第三十七話:城
第三十七話:城
清洲城の門をくぐった瞬間、空気の密度が変わった。
熱田で感じたあの底の知れない静けさは、城の内部にはひとかけらも残っていなかった。怒鳴り声が幾つも重なり、誰かが走り、どこかで重いものが倒れる鈍い音がした。城門をくぐってほんの数歩で、日吉の耳は既に一つの声を判別できなくなっていた。
日吉は一歩、足を前に踏み出した。草鞋の底が板敷を踏む音が、周囲の怒号に一瞬でかき消される。
城内は、滅茶骨茶だった。
廊下の両脇には、手配が間に合わなかったらしい乾魚の籠や、縄の緩んだ米俵がうずたかく積み上げられ、まともな通路すら残されていない。その狭い隙間を、小者たちが木札の束を抱えて文字通り死に物狂いの形相で走り抜けていく。すれ違いざまに肘がぶつかり、木札が一枚床に落ちる。小者はそれを拾う時間もなく、角を曲がって消えた。落ちた木札は、通る者に踏まれ、また踏まれ、やがて誰かの草鞋に引っかかって脇へはじき飛ばされた。
廊下の天井近くに、誰かが貼ったらしい書付がある。風もないのに、端が捲れかかっていた。その下を、別の小者が頭を下げながら走り抜けた。書付は捲れたまま、誰にも読まれなかった。
少し先では、縄の解けかけた俵が廊下の端に斜めに積まれていた。一番上の俵が、今にも滑り落ちそうな角度で止まっている。誰かが通るたびに、その俵がわずかに揺れた。しかし誰もそれを直しにいかなかった。走り抜ける小者も、書付を抱えた役人も、皆その俵の横をすり抜けるだけで、一瞥もしなかった。
「だから、三十俵だと言ったはずだ!」
すぐ右手の広間の境目で、顔を真っ赤にした役人が叫んだ。その手元からは、数枚の書付がひらひらと煤けた床へ滑り落ちていく。
「熱田の蔵には三十俵あると、そっちの書付に書いてあったろうが!」
「知るか! 無いものは無いんだ!」
対面する年配の奉行らしき男が、手元にあった木製の墨壺を怒りに任せて蹴飛ばした。
ゴトゴトと音を立てて転がった墨壺から、真っ黒な液体が床板の木目にじわじわと染み込んでいく。それを拭おうとする者は誰もいない。男は立ち上がり、相手の胸ぐらを掴まんばかりに身を乗り出した。
「現に今朝届いたのは二十五俵しか無い! 残り五俵はどこへ消えた! 船頭が着服したか、それとも川並の奴らがかすめ取ったか、どっちだ!」
「そんなことは現場の奴らに聞け! 俺の帳面には三十とある!」
日吉は懐の帳面に手を当てたまま、その喧嘩の横をすり抜ける。胃の奥が小さく痙攣するのを感じた。
少し進むと、また別の怒鳴り声が廊下を叩いた。
板張りの隅に、城付きの奉行とおぼしき男が二人向かい合って座っている。一人は腕を組んで壁に背をもたせかけ、もう一人は膝の上で帳面を広げたまま、額の汗を袖で拭っていた。
「津島の米商の件はどうした。先月の約束では、今月中に二十俵が入るはずだったが」
「入らない。向こうが値を上げてきた。先月より俵あたり三文高い」
「三文。なぜだ」
「なぜかは知らない。ただ、三文出さないなら売らないと言ってくる」
「三文、飲めるか」
「飲めない。既に別の口から四十俵の支払いが詰まっている。今月はもう銭が足りない」
帳面を持つ方の男が、指で数字を叩きながら呟いた。
「あと何日猶予がある」
「五日」
「五日か」
二人とも、黙った。帳面の数字を睨んだまま、どちらも次の言葉を持っていないようだった。
日吉はその横を通り過ぎた。
五日。自分の中の別の数字が、反射的に動いた。船が動くなら川沿いにもう一軒、角蔵の伝手を使えば津島でも何か手が打てるかもしれない。そこまで考えて、日吉は頭の中でその考えを強引に押し込んだ。今は自分の荷だけで手一杯だった。
さらに奥の回廊を進むと、今度は人足の配分を巡る揉め事が視界に入った。
「人足が二十人足りない! 今日中に西の倉へ回さねば、明日の日の出までに積み込みが終わらん!」
「二十人だと? そんな人足、どこに転がっているというのだ。熱田からも津島からも、これ以上は一人も引けんと言ってきたばかりだ!」
「納期は変えられんのだぞ! 遅れれば首が飛ぶのはこっちだ!」
別の奉行が、髪を振り乱しながら叫んでいる。その足元には、書き損じたらしい紙切れが何枚も散乱し、泥のついた足半で踏みにじられていた。
