかで陸路に切り替えなければならない。

 十日という時間は、一見すると長い。しかし、目的地が清洲城となれば、話は完全に変わってくる。

「……十日、でございますか」

「そうだ。猶予は十分にあるはずだな」

 久兵衛の言葉には、罠が含まれている。日吉は直感的にそれを察した。

 長い時間は、油断を生む。そして、陸路が絡むことで、計算の要素は数倍に膨れ上がる。

「十日あるならば、水路だけに頼る必要はございませぬ。むしろ、水路と陸路を組み合わせるべきにございます」

「言ってみろ」

「まず、最初の三日間で、米二千俵をすべて熱田から津島へ運びます。これは先ほどの『五日なら』の計算よりも早いペースになりますが、大舟十一艘をフルに動かせば、三日間で千六百五十俵が津島に届きます。残りの三百五十俵は、四日目の朝までに小舟で運びきることができまする」

「四日目で、津島に二千俵が集まるわけだな」

「はい。そこからが清洲への移動となります。津島から清洲まで、すべてを陸路で運ぶとなれば、馬車や人足が大量に必要となり、費用が跳ね上がります。差し支えなければ、五条川の水深をお伺いしたく存じます」

 日吉は、頭を下げたまま言った。逆問いをするには、まだ場の空気が許すかどうか測れなかった。しかし数字を出すためには、どうしても必要な一手だった。

 書役の一人が「無礼な」と声を上げそうになったが、久兵衛が手を挙げてそれを制した。

「五条川は、ここ数日の雨で水量は戻っている。だが、大舟が通れるほど深くはない」

「ならば、小舟でございます」

 日吉の声に熱が籠もり始めた。床に伏せていた体を引き起こし、久兵衛の目をまっすぐに見据えた。

「津島の倉に一度収めた二千俵を、五日目の朝から、小舟十三艘に十俵ずつ積み込み、五条川を遡らせます。一日に百三十俵。清洲の城下まで、水路であれば半日で届きます。小舟を往復させ、一日二百六十俵。これを六日間繰り返します。これで千五百六十俵が清洲に届きます」

「残りはどうする」

「残りの四百四十俵は、五日目から並行して、津島から清洲までの街道を大八車で運びます。大八車一台に四俵。一日に二十台を動かせば、一日で八十俵。六日間で四百八十俵。合わせて二千四十俵となり、十日目の夕刻には、すべての米が清洲城の倉に収まりまする」

「途中で雨が降れば」

 久兵衛の声は平坦だった。責めているのではない。ただ、穴を探している。そういう声だった。

「一日分の遅れであれば、陸路の車を増やすことで巻き返しが可能にございます。小舟は雨でも動けます。大八車が泥に取られる日が二日続くようであれば、その分は五条川の小舟の往復を一増やすことで補います。最悪、十一日目の朝までに収まります」

「一日の遅れが許されぬ場合は」

 日吉は一瞬、息を詰めた。

「その場合は、船を夜通し動かします。船頭の体が保つかどうか、それだけが問題にございます。保てば、予定通り十日で収まります。保たなければ、荷が川に沈みます。そこは人間の体の話であり、数字ではございません」

 久兵衛は何も言わなかった。

 日吉の頭の中で、船と大八車が同時に動き、尾張の土地を米が流れていく。

「人足の総数は」

「津島での積み替えに毎日四十人。五条川の船頭に十三人。清洲の城下での荷揚げに三十人。陸路の大八車に二十人。一日あたり、およそ百五人。これを六日間維持いたします。十日という期間であれば、人足を過度に疲弊させることなく、飯の調達も既存の宿場で十分に賄えます」

 日吉は一気に捲し立て、最後にまた深く頭を下げた。

 板敷きの床に、自分の荒い呼吸の音が響いていた。

 頭の中の算盤が、パチパチと音を立てて最後の玉を弾き終えた。これ以上の計算は出せない。これが、今の川並が持つ力のすべてだった。


 書役の一人が、思わず筆を止めた。

 墨が紙の上に黒い染みを作った。もう一人は書き留める手を止めずにいたが、その目だけが日吉へ向いていた。まるで、向かいに人間がいるのに気づいていなかった者が、初めてそこに何かを見たような目だった。

 久兵衛は何も言わなかった。

 机の上の帳面に指を置いたまま、しばらく動かなかった。広間の中で、窓から差し込む光だけが静かに動いていた。

 日吉は頭を下げたまま待った。自分が何か間違えたのか、それとも別の数字を求められるのか、それも分からなかった。ただ、床板の木目を見つめながら、胸の奥で数字を反芻し続けた。二千俵。百五人。六日間。どこかに見落としがあるだろうか。ある、と言われれば、すぐに崩れる数字か。崩れないか。崩れないはずだ。しかし崩れないとも言い切れなかった。


