第十九話:見え始めた敵
第十九話:見え始めた敵
灰が死んでいた。
囲炉裏の中で、かつて炎だったものが白く冷え、弥右衛門の吐く息だけが白い煙のように夜の空気に溶けていった。傷の手当を終えても、男の顔からは血の気が戻らない。それは痛みのせいではなかった。羞恥のせいでも、恐怖のせいでもなかった。
もっと深いところが、壊れていた。
「庄屋の屋敷には、四つ灯台がついておった」
弥右衛門が言った。声に抑揚がない。まるで他人の話を語るように。
「中には庄助と、炭焼き衆の元締め、茂兵衛がおった。庄屋は奥の座敷に座って、ただ眺めておった。裁く者の顔をして」
日吉は黙って聞いた。
父の右頬は紫に腫れ、目の縁が裂けてかさぶたになっている。蜂蜜を塗ったその傷の下で、何か大切なものが壊れた気配を、日吉は感じ続けていた。
小竹は囲炉裏の向こう側に座り、膝を抱えて目を閉じていた。眠っているように見えて、眠っていない。あの目は今、自分の内側でどこかを計算している。日吉には分かった。
「奴らの言いたいことは一つじゃ」
弥右衛門は続けた。
「日吉の知恵をよこせ、ということじゃ。竈の作り方、保存食の仕組み、何もかも。それを庄屋の名の下に管理する。利益は庄屋が取る。お前たちは黙って従え。逆らうなら——」
男は言葉を切った。
「村から出て行け、と。そう申した」
母のなかが、土間の奥で息を詰めているのが分かった。
沈黙が落ちた後、最初に口を開いたのは小竹だった。
「茂兵衛は何を言うておった」
父でも兄でもなく、炭焼き衆の元締めの名を真っ先に問う。五歳の問いとは思えなかった。
弥右衛門は少し眉を上げた。
「竈が村中に広まれば、薪が売れなくなると。儂らが村の仕組みを壊しておると。先祖代々の商いを奪う泥棒じゃと、そう怒鳴っておった」
「怒鳴っておった」
小竹は繰り返した。静かに、確かめるように。何かを測っているようだった。
「怒鳴るのは、本気で怒っておるからじゃ。庄屋は打算。庄助は力。茂兵衛は怒り」
小竹はそこで少し黙った。膝を抱えたまま、囲炉裏の灰を見ていた。
「……茂兵衛を、ただの敵にしてはならん気がする」
ぽつりと、そう言った。
言い切らなかった。答えではなく、引っかかりとして落とした言葉だった。
日吉は弟を見た。それから父の傷を見た。それから囲炉裏の灰を見た。
前世の記憶が疼いた。
営業部長として幾つもの市場を開拓した。新しいサービスを売り込む度に、既存の業者が死んだ。それを「時代の流れ」と呼んだ。「顧客のため」と呼んだ。
だが茂兵衛には子どもが三人いる。下の子はまだ歩き始めたばかりのはずだ。
「……なら竈を作る側に回すか」
日吉は言った。自分でも、その言葉がどこから来たのか分からなかった。頭より先に、口が動いていた。
「炭焼き衆は火を扱う。土を知っておる。竈を作るのに、これほど向いた人間もおらん。奴らを敵に回すより、竈師として取り込んだ方が——」
小竹が、ゆっくりと顔を上げた。
その目に、奇妙な光があった。兄を見る目ではなかった。何かを確認した者の目だった。
「そうじゃ」とだけ、小竹は言った。
二人の間に、言葉のない時間が流れた。
日吉は技術を作る。小竹は人を見る。
その役割が、言葉にされる前から、すでにそこに在った。
夜が深くなった。
弥右衛門はようやく横になり、なかが傍についた。小竹は囲炉裏の前で丸くなって本当に眠った。子どもらしく、あっけなく。
日吉だけが眠れなかった。
外に出ると、冬の空が低く、星が少なかった。遠くで川の音がした。土の匂いがした。この村の匂いだ。
与助の顔を思った。
竈を覚えてから、与助は変わった。それまで俯いていた男が、胸を張るようになった。日吉と話す時の目が、違う。以前は横に並ぶ目だった。今は——
日吉はそこで、思考が止まった。
今は、どういう目だ。
記憶を辿ると、与助はいつも日吉の少し後ろに立っていた。日吉が何か言うと、すぐに頷いた。竈の改良を話すと、「それは良い」と言う前に、もう動き始めていた。
なぜだ。
与助は日吉より五つ年上だ。力も経験もある。なぜあの男が、自分の言葉をそこまで——
日吉の内側で、何かがざわついた。
気持ち悪さに似た感覚だった。でも気持ち悪さとも違った。名前のない何かが、胃の底に沈んでいた。
清次郎も、そうだ。
