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豊臣兄弟、最底辺から始める天下奪取 ――現代営業の知略で、戦国の理不尽を喰い破る――  作者: チャプタさん


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第二十話:組織の産声

第二十話:組織の産声


 茂兵衛の手は、木の根に似ていた。


 節くれ立ち、皮が厚く、爪の隙間に炭が染み込んで、もう何年洗っても落ちないのだろうと分かる手だった。その手が、膝の上で静かに握られていた。


 日吉が話し終えるまで、茂兵衛は一度も口を開かなかった。


 炭焼き衆の小屋は、村の外れの斜面に建っていた。杉の木立に埋もれるように、低く、暗く、煙の匂いが壁に染み込んでいた。囲炉裏の火が弱く、室内は昼でも薄暗い。茂兵衛の妻が奥に座り、目を伏せたまま動かなかった。廊下の向こうから子どもの声がしていたが、大人の気配を察してか、いつの間にか静まっていた。


 日吉は話した。


 竈師という仕事のことを。粘土の配合、火口の角度、煙の抜け道。竈を築くには知識だけでは足りない、土と火を体で知っている人間が必要だと。


「俺が作れるのは仕組みだけじゃ」と日吉は言った。「現場はお前たちにしか動かせない」


 茂兵衛は黙っていた。


 小竹が日吉の隣に座っていた。五歳の子どもが商談の場にいることを、茂兵衛は最初、不思議そうに眺めていた。だが今は視線を向けようとしなかった。小竹の目が居心地悪いのだと、日吉には分かった。


 沈黙が続いた。火が一度、小さく爆ぜた。


「父親を殴った男と、同じ側の人間に話を聞けと」


 茂兵衛がようやく口を開いた。声は低く、感情を押さえ込んだ声だった。


「庄助を動かしたのは庄屋じゃ。俺ではない」


「そうじゃな」茂兵衛は言った。「じゃが俺が頼んだ。それは違わん」


 日吉は返さなかった。


 茂兵衛は続けた。


「薪が売れなくなる。それが怖かっただけじゃ。難しい話じゃない。この家の飯の種が消える。それだけのことじゃ」


「知っておる」


 茂兵衛は日吉を見た。値踏みする目だった。


「知っておって、竈を広めたのか」


「止める気はなかった」日吉は言った。嘘をつくつもりはなかった。「止めても、遅かれ早かれ誰かがやる。それが世の理じゃ。俺でなくとも、竈はいずれこの村に来た」


 茂兵衛の目が細くなった。


「それで、俺への詫びのつもりか。この話が」


「詫びではない」


 日吉は言った。


「商談じゃ」


 小竹が最初に気付いたのは、茂兵衛の妻だった。


 話の途中、湯飲みを運んできた女の手が、わずかに震えていた。怒りではなかった。寒さでもなかった。


 小竹は日吉の袖を、指の先で一度だけ引いた。


 日吉は分かった。二人の間にできていた、言葉のいらない通路を使って。


この家は怖がっている。怒っているのではなく、先が見えなくて怖い。


 日吉は話の角度を、ほんの少し変えた。


「茂兵衛さん。炭焼きを辞めろとは言っておらん」


 茂兵衛の眉が動いた。


「竈には炭も使う。高温が要る場面では、薪より炭の方が向いておる。それに、竈師の仕事は冬が書き入れ時じゃ。春から秋は、炭焼きをすればいい。仕事は増える。季節で分けられる」


 嘘ではなかった。だが、全てでもなかった。


 長い目で見れば、薪の需要は確かに減る。竈が村全体に広まれば、それは避けられない。日吉はそれを知っていた。知っていて、今は言わなかった。


 今言うべきことは、今日この場で茂兵衛を動かすことだ。


 前世の経験が、冷たく、的確に、そう告げていた。


 営業とは嘘をつくことではない。だが全てを話すことでもない。相手が今必要としている言葉を、正確に選ぶことだ。


 その技術を、日吉は子どもの体の中に持っていた。


 茂兵衛は長い間、黙っていた。


 炭焼き衆の中でこの男がまとめ役になったのは、腕力でも声の大きさでもないだろうと日吉は思った。この沈黙の重さが、そう語っていた。考える人間だ。だから危険でもあり、取り込む価値もある。


