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豊臣兄弟、最底辺から始める天下奪取 ――現代営業の知略で、戦国の理不尽を喰い破る――  作者: チャプタさん


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第十八話:火を継ぐ者

第十八話:火を継ぐ者


 翌朝、未だ周囲の闇が完全に引き下がる気配すら見せぬ極寒の時刻、庄内川の深い水面から吹き上げてくる冬の風は、人々の骨の真髄にまで凍てつく冷たさを染み込ませるかのように、鋭く、そして容赦なく吹き荒れていた。

 日吉は、低い天井から煤が静かに降り積もる薄暗い土間の中で、寒さのために強張った重い瞼をゆっくりと持ち上げて目を覚ました。

 昨夜のうちにしっかりと泥の蓋を閉じ、気流の流れを最小限に絞っておいた自らの竈の奥底を覗き込んでみると、そこには、赤々と美しく熱を湛えた炽火が、静かに息を潜めるようにして残されていた。

 火は、完全には消え去ってはいなかった。

 この何らの暖房も存在しない極寒の冬の暮らしにあって、火種が翌朝まで自然に維持されているということは、それだけで、薪を最初から消費して火を起こす手間を劇的に省き、貴重な燃料の温存に計り知れないほど貢献するものであった。

 日吉は、手元にあった極細の枯れ枝を僅かに竈の隙間から差し込み、そっと灰の中に埋もれていた熾火の上へと重ね合わせた。

 パチリ、と静まり返った室内で、乾燥した木肌が一瞬にして小さな、だが不敗の火花を散らせて輝き始める。

 背後の薄暗い寝床の藁の上では、妹たちが寒さを避けるようにしてお互いに身を寄せ合い、大きな毛布の陰で小さく身じろぎをしていた。

 母親のなかもまた、寝床の冷たい空気を感じて、物音を立てぬように注意深く起き上がろうとする気配が伝わってくる。

 かつての、あの不効率な地べたの囲炉裏に頼っていた貧しい生活の時代であれば、朝一番の最も過酷な労働というものは、冷めきった湿った灰を必死に掘り返し、煙に目を真っ赤に腫らして涙を流しながら、何度も何度も細い火吹き竹で息を吹き込み続ける、辛い作業に他ならなかった。

 しかしながら、泥と古石を緻密に組み合わせて作り上げたこの新しい竈の知恵がある今、その出来事のすべては一瞬にして変わり、朝の凍えるような労働の負担が、劇的に一つ消え去っていた。

 ただ、昨夜の火が翌朝まで残されている、そのごく些細な変化の違い一つだけで、そこに暮らす人間の暮らし全体の質は、目に見えて明るく、快適なものへと変貌を遂げていくのであった。


 まさにその時、あばら屋の粗末な板戸を、外から遠慮がちに叩く、カサ、カサという微かな音が響き渡った。

 周囲の空は、未だ朝の陽光の兆しすら見せず、深い藍色の闇に沈み込んでいる時間帯であった。

 日吉は、その唐突な来訪者の気配を察して、口元に静かな、かつ確信に満ちた笑みを浮かべた。  すべては、自らの思い描いていた通りの、早い時間での推移であった。

 重い戸をゆっくりと押し開けてみると、そこには、寒風によって両の頬を赤黒く染め上げ、手足を硬直させた若者の与助が、吐く息を濃く白く濁らせながら、じっとそこに佇んでいた。


