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豊臣兄弟、最底辺から始める天下奪取 ――現代営業の知略で、戦国の理不尽を喰い破る――  作者: チャプタさん


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第二十二話:綻び

第二十二話:綻び


 朝の冷えた空気が、倉の土間に淀んでいた。


 日吉は与助を連れ、小竹を伴って南の保存倉の一つに足を運んだ。帳簿の差異が発覚してから四日目。村の外れに建てられた大きな藁葺きの倉は、五年前には想像もできなかった規模になっていた。壁際に積まれた保存食の束は、冬を越すために村の半数以上を養える量だった。朝日がわずかに差し込む土間には、干し魚と米、味噌の匂いが混じり、女衆たちの動きが絶え間なく続いていた。


 日吉は土間の奥に立ち、頭の中で数を数えた。保存倉は三棟。竈は十六基。女衆二十八人、荷役人十四人。この倉だけで月に四百束を超える保存食を仕込み、そのうち三割が小六の船を経て熱田へ流れる。残りが宿場三か所に卸され、その先の問屋へ届く。帳簿の差異は十五束。数字だけ見れば全体の四パーセント未満だった。だが四パーセントが内側から出ているなら、問題は数字ではない。仕組みそのものが、どこかで腐っていた。


 日吉の目が、女衆たちの動きを追った。大きな竈の前に並び、汗を拭いながら束を丁寧にまとめ、塩と味噌で仕込みをしている。火の通りを確かめるように竈を見た。その目に、わずかな緊張が宿っていた。火加減が少しでも狂えば、保存が利かなくなる。女衆の一人が竈の側面を掌で確かめながら、小さく息を吐いた。仕組みは動いていた。だが、仕組みの内側に、仕組みを食う者がいた。


 与助の顔は土気色を帯びていた。夜も眠れなかったのだろう。目には血の筋が入り、肩は落ち、歩く足取りに力がない。五年前なら、与助は広間へ入る前に足の泥を何度も払った。今は違う。この家を自分の仕事場だと思っている者の動きだった。だが今日はその足取りさえ重く、拳を膝の上で固く握りしめ、節が白くなっていた。


「申し訳ございません……」与助は地面に膝をつき、額を土に擦りつけた。「私の目が届かぬところで……こんなことになるなど……」


「立て」と日吉は言った。「詫びは後じゃ。まず数を確かめる」


 与助自身が荷を数え始めた。束を一つ一つ手に取り、重さを確かめ、帳簿と照らし合わせる。汗が額を伝い、息が荒くなった。与助の指は震えていた。


 与助の脳裏には、顔が浮かんでいるのだろうと日吉は思った。あの冬のことを。飢えた年、村の半分が食えなくなった時、与助は自分の握り飯を二つに割った。受け取った男がいた。子が熱を出して、粥を求めた男がいた。与助は日吉に黙って倉から粥を一椀持ち出し、その子の口に運んだ。あの時与助は何も言わなかった。後になって日吉が知った。与助は「すまなかった」と頭を下げた。日吉は「よかった」と言った。それだけだった。あの男が、今この倉の帳簿を狂わせているかもしれなかった。与助が半分渡した握り飯が、今は別の主人に向いているかもしれなかった。


 与助は一束ごとに声を上げて数を確認し、時折女衆に声をかけ、仕込みの状況を聞いた。女の一人は目を伏せながら「最近、材料が少し足りない日があった」と小声で答えた。別の女は、荷役人の一人が最近酒の匂いをさせて来るようになったと漏らした。与助の顔がわずかに歪んだ。その名を、与助は知っていた。与助が最も信頼していた男の一人だった。


 小竹は倉の隅に立ち、女衆や荷役人たちの顔を静かに見ていた。十歳の小さな体は、朝の光の中で影のように薄かった。だがその目は、誰もが背筋を寒くするほど動かなかった。


 小竹が見ているのは顔ではなかった。顔と顔の間にある、力の流れだった。誰が誰を避けるか。誰の目が、どこへ逃げるか。後ろめたい者は、問いを受ける前に体が動く。首が引き、肩が上がり、息が浅くなる。それは意思ではなく、体が知っている動きだった。小竹はその動きを、音もなく拾っていた。


