第二十一話:五年の怪物
第二十一話:五年の怪物
墨の匂いがした。
それが、今の日吉たちの家の匂いだった。
かつてはあばら屋の囲炉裏の灰と、腐りかけた藁の匂いがした。冬は隙間風が鳴り、夜は寒さで目が覚めた。あの頃の匂いを、日吉はまだ体が覚えていた。皮膚が覚えていた。骨が覚えていた。
今、板敷きの広間の壁一面に、帳簿が積まれている。
川筋六か所。宿場四か所。保存倉三棟。竈師四十七人。月に一度、それぞれから報告の帳簿が届く。積み上がった帳簿の厚さは、もう日吉の背丈に届こうとしていた。
あばら屋が、こうなった。
五年で、こうなった。
日吉は十六になっていた。
体が変わった。肩幅が出て、顎のあたりに薄く産毛が生えた。声は低くなり、村の男たちと話すとき、相手が少し緊張するようになった。それが自分の肉体の変化によるものか、自分の立場の変化によるものか、日吉にはもう区別がつかなかった。
小竹は十歳になっていた。
五歳の頃から目が変わっていなかった。変わったのは、その目の見ている場所だった。五歳の小竹は人を見ていた。人の顔を見て、人の弱みを読んだ。十歳の小竹は、人と人の間にある力の流れを見ていた。
今朝も小竹は夜明け前から帳簿を開いていた。日吉が広間に来た時、小竹はすでに三冊目を閉じるところだった。
「三月分と四月分に差がある」
挨拶もなく、小竹は言った。
「どこが」
「保存食の仕込み量と、小六への出荷量。十五束、合わない」
日吉は帳簿を覗いた。確かにそうだった。
「誤記か、横流しか」
「どちらでもない可能性がある」
小竹は帳簿の一点を指で押さえた。細い指だった。子どもの指だった。だがその押さえ方に、迷いがなかった。
「与助が嘘をついたのではない。この帳簿に嘘がついている。誰かが数字を書き換えた。与助が書いた帳簿と、倉から出た量が合わない。つまり——」
小竹は顔を上げた。
「仕組みの中に、仕組みを使って抜く者がいる」
日吉は黙った。
十歳が言う言葉ではなかった。だが小竹が言うと、それが当然のことのように聞こえた。そして——正確だった。
「与助本人か、与助の下か」
「与助の下」と小竹は即座に言った。「与助は裏切らない。裏切るのは、与助を慕っている者じゃ」
日吉は少し止まった。
「どういうことじゃ」
「与助は兄者に恩を感じておる。恩のある者は裏切りにくい。だが——」小竹は少し間を置いた。「恩は伝染せん。与助の下の者が兄者に感じているのは、恩ではなく飯の種じゃ。飢えだけが伝染する。だから飢えた者は、より高く買う者に動く。与助の下で最近羽振りが良くなった者はおらんか。急に酒を飲み始めた者、女を囲った者、妙に落ち着かぬ顔をしている者……そういう人間を洗ってみよ」
五年前、仕組みは村一つに収まっていた。
今は違う。
五年前は冬ごとに飢えで消える家があった。だがここ三年、その話を聞いていない。
朝、保存倉では女衆たちが火を起こし、大きな竈の前に並んで米や麦、干し魚を仕込んでいた。汗を拭う手つきは慣れたものだったが、日吉の設計した火の通りを確かめる目は、わずかに緊張を帯びていた。昼には川岸で男たちが船に保存食の束を積み込み、縄を固く結び、流れに逆らわぬよう櫓を調整する。夜には宿場でその保存食が売られ、旅人たちの腹を満たしていた。日吉が眠っている間にも、仕組みはどこかで動き続けていた。
弥右衛門の家を中心として、南北三里の範囲に保存食の製造拠点が広がっていた。各拠点に担当の女衆が十人前後おり、それを束ねる者がいて、束ねる者を束ねる与助がいる。与助は現場を回り、女たちの不満を聞き、材料の調達をまとめ、出来上がった保存食を小六の船に積み込ませる。五年で与助の背中は厚くなり、声にも威厳が宿っていた。五年前なら、与助は広間へ入る前に足の泥を何度も払った。今は違う。この家を自分の仕事場だと思っている者の動きだった。日吉はその変化を見ていた。
竈師衆は茂兵衛を頭に四十七人。尾張南部の宿場町の半数に、日吉の設計した竈が入っていた。修繕の依頼は絶えず、茂兵衛は今や弟子を持つ親方だった。炭焼き衆だった男たちが、村々の竈を点検し、粘土を塗り直し、火の通りを調整している姿があちこちで見られた。日吉は火口の最終角度と粘土の最後の配合比だけを胸に収め、誰にも渡さなかった。設計図には記さず、茂兵衛にも教えなかった。竈師衆がどれだけ腕を上げても、最後の一手だけは日吉を必要とするように作ってあった。