「やはり、約束の時間に遅れることなく、ちゃんとやってきたな、与助」


「……当たり前だ、今日の朝早くに我が家へ来いと、昨日あれほど強い口調で命令したのは、お前の方ではないか」


「てっきり、初めての奉公仕事の重圧に耐えかねて、怖気づいて逃げ出してしまうのではないかと、少しばかり心配していたのだよ」


「俺には、お前のような知恵の働く子供の前から、おめおめと逃げ出すような不名誉な真似をする理由など、どこを探しても持ち合わせてはいないわ」


 与助は、自らの素朴で真面目な顔つきを一切崩すことなく、きっぱりとした語気でそう答えてみせた。

 彼は、自らの言葉に対して一点の欺瞞も交えておらず、本当にその不器用な誇りを守るために、この極寒の朝にやってきたのだ。

 日吉は、その実直な若者の精神の器の大きさを改めて強く実感し、満足げに微笑んだ。


「よし、ならば早速、最初の現場へと出発するとしよう」


「出発する、だと……? 一体、これからどこへ向かおうというのだ」


「言わなくても分かっているだろう。昨日失敗を繰り返していた、村の百姓たちのところへ、正しい竈の作り方を教えに回るのだよ」


 その言葉を聞いた瞬間、与助の逞しい肩が一瞬にして不自然に強張り、その顔には明らかな動揺の色彩が走った。


「ほ、本当に、まだ覚えたばかりのこの俺の手を以て、今日から他の百姓たちの指導を始めるというのか」


「昨日、四度目の挑戦で完璧に美しい火を立ち上げることに成功した際、俺の言葉を素直に聞き届けて、引き受けると約束したはずだろう」


「いや、確かに引き受けはしたが、いざ本当に大人の男たちの前へ出て教えるとなると、やはり、どこか不安で仕方がねぇのだよ……」


 十四歳を迎えたばかりの、日頃は目立たない実直な若者にすぎない彼にしてみれば、昨日まで教わる側の未熟な立場であった自分が、突如として他者を指導する立場に立たされるのだから、その精神の重圧は、計り知れないほどに過酷なものであるに違いなかった。


「もしも、俺の教え方が悪くて、他人の家の竈をさらに酷く壊して失敗させてしまったら、一体どのようにしてその責任を取れば良いのだ」


「失敗したならば、その時は何度でも、素直に頭を下げて失敗し続ければ良いのだよ」


「……はぁ? 一体何をおかしなことを言うのだ、お前は」


「最初から、一度の失敗も犯すことなく、完璧に万物の知恵を扱える人間など、この世にはただの一人として存在はしない。本当に恐れるべきは、失敗を犯すことそのものではなく、その失敗の苦い経験から何も学ぼうとせず、自らの非を認めずに途中で作業を放り出して立ち止まってしまう、怠惰な精神の方なのだよ」


 日吉は、一切の迷いを見せることのない平然とした口調で、若者を見つめ返した。

 その言葉の中に込められた、かつて前世の過酷な競争社会において、数々の理不尽なトラブルを克服しながら部下たちを指揮してきた大人の「重み」の前に、与助は返す言葉を失って静かに黙り込んだ。

 彼は、日吉の言葉の意味を完全には理解できずに困惑していたが、それでも、この子供が放つ不思議な説得力の前に、自らの反発の心を押さえ込み、静かにその場に踏みとどまった。

 それだけで、彼をこの日の指導の役に据えた価値は、十分に証明されていた。


 最初に向かったのは、やはり昨日の夕暮れ時にも、泥の壁面が破裂したと大騒ぎを繰り返していた、隣家の吉蔵のあばら屋であった。

 あばら屋の前に到着すると、昨日日吉が手を貸して無理やり直してやったはずの竈の排気口から、未だに黒く濁った煤煙が、弱々しく立ち上っているのが見えた。

 吉蔵は、土間の入り口から日吉たちの姿を捉えるや否や、藁をも掴むような必死の形相で、足早に駆け寄ってきた。


「おおっ、日吉! 待っていたぞ、早く中に入って、我が家のこの不完全な火の様子をもう一度点検してくれ!」


「吉蔵、心配する必要はないよ。今日は、俺ではなく、この与助が、お前の家の竈の状態を細かく点検して直して見せるからな」


「与助が……? お前、冗談を言っているのではないだろうな」


 吉蔵の顔には、あからさまな深い猜疑と困惑の表情が浮かび上がっていた。  それは、至極当然の反応に他ならなかった。

 この閉ざされた中村の村落の中にあって、与助という若者は、別段何かの専門の知恵を有した特別な人間などではなく、ただ日頃から寡黙に泥にまみれて働いている、地味な小作農の若者にすぎない存在であったからだ。

 昨日まで自分たちと同じように飢えに震えていたはずの男が、突如として、自分たちの竈を点検する役目として目の前に立ちはだかったのだから、戸惑うのは当然のことであった。