「一つだけ聞く」茂兵衛が言った。「なぜ俺に来た。若い竈師を育てた方が、お前には都合が良いはずじゃ」


「若い人間を一から育てるのに、三年かかる」と日吉は言った。「お前たちなら、三月でいい」


 茂兵衛は日吉を見た。


 日吉は目を逸らさなかった。


 また沈黙があった。今度は短かった。


「……話だけは、聞いてやる」


 茂兵衛はそう言って、それきり口を閉じた。立ち上がりもしなかった。日吉たちを見送りもしなかった。ただ囲炉裏の火を見ていた。


 その背中が、言っていた。


 信用したわけではない。まだ何も決めていない。


 日吉はそれで十分だと思った。今日はここまでだ。根を張るには、時間がいる。


 帰り道、小竹が言った。


「うまくやった」


 褒め言葉ではなかった。観察の言葉だった。


「竈師の話は本当のことか」


「本当じゃ」と日吉は言った。


「全部か」


 日吉は少し間を置いた。


「……今日話したことは、全部本当じゃ」


 小竹は黙った。追及しなかった。五歳の子どもが、追及しないことの意味を知っていた。


 二人は並んで歩いた。冬の午後、土の道が凍って固かった。息が白く、すぐに消えた。


「茂兵衛の女房、怖がっておった」と小竹が言った。


「見えた」


「あの家は、冬を越せるか心配しておった。食い扶持の話じゃ。炭が売れなければ、春前に詰まる。それが見えた」


 日吉は弟の横顔を見た。


「だから兄者は、冬の仕事の話をした。竈師は冬が書き入れ時、と」


「そうじゃ」


「茂兵衛は、家族のことを考えて動く人間じゃ」小竹は言った。静かに、確かめるように。「理屈より先に、家族が浮かぶ。そういう人間は——」


 小竹は少し黙った。


「裏切らない。でも、縛れる」


 日吉は何も言わなかった。


 弟の言葉は、刃の形をしていた。


 与助に話したのは、その翌日だった。


 仕事を振り分けた。保存食の仕込みは村の女たちで回す。竈の設置と修繕は、茂兵衛の炭焼き衆が担う。貝殻と粘土の調達は、与助が率いる若者たちが動く。


 与助は聞きながら、頷いていた。


 途中から、目の輝きが変わった。


 役割を与えられた人間の目だった。ただ従う者の目ではなく、任された者の目だった。その違いを、日吉は見逃さなかった。


 しかし三日後、与助が困った顔で戻ってきた。


「日吉。貝殻が足りない」


 日吉は眉をひそめた。


「若い衆で手分けしたが、川下の浅瀬はもう取り尽くした。もっと遠くに行かねば、冬の間に必要な量が揃わん」


 日吉は少し考えた。段取りが甘かった。貝殻の産地を一か所に頼りすぎていた。前世の会社でも、仕入れルートの集中は常に問題になった。分散させておかなければ、一か所が詰まれば全体が止まる。


