第三十一話:呼び出し
第三十一話:呼び出し
呼び出しの文が届いたのは、三日前の夕刻だった。
使いの者は文を置くと、名も告げずに去った。日吉が封を開くと、紙は一枚だった。「明後後日、清洲へ来られたし」とだけ書いてあった。差出人の名は久兵衛。代官所の役向きの者。それ以上のことは書かれていなかった。
なぜ呼ばれるのか、文には書いていなかった。
何を知られているのか、それも書いていなかった。
日吉は文を折り、帳面の間に挟んだ。それからまた取り出して、もう一度読んだ。内容は変わらなかった。また折って、挟んだ。
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その夜、日吉は夜中に一度起きた。
喉が渇いていた。水を飲んだ。また横になった。眠れなかった。天井の節を数えた。七つあった。また数えた。七つだった。
帳面を引き出した。灯を近づけて、書いてある数字を順番に見た。荷の数。船の数。日付。金額。見た。閉じた。
数字が、頭の中に残っているかどうか確かめようとした。船の数。二十五。大舟十二。残った。
また開いた。確かめた。合っていた。閉じた。
横になった。目を閉じた。船の数が浮かんだ。二十五。大舟十二。正しいかどうか、また不安になった。また開こうとして、手が止まった。今見たばかりだった。また開いた。見た。二十五。十二。閉じた。
どこに不備があるのか、自分では分からなかった。不備がないから呼ばれないとも、限らなかった。
もう一度横になった。
夜中にもう一度起きた。今度は水を飲まなかった。帳面に手が伸びた。また開いた。暗くて字が読めなかった。灯を持ってこようとして、やめた。また横になった。ただ暗い天井を見ていた。
節は七つだった。
朝になっていた。
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翌日。
飯椀を出された。箸をつけた。三口で置いた。残りは下げてもらった。
帳場に座って、帳面を広げた。数字を見た。どこかに余計なことを書いたか。誰かに見られたか。思い当たるものを順番に引っ張り出して、また戻した。分からなかった。
小竹が来て、荷の確認を求めた。日吉は答えた。答えながら、頭の別のところでずっと同じことが回っていた。なぜ呼ばれるのか。何を知られているのか。
「日吉さん」
小竹が言った。
「聞いていましたか」
日吉は小竹を見た。小竹が何かを言っていたことは分かったが、内容が頭に入っていなかった。
「繰り返してくれ」
小竹は繰り返した。荷の話だった。日吉は答えた。答え終わって、自分が何を答えたか、すでに薄れていた。
おとよが茶を持ってきた。「顔色が悪いです」と言った。
「寝不足だ」
おとよは何も言わずに戻った。
昼になった。また飯が出た。また三口で置いた。
呼び出しのことは、誰にも言わなかった。言っても何も変わらなかった。ただ心配させるだけだった。それだけは分かっていた。
夕方になって、帳面をもう一度開いた。船の数を見た。二十五。大舟十二。閉じた。また開いた。変わっていなかった。閉じた。
夜になった。
また夜中に起きた。
水を飲んだ。また横になった。眠れなかった。節を数えた。七つだった。
帳面を引き出した。開いた。見た。閉じた。横になった。数字が正しかったかどうか、また分からなくなった。また開いた。正しかった。閉じた。
朝になっていた。
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三日目の朝。
清洲城へ続く道に出た。昨晩の雨で、ぬかるみがひどかった。
草鞋の底を抜けて、冷たい泥の感触が足の裏にじかに伝わってくる。日吉は何度も足元を取られそうになりながら、ただひたすらに前だけを見て歩いた。ぬかるみに足をとられるたび、足首まで茶色い泥水に浸かり、ざらついた砂が皮膚を擦る。
頭の中で、ずっと同じことが回っていた。
帳面に不備があったか。荷の数が合わなかったか。誰かが何かを告げ口したか。
答えは出なかった。出ないまま、道を歩いた。
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城門をくぐった。
中は、思っていたより騒がしかった。
右手の蔵の前で、男が二人、荷を巡って言い争っていた。どちらの声も高かった。通りかかった日吉を気にする様子は、どちらにもなかった。荷の数が違うとか、届いた日が違うとか、そういう話だった。