「今日は、俺は一言の口も出さず、ただ後ろから静かに見守っているだけだ。すべての判断と指導は、この与助が責任を持って執り行うからな」


 日吉は、与助の背中を、優しく、かつ力強く前に向けて押し出した。

 与助の逞しい両肩が、一瞬にして凄まじい緊張のために不自然に強張るのが、横から見ていてはっきりと分かった。

 吉蔵の、半信半疑の冷ややかな視線が、与助の全身に突き刺さる。  もはや、ここから後退りして逃げ出すための猶予など、どこを探しても残されてはいなかった。

 与助は、自らの内に生じた激しい震えを必死に押し殺すようにして、竈の燃焼口の前に深く、慎重にしゃがみ込んだ。

 そして、日吉が昨日自らに向けて教えてくれたあの手順を、頭の中で一つずつ必死に反芻するようにしながら、しばらくの間、無言のまま炉の奥深くを観察し続けた。

 長い沈黙の後、与助は、自らのかすれた声を絞り出すようにして、静かに言葉を発した。


「……石の積み方は、悪くはない。吸気口からの空気の通り道は、完全に確保されている」


「おう、そうか」


「煙突の排気口の向きも、風の流れを損なうことなく、綺麗に通っているな」


「そうだな、それは俺も気をつけて築いたつもりだ」


「ならば、竈の構造そのものには、何の致命的な問題も存在してはいない」


 吉蔵が、不思議そうに自らの首を傾げた。


「それだけか? 竈に問題がないと言うのなら、どうして我が家の火は、これほどまでに弱々しく、煙ばかりを吐き散らしているのだ」


 与助は、一瞬だけ困惑の表情を浮かべて言葉を詰まらせたが、日吉は後ろに控えたまま、一切の手助けの手を差し伸べることはせず、ただ静かに見守り続けた。

 ここで安易に自分が前に出て助けてしまえば、与助は一生、他者の依存から脱却することができず、自らの手で「人」を育てるという最大の仕組みの構築は、破滅へと向かうからだ。

 与助は、自らの頭脳を必死に働かせ、昨日日吉が自分に向けて語ってくれたあの言葉の意味を、自らの体験と重ね合わせながら、必死になって言葉を探し求めていた。


「吉蔵、お前は……竈に火を焚べる際、ただ上から薪を力任せに大量に押し込めば、それだけで強い火が起きると、勘違いしているのではないか」


「え? 違うのか、たくさん薪を入れれば、それだけ強く燃えるのは当然の道理ではないか」


「昨日の夜、俺もお前と同じような過ちを犯して、何度も何度も火を消して失敗したからこそ、よく分かるのだ。火というものはな、人間と同じように、常に空気を取り込んで呼吸をしなければ、生き続けることは叶わないのだよ。お前が、欲張って一度に大量の湿った薪を炉内に詰め込みすぎてしまったために、空気の流れる大切な息の道が、中から完全に塞がれてしまっているのだ。息ができなければ、人が呆気なく死んでしまうのと同じように、火もまた、たちまちのうちに窒息して死に絶えてしまうのだよ」


 吉蔵の、驚愕に満ちた両目が、その与助の極めてわかりやすく、かつ説得力に満ちた説明を聞いて、大きく見開かれた。


「な、なるほど……。火も、人間と同じように息をしていなければ死ぬというのか。それは、実にわかりやすい道理だな」


 与助の端正な顔立ちに、ようやく、自らの言葉が相手に伝わったという、確固たる安堵の色彩が浮かび上がった。

 日吉は、その若者の立派な最初の一歩を見届けて、胸の中で静かに、深い納得の頷きを送っていた。

 他者に物事を教えるということは、単に自らの持っている高度な知識を、一方的に並べ立てて誇示することでは決してない。

 相手の立場に立ち、相手の知的レベルに合わせて、最も理解しやすい素朴な言葉に翻訳して伝えてやることこそが、本当の教育の本質なのだ。

 与助は、自らの失敗の経験を最大の教材にしながら、その教育の真髄の最初の一歩を、見事に自らの力で踏み出してみせたのであった。


 それから昼近くの刻限を迎えるまで、二人は村のあちこちの家々を、休むことなく精力的に回り続けた。

 ある家では、泥竈の壁面が不完全な乾燥のために割れて崩れており、ある家では、完成した竈の利便性に涙を流して感謝しており、またある家では、途中で石の積み方に挫折して放り出されていた。

