第二十四話:毒
第二十四話:毒
与助が倉に戻って三日が経った。
体は来ていた。声も出ていた。帳簿を開き、数字を追い、女衆に指示を出した。仕事はこなしていた。だがそれだけだった。五年前の与助は、女衆の一人が顔色の悪い日に気づいた。荷役人が腹を空かせていれば、自分の握り飯を半分渡した。今の与助は、帳簿を見ていた。数字を見ていた。人の顔より先に、数字を見ていた。
日吉はそれを見ていた。何も言わなかった。
四日目の朝のことだった。
女衆の一人、おきねという三十ほどの女が、与助のところへ来た。おきねは五年前から倉で働いていた。仕込みが早く、塩の加減が正確で、与助が最も頼りにしていた女の一人だった。
「……娘が熱を出しまして」おきねは小声で言った。「今日は早く上がらせていただけないかと」
与助は帳簿から目を上げた。おきねを見た。それから、壁に貼り出された出荷予定に目を移した。
「今日の午後、熱田向けの束を仕上げる日じゃ」
「存じております。ですが——」
「代わりを立ててから帰れ」
おきねが黙った。周囲の女衆が、手を止めた。誰も声を出さなかった。与助はすでに帳簿に目を戻していた。おきねは少し口を開きかけて、閉じた。頭を下げて、持ち場へ戻った。
日吉はその一部始終を、広間の入り口から見ていた。
五年前の与助なら、おきねの顔を見た瞬間に分かっていた。娘が熱を出したと聞く前に、もう帰らせていた。自分の懐から銭を出して、薬を買えと言っていた。それが与助だった。今の与助は、帳簿を見た。出荷予定を見た。代わりを立ててから帰れと言った。間違っていなかった。倉の仕事として、正しかった。だがおきねの顔が、凍っていた。
毒は、正しさの形をしていた。
与助はおきねが背を向けた後、帳簿に視線を落とした。次の行の数字を写し始めた。筆が動いた。止まった。与助は自分の書いた数字を見た。違った。書き直した。また違った。同じ欄に、同じ間違いを二度書いていた。与助は筆を置いた。帳簿を閉じた。閉じてから、動かなかった。数秒、あるいはもう少し長い間、ただ帳簿の表紙を見ていた。広間に音がなかった。女衆は全員、顔を背けていた。
正しいことをしたはずだった。間違っていないはずだった。だが手が動かなかった。
広間へ戻った日吉に、小竹が声をかけた。
「与助は気づいていた」小竹は帳簿から目を上げなかった。「自分が何をしたか。だから余計に怖い」
「分かっている」
「兄上も気づいていた。だから余計に言えなかった」
日吉は答えなかった。縁側に出た。遠くで、おきねが誰かに声をかけているのが見えた。代わりを探していた。背中が小さかった。
昼過ぎ、日吉は甚助と源三を広間に呼んだ。
「結いを作る」と日吉は言った。
甚助が首を傾げた。「結い、とは」
「倉で働く者が病になった時、あるいは家族が倒れた時、銭を出す仕組みじゃ。毎月少しずつ積み立て、必要な者に渡す。給分から天引きするのではない。倉が半分持つ」
源三が口を開いた。「倉がそんな銭を出せるのですか」
「今季の利から出す。帳簿を見れば分かる」
「帳簿を……」源三は少し止まった。「帳簿を、皆に見せると」
「結いに関わる部分だけじゃ。だが見せる」
甚助が顔を上げた。「そんなもの見せてよいのですか。収支が外へ漏れれば、熱賀屋に筒抜けになります」
「今も漏れている」と日吉は言った。「与八の件を見れば分かる。隠しても漏れる。ならば見せて、信じてもらう方が早い」
源三は腕を組んだ。「皆が知れば騒ぎます。なぜ自分の給分はこれだけかと。不満が出ます」
「疑いの方が高くつく」日吉は言った。「今、倉の者の半分が、結いを信じていない。帳簿を見せれば、銭があることが分かる。疑いが半分消えれば、それで十分じゃ」
甚助と源三はしばらく顔を見合わせていた。
