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豊臣兄弟、最底辺から始める天下奪取 ――現代営業の知略で、戦国の理不尽を喰い破る――  作者: チャプタさん


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第十七話:広がる火

第十七話:広がる火


 翌朝、東の地平線が僅かに白み始めたばかりの極寒の時刻、中村の集落を包み込む大気は、昨日にも増して剃刀のように鋭く冷たかった。

 日吉は、土間の隅に築かれた泥竈の前に低くしゃがみ込み、赤々と熾火を湛える炉内の様子を確かめながら、静かに極細の枯れ枝を一本、奥へと差し込んだ。

 乾燥した木肌が、パチリ、パチリと小さく小気味のよい音を立てて爆ぜ、赤色の火種が新たな木肌を包み込んで、力強くその輝きを増していく。

 かつての非効率的な地べたの囲炉裏の時代であれば、これほどまでに僅かな細木を焚べたところで、朝の雑穀粥を満足に沸騰させることすら到底不可能なことであった。

 しかしながら、泥と強固な古石を噛み合わせて作り上げたこの新しい竈の内部においては、その物理的な熱の動きは、全く異なる様相を呈していた。

 火は確かに、外から見れば驚くほどに小さいものであった。

 それにもかかわらず、炉内を流れる対流の気流が炎を効率的に育て上げ、発生した強烈な熱源を一切外へ逃がすことなく、調理を施す一点へと美しく集中させていた。

 厳しい冬の牙が容赦なく肉体を蝕む季節であるからこそ、その僅かな薪の節約と、放出される絶大な温もりの違いは、村に暮らす百姓たちの誰もが、一瞬にして自らの身を以て理解できる劇的な変化であった。

 そして、そのあまりにも劇的で有益な知恵の違いが、早くもこの静かな集落の中に、新たなる不穏な騒ぎの火種を呼び寄せつつあった。


 あばら屋の薄暗い戸口の向こう側から、凍てついた硬い地表を乱暴に踏みしめながら近づいてくる、慌ただしい足音が聞こえてきた。

 戸を乱暴に押し開けて室内に滑り込んできたのは、隣家に暮らす、日頃から小作農として辛い野良仕事を共にこなしている吉蔵であった。


「日吉! 日吉はどこにおる! 今すぐそこから出てきて、我が家の様子を見てくれ!」


 吉蔵のすぐ後ろには、同じく身分の低い百姓である惣兵衛、さらには、隣の組に住む見知らぬ村人たちが二人ほど、血相を変えて付き従っていた。

 まだ朝の勤めを始めるには早すぎる時間であるにもかかわらず、彼ら大人の男たちの誰もが、自らの頭をかきむしりながら、妙に焦り狂った顔つきをしていた。


「一体、朝早くから、それほど取り乱してどうしたというのだ、吉蔵」


「どうした、などと平気な顔をして抜かすな!

お前が昨日、河原で村の衆に見せてくれたあの竈の作り方を真似て、昨夜のうちに我が家の土間にも同じように築いてみたのだ。しかしながら、いざ火を入れようとしてみても、すぐに火が消え去ってしまい、全く使い物にならんのだよ!」


「我が家の竈なんて、火を入れた瞬間に、不快な煤煙が部屋のなかに猛烈に逆流してきて、目が潰れそうになったぞ!」


「俺のところなんて、熱を加えたその瞬間に、苦労して練り上げた竈の泥壁が、一瞬にして大きく破裂して割れて崩れちまったのだ!」


 彼らは口々に、自らの不器用な失敗を棚に上げながら、憤りに満ちた不満を日吉の小さな身体に向かってぶつけてきた。

 日吉は、その大の大人が子供を相手に必死になって縋り付いてくる滑稽な姿を見て、思わず胸の中で、静かに苦笑を漏らすほかなかった。

 昨日の河原での実演を遠巻きに眺めていた彼らは、その圧倒的な温もりと薪の節約に目を奪われ、一刻も早くその恩恵を自らのものにしたいと、夜のうちに必死になって模倣の作業を試みたに違いなかった。