「南の河原を当たれ。それでも足りなければ、石灰岩を砕く方法を考える」


「石灰岩か……」


「お前には無理でも、茂兵衛の衆なら石を扱える。話をつけてみる」


 与助は頷いた。だがその顔に、わずかな曇りが残っていた。


 与助は自分の采配で動かせなかったことを、恥じていた。


 日吉はそれを見た。その羞恥心が、与助をさらに熱心にさせると分かった。失敗は人を縛る。成功だけではなく、失敗もまた、人をこの仕組みに食い込ませる。


 その計算が、一瞬、頭を過った。


 日吉は自分の思考に、少し嫌気がさした。


 小六への話を持ち込んだのは、十日後だった。


 川並衆の頭目は、日吉の顔を見ると少し笑った。「また来たか、小賢しい小僧」という顔だった。だが追い返さなかった。


 保存食を定期的に川沿いの宿場へ卸す話。川並衆が荷を運び、利ざやを取る。日吉は製造を担保する。


 小六は話を聞き終えて、腕を組んだ。


「売れる保証はあるのか」


 日吉は答えた。


「ない」


 小六の目が動いた。


「正直なことじゃ」と小六は言った。「だがそれでは俺が損をしたらどうする。荷を運んで、宿場で捌けなかった場合、損はどちらが被る」


「損が出た分は、次の納品から差し引く」


「次があればの話じゃ」


「次がなければ、俺の負けじゃ」


 小六は少し黙った。日吉を眺めた。値踏みではなかった。もっと別の——何かを測る目だった。


「お前は幾つじゃ」


「十一」


「十一が来て、損は俺が被る、と言うのか」


「初回は俺が損を引き受ける。その代わり、売れた場合の利ざやを少し多くもらう。二回目以降は五分じゃ」


 小六は笑った。今度は最初と違う笑い方だった。値踏みが終わった後の笑いだった。


「……初回だけ、乗ってやる。売れなんだら、お前の負けじゃ」


 日吉は頷いた。


 帰り道、日吉は一人で考えた。


 初回が売れなければ、この話は終わる。小六は二度と動かない。


 売れなければならない。


 そのためには、保存食の質を上げるか、値を下げるか、あるいは宿場の誰かに先に話をつけておくか——


 問題の次が、すでに見えていた。


 この連鎖が、止まらなかった。


 夜だった。


 日吉は村の外れに立って、家々を見ていた。


 竈の火が、幾つか灯っていた。橙色の光が、障子を透かして外に滲んでいた。与助の家。清次郎の家。先月まで日吉と口も利かなかった半兵衛の家でさえ、今は日吉の作った竈から煙が上がっていた。


 茂兵衛の小屋の方角にも、光があった。


 日吉の作った仕組みが、今夜も動いていた。


 誰も頼んでいないのに。日吉が命じなくても。与助が動き、女たちが仕込みをし、茂兵衛が粘土を練る。それぞれが自分の仕事だと思って動いている。


 それは——美しいと思った。


 本当に、そう思った。


 人が自分の役割の中で生き生きとしている。それは善いことだと、今も信じている。


 だが同時に。


 この仕組みが止まれば、誰かが困る。与助には仕事がなくなる。茂兵衛の家は冬を越せなくなる。村の女たちは収入を失う。


 全員が、今や日吉の作った「理」の中で呼吸していた。


 日吉が右と言えば右を向く、と先日思った。


 今夜は、もっと先が見えた。


 日吉が何も言わなくても、皆が動く。なぜなら動かなければ困るからだ。日吉の顔色を窺っているのではない。日吉の作った仕組みに従わなければ、自分が損をするから動いている。


 それは——もはや、日吉という人間への忠誠ではなかった。


 仕組みそのものへの服従だった。


 日吉はその違いに気付いて、少し息が詰まった。


 自分がいなくなっても、この仕組みは動き続けるかもしれない。それほどに、村はもう日吉の設計した「理」の上に乗っていた。


お前はどこまで行く。


 吉法師の声が、耳の奥で鳴った。


 日吉は空を見た。冬の星が、低く冷たく光っていた。


 この村に仕組みを作った。


 だが村一つで、この仕組みは完結しない。小六に荷を頼んだ時点で、川の向こうが必要になった。川の向こうが動けば、その先の宿場が必要になる。宿場が動けば、その先の街道が必要になる。


 仕組みは、外へ外へと手を伸ばす。


 それは日吉が意図したことではなかった。だが気付けば、そうなっていた。


 村一つでは、終わらないかもしれない。


 その予感が、胸の底にあった。温かくも冷たくもなく、ただそこに在った。


 日吉は両手を見た。子どもの手だった。小さく、まだ力が足りなかった。


 この手で、どこまで作れるか。


 その問いが浮かんだ瞬間、日吉は自分の中に、止めようのない何かが動くのを感じた。


 恐ろしかった。


 だが——足が、止まらなかった。

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