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豊臣兄弟、最底辺から始める天下奪取 ――現代営業の知略で、戦国の理不尽を喰い破る――  作者: チャプタさん


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第二十三話:秤

第二十三話:秤


 翌朝、与助が来なかった。


 日吉が広間に出た時、すでに帳簿が三冊積まれていた。小竹が夜明け前から開いていたのだろう。外では女衆の声がして、竈の煙が細く立ち上っていた。仕組みは動いていた。与助がいなくても、倉は動いていた。


 甚助が顔を出したのは、四半刻ほどしてからだった。


「与助さんが……まだ来ておりません」


「分かった」と日吉は言った。それだけだった。


 甚助は一礼して下がった。日吉は帳簿に目を戻した。数字を追いながら、頭の隅で別のことを考えていた。今日の出荷は甚助が仕切れる。倉の確認は源三でも回る。与助がいなくても、今日一日は問題がない。そこまで考えて、日吉は筆を止めた。


 問題がない、という事実が、問題だった。


 与助がいなくても仕組みは回る。それは五年かけて作り上げた仕組みの強さだった。だが同時に、日吉の胸に小さな棘が刺さった。与助でなくても回るなら、与助である必要はどこにあるのか。その問いが浮かんだ瞬間、日吉は自分がその問いを立てたことに気づいて、また寒気がした。


 だからこそ、失いたくなかった。数字の問題ではなかった。与助は仕組みの中の一つの歯車ではなかった。少なくとも、そうであってほしかった。日吉には、その区別が今朝初めて、はっきりしなくなっていた。


 午前のうちに、日吉は与助の家へ向かった。小竹は一歩後ろをついてきた。何も言わなかった。


 与助の家は村の北外れにあった。板塀の低い、質素な家だった。五年前から変わっていなかった。与助は稼ぎが増えても、家を広げなかった。子のいない夫婦には広い家が要らないと言っていた。庭先に入ると、薪を割る音がした。


 与助は斧を振り上げていた。病ではなかった。体は動いていた。日吉の気配に気づいて、斧を下ろした。驚いた顔をした。それからすぐ、困ったような顔になった。


「日吉様……わざわざ……」


「話がある」と日吉は言った。「少しいいか」


 縁側に並んで座った。与助の女房が茶を持ってきて、すぐに奥へ引いた。しばらく、二人とも黙っていた。遠くで鳥が鳴いた。


「昨日のことを、怒っているか」と日吉は聞いた。


「怒っては……おりません」与助はゆっくり言った。「怒る気も、起きませんでした」


 その言葉の重さを、日吉は受け取った。怒りがないのは、許したからではなかった。もっと深いところで、何かが変わっていた。


「恩を、信じすぎていたのかもしれません」与助は膝の上に目を落としたまま言った。「あの男に粥を持って行った時……私は見返りを求めていたわけではない。ただ、あの子が助かればいいと思っていた。それだけでした。だが……心のどこかで、信じていたのでしょう。あいつはわかってくれると。飯を食わせた分、こちらを向いてくれると」


 日吉は何も言わなかった。


「日吉様は正しかった」与助は続けた。声に感情がなかった。それが余計に重かった。「追放すれば倉が止まる。監視付きで使えば損失が最小になる。正しい。何も間違っていない。私には、それに反論する言葉がありません」


「だが」と日吉は言った。


 与助はわずかに顔を上げた。


「お前は納得していない」


 与助は少し間を置いた。「……正しいことと、納得できることは、別なのだと知りました」


 その言葉が、日吉の胸のどこかに刺さった。反論しようとした。できなかった。なぜなら、自分も少しそう思っていたからだ。与助を見て、正しい判断をしながら、胸の奥で何かが痛んでいた。その痛みを、日吉はずっと計算の言葉で覆い続けていた。


「人は、正しいだけではついてこないのかもしれません」与助は静かに言った。「私が間違っているかもしれない。だが……あの男が熱賀屋に流れたのは、悪意からではなかった。日吉様の仕組みへの信頼が、揺らいでいたからではないでしょうか。熱賀屋が先に手を差し伸べた。それだけのことでした」