廊下の角に、桶が一つ転がっていた。誰かが蹴ったのか、中の水が半分こぼれて、板の上に広がっていた。そこを踏んで通り過ぎた足跡が、廊下の先まで続いていた。
廊下をまっすぐ進んだ。壁際に米俵が積まれていた。縄の結び目が緩んでいる俵が一つあり、そこから米粒が少しずつこぼれ落ちていた。誰も気にしていなかった。
墨の臭いがした。どこかで誰かが、大量に書き物をしている。別の廊下の先から、誰かが怒鳴る声がした。内容は聞き取れなかった。
懐の帳面が、歩くたびに脇腹にあたる。その感触だけを確かめながら、廊下を進んだ。
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奥の間の前で、案内の者が立ち止まった。
声を掛けると、中から短く返事があった。
日吉は一度、息を吸った。
襖が開いた。
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久兵衛は帳面を広げていた。
日吉が入っても、顔を上げなかった。筆を動かす音だけが、部屋の中に続いていた。日吉は入口で膝をつき、額を畳に近づけた。久兵衛は何も言わなかった。筆の音が続いた。
畳の目が、目の前にあった。日吉は畳の目を数えた。細かくて、端まで数えきれなかった。
筆の音が続いた。
紙が一枚、めくれた。また筆の音が続いた。
日吉はもう一度、畳の目を数えようとした。どこから数えたか分からなくなって、また最初から数えた。
どれくらい待ったか分からなかった。長かったのか、短かったのか、判断がつかなかった。
声が来た。
「船は何艘か」
日吉は顔を上げた。
久兵衛はまだ帳面を見ていた。日吉の方を向いていなかった。
「……は、はい」
声が出た。自分の声が、想像より小さかった。
「声が小さい。船の数を聞いている」
日吉は喉を一度鳴らした。唾を飲み込もうとしたが、喉が乾いていて上手くいかなかった。
「五手二十五艘。うち、荷を積んで動ける大舟は十二艘にございます」
懐から帳面を取り出し、畳の上を滑らせた。手垢と泥で汚れた紙が、畳の目に引っかかりながら久兵衛の前まで進んだ。
「十二艘か。津島から熱田へ抜ける分を合わせれば、さらに八艘は積めるはずだが」
久兵衛は帳面に指一本触れなかった。帳面から目を上げ、初めて日吉を見た。
さらに八艘、という言葉が、日吉の頭の中で一度だけ繰り返された。
その数は、帳面の中にしか書いていなかった。
「それは、水深が足りませぬ」
日吉は声が出た瞬間、唇を引き結んだ。しかし声は出てしまっていた。
「今の季節、犬山からの下りは浅瀬が多く、大舟に満載すれば底を叩きます。動かせるのは十二が限界でございます。それ以上を無理に通せば、座礁して荷が濡れます。荷が濡れれば、乾かすために三日は余計に足止めを食らうことになりまする」
言い終わってから、日吉は額を畳に向けた。
久兵衛は何も言わなかった。
ゆっくりと手を伸ばし、日吉が差し出した帳面を拾い上げた。ぱらぱらと、紙をめくる音が静かな部屋に響いた。
「文字が汚いな」
「ですが、嘘は書いておりませぬ」
また声が出た。唇を噛んだ。
久兵衛は答えなかった。帳面の紙面を目で追い、どこかで指を止め、また次のページへ移った。日吉は畳の目を見つめたまま、久兵衛が帳面をめくる音だけを聞いた。ページが尽きたのか、ぱたりと音が止んだ。
「嘘か真かは、明日、川並の者に確かめる」
そう言って、久兵衛は帳面を懐に収めた。
日吉の帳面が、久兵衛の懐に消えた。
日吉は思わず顔を上げた。
帳面がない。
昨日の夜、確かめた。船の数、二十五。大舟、十二。日付、金額、荷高。全部頭の中に入っているはずだった。入っているはずだった。しかし今、帳面が見えなくなった瞬間、その確信が薄れた。本当に二十五だったか。十二だったか。今朝も確かめた。確かめたはずだった。帳面を見れば確かめられた。しかし帳面は今、久兵衛の懐にある。
日吉は額を畳に向けた。
数字は頭の中にある。ある、はずだった。
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部屋の中が静かになった。
久兵衛は机の上に置かれていた木札を、日吉の前に放った。乾いた音が畳の上で跳ね、日吉の指先に当たった。
「熱田へ行け」
「……はい」
「宮の宿の馬借から、五十俵引き受けろ。津島の湊まで運べ」