 その多様極まりない失敗の現場において、与助は、何度も言葉に詰まり、相手を納得させるための説明に失敗し、恥をかく経験を重ねていた。

 しかしながら、彼は、ただの一度として不貞腐れて作業を投げ出すような真似はせず、最後まで実直に、村人たちに向き合い、竈の調整を施し続けた。

 その、泥にまみれて決して逃げようとしない若者の姿を見つめながら、日吉は、自らの一手が一寸の狂いもなく、完璧な形で成功しつつあることを確信していた。


 昼過ぎの、薄暗い曇天の空から細かな雪が舞い散り始めた時間帯、案の定、庄屋の使いの男が、再び我が家の前に姿を現した。


「日吉。庄屋様が、お前の姿を今すぐ屋敷の奥へとお呼び出しだ。すぐに同行せよ」


 日吉は、自らの内に生じた、張り詰めた緊張の息を、静かに吐き出した。

 庄屋の側が、自分たちの動きを、物陰から注意深く監視し続けていたことは、百も承知のことであった。

 庄屋の屋敷へと向かう冷たい街道の途中、与助は、耐え難い不安に襲われたかのように、日吉の顔を覗き込んできた。


「おい、日吉。このような非常の呼び出し、何か俺たちの動きに、まずい落ち度でもあったのか」


「心配する必要はないよ、与助。まだ、何が起きているのか、具体的な全貌は分かってはいないからな」


「お前は、庄屋様のような村の絶対的な統治者を前にして、少しも怖くはないのか」


「怖いに決まっているだろう。俺だって、一人の無力な子供にすぎないのだからな」


 日吉のその即座の肯定を聞いて、与助は、信じられないものを見たかのように、大きな驚きを浮かべた。


「お前が、恐怖に震えているようには、とても見えんがな」


「怖いからこそ、俺は、自らの頭脳をフル回転させて、最悪の結末を回避するための策略を、死に物狂いで考え続けるのだよ。恐怖を感じない愚かな人間ほど、自らの足元の罠に気づかずに、いとも呆気なく命を落とすものだからな」


 それは、前世におけるあの過酷な組織社会の中で、様々な理不尽な試練を乗り越えながら、自らの身を守り抜いてきた日吉が、体得した最大の生存の習性そのものであった。


 庄屋の広大な屋敷の奥深く、炭火が赤々と熾る火鉢の前に佇む庄屋の男の表情は、昨日以上に険しさを帯びていた。

 男は、自らの頑強な両腕を胸の前できつく組み、日吉を一瞥した。


「日吉。村の様子は、すでにわしの手下の若衆たちを通じて、細かく報告が入っているぞ」


「はい、お耳に届いておる通りにございます」


「お前の言った通りの、不気味な仕組みが、村の中で確実に形になり始めておるようだな」


「何のことでしょうか、私は、ただ約束通りに村の皆様へ、正しい竈の作り方を教えて回っているだけにございます」


「同じことだ」


 庄屋は、日吉の巧みな言い訳を、一瞬にして冷徹に遮ってねじ伏せた。

 男の瞳の奥に宿る光は、昨日までのそれとは明らかに異なる、深い、かつ冷酷な「支配者としての本能的な危機感」を孕んでいた。


「お前は、ただの便利な竈を村中に普及させているのではない。お前は、あの与助という実直な若者を自らの代理人として使い、村の中に、自らを頂点とする新たなる『意思のネットワーク(組織)』を、勝手に構築し始めているのだ。お前が指先一つで人を動かし、その知恵に村人全員がひれ伏して依存し始めているその現状を、わしが気づかぬとでも思っていたのか」


 その、本質をあまりにも正確に射抜いた男の言葉を聞き、日吉は内心で、舌を巻かざるを得なかった。

 やはり、この庄屋の男は、ただの農民たちのまとめ役にすぎない凡夫などではない。

 日吉が生み出そうとしている、技術の伝播を通じた「集団の仕組み化」というものが、長年守られてきた自らの支配権を根底から脅かしかねない、恐るべき政治的な力を秘めていることを、完璧に察知しているのだ。


「日吉。お前は、その小さな頭脳を使って、一体どこまで遠い世界にまで、自らの力を伸ばしていくつもりなのだ」


 日吉は、その庄屋の鋭い問いかけに対しては、何も答えることはせず、ただ静かに口を閉ざした。

 自分でも、この先に待ち受けている運命の全貌など、どこを探しても判然としてはいなかった。

 ただ一つ、確かなことは、自分たちのこのささやかな家族の温もりを、貧しさや飢えの理不尽によって、二度と誰からも蹂躙されたくないという、生への乾いた執念だけであった。