 ある男の袖口に新しい染みがついていた。油か、あるいは上等な酒か。別の者の指の間に、かすかに金粉のようなものが残っていた。腰に下がった新しい巾着も見逃さなかった。小竹の中では、すでに三人の名が並んでいた。


 恩は伝染しない、と小竹は思った。与助が日吉に感じているものは、本物だった。だがその与助の下にいる者たちが感じているのは、恩ではなく飯の種だった。飯の種は、より高く実る方へ動く。それは責めるべきことではなかった。ただの、人の理だった。だからこそ始末が悪かった。


 小竹は与助の耳元で小さく囁いた。「あの三人じゃ。袖口と、指と、腰の巾着を見よ」。


 与助は振り返った。小竹が示した三人を見た。見知った顔だった。三人とも、与助が自分で選んだ男たちだった。一人は飢饉の年から共に倉を守ってきた男で、一人は与助の紹介で雇った親戚筋の者で、一人は——あの冬、子が熱を出した、あの男だった。


 与助はあの男の前に立った。「お前か」と言った。声が震えていた。男は目を上げず、「何のことでございましょう」と答えた。白を切るつもりだった。与助は帳簿を広げ、数字を指で押さえた。「三月十四日。十五日。二十二日。出荷記録と倉の残数が合わない。お前が記録を担当していた日だけじゃ」。男の喉が鳴った。「書き違えかと……」「書き違えが三度続くか」。与助の声が低くなった。男の指先が、かすかに震え始めた。目が床に落ちた。それ以上の言葉は出なかった。


 崩れるまで、長くはかからなかった。


「熱賀屋が……借金を肩代わりしてくれると言いました」と男は言った。「去年の暮れ、女房が病で……薬代が払えず……熱賀屋様が来て、返さなくていいと……ただ、少しだけ品を融通してくれればいいと……」声が細くなった。「最初は一束だけのつもりでした。それが……」


 与助は黙って聞いていた。残りの二人も、似たような事情だった。一人は親の借財、一人は妻子を抱えた冬の窮乏。熱賀屋はそれぞれの弱みを別々に握り、別々に動かしていた。三人は互いに知らぬまま、同じ穴を食い破っていた。熱賀屋はただ品を抜かせたのではなかった。人の弱みに値をつけ、仕組みの中に静かに手を差し込んでいた。


 与助は一歩踏み出した。あの男の前に立った。男は目を上げなかった。「お前か」と与助は言った。声が震えていた。男の肩が小刻みに揺れ始めた。


 与助の拳が上がった。誰もがそう思った瞬間、その拳が止まった。止まったまま、下りなかった。与助の目の奥に、何かが揺れた。あの冬の夜のことが、よぎったのだろう。子の額に手を当てて、熱いと泣いていたこの男の顔が。自分が粥を椀に盛って、暗い道を走った夜が。


 拳は、下りなかった。


 与助は膝から崩れ落ちた。拳を地面に押しつけ、爪が掌に食い込むほど握りしめた。「お前は……あの冬……私が粥を運んだ……お前の子が熱を出した時……日吉様の倉から黙って粥を……なぜじゃ……なぜ……」


 男は答えなかった。ただ、声もなく泣いていた。


 与助の肩が激しく震えた。昔、一緒に飢えを越えた男が、今は自分の作った仕組みを食い破っていた。恩が届かなかった。飯の種が、忠誠より強かった。


 日吉は黙って聞いていた。悲しみはほとんどなかった。損失の数字が先に立った。与助の震える肩を見ながら、「甚助なら代われるな」「源三なら効率が上がる」と頭のどこかが動いていた。それに気づいた時、また寒気がした。