叫んでいる男の手には、細く折りたたまれた書付が握られていた。握り過ぎて紙の端が破れかけている。
日吉は視線を落としたまま、その横をすり抜けた。
誰も、熱田で消えた古い問屋たちの話をしていなかった。
あの一件について、城内は不気味なほど完全に沈黙している。小六があれほど怯え、熱田の浜が静まり返ったというのに、この城の役人たちはただ、目の前で決壊していく数字の処理だけに追われ、怒鳴り合い、狂奔していた。
そのことが、日吉にとってはかえって恐ろしかった。
日吉は息を潜め、壁際に背を預けるようにして進んだ。
その時だった。
激しい怒号が飛び交う薄暗い廊下の向こうから、足早に歩いてくる足音が聞こえた。
日吉の視線が、自然とその男の足元に向く。
小袖の裾が、ひどく汚れていた。それも、古い汚れではない。つい先ほど、城の外のぬかるみを、馬にも乗らずに自らの足で這い回ってきたかのような、生々しく乾きかけた泥の塊が、粗末な布地にいくつもへばりついている。
身なりは、およそ城の主のそれとは思えないほど質素で、薄汚れていた。肩のあたりには、何か荷でも担いだのか、擦れたような跡すらある。年齢はまだ若い。
足の運び方が速かった。誰かと話しているわけでも、何かを確認しているわけでもなく、ただ次の場所へ向かっている、その足の速さだった。
その若い男が、ただ風のように廊下を通り抜けようとした。
瞬間、あれほど激しく「五俵足りない」と怒鳴り散らしていた役人たちの声が、刃物で断ち切られたように止まった。
墨壺を蹴飛ばした奉行も、胸ぐらを掴みかけていた男も、一瞬で顔面を蒼白にさせ、その場に崩れ落ちるようにして畳に額を擦りつけた。散乱した紙切れや、黒く流れた墨の上に、躊躇なく自らの頭を叩きつけている。
津島の米の値を巡って沈黙していた二人も、帳面ごと床に伏した。帳面の角が床に当たって、乾いた音を立てた。
日吉の身体も、思考より先に動いた。
釣られるようにして首をすくめ、膝を折り、冷たい床板へと視線を落とした。
カツ、カツ、と、泥のついた足音が、日吉のすぐ目の前を通り過ぎていく。
男は、日吉を見ることも、左右に平伏する役人たちに一言をかけることもなかった。ただ前だけを見据え、迷いのない足取りで、滅茶骨茶な書類の山の横を、ただの景色のようにすり抜けていく。
泥のついた小袖の裾が、日吉の視界の端を通った。
それだけだった。
男が角を曲がり、足音が遠ざかる。
「……若様……」
どこか後ろの広間の奥で、誰かが消え入りそうな小さな声で呟いた。その一言だけが、乾いた風のように日吉の耳をかすめて消えた。
日吉は顔を上げなかった。
懐の帳面の感触に、意識を集中させた。
しばらくして、平伏していた役人たちがじわじわと身体を起こし始めた。
しかし、先ほどまでの「数字の怒鳴り合い」の熱気は、完全には戻らない。廊下のあちこちで、男たちが半分だけ身を起こしたまま、誰と目を合わせることもなく、書付や帳面を拾い直している。津島の値を巡っていた二人も、また向き合ったが、しばらく口を開かなかった。さっきまで拳を振り上げていた男が、散乱した紙切れを一枚ずつ拾い集めている。その手が、微かに震えていた。
今度は、回廊の奥から全く異なる種類の「静寂」が波及してきた。
足音は、高くも低くもなかった。
だが、その姿が見えた瞬間、廊下にいた小者や役人たちが、今度は「避けた」。
額を畳に擦りつけるのではない。まるで、自らの身に迫る巨大な荷車の衝突を避けるかのように、全員が素早く壁際へと身体を寄せ、通路を開けたのだ。
久兵衛が、歩いてきた。
相変わらず、その顔には何の感情も浮かんでいない。怒鳴ることもなく、周囲の混乱に視線を向けることもなく、ただ手にした数枚の書付だけをじっと見つめながら、淡々と足を動かしている。
紙切れを拾い集めていた男が、久兵衛の気配に気づいた瞬間、拾いかけた紙を床に戻してそのまま壁際に張り付いた。拾いかけた紙は、また床に落ちた。久兵衛はその紙を踏んで、止まらなかった。
久兵衛の足が、日吉の目の前でぴたりと止まった。
日吉の胃の腑が、雑巾を絞るようにきりきりと痛む。
「日吉か」
久兵衛の声は、どこまでも平坦だった。