 日吉はしばらく黙っていた。庭の薪が、風に揺れた。


「明日、来るか」と日吉は聞いた。


 与助は答えなかった。茶を一口飲んで、また黙った。


 日吉はそれ以上聞かなかった。立ち上がり、一礼して、庭を出た。


 帰り道、小竹が口を開いた。


「兄上は正しかった」


「分かっている」


「与助も正しかった」小竹は続けた。「だから壊れた」


 日吉は足を止めなかった。小竹の言葉を、背中で聞いた。


「正しいものが二つあると、間に立つ者が割れる。与助は兄上の正しさと、自分の恩義の正しさの間で割れた。どちらも本物だったから、どちらも捨てられなかった」


「熱賀屋は」と日吉は言った。「品を狙っているのか」


「人を狙っていると思う」小竹は少し間を置いてから言った。「ただ——どこまで読んでいるかは、まだ分からない」


 日吉は小竹を見た。珍しかった。小竹が「分からない」と言うのは。


「与助は離反せぬと思う」小竹は続けた。「だがそれは、私の見立てじゃ。外れることもある」


 十歳の横顔が、少し硬かった。自分の読みの限界を、自分で知っていた。それがかえって、日吉の背筋を寒くした。


 その頃、津島の外れに一軒の商家があった。


 熱賀屋。店先は広く、清潔に保たれていた。品のよい暖簾が下がり、通りを行く者が自然と足を止めるような造りになっていた。主人の熱賀屋宗右衛門は四十を少し過ぎた男で、目が細く、声が低かった。怒鳴ることがなかった。笑う時も、唇の端が少し動くだけだった。


 その日の昼過ぎ、一人の女が店を訪ねてきた。歳は三十ほど。顔色が悪く、着物の裾が擦り切れていた。子を連れていた。七つか八つの男の子だった。


「薬代が……どうしても工面できなくて……」女は頭を下げたまま言った。「夫が病で、もう二月ほど寝ておりまして……」


 熱賀屋は黙って聞いた。奥から番頭を呼んだ。小声で何かを言った。番頭が紙包みを持ってきた。


「受け取りなさい」と熱賀屋は言った。「返さなくていい」


 女は顔を上げた。目に涙が浮かんだ。「そんな……どうして……」


「困った時はお互い様です」熱賀屋は微笑んだ。「ご主人が良くなられたら、またお顔を見せてください。それだけでいい」


 女は何度も頭を下げて、子の手を引いて去った。その後ろ姿を、熱賀屋は店先に立って見送った。


 番頭が隣に来た。「あの一家、日吉の倉で働く荷役人の女房でございます」と小声で言った。


「知っている」熱賀屋は答えた。「夫の名は」


「与八と申します。倉の出荷を仕切る者の一人で——」


「そうか」熱賀屋は暖簾の奥へ戻りながら、静かに言った。「恩は返してもらう。急がなくていい。人の心は、じわじわと動かす方が確実だ」


 番頭は帳面に何かを書き込んだ。それから少し躊躇うように言った。「津島の荷宿の主人から、知らせが来ております。日吉の荷が今朝の便で一刻遅れたと」


「原因は」


「人が足りなかったようで。熱田の問屋から苦情が出ております。日吉の荷は最近、質がばらつくと」


 熱賀屋は黙ってうなずいた。「次の便に、うちの品を多めに積め。品質は落とすな。値は少し下げていい」


 熱賀屋は悪人ではなかった。ただ、人の弱みが何より確実な商品だと知っていた。米や味噌より腐らず、竈より壊れない。人の恩義と恐怖だけが、どんな時節にも値を持ち続けた。日吉が仕組みで人を養ったように、熱賀屋は恩で人を縛った。方法が違うだけで、やっていることの本質は、恐ろしいほど似ていた。