 生き延びるために、新しい技術をすぐに真似て自らの生活に取り入れようとする、その貪欲な行動の早さは、決して悪いことではなかった。

 しかしながら、ただ見た目だけを上辺だけで模倣したところで、簡単に稼働させることができるほど、この自然の物理の法則というものは、生温かいものではなかった。


「分かったよ。ここで言い争っていても始まらない、順番に、一軒ずつお前たちの家の竈の有様を見て回るから、案内しろ」


 日吉は、自らのかじかんだ足を動かして、泥だらけの古い草鞋を履き、男たちを従えて家を飛び出した。


 最初に訪れた吉蔵の薄暗い土間の片隅には、歪んだ形状をした泥の竈が、不格好に築かれていた。

 一見すれば、日吉の作ったものと似た外形をしてはいたが、日吉がその内部を注意深く点検してみると、最も重要であるはずの、下部から空気を取り込む吸気口の隙間が、川石の雑な積み方によって、半分以上も不完全に塞がってしまっていた。


「吉蔵、これでは火が燃え広がるはずがないだろう。火というものはな、人間と同じように、常に周囲の空気を吸い込んで呼吸をしなければ、生き続けることは叶わないのだよ。空気を取り込む息の道が、お前の雑な石の置き方によって完全に塞がれてしまっている。息ができなければ、人間が呆気なく死んでしまうのと同じように、火もまた、たちまちのうちに窒息して死に絶えてしまうのだよ」


「な、なるほど……。火を大きく燃やすためには、ただ上から薪を焚べれば良いというわけではなく、風の息の道を守ってやらねばならんのか」


「そういうことだ。一寸の隙間の狂いが、火の生死を分かつことになるのだからな」


 次に訪れた惣兵衛の家では、泥竈の壁面に、無数の大きな深い亀裂が走り、今にも自重で崩れ落ちそうになっていた。

 日吉は、その泥の表面を触り、まだ湿り気の残る粘土の感触を確かめると、呆れたようにため息をついた。


「惣兵衛、お前は泥を練り上げた後、それが完全に自然の風によって乾燥するまで、待つことができなかったのか」


「ああ……。一刻も早く、その暖かい火の恩恵に預かりたかったのだ。泥が乾くのを待っている間にも、家の中が寒くて寒くて、我慢ができなかったのだよ」


「焦るから、このように失敗するのだ。水分を含んだ泥壁に、外から急激に強い熱を加えてしまえば、内部の水気が爆発的に膨張して、壁面を内側から引き裂いて割ってしまうのは、当然の道理ではないか。何事も、基礎が完全に固まるまで待つという辛抱がなければ、決して本物の道具を手に入れることは叶わないのだよ」


 最後の村人の家では、発生した熱と煙を逃がすための排気口の向きが、著しく不適切であった。

 冬の間に川から吹き上げてくる、強い北風をまともに正面から受ける位置に口が開けられていたため、煙が外へと逃げることができず、風圧によって土間の内部へと押し返されてしまっていたのだ。

 煙が逆流するのも、至極当然の物理的な帰結であった。


 半日近くの長い時間を費やして、失敗した村人たちの家々を、一軒ずつ丁寧に回り終えて自らのあばら屋の近くへと戻ってきた頃には、日吉の履いた草鞋は、雪解けの泥水によって完全に真っ黒に汚れきっていた。

 しかしながら、日吉の精神を支配していたのは、度重なる労働による肉体的な疲労などではなく、脳髄の奥深くから湧き上がってくる、新たなる重大な「思案」に他ならなかった。

 同じような、不器用な失敗を繰り返す百姓たちの家へと、そのたびに自らの細い足を動かして走り回り、同じ説明を何度も根気よく繰り返し、泥にまみれて形状を修繕し続けること。