「もう一つある」日吉は続けた。「保存食の仕込みに、基準を作る。塩の量、火の通し方、束の縛り方。全部書き記し、どの倉でも同じ品を出せるようにする。熱田の問屋から苦情が来た。品質がばらつくと。人が一人抜けただけで品が変わるなら、仕組みが弱い。手順に頼る仕組みに変える」
「それは……」甚助がゆっくり言った。「与助さんの仕事を、紙に書き写すということでは」
「そうじゃ」
甚助が静かに言った。「与助さんは、何と」
「まだ話していない。だが——」日吉は少し間を置いた。「今日の朝のおきねの件を見て、与助自身も分かっているはずじゃ。自分の中で何かが変わったことを」
甚助が何かを言いかけた。「しかし、皆が感謝するとは限りませぬ。結いを当然のものと思う者も出てきます。恩を売ることにはならぬかと」
日吉は首を振った。「感謝はいらん」
甚助が止まった。
「恩もいらん」日吉は続けた。「困った時に倉へ来るようにしたいだけじゃ。感謝で人は動かぬ。だが仕組みで人は残る。残れば倉が動く。倉が動けば皆が食える。それだけじゃ」
源三が少し引いた顔をした。甚助は何も言えなかった。二人の顔に書いてあった。日吉様は変わった、と。日吉はそれを見ていた。変わったのではない。ただ、分かってきたのだった。情で動かそうとすれば、熱賀屋の速さに負ける。仕組みで動かせば、熱賀屋より遅くても追いつける。それだけだった。
二人が下がった後、日吉はすぐに動いた。甚助を呼び戻し、一つだけ言った。「おきねの娘の薬代を、今日の倉の銭から出せ。結いの先払いじゃ。おきねには、これが結いの第一号だと伝えろ」
甚助は少し驚いた顔をした。「正式に始まる前に、ですか」
「正式に始まる前に出すから、意味がある」
夕方、おきねが倉の入り口で立ち止まった。甚助から薬代の包みを受け取って、しばらく動かなかった。それから顔を覆った。声を出さずに泣いていた。周囲の女衆が、黙って見ていた。
与助はその様子を、帳簿の向こうから見ていた。視線を感じた日吉が見ると、与助は目を伏せていた。帳簿に落とした目が、止まっていた。文字を読んでいなかった。
しばらくして、与助は立ち上がった。おきねのところへ歩いた。何かを言った。声は聞こえなかった。おきねが顔を上げて、また俯いた。与助が背を向けて戻ってきた。その目に、何かが揺れていた。帳簿の数字ではない、別のものを見ていた。
だが与助は何も言わなかった。席に着いて、また帳簿を開いた。
それで十分だと、日吉は思った。与助はまだ、完全には死んでいなかった。
夕刻、小六から知らせが来た。
「与八が来ておりません」小六は報告した。「昨日も来ました。今日も朝までは来ておりました。しかし——」
小竹が帳簿に筆を走らせていた。
「昼から来ていない」と小六は続けた。「甚助が与八の家を訪ねると、母親だけがいたそうで。与八は夜明け前に出かけたきり戻っていないと。川並衆の者から知らせが来ました。与八が津島で熱賀屋の荷役人と話しているのを見たと」
部屋が静かになった。
小竹の筆が、止まった。
日吉は小竹を見た。筆先が紙の上にあった。動いていなかった。細い墨の染みが、止まった筆の先からじわりと広がっていた。小竹は視線を上げなかった。しばらくそのままでいた。それから静かに筆を置いた。帳簿を閉じた。音を立てずに閉じた。何も言わなかった。
日吉はその横顔を見た。十歳の横顔が、いつもと違った。固かった。骨の固さではなく、何かを噛み潰そうとして固まった固さだった。
小竹が外れた。日吉はそう思った。小竹がほぼ外さない怪物だということは、日吉が誰より知っていた。だから今この瞬間、部屋の中に今まで存在しなかった種類の静けさがあった。
甚助が報告に来た時、声が固かった。「与八を連れ戻しますか」
日吉は少し間を置いた。「連れ戻すな」
「ですが、裏切り者——」
「違う」日吉は静かに言った。「熱賀屋の方が早かった。それだけじゃ。母親の薬代に、わしは間に合わなかった。負けたのはわしじゃ」