 倉に戻ると、甚助が待っていた。顔色が悪かった。


「申し上げにくいのですが……若い衆の二人が、話があると」


 二人は二十前後の男だった。倉に入って二年ほどになる。与助が連れてきた者たちだった。日吉が座ると、二人は顔を見合わせ、一人が口を開いた。


「……辞めたいと思っております」


「理由を聞かせろ」と日吉は言った。怒らなかった。


「裏切ったわけではありません」男は急いで言った。「ただ……もし日吉様が熱賀屋に負けたら、私どもはどうなるのかと……仕事がなくなったら、家族が……」


 もう一人が続けた。「熱賀屋に移った方が安全かもしれないと、女房が……」


 日吉はしばらく黙って聞いていた。二人の目を見た。悪意はなかった。恐怖だった。純粋な、未来への恐怖だった。


 引き留めようとした。口が開きかけた。だが止まった。


 強制した瞬間、自分が熱賀屋と同じになる。恐怖で縛るなら、銭で縛るなら、それは熱賀屋のやり方と何が違うのか。日吉には、その問いに答えが出なかった。


「分かった」と日吉は言った。「お前たちの決めたことに従う」


 二人は顔を見合わせた。もう一度頭を下げて、出て行った。


 翌朝、一人が来なかった。熱賀屋へ移ったと、昼前に甚助が告げた。


 その日の午後、出荷が一刻遅れた。人が足りなかった。代わりに入れた者が荷の縄の結び方を知らず、束が一つ崩れた。熱田の問屋から、甚助を通じて苦情が届いた。「最近、日吉の荷がばらつく」という言葉だった。


 だが、それだけでは終わらなかった。


 翌々日の朝、熱田の問屋から正式な書状が届いた。甚助が持ってきた時、顔が青かった。日吉は封を開けた。墨の文字は丁寧だったが、内容は短く、冷たかった。「品質の低下ならびに納品の遅延が続いております。このままの状況が続くようであれば、次季の取引量を見直さざるを得ません」。それだけだった。署名があり、問屋の印があった。


 日吉は書状を折り、机に置いた。


 五年かけて育てた取引先だった。最初の一年、小六の船で少量ずつ運び、品質を認めてもらうのに三季かかった。問屋の主人が初めて「定期で頼む」と言った日のことを、日吉はまだ覚えていた。あの言葉一つで、仕組みの骨格が一本増えた。それが今、人一人が抜けた穴から、ゆっくりと崩れようとしていた。帳簿には出ない損失が、帳簿に記録される損失へと変わる寸前だった。


 甚助はまだ立っていた。


「倉の者たちは……与助さんのことを、気にしております」甚助は言いにくそうに続けた。「与助さんがああなったのは、日吉様の判断のせいだと……古参の者の何人かが、そう話しているそうで」


「誰が言った」


「酒の席での話です。名は……申し上げにくく」甚助は視線を落とした。「ただ、古参衆の間では、最近の日吉様は冷たくなったという声が出ております。与助さんをあんな目に遭わせて、と。小六さんも耳にしたと言っておりました」


 日吉は黙った。


 怒りはなかった。それが正直なところだった。古参衆が与助に同情するのは当然だった。与助は五年間、誰より体を張って倉を守ってきた。その与助が膝から崩れ落ちた場面を、何人かが見ていた。そして日吉は翌日、与助の家へ行きながらも、謝罪らしい謝罪をしなかった。「すまなかった」の一言は言った。だがそれより先に「明日来るか」と聞いた。与助の痛みより、倉の継続を確認した。古参衆はそれを知らない。知らなくても、与助の顔を見れば分かる。


 仕組みの内側に、静かな亀裂が入り始めていた。


 夕刻、小六が来た。川並衆の頭目は広間に入るなり、顔を引き締めて座った。


「熱賀屋が動いている」と小六は言った。「品を増やしているだけじゃない。津島の職人を三人引き抜いた。保存食の仕込みができる者を、うちより高い給分で囲い込んでいる。さらに——」小六は一度言葉を切った。「周辺の村々で、病人や困窮者に銭を配り始めておる。名目は慈善じゃ。だが実際は、日吉の仕組みで働く者の親族を狙い撃ちにしている。このままでは、半年後には倉を動かす人間が足りなくなる」


「熱田の問屋への手は」と日吉は聞いた。


「すでに動いていると見ていい」と小六は言った。「向こうに問屋の手代が出入りしているのを、うちの者が見ている。品ではなく、人と人で繋がっておる」


 小六が帰った後、広間はしんと静かになった。小竹は帳簿を読んでいた。日吉は縁側に出て、外を見た。


 夜になった。


 日吉は土間に置かれた秤を見つめていた。商いで使う秤だった。鉄製の古いもので、五年前から使い続けていた。片方の皿に分銅を乗せ、もう片方に品を乗せ、釣り合いを見る。それだけの道具だった。


 片方に、利益を乗せる。倉を守ること。仕組みを続けること。村が冬を越せること。そのために正しい判断をすること。間違っていない。間違っていなかった。


 もう片方に、何を乗せるか。


 与助の、あの顔だった。正しいものに踏まれた、あの顔だった。今日倉を去っていった若い男の背中だった。崩れた束の、帳簿に残らない重さだった。熱田の問屋の、あの書状の冷たさだった。古参衆の、酒の席での言葉だった。