 それが、自分の住まう中村という小さな集落の内部だけで済んでいるうちは、まだ自らの体力と時間の限界の範囲内で、何とか対処することは可能かもしれない。

 しかしながら、この竈の利便性の噂が、明日、あるいは来月になって、さらに隣の組や、川の向こう側の別の集落にまで広く伝播していったとき、一体どうなるというのだ。

 そのたびに、自分一人の身体を酷使して、四方八方の村々へと奔走し、竈の不具合を直して回ることなど、物理的に不可能なことは、火を見るより明らかであった。

 どれほど自分が傑出した知恵を有していようとも、自らの肉体という器は、この世界においてただ一つしか存在しないのだ。

 その、個人の肉体の限界という不条理は、前世のあの洗練された社会であっても、この荒廃した戦国の世であっても、何一つとして変わることのない不変の法則であった。

 ただ一人の傑出した能力を持つ者が、すべての作業を抱え込んで走り回っているだけでは、その優れた技術を広く社会全体に浸透させ、真の「仕組み」として定着させることなど、到底叶わない。

 広大な世界に向けて、火を広く、等しく普及させていくためには、自らの他にも、この竈を正しく築き、他者に教え伝えることのできる「仲間」を、自らの手で増やしていかねばならないのだ。


 日吉は、泥だらけの足を止め、曇天の空を見上げながら、頭の中で全ての策略が完璧に繋がり合うのを感じていた。  泥と石を組み合わせて、ただ一つの竈を作り出すこと。

 それは、自分たちの生存のための、第一の手段にすぎず、本当の目的などでは決してなかったのだ。

 自らの身代わりに、その竈を正しく作り、他者へと教え伝えることのできる「有能な技術者(人)」を、村の中に何人も育成すること。

 それこそが、自分たちの価値を周囲に不可欠なものとして高め、この乱世を強固に生き残り続けるための、真に価値ある絶対的な戦略に他ならなかった。


「兄上」


 隣を同じように並んで歩いていた小竹が、不意に、自らの足を止めて兄の顔を見上げてきた。


「何だ、小竹」


「お顔が、また、とても冷徹で悪い企みをしている時の表情に戻っていますよ」


「人聞きに悪いことを言うな。俺は、ただこれからの我が家の方針について、真剣に頭を悩ませていただけだよ」


「いいえ。兄上が、そのように物静かに深く考え込んでいるときほど、周囲の大人たちにとっては、最も恐ろしく、かつ危険な罠が仕掛けられようとしている瞬みなのですからね」


 弟は、本気で自らの兄の底知れぬ知性を警戒するような、鋭い眼差しを向けたままであったが、日吉は、その早熟すぎる弟の言葉に思わず、快活な笑みをもらすしかなかった。

 この、まだ五歳に満たない幼児とのやり取りだけが、この殺伐とした世界にあって、日吉の張り詰めた精神を、僅かに和らげてくれる唯一の安らぎの瞬間であった。


 昼前近くの刻限を迎えると、やはり、日吉の予期していた通り、庄屋の屋敷から、物物しい雰囲気を漂わせた使いの男が、再び我が家へとやってきた。

 昨日の河原での実演以降、自分たちの価値を理解した庄屋の男は、何か村に変化が起きるたびに、すぐに自らの権力を用いて日吉を呼び出そうとするようになっていた。

 薄曇りの、今にも新たな白い雪が空から降ってきそうな冷たい風が吹き狂う中、日吉は、小竹を従えて庄屋の広大な屋敷へと向かう道を、無言のまま静かに歩み進めていった。


 庄屋の屋敷の奥深く、炭火が赤々と熾る豪華な火鉢の前に、その恰幅の良い男は静かに腰を下ろしていた。

 前回のような、小作農を相手にする際の上辺だけの愛想笑いなどは、その顔からは完全に消え去っており、男は、低い、威圧的な声を屋敷の梁に響かせた。


「日吉。すでに、村のあちこちから、お前の竈を巡る不穏な報告が、このわしの耳の元へと届いているぞ」


「……村の皆様が、昨夜のうちに自ら竈を真似て、多くの失敗を繰り返しておられる件にございますね」


「そうだ。ある家では煙が逆流して大騒ぎになり、別の家では泥壁が破裂して崩れ落ちたというではないか。これでは、お前の説く竈の知恵など、ただの村の秩序を乱す怪しげな妖術と、何ら変わりはないではないか」