甚助は黙った。日吉の言葉を、どう受け取るべきか分からないような顔をしていた。
「結いをもっと早く動かせばよかった」日吉は続けた。「それだけじゃ。与八を責めても、次の与八が出るだけじゃ。熱賀屋が持っているのは銭ではない。速さじゃ。こちらが遅い間は、続けて抜かれる」
甚助が下がった後、小竹が口を開いた。
「読めなかった」小竹は静かに言った。
日吉は小竹を見た。
「与八は動かないと読んでいた。だが動いた。母親への恩が、倉への恩より先に動いた。私の読みが外れた」
それだけ言って、帳簿を開いた。さっき自分で閉じた帳簿を、また開いた。だが帳簿の文字を読んでいなかった。目が動いていなかった。文字の上に目を置いたまま、動かなかった。
日吉はそれ以上何も言わなかった。小竹が外したのは事実だった。そしてその事実は、日吉が思っていたよりずっと大きく、広間の中に座っていた。
その夜、日吉は与助を呼んだ。
与助は来た。広間に座った。背中が真っ直ぐだった。目が帳簿の表紙を見ていた。
「結いを作る」と日吉は言った。内容を話した。与助は黙って聞いた。最後まで聞いて、少し間を置いた。
「品質の基準も作る。お前がこれまでやってきたことを、紙に書き起こす」
与助は小さくうなずいた。「分かりました」
「それだけか」
「……はい」
日吉は与助を見た。与助は帳簿の表紙を見ていた。
「何か言いたいことがあれば言え」
与助はしばらく黙っていた。それから静かに口を開いた。
「……それを五年前にやっておれば、あいつは熱賀屋へ行かなかったかもしれません」
日吉は何も言えなかった。
「結いがあれば、家族の薬代を心配しなくてよかった。品質の基準があれば、自分一人が抜けても倉が揺れないと知れた。揺れないと知れば、熱賀屋の言葉に耳を貸さなかったかもしれない」与助の声に怒りはなかった。ただ、乾いていた。「日吉様は今、正しいことをしようとしている。だから反対はしません。ただ——」
与助は顔を上げた。
「正しいことが、遅かった」
日吉は黙っていた。反論しなかった。できなかった。五年前、仕組みを作ることに必死だった。人を養うことで頭がいっぱいだった。養えば忠誠がつくと思っていた。恩は伝染すると思っていた。だが恩は伝染しなかった。飯の種は伝染した。恐怖は伝染した。そして今日、与八が抜けた。母親の薬代に、間に合わなかった。正しかった。だが、遅かった。
「与助」と日吉は言った。「今日の朝、おきねのことを見ていたか」
与助は少し止まった。「……見ていました」
「お前が代わりを立てろと言った後、おきねの顔を見たか」
「……見ました」
「どう思った」
長い沈黙があった。与助は膝の上で手を組んだ。組んだ手の指が、白くなった。
「吐き気がしました」与助はゆっくり言った。「私が五年前に自分でやってきたことを、私が今日、女衆に強いた。間違っていない。分かっている。だが……吐き気がしました」
日吉は何も言わなかった。与助の言葉を、ただ受け取った。
「与助」しばらくして、日吉は言った。「今日、おきねの薬代を出した。結いの先払いじゃ。おきねが泣いていた。お前も見ていたはずじゃ」
与助はうなずいた。
「あれがお前のやりたかったことじゃないか。仕組みを通してやれば、一人の懐が痛まない。もっと多くの者に届く。遅かった。それはその通りじゃ。だがやらないよりは、今日やる方がましじゃ」
与助は黙っていた。長い間、黙っていた。
「……明日、基準書を書き始めます」与助はそれだけ言った。
「与助」
与助が振り返った。
「お前は今日、吐き気がしたと言った。その吐き気を、忘れるな」
与助は少し目を細めた。何かを言いかけて、やめた。一礼して、出て行った。
足音が遠ざかった。
翌朝、与助が基準書を書き始めた。