五十俵、という言葉が落ちた瞬間、日吉の頭の中で何かが動き始めた。
五十俵。一俵四斗。重さにして約六十斤。五十俵なら三千斤。大舟一艘で積める上限が——
計算が途中で止まった。
大舟は今、何艘動かせる状態か。十二艘と言ったが、あれは最大だった。今すぐ動かせるのは何艘か。人足は何人要る。熱田から津島まで、水路でいくか陸路でいくか。水路なら川の深さが——
久兵衛の声が来た。
「三日だ」
計算が崩れた。
三日。人足を集める時間が要る。船を手配する時間が要る。荷を積む時間が要る。全部合わせると、三日では——
「下がれ」
久兵衛の声は、帳面の方を向いたままだった。
日吉は木札を拾い上げた。角が皮膚に食い込んだ。
頭の中の計算は、まだ途中だった。数字が足りなかった。人足の数が分からなかった。今すぐ動かせる船の数が分からなかった。分からないまま、三日という数字だけが残っていた。
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廊下へ出た。
廊下の板が、足の下で小さく軋んだ。日吉はそこで一度、立ち止まった。
三日で五十俵。
頭の中で、また計算が始まった。人足を一日で集められるか。船の手配に何日かかるか。熱田から津島まで、順調にいけば何刻か。
米俵の積まれた壁際を通った。縄の緩んだ俵から、まだ米粒がこぼれていた。さっきと変わっていなかった。
計算が途中で止まった。
さらに八艘、という言葉が戻ってきた。帳面の中にしか書いていなかった数を、久兵衛は知っていた。
桶が転がっていた廊下の角を曲がった。こぼれた水は、少し蒸発していた。足跡の跡だけが、板の上に薄く残っていた。
誰かが帳面を見たのか。あるいは帳面を付けていること自体を、誰かが伝えたのか。
三日で五十俵という計算が、また頭に戻った。船が足りない気がした。人足が足りない気がした。しかし正確な数字が出てこなかった。
蔵の前では、もう言い争いはなかった。荷は積まれたままだった。男たちはいなかった。
城門を出た。
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ぬかるみがまだそこにあった。朝より乾いてはいなかった。
日吉は来た道を戻った。草鞋の底から冷たい泥の感触が伝わってきた。
五十俵。三日。津島。
木札を握り直した。角が指の腹に当たった。
頭の中で、また計算を始めた。人足を今日中に手配できるか。船は明日の朝には出せるか。荷の積み込みに半日かかるとして——
ぬかるみに足を取られた。片足が膝まで沈んだ。草鞋を引き抜くのに、両手を使った。木札を一度、道の端に置いた。草鞋を引き抜いた。木札を拾った。
計算が、どこかへ飛んだ。
また最初から始めた。五十俵。人足は——何人だった。さっきまで数字が出ていたのに、今は出てこなかった。
道の両側に、枯れかけた草が並んでいた。雨に打たれて、全部同じ方向に倒れていた。日吉はその草を見ながら歩いた。見ていたが、見ていなかった。
五十俵を三日で津島へ。
人足。船。積み込み。荷継ぎ。川の水深。天気。
並べた。また崩れた。並べた。また崩れた。
さらに八艘、という言葉が、また一度だけ頭を過った。帳面の中にしか書いていなかった数だった。それだけが確かだった。あとは全部、まだ分からなかった。
道が少し登りになった。泥が固くなった。草鞋の底が乾いた地面を踏んだ。
木札を見た。五十俵。三日。津島。三つだけ書いてあった。
五十俵を三日で動かすのに、何が要るかは書いていなかった。
五十俵なら、舟一艘で足りる。足りるはずだった。だが舟は勝手には動かない。船頭がいる。荷を担ぐ人足がいる。熱田の馬借との受け渡しがいる。一つ遅れれば次も遅れる。人足を今日中に頼めるか。船頭の都合が明日つくか。荷の積み込みだけで半日は要る。残り二日半で津島まで届くか。
計算が途中で崩れた。
人足の数が出てこなかった。今すぐ動かせる船頭が何人いるか、帳場へ戻って帳面を見るまで分からなかった。その帳面は今、久兵衛の懐にある。
また歩いた。
木札の角が、歩くたびに指に食い込んだ。五十俵。三日。津島。
帳場へ戻ったら、まず書かなければならない。
五十俵。三日。津島。それだけではない。さらに八艘、という久兵衛の言葉も書かなければならない。書かなければ忘れる。忘れれば、荷が止まる。荷が止まれば、次は数字では済まない。
木札を握ったまま、日吉は歩いた。
道の泥は、帰りも深かった。