「見ただけで、誰にでも簡単に真似ができるような生温かい代物であるならば、この世に職人などという、専門の知恵を持つ人間は、最初から一人として必要ありませんよ」


 日吉は、庄屋の男の威圧に対しても、一寸の怯えを見せることなく、その両目を真っ直ぐに見据え返して答えた。

 庄屋は、その子供とは思えぬ堂々たる態度に、僅かにその両目を細め、静かに値踏みするような視線を投げかけてきた。

 男の瞳の奥からは、かつて目の前にいる存在を、ただの貧しい百姓のガキとして見下していた傲慢さは消え去り、そこには、自らの統治権を揺るがしかねない異分子に対する、深い「警戒」が、不気味に宿り始めていた。


「なら、このまま村中で失敗が繰り返され、不満が蓄積していく現状を、お前は一体どのようにして解決するつもりなのだ」


「私に代わって、その竈の正しい作り方を、他の者たちに教え伝えることのできる『教える者(人)』を、自らの手で育成いたします」


「教える者、だと……? 一体何のことを言っているのだ」


「はい。私一人だけの身体では、どれほど走り回ったところで、対処できる範囲には限界がございます。ならば、私が信頼に足る器用な者、十人を選び抜いて、竈の核心の技術を完璧に教え込みます。そうして育った十人の者が、さらに村の別の十人に対して、正しい作り方を伝播させていくのです。そうすれば、余計な火事の心配もなく、安全に村中に竈を広げることができるようになります」


 深い沈黙が、屋敷の静まり返った広間に、重苦しく降り積もった。  火鉢の中で、赤々と熾る炭が、パチリ、と小さく音を立てて爆ぜ、僅かな火の粉を散らせる。

 庄屋の男は、自らの顎の髭を何度も撫で回しながら、日吉のその底知れぬ提案の真意を、脳内で冷徹に量り知ろうとしていた。


「お前は……ただの便利な竈を、自らのために作っているわけではないのだな」


 庄屋の男が、ぽつりと、押し殺したような声で語りかけた。


「お前は、その知恵を用いて、この村の中に、自らに従う強固な『人』の流れを作り上げようとしているのではないか」


 日吉は、その庄屋の鋭い指摘に対して、肯定も否定もすることなく、ただ静かに佇み、無言の沈黙を保ち続けた。

 男の瞳の奥に、かつてないほどの激しい「警戒」の炎が、不気味に燃え上がるのが見えた。

 目の前にいるこの小さな子供は、単なる便利な道具を思いついた幸運な餓鬼などではない。

 技術の普及という名目を用いて、村の中に、自らを頂点とする新たな意思決定の「仕組み」を構築しようと企てている、極めて老獪で恐るべき政治的な頭脳を有しているのだと、庄屋は確信したに違いなかった。