その頃、津島の熱賀屋では、宗右衛門が縁側に座っていた。番頭が報告をしていた。
「与八が来ました。倉の荷役の段取りを、詳しく話してくれております」
「与八」宗右衛門は静かに言った。少し間があった。「誰じゃそれは」
番頭が止まった。「は……先ほど申し上げた、日吉の倉から」
「ああ」宗右衛門は遠くを見たまま言った。「そうか」
それだけだった。番頭は帳面に何かを書きかけて、止めた。書くことがなかった。
「日吉が結いを始めるようです。帳簿の公開も」
「面白い」宗右衛門は言った。「そこへ来たか。与八を取れたことより、そちらの方が気になる」
「困りませぬか」番頭が聞いた。
「困る」宗右衛門はあっさり言った。「だが与八などどうでもよい」
番頭が少し驚いた顔をした。与八を取れたと報告した手前、返しようがなかった。
「本命は別にある」
「……与助でございますか」
宗右衛門は答えなかった。遠くの灯を見ていた。
「結いが動けば、人の心が倉へ向く。それは困る。だが——」少し間を置いた。「日吉が帳簿を公開するなら、倉の中身が見える。見えれば、次の手が打てる。日吉は疑いを消すために開いた。だがわしには、別の使い道がある」
番頭は黙ってうなずいた。帳面に何かを書き込んだ。
宗右衛門は悪人ではなかった。ただ、盤面が広かった。日吉が一つの倉を守ろうとしている間、宗右衛門は尾張の南半分を見ていた。方法が違うだけで、やっていることの本質は恐ろしいほど似ていた。そして宗右衛門は、その事実を知っていた。日吉はまだ、知らなかった。
同じ夜、清洲のどこかで、一人の侍が書状を読んでいた。
灯の下、文字を目で追った。津島近辺の商いの動き。日吉という名の若者が作った保存食の仕組み。熱賀屋との競合。結いの導入。傍らに老人が座っていた。何も言わずに茶を飲んでいた。
「津島の若造です」侍が言った。「熱賀屋が揺さぶっておりますが、まだ持ちこたえておる様子で」
老人は答えなかった。しばらく茶を飲んでいた。
「どういたしますか」
「残せ」と老人は言った。
「殺さずに、ということですか」
「育てろ」
「若様への報告は、まだでよろしいですか」
「まだよい」老人は茶碗を置いた。「もう少し、見ていろ」
侍は何も聞かなかった。書状を折り、懐にしまった。
日吉はそのことを知らなかった。与助も、小竹も、小六も、知らなかった。津島の熱賀屋宗右衛門でさえ、知らなかった。
夜、日吉は秤を見ていた。
今日、与八が抜けた。小竹が初めて読みを外した。おきねが泣いた。与助が吐き気がしたと言った。結いの第一号が生まれた。一日の間に、毒がいくつも動き、薬もいくつか動いた。
毒は外から来るのではなかった。仕組みの内側から、じわじわと生まれていた。与助を変えたのは熱賀屋ではなかった。仕組みそのものが、与助を変えた。正しくあろうとするほど、与助から温かさが抜けた。その温かさが抜けた穴から、また別の何かが流れ出していた。
日吉が今日言った言葉を、もう一度思った。感謝はいらん。恩もいらん。困った時に倉へ来るようにしたいだけじゃ。あの言葉は本当だった。だがそれが与助の言う「吐き気のするもの」とどこか似た形をしていることも、日吉には分かっていた。正しさが、いつか自分の毒になる日が来るかもしれなかった。
だが今日、おきねに薬代を渡した。与助が吐き気がしたと言った。それは毒ではなかった。与助の中にまだ、何かが残っている証だった。
信頼は積み上げるものだった。与えるものではなかった。遅かった。与助に言われた通りだった。だがやらないよりは今日、明日よりは今日の方が少しだけましだった。
遠くで、津島の方角に灯が揺れていた。
熱賀屋が次の手を打とうとしていた。清洲の誰かが、日吉を見ていた。その誰かにとって、熱賀屋は駒に過ぎなかった。日吉はもっと大きな盤の上に、すでに置かれていた。
秤は、まだ揺れていた。