それは意図的な設計だった。
小六の川並衆は南の熱田まで荷を運ぶ。帰りには他の荷を積んで戻ってくる。日吉が作った流通の道を、今では日吉以外の荷も通り始めていた。
仕組みが仕組みを生んだ。
人が増えれば仕事が増え、仕事が増えれば人が必要になる。その連鎖が五年間、止まらなかった。日吉が命じたというより、仕組みが勝手に大きくなった。それが正直なところだった。
庄屋は三年前に病で死んだ。息子が跡を継いだが、器量がなく、今は日吉の帳簿を借りて年貢の計算をしている。庄助は今、日吉の倉の番をしている。弥右衛門を殴った男が、その息子の作った倉を守っている。
日吉は時々、その事実を思い出した。
感慨はなかった。仕組みとはそういうものだと思った。人は仕組みの中で、いつの間にか別の場所に立っている。誰も気付かないうちに。日吉自身も含めて。
与助を呼んだのは昼過ぎだった。
三十手前になった与助は、五年前より体が大きくなっていた。仕事で鍛えられた体だった。だが日吉の前に座ると、不思議と小さく見えた。
「帳簿に差がある」と日吉は言った。「三月と四月、十五束合わない」
与助は一瞬だけ目が泳いだ。
その一瞬を、日吉は見た。小竹も、部屋の隅で見た。
「申し訳ない」与助は言った。「調べます」
「調べてくれ」と日吉は言った。「ただ——全部話してくれ。隠すより、話してくれる方が助かる。それだけじゃ」
与助が下がった後、日吉は帳簿に目を落とした。与助が使えなくなった場合、誰を上げるか。与助の右腕である甚助か、別の倉の源三か。甚助は忠実だが頭が固く、源三は欲が深いが頭が回る。どちらを上げれば与助派の反発を抑えられるか。どの倉が一時的に止まるか、保存食の出荷にどれだけ響くか。熱田までの船の手配をどう組み直すか。日吉は与助の顔を思い浮かべながら、損得を瞬時に並べていた。代替案が三つ浮かび、頭の中で天秤が回っていた。
日吉は少し、息が止まりそうになった。
与助が裏切ったかもしれない。その可能性を考えた瞬間、日吉の頭は自然に動いていた。誰を上げる。どの倉を閉じる。どの船を回す。損失はいくらか。三つの代替案。四つの補填策。与助という人間より先に、与助の穴を埋める方法が浮かんだ。気付いた時、日吉は息を止めていた。それは与助への不信ではなかった。自分自身への恐怖だった。
与助は五年前、日吉の人生を変えてくれた師匠を見る目で日吉を見ていた。今でも、与助の忠誠は本物だと日吉は信じていた。
にもかかわらず。
裏切りを疑った瞬間に、悲しむより先に、代替を計算した。
それが今の日吉だった。
「優しいな」と、部屋の隅で小竹が言った。
「怒鳴っても数字は戻らん」と日吉は言った。「与助が動きやすい方が、穴が早く塞がる」
「それだけか」
日吉は少し間を置いた。
「……与助には、まだ恩がある」
小竹は黙った。追及しなかった。ただ帳簿に目を戻した。
その横顔が、何かを考えていた。
兄の「恩」という言葉を、小竹は計算できない感情として処理したか。それとも、兄の判断が鈍る場所として記録したか。
日吉には分からなかった。分からないまま、次の帳簿を開いた。
問題が来たのは、翌朝だった。
南の宿場から小六の使いが来た。
日吉が保存食を卸している問屋の隣に、先月から見慣れぬ商人が店を出した。扱っている品が、日吉の保存食と酷似している。値は二割安い。問屋の主人が、次の取引量を減らしたいと言い始めているという。
小六が直接来たのは、三日後だった。
川並衆の頭目は五年前より貫禄が増し、顔の傷も増えていた。広間に座ると、部屋が狭くなる気がした。
「日吉、俺も見て回ったぞ」と小六は言った。前置きがなかった。「津島に熱賀屋とかいう商人がおる。半年前から急に荷をばんばん動かしよる。川は使っとらん。陸の道筋じゃ。熱賀屋の荷を降ろすところに、妙な侍が何度も顔を出しておる。同じ旗印じゃ。清洲の連中らしい」
小六は続けた。