「……勝手にするが良い。お前の望むその人づくりの試み、このわしの立場において、特別に許可を与えてやろう」


 結局のところ、実利の損得を計算した庄屋は、竈が村全体に普及することによる年貢の安定した納入のメリットを優先し、日吉の提案を飲む選択を下した。

 許可は、無事に下りた。  ならば、自分たちの生存のための新たなる一手を、躊躇することなく、迅速に進めるのみであった。


 その日の午後から、日吉は村のあちこちを歩き回り、自らの「教える者」としての適性を持つ人間を、その鋭い目で見極めるために走り回った。

 彼がここで探しているのは、指先が器用であるとか、筋力が優れているといった、単純な肉体の能力の持ち主では決してなかった。

 他者の言葉を、自尊心を捨てて最後まで素直に聞くことができる者。  困難な作業の途中で、すぐに投げ出さずに辛抱強く耐えることができる者。

 失敗を経験したからとて、すぐに不貞腐れて腹を立てることなく、原因を究明しようと足掻くことができる者。

 そのような、精神の「器」を有する者を、日吉は探し求めていたのだ。

 しかしながら、閉鎖的で、日々の労働に摩耗しきっているこの村にあって、そのような優れた精神を持つ人間は、想像以上に少ないのが現実であった。

 やがて、日が大きく西の山並みに傾き始め、周囲が薄暗い朱色に染まり始めた頃、日吉は、村の外れで黙々と藁を整理していた、一人の無口な若者の前に立ち止まり、声をかけた。


 その若者の名は、与助といい、年は今年で十四を迎える身空であった。

 日頃から寡黙で、村の他の若衆たちのようにつるんで騒ぎ立てるような真似はせず、ただ与えられた小作の労働を、黙々と、実直にこなす性質の男であった。

 何より日吉の目を引いたのは、彼が他人の言葉を、自らの思い込みを交えることなく、最後までじっと静かに聞き入る、その素直な「耳」を持っていることの一点であった。


「与助、俺の持つこの新しい竈の作り方、お前にその技術のすべてを、包み隠さずに教えてやるが、どうだ」


「俺に、か……? 頼むから、そのような大層なことは、他所の賢い若衆たちに言ってくれ。俺は、村の誰もが知っている通り、物覚えの悪い、頭のよくない百姓なのだからな」


「竈を築くために、特別な頭の良さなど、どこを探しても必要はない。俺が必要としているのは、お前のその、どのような困難にあっても、決して途中で作業を放り出さない、辛抱強さの方なのだよ」


 与助は、日吉の真剣な瞳を見つめ返し、しばらくの間、無言で深く考え込んでいたが、やがて、自らの太い首を縦に静かに振って頷いてみせた。


 それからの数時間、二人は土間の片隅において、泥にまみれながら、二人三脚で新しい竈の再構築の作業に取り掛かった。

 最初は、与助の石の置き方が僅かに歪み、空気の通り道が塞がって、火が燃え広がる前に立ち消えて失敗した。

 二度目は、泥の練り方が甘く、水分を含んだ壁面が熱によって一瞬にして破裂して、無残に自壊して失敗した。

 三度目は、気流の排気の角度が悪く、煙が室内に猛烈に逆流して失敗を繰り返した。

 しかしながら、与助は、度重なる失敗に直面しても、他の男たちのように怒り狂って泥を蹴り上げるような真似はせず、ただ黙々と、日吉の指示に従って泥を練り直し、石を積み替え続けた。

 日吉は、失敗が発生するたびに、その物理的な「原因」を、与助が納得しやすいように、一つずつ極めて丁寧に、中世の言葉に置き換えて説明し続けた。

 なぜ、この角度でなければならないのか。  なぜ、今ここで火を入れては壁面が崩壊してしまうのか。

 どうすれば、その不具合を自らの手で完璧に修繕することができるのか。


 夕暮れの空が、完全に紫色の闇に沈み込もうとする頃、四度目の挑戦にして、ようやく泥の竈の内部から、あの本物の、ごうごうという力強い対流の唸り声が立ち上り始めた。

 美しい真紅の炎が、炉の奥深くで渦を巻き、真っ直ぐに上部へと吹き上がっていく。

 与助は、完成したその力強い炎を目の当たりにして、信じられないものを見たかのように、両目を限界まで丸く見開いて立ち尽くした。


「……できた、本当に、お前が作ったのと同じ竈が、俺の手でできたぞ……!」


 その男の顔には、これまでの苦労が一瞬にして報