「は、はい」
日吉は乾いた喉を鳴らし、一歩前へ出て平伏した。
久兵衛は、熱田の問屋のことには一言も触れなかった。「よくやった」とも「仕方のないことだ」とも言わない。ただ、手元にあった書付を、日吉の目の前の床へと落とすように置いた。
「次の分の数字だ。糒、および塩干魚。今度は百俵を津島へ運べ」
百俵。
数字が、日吉の頭の中で冷たく響いた。
五十俵を運ぶだけでも、おとよと飯炊き女が大喧嘩を起こし、小六が勝手に暴走し、与助が泥の上に座り込んで泣いた。それが雨で流れ、川並に縄張りを踏み荒らされ、自分たちの食い扶持まで積み込んで、ようやく数字が揃った。その倍の数字が、何の説明もなく、ただ次の納期として降ってきた。
「……百、でございますか」
日吉が言いかけると、久兵衛は表情を一切変えずに書付をパタンと畳んだ。その双眸には、日吉への期待も、あるいは試すような色も、何一つない。
「無理か。なら、他を探すだけだ」
他を探す。それは、日吉という歯車が不要になることを意味していた。
忘れたら荷が止まる。荷が止まれば首が飛ぶ。
熱田の釜だけが残った、あの暗い店の中が、一瞬だけ脳裏をよぎった。
「……いえ」
日吉は床に額をつけたまま、震える手でその新しい書付を掴んだ。
「三日のうちに、手配を始めます」
「そうか」
久兵衛はそれだけ言うと、二度と日吉を見ることなく、再び無表情に書付をめくりながら歩き去っていった。
廊下に残る役人たちの間から、また怒鳴り声が戻り始めていた。
「だから、三十俵と言ったはずだ!」
「二十五だ! 俺の帳面には二十五と書いてある!」
城の混沌は、久兵衛が通り過ぎた後も、まるで水が低い方へ流れ込むように、元の形に戻っていく。
日吉はその怒鳴り声を背中で聞きながら、手の中の書付を懐に仕舞った。
城門へ向かって歩き出した瞬間、頭の中で何かが崩れ始めた。
角蔵の船だけでは足りない。
そう思った瞬間に、別の船頭の顔が浮かんだ。浮かんだが、その顔の後ろから今度は川並の連中の顔が出てきた。
縄張り。
そう思った瞬間に、銭が浮かんだ。銭の後ろから、おとよの顔が出てきた。
おとよ。
そう思った瞬間に、飯炊き女との喧嘩が浮かんだ。水は指二本分少なく。津島の旅籠でも同じことを言わなければならない。津島の旅籠が何軒あるか、日吉はまだ知らない。知らないまま、また走ることになる。
釜。
干場。
薪。
人足。
与助が泣く顔が浮かんだ。
小六が笑う顔が浮かんだ。
雨が降る。
川が増水する。
荷が流れる。
百俵。
百俵。
百俵。
数字だけが頭の中に残った。その数字の後ろから、別の数字が押し寄せてきた。船の艘数、人足の頭数、銭の不足分、釜の口数、日数、俵数。数字が数字を押しのけ、押しのけられた数字がまた別の問題を引き連れて戻ってくる。
頭の中で、城の廊下がそのまま続いているような気がした。三十俵だ、二十五俵だ、と怒鳴り合っていたあの声が、まだ耳の奥に残っている。日吉は自分の頭の中で、同じ怒鳴り合いが始まっているのを感じた。
百俵あれば船が何艘いる。船が何艘いれば人足は何人いる。人足が何人いれば銭はいくら必要になる。銭がいくら必要になれば、おとよはどんな顔をする。おとよがどんな顔をすれば、小六はどう動く。小六がどう動けば、また誰かと揉める。
一つ数えるたびに、その答えがまた次の問いを生んだ。問いは増える一方で、減ることがなかった。船を一艘増やせば人足が増える。人足が増えれば銭が増える。銭が増えれば誰かが渋る。誰かが渋れば荷が遅れる。荷が遅れれば、久兵衛の筆が止まる。
久兵衛の声が、頭の中でもう一度響いた。
無理か。なら、他を探すだけだ。
日吉は足を止めずに、ただ歩いた。立ち止まれば、押し寄せる数字に押し倒されそうだった。喉が乾いていた。胃の底が、また絞られるように痛んだ。だが膝は折れなかった。
一人では抱えきれない。
抱えきれないから書く。
日吉は城門を抜けた。立ち止まり、懐から帳面を引き出した。泥と墨と汗で、表紙がぐっしょりと重くなっている。
筆を取った。
城の方角から、また怒鳴り声が遠く聞こえた。三十俵か二十五俵か、誰かがまだ叫んでいる。
日吉は顔を上げなかった。
帳面の白紙に、最初の一字を書いた。