先月、竈を導入した後、清次郎は妙に丁寧になった。道で会うと頭を下げる。以前はそんな男ではなかった。
なぜ。
日吉は、その問いの答えを知っていた。知っていたからこそ、そこから目を逸らしていた。
竈があるから。
便利さを与えた。だから頭を下げる。
それは、礼ではない。
依存だ。
気配が来たのは、その時だった。
暗闇の端に、影がある。
馬の息が白く揺れていた。
「浮かぬ顔をしておるな」
声は低く、透き通っていた。どこか他の場所からこの世に紛れ込んだような、そういう声だった。
吉法師だった。
以前と変わらない。いや、変わっていた。あの時より少し背が伸び、目の奥に宿る光が、深くなっていた。少年の顔をした何かが、そこに立っていた。
「随分遠くから来た」と日吉は言った。
「近くまで来る用があった」吉法師は言った。馬から下り、土の上に立った。「それより面白いことになっておるな。お前、いつの間に村を半分手中に収めた」
日吉は眉をひそめた。
「そんなつもりは——」
「ない、と申すか」
吉法師は笑った。笑うと、少しだけ子どもに戻る。だがその目は笑っていなかった。
「人は便利な方に流れる。日吉、それはお前も知っておろう」
日吉は黙った。
「流れた先に立っておる奴が、主人じゃ。それだけのことじゃ」
吉法師の言い方は、粗かった。整理された言葉ではなかった。だが、だからこそ、その言葉は肉を持っていた。哲学ではなく、本能から出た言葉だった。
「お前の竈に人が集まった」吉法師は続けた。「なぜだと思う」
「便利だから」と日吉は言った。
「それだけか」
日吉は答えられなかった。
「竈を作れる奴は他にもおる。だが皆がお前の竈を使いたがる。なぜか分かるか」
吉法師は日吉の目を見た。値踏みする目だった。
「お前が傍におるからじゃ。人は道具より、道具を作った奴を信じる。与助はお前を信じておる。清次郎もそうじゃ。道具への信頼と、お前への信頼がもう区別がつかんようになっておる」
日吉の中で、さっきの気持ち悪さが形を持ち始めた。
「俺は」と日吉は言った。言葉を探しながら。「俺はただ、家族が飢えないようにしたかっただけじゃ。皆が少しでも楽になれば——」
「嘘を申せ」
吉法師の声は、あっけないほど平坦だった。
「嘘ではない」
「嘘ではないかもしれん」吉法師は言った。「だがそれだけでもない。お前が作りたいのは竈じゃない。お前が正しいと思う世の形じゃ」
日吉は反論しようとした。
言葉が出なかった。
竈も保存食も、全部自分が正しいと思ったからやった。誰かに頼まれたからではない。許可を得たからでもない。自分の判断で、自分の目に正しく見えた世界に、この村を近付けようとした。
それを善意と呼んでいた。
しかし今、吉法師に言われて気付く。善意の形をしていたが、それは日吉という一人の人間の、世界への押し付けでもあった。
吉法師は空を見上げた。星のない、低い冬の空を。
「人が集まる奴はな、最初は気付かんのじゃ。気付いた時にはもう、集まっておる」
それだけ言って、吉法師は馬に乗った。
去り際に、振り返った。
「さて日吉」
その目が、真っ直ぐに刺さった。
「お前はどこまで行く」
吉法師が暗闇に消えた後、日吉はしばらく動けなかった。
川の音が聞こえた。風が鳴った。村が眠っていた。
与助の顔が浮かんだ。
もし日吉が明日、与助に「東へ行け」と言ったら。
与助は行く。
理由を問わずに。
清次郎は。父は。竈を使い始めた隣人たちは。
日吉が右と言えば右を向く。日吉が動けと言えば動く。それはもはや、竈への信頼ではない。日吉という人間への、無条件の追従だ。
それは——便利だ。
その考えが浮かんだ瞬間、日吉は自分の内側に寒気を感じた。
便利だ、と思った。
思ってしまった。
家族を守りたかっただけの人間が、いつの間にか、人を動かすことの便利さを計算していた。それも何の抵抗もなく、ごく自然に。
救いたいと思っていた。
だが気付けば、集めていた。
集めた先に立っていた。
その場所の名前を、日吉はまだ知らなかった。知りたくもなかった。だが吉法師の問いが、耳の奥でまだ鳴り続けていた。
お前はどこまで行く。
夜が深く、冷たく、静かに降り積もっていった。
答えは、なかった。
いや——答えを、出したくなかった。
それが、今夜の日吉にとって、最も正直な真実だった。