 庄屋の男は、長い沈黙の果てに、やがて不快そうに鼻の奥で息を鳴らした。


「まあ、良い。お前たちのその小賢しい試みによって、結果として村全体の収穫が増え、我が一族への年貢の納入がより安定したものとなるならば、今は敢えて手出しをして潰すような真似はせぬ。ただし、忘れるなよ、日吉。村の秩序を乱すような余計な騒動だけは、決して起こすのではないぞ。もしも、一寸でも不穏な動きを見せたならば、その瞬間に、お前たち親子をまとめてこの地から排除してやるからな」


 それは、はっきりとした、逆らうことを許さぬ絶対的な警告の言葉であった。

 日吉は、その警告を静かに受け流すようにして、地べたに深く頭を下げ、屋敷の奥から静かに去っていった。


 屋敷を出る頃には、東の雲の端が赤黒い夕暮れの色彩へと染まり始め、夜の深い闇がじわじわと地表へと伸び始めていた。

 日吉は、自らの足を、自然とあの庄内川の河原の方へと向けていた。

 そこへ向かえば、あの小六という大男が、今日も変わらぬ佇まいで、水路の流れを見つめているに違いないという、確固たる予感があったからだ。


 案の定、冷たい川霧の立ち込める渡し場の近くには、小六が自らの配下の男たちを従えて、川舟に積み上げられた荷物の最終的な確認を行っている姿があった。

 大男は、こちらへと歩み寄ってくる日吉たちの姿を捉えるや否や、不敵な笑みを浮かべた。


「よう、竈の餓鬼。今日も変わらず、その小さな身体を泥だらけにして、怪しげな知恵を弄び回しているようだな」


「たまたま、散歩の途中で通りかかっただけにすぎないよ、おじさん」


「嘘をつけ。お前は、自らの小さな頭脳で何か難解な策略を考えているときには、必ず、この川の流れを見つめにここへやってくる癖があるからな」


「……そんな不審な観察は、頼むからやめておくれ」


 日吉は、肩をすくめて苦笑を漏らした。  小六は、自らの木刀を肩に担ぎ直しながら、白く霞みゆく広大な庄内川の水面を見つめ、静かに語りかけた。


「一体、お前はその小さな頭で、何をそこまで深く考え込んでいるのだ」


「人の、動かし方にございますよ」


「ほう」


「物は、川の流れに乗りさえすれば、どこまでも遠くの世界へと運ぶことができる。しかしながら、形を持たない『知恵』というものは、一体どのようにして、他国へと運べば良いのだ」


 小六は、その予期せぬ日吉の質問を聞いて、自らの鋭い双眸を僅かに細め、しばらくの間、深く思案していたが、やがて、迷いのない重厚な声で答えた。


「人が、運ぶのだよ」


「人が、運ぶ?」


「ああ、そうだ。荷も、知恵も、金も、そして他国へと波及する凄まじい戦の種であっても、すべては、動かす人間の肉体があって初めて、水路の流れに乗って他国へと運ばれていくのだよ。この世界の万物の仕組みというものは、突き詰めれば、すべて『人』の動きによってのみ、駆動されているのだからな」


 日吉は、その小六の放った一言を聞いた瞬間、自らの胸の奥底で、かつて前世の過酷な社会競争の最前線において、何百人もの部下を率いながら体得してきたあの真理と、完璧に重なり合うのを感じて、深く、静かに押し黙った。

 どれほど優れた、合理的な流通の仕組みを新しく構築しようとも。  どれほど便利な、驚異的な新技術の道具を考案しようとも。

 それを実際に動かし、他者へと伝えていく「人」の肉体が存在し、機能しなければ、それはただの死んだガラクタへと成り下がってしまう。

 この乱世における真の勝者とは、単に一人の突出した腕力を持つ者などではなく、多くの人々を惹きつけ、自らの意思の通りに効率的に動かすことのできる、有能な「仕組み(組織)」を握る者なのだということを、日吉は深く自覚した。