 長い沈黙が、広間を包み込んだ。

 窓の外では、いつの間にか雨が止み、雲の切れ間からかすかな光が差し込み始めていた。その光が、床に溜まった泥水を鈍く光らせている。

 久兵衛は、机の上の帳面に手を伸ばした。

 日吉は、息を殺してその手元を見つめた。

「五条川の水深を、お前は自分の目で測ったのか」

 久兵衛の声が、静かに広間を切った。

 日吉は、一瞬、言葉が止まった。

「……測っておりませぬ」

「伊勢の米が六百俵残っているというのも、喫水から割り出した計算だな」

「はい」

「ならばお前の十日計画は、実測ではなく、推算だ」

 久兵衛はそれだけ言った。否定でも肯定でもなかった。ただ、事実を確認した声だった。

 日吉は頭を下げたまま、答えた。

「推算にございます。しかし、帳面をつけ続けてきた推算でございます。喫水は船頭の体で覚えるものでございます。倉の容量は、荷を数えながら積んだ者でなければ分かりません。数字が合っているかどうかは、動かしてみなければ分かりませぬ。ただ、動かす前に最も近い数字を出せる者が、川並の算盤でございます」

 久兵衛は何も言わなかった。

 しばらく、誰も動かなかった。

 久兵衛は帳面を手に取ると、パラパラとめくり、日吉の方へと投げ返した。

 帳面は、日吉の目の前の床の上を滑り、泥水の手前で止まった。

「船は何艘か」

 三度目の、最後の問いだった。

 日吉は帳面を拾い上げ、胸の内にしっかりと抱きしめた。

「五手二十五艘。動かせる大舟は十一艘。川並の命の数にございます」

 久兵衛は、ゆっくりと立ち上がった。

「お前の名は聞かぬと言ったが」

 彼はそう言いながら、机の上の墨を片付け始めた。

「お前が書いたこの数字の羅列は、確かに川並の川底を見てきた者の言葉だ。ただの算盤持ちには、五条川の水深と大八車の数をこれほど早く突き合わせることはできん」

 久兵衛は背後の書役に目配せをした。書役たちは、書き取った大量の紙をまとめ、一礼して部屋を出て行った。

 二人きりになった広間で、久兵衛は日吉を見ずに言った。

「木札は持っていけ」

「三日で五十俵。それがお前の最初の仕事だ。二千俵の話は、近い将来、現実のものとなる。その時まで、その汚い帳面をこれ以上汚さぬよう、正確に付けておけ」

 久兵衛は一度だけ、手の中の書付を日吉へ投げるように見せた。

「お前の言う津島の第一倉の空き、二千四百俵という数字だが」

 その声は低く、穏やかで、凪いだ川のようだった。

「実際は二千二百八十俵だ。伊勢からの荷のほかに、先月末に代官所が検分した際、傷み俵が六十俵出た。それを差し引いておらぬ」

 日吉は、頭を下げたまま動けなかった。

 百二十俵の差。四日前の喫水では読めない数字だった。

「……存じませんでした」

「知らぬのは当然だ。傷み俵の検分記録は、代官所の奥帳にしか残らぬ。お前が見られるものではない」

 久兵衛は、それ以上何も言わなかった。責めるのでもなく、教えるのでもなく、ただその差分を耳に刻ませるために言った。そういう間合いだった。

 日吉は畳の目を見つめながら、その数字を胸の奥に刻んだ。二千四百ではなく、二千二百八十。自分の推算が届かなかった場所に、久兵衛の目は初めから届いていた。

「……ははっ」

 日吉は、額を床に擦りつけた。

「下がれ」

 その声を聞くと同時に、日吉は立ち上がり、一礼して広間を後にした。

 廊下に出ると、膝が激しく震えた。壁に手を突き、しばらくの間、荒い息を整えなければならなかった。

 懐の帳面が、確かにそこにある。

 久兵衛に問い詰められた「三日」「五日」「十日」の数字が、まだ頭の中で熱を持って回転していた。

 名は聞かれなかった。ただの道具として扱われた。

 それなのに、胸の奥が熱かった。理由は分からなかった。壁に手を突いたまま、日吉はその熱を持て余した。

 しかしその熱の奥に、冷たいものが滲んでいた。

 二千二百八十俵。

 その数字が、頭の中で小さく光っていた。自分の推算が届かなかった場所に、あの男の目は最初から届いていた。問われたのは数字だけではなかった。どこまで見えているか。どこから先が見えていないか。久兵衛の問いは、最初からそこを測っていたのかもしれない。

 本当に合っていたのか。自分が弾いたあの数字が、明日になれば久兵衛に間違いを指摘されるかもしれない。五条川の水深を、日吉は自分の目で測ったわけではない。津島の第一倉に六百俵残っているという計算も、四日前に見た喫水から割り出したものだ。あの荷が、途中で別の倉に移されていたとしたら。そう思い始めると、胸の中で数字が小さく揺れた。

 高揚と不安が、同じ熱を帯びて日吉の腹の中で渦巻いていた。

 城門を出ると、風はまだ冷たかったが、ぬかるんだ道を踏みしめる足取りは、来る時よりも遥かに確かだった。

 手の中の木札を見る。五十俵、三日、津島。

「さあ、始めるか」

 日吉は誰に言うでもなく呟き、川並の帳場へと向かって、泥の道を力強く歩き出した。

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