 日吉は静かに口を開いた。


「三人とも、追放はせぬ。与助の下で、監視付きで働け。ただし給分は半分じゃ。抜いた分は倍にして返せ。熱賀屋へ流した品については、詳しく話せ」


 男たちは顔を見合わせた。与助は顔を上げた。その目に、初めて日吉への問いが宿っていた。


「……なぜ、追放しないのですか」


「切れば倉が止まる」と日吉は言った。「今の時期、人を失う損が大きい」


 与助の目が揺れた。「それでも……それでは……」


「与助」


 日吉の声は低かった。感情が乗っていなかった。だからこそ、重かった。


「お前が許したいなら許せ。それはお前の話じゃ。わしは倉を止めたくない。それだけじゃ」


 与助は黙った。口を開きかけ、閉じた。膝の上の拳が、また白くなった。与助の目には、日吉の冷たさが映っていた。だがそれだけではなかった。自身の無力さも、そこにあった。五年、育てた。飯を食わせた。それでも届かなかった。そして今、その届かなかった恩を、日吉は損得の言葉で片付けた。与助にはそれを責める言葉がなかった。日吉は間違っていなかった。ただ、正しいことが、これほど痛いとは思わなかった。


 爪が掌に食い込み、血がにじんでいた。


 与助はやがて立ち上がった。深く一礼して、倉を出た。その背中は、来た時より小さく見えた。丸まった肩が、土間の出口で一瞬止まった。何かを言いかけて、やめたのだろう。そのまま、外の光の中に消えた。日吉はその背中を見ていた。壊れたかもしれぬ、と思った。折れたのではなかった。もっと静かな壊れ方だった。仕組みへの信頼ではなく、人への信頼が、あの背中の奥で音もなく崩れていた。与助が明日も来るかどうか、日吉には分からなかった。来るだろうとは思った。だがあの目は、もう同じではない。


 小竹はその様子を、倉の隅で黙って見ていた。兄の判断を、冷たい目で記録するように。


 夕刻、小六の使いがわずかな情報を運んできた。熱賀屋の店先で、日吉の保存食に似せた品がさらに増えていたという。日吉はそれを聞きながら、胸の内で次の手を考え始めていた。熱賀屋へ流した情報を逆手に取り、偽の配合を少しずつ混ぜてやる算段をすでに練っていた。日吉は彼らを罰し、その罰さえ利用した。


 夜、日吉は一人で外に出た。


 橙色の火が点々と灯っていた。だが今夜、その光は穴のように感じられた。仕組みが育つほど、守るべき場所が増え、侵される隙も増える。五年前は村一つを守ればよかった。今は違う。仕組みそのものが、生き物のように勝手に広がり、勝手に病む。


 与助の崩れた顔が脳裏に焼きついていた。昔一緒に飢えをしのいだ男の震える声が、耳に残っていた。だがそれよりも強く残っているのは、あの瞬間に自分の頭が動いていたという事実だった。与助が崩れ落ちる前に、代替案が三つ浮かんでいた。悲しみではなかった。怒りでもなかった。仕組みを止めないための計算だった。


 与助は「それでは許せない」と言いかけた。日吉は「倉が止まる」と言った。それで終わった。与助の感情は、日吉の計算に触れた瞬間に、行き場を失った。正しかった。日吉の言ったことは正しかった。だが与助の顔に浮かんだあの表情を、日吉はうまく名付けられなかった。裏切られた顔ではなかった。見捨てられた顔でもなかった。正しいものに、踏まれた顔だった。


 家族を守るために始めたはずだった。だが今、仕組みを守るために、与助の心を踏みにじり、男たちの命を枷にし、外の敵を嵌めようとしている。


 遠くの火を見つめながら、日吉は思った。あの火が一つ消えても、ただの数字としてしか感じなくなる日が来るのだろうか。その日が来ても、自分は立ち止まらぬだろうと思った。小竹の冷たい横顔が、仕組みそのものが、日吉自身が——すべてが怪物になりつつあった。


 その正直さが、一番恐ろしかった。


 日吉はしばらく、夜風の音が消えるのを聞いていた。


 それから家に戻った。明日も帳簿がある。与助の話を聞かなければならない。津島への返しを考えなければならない。


 やることは尽きなかった。


 綻びは倉にはなかった。日吉自身の中にあった。

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