 どちらも量れなかった。分銅がなかった。


 だが量らなければならなかった。これからも、ずっと量り続けなければならなかった。仕組みが大きくなるほど、秤に乗るものが増える。人の命が乗る。人の信頼が乗る。人の恐怖が乗る。それを全部量って、正しい方を選ぶ。それが日吉のやることだった。


 自分は利益を選んだ、と日吉は思った。与助の感情より、倉の継続を選んだ。若い衆が去るのを、止めなかった。間違っていない。だが与助が失ったものの重さも、今日一人去った男の背中の重さも、本物だった。その重さを知りながら、選んだ。これからも選ぶだろう。そのことから、目を逸らすのをやめようと思った。怪物は痛みを感じない。日吉はまだ、痛みを感じていた。その痛みが消えた日が、本当に怖い日だった。


 夜が深くなった頃、足音がした。


 与助だった。


 手に帳簿を持っていた。昨日まで使っていた、仕込み量の記録帳だった。与助は広間に入り、日吉の前に帳簿を置いた。それから、下を向いたまま、しばらく黙っていた。


「……辞めようとも、考えました」


 与助は顔を上げなかった。声は静かだった。感情を抑えているのではなく、感情がすでに通り過ぎた後のような静けさだった。


「女房にも言いました。もう終わりにしようかと。五年やった。十分じゃないかと」


 日吉は何も言わなかった。


「だが——」与助は少し間を置いた。「私が去れば、古参衆が揺れる。古参衆が揺れれば、若い衆がまた出る。そうなれば倉が傾く。それは……私の望むことではありません」


「与助」


「日吉様のためではありません」与助は静かに言った。目を上げた。その目に、かつてあった熱がなかった。熱の代わりに、別の何かがあった。固いもの。乾いたもの。「この倉のために残ります。ここで働く者たちのために」


 日吉は、返す言葉を探した。見つからなかった。


 五年前、与助は日吉のために倉へ来た。今夜、与助は倉のために残ると言った。その違いが何を意味するのか、日吉には言葉にできなかった。与助を失っていなかった。だが与助との何かを、確かに失っていた。


「……すまなかった」と日吉は言った。


 与助は少し目を細めた。「これからは、帳簿をきちんと見ます。数字の方を」


 それだけ言って、一礼した。出て行った。


 足音が遠ざかった。


 日吉は秤を見た。与助が戻ってきた。仕組みは続く。それは良かった。だが与助の最後の言葉が、耳に残っていた。帳簿をきちんと見る。数字の方を。五年前の与助は、数字より先に人を見ていた。人の顔を見て、体の具合を聞いて、腹が減っていないかを気にした。その与助が、数字を見ると言った。日吉がずっとやってきたことを、与助が選んだ。与助は戻った。しかし与助との関係は、元へは戻らなかった。ひびの入った器が、別の形に固まろうとしていた。


 その時、小竹が部屋の隅から声を出した。帳簿から目を上げずに言った。


「兄上」


「なんじゃ」


「小六からもう一つ知らせが来ていた」小竹は静かに言った。「熱賀屋が与助に、直接会いに行ったそうじゃ。今日の昼、与助の家の近くで熱賀屋の手の者が声をかけたという」


 日吉は動かなかった。


「与助は断った。追い払ったと聞いている」小竹は帳簿に目を戻しながら続けた。「だが熱賀屋は与助を諦めていない。次に何を持ってくるかは、まだ分からない」


 それから小竹は少し間を置いて、付け加えた。


「私は与助は離反せぬと言った。だが今夜の与助を見て——私の読みは、外れるかもしれぬ」


 遠くで、津島の方角に灯が揺れていた。


 秤は動かなかった。釣り合いは、まだ取れていなかった。熱賀屋との戦いは品の奪い合いではなかった。人の心を巡る戦いだった。そしてその戦いで、日吉はすでに一人を失い、与助を変え、古参衆の心に最初の亀裂を生んでいた。


 帳簿には何も残らなかった。だが確かに、何かが失われていた。


 これから先、もっと重いものを量ることになる。その予感だけが、夜の中にはっきりと残った。

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