 まさにその時であった。  背後にいた小竹が、不意に、自らの足並みをぴたりと止めて静止した。


「兄上」


 その声は極めて低く、冷たい緊張を孕んでいた。  日吉は、慌てて振り返ることなく、静かに声をかけた。


「いるのだな、小竹」


「はい。土手の遥か上、冬枯れの草木の生い茂る向こう側に、昨日と全く同じ位置に佇んで、こちらをじっと見つめている武士の姿がございますよ」


 日吉は、自らの視線だけを不自然にならないようにして、高い土手の上へと向けた。

 薄暗い夕闇の中に、一頭の逞しい軍馬と、その上に跨る完全武装の武士の影が、昨日と全く同様に、微動だにせずに佇んで、自分たちの一挙一動を執拗に監視し続けていた。

 二日連続の出現。  それは、もはや単なる偶然の重なりなどではなく、明確な他者の意思に基づいた、組織的な「監視」の表れであることは、誰の目にも明らかであった。

 日吉は、平静を装って佇んでいたが、自らの胸の中の心臓は、これまでにないほどの激しい速度で脈打ち、手の中の拳が小刻みに震えるのを感じていた。

 自分たちの生み出した、あの竈の技術の存在は、すでに、この村の境界線を遥かに越えて、外の広い世界を支配する大名たちの耳にまで、届き始めてしまっているのだ。

 小六もまた、その土手の上に佇む強大な武士の気配を、完璧に察知しているはずであった。

 しかしながら、大男は、そのことについて日吉に対して何らの言葉をかける真似はせず、ただ無言のまま、静かに夕闇の向こうを見つめ続けていた。

 日吉もまた、その沈黙の意図を正確に理解していたため、敢えて自らの側から余計な質問を投げかけるような真似はしなかった。

 今はまだ、自分たちを脅かす強大な支配者たちの正体について、詮索を試みるための、肝心の材料が決定的に不足しているのだ。

 やがて、全体の状況を確認し終えた武士は、静かに馬首を返し、夕闇の向こう側へと、音もなく去っていった。


 あばら屋へと戻ると、母屋の内部では、母親のなかが温かい雑穀の粥を丁寧に温め直しており、妹たちが竈の放つ豊かな温もりを浴びながら、楽しげに竈の周りに集まっていた。

 そこには、外の冷酷極まりない世界とは完全に切り離された、泥臭くも、何よりも温かい家族の「日常」の光景が、美しく広がっていた。

 日吉は、燃え盛る竈の炎を、吸い込まれるようにしてじっと無言で見つめ続けた。

 昨日までは、ただ自分たちの生存を一時的に繋ぎ止めるための、極めてささやかな、家族だけの弱い火にすぎなかった。

 しかし、今日、実直な若者である与助が、自らの手で、この竈の新しい火を成功させて燃え立たせて見せた。

 そして明日は、その与助の指導の言葉を通じて、村の別の百姓たちが、それぞれの家の中に、さらに新しく正しい火を、次々と広げ、立ち上げ始めることになる。

 そうやって、自分たちの生み出した知恵の火は、この閉ざされた共同体の隅々へと、決して消え去ることのない強固な「野火」として、確実に広がり、伝播していくのだ。

 竈の火も。  そして、それを用いて自らの生存を守り抜こうとする、人間の胸の奥に灯った「生の執念」の火も。

 気づかないうちに、日吉の胸の奥深くにまで、新たなる生存への不敗の策略が、静かに、そして強固に根を下ろしていった。


「兄上」


 小竹が、静かに歩み寄り、日吉のすぐ隣へと座り込んだ。


「何だ、小竹」


「今日の兄上は、いつものような、他人を陥れるための不気味で悪い顔をしておられませんね」


「そうか。お前には、俺の顔がそのように変化して見えているのか」


「ええ。今日の兄上のお顔には、自らの策略が確実に形になり始めた喜びを噛み締めているような、少しだけ、本当に嬉しそうな表情が浮かんでおりますよ」


 日吉は、その弟の言葉に対しては何も答えることはせず、ただ口元に穏やかな微笑みを浮かべたまま、目の前に差し出された温かい粥の器を両手で受け取った。

 そして、温かな白粥を、一口ずつ、噛み締めるようにして、自らの冷え切った身体の奥深くへと運んでいった。

 外の世界では、冬の冷酷な風が吹き荒れ、万物を凍てつかせようと狂暴な牙を研ぎ澄ませていた。

 しかしながら、自分たちの住まうこの薄暗いあばら屋の内部には、確かに、何もののにも脅かされぬ生きた「火」が赤々と灯り続けていた。

 それは未だ、この広大不条理な戦国の世にあっては、本当に小さく、脆い、塵の火にすぎないものであった。

 しかしながら、その泥の竈の中で燃え盛る古石の炎は、確かに、まだ見ぬ未知の未来、自分たち家族が生き残り、いつの日か泥の底から這い上がっていくための、神聖な希望の道標そのものを、暗闇の向こう側へと、力強く、そして鮮やかに照らし出し始めているのであった。

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