「熱賀屋の荷を追わせた。荷を降ろす場所に清洲の侍が何度も来ておるのを見た者もいる。しかも与助の下にいた荷役人が二人、熱賀屋へ移ったという。吉法師とかいう若様が、南の商いを調べさせておるという噂も聞いた。城下の商人を呼んで、尾張の南で何が動いているかを聞き回っておるらしい。その若様、商人の帳面を丸一日眺めておったそうじゃ。武士のくせに刀ではなく帳面ばかり見ておると」
織田家。
尾張の大半を支配する一族。その家中の誰かが、津島の商人を通じて日吉の仕組みに手を入れていた。
「清洲の誰かの倅か」と日吉は言った。声には何も乗せなかった。乗せられなかった。
「今は動かない」と日吉は言った。「まず内の穴を塞ぐ。外の顔を確かめるのは、足元を固めてからじゃ」
小六は頷いた。「では俺は川を見ておく。熱賀屋が妙な動きをしたら、すぐに知らせる」
小六が帰った後、広間に静けさが戻った。
小竹が口を開いた。
「吉法師という名、知っておるか」
「知らん」と日吉は言った。
小竹は黙った。それから帳簿に目を戻した。追及しなかった。だがその横顔に、何かがあった。兄が何かを留保したことを、感じ取っているような沈黙だった。
日吉も帳簿を開いた。
吉法師。
その名が頭の隅に残った。火種のように、消えなかった。吉法師。その名を聞くたびに、前世の記憶の奥で何かが動いた。だが、思い出せない。ただ、霧の向こうに大きな影があるような、曖昧な引っ掛かりだけが残った。
夜、日吉は一人で外に出た。
五年前と同じ場所に立った。村の外れ、家々を見渡せる場所。
竈の火は今も灯っていた。その数は五年前とは比べものにならなかった。遠く隣村の方角にも、さらに遠く南の宿場の方角にも、橙色の光が点々と見えた。
日吉が作った仕組みが、今夜も動いていた。
誰かが火を起こし、誰かが食材を仕込み、誰かが荷を運んでいる。日吉が眠っていても、仕組みは止まらない。それは五年前に夢見た光景だった。
だが今夜は、その光の一つ一つの下に、帳簿の数字が見えていた。
数字の中に穴がある。穴から何かが抜けて、津島に流れて、津島の背後に清洲がいる。日吉の作った温かい光が、そのまま敵の道標になっていた。
仕組みが外へ広がるほど、入口が増える。守れる範囲を超えて、仕組みは育とうとしていた。
日吉は与助の顔を、もう一度頭に浮かべた。甚助を上げた場合の倉の動き、源三を上げた場合の欲の広がり。出荷量の数字が先に立ち、与助の忠誠は後から来た。
五年前の自分が今の自分を見たら、何と言うだろう。
昔なら、あの火の下にいる顔を思い浮かべた。飢えた子供。働く女衆。倉を守る男たち。だが今、浮かぶのは束数と出荷量だった。与助の顔を思い浮かべた。五年前、誰より先に自分を信じてくれた男だった。弥右衛門を殴った庄助さえ、今は自分の倉を守っている。だが今日、自分は与助を失った場合の損失を先に計算していた。悲しみではなかった。怒りでもなかった。仕組みを止めないための計算だった。そのことに気付いた時、寒気がした。
お前はどこまで行く。
吉法師の声が、耳の奥で鳴った。
五年前と同じ声だった。だが今夜、その問いの意味が変わって聞こえた。
五年前は、どこへ向かうかという問いだった。
今夜は——お前はもうどこまで来てしまったのか、という問いだった。
この仕組みは、村で終わらない。宿場でも終わらない。川一本でも終わらない。仕組みは外へ外へと手を伸ばす。それが仕組みの本能だった。そして日吉は、その仕組みを作った者として、伸びる手を止める方法を持っていなかった。
止めたいとも、思っていなかった。
夜風が吹いた。南の方角から、街道を行く馬の蹄の音がした。清洲の方角だった。
日吉は遠くの火のひとつを見つめた。あの火が消えても、ただの数字としてしか見えなくなるのだろうか。自分が消した火を、ただの損失として計算する日が来るのだろうか。仕組みを守るために与助の心を踏みにじり、男たちの命を枷にし、外の敵を嵌めようとする自分が、そこにいた。小竹の冷たい横顔が、仕組みそのものが、日吉自身が——すべてが怪物になりつつあった。
その正直さが、一番恐ろしかった。
日吉はしばらく、その音が消えるのを聞いていた。
それから家に戻った。明日も帳簿がある。与助の話を聞かなければならない。津島への返しを考えなければならない。
やることは尽きなかった。
それが今の日吉の、毎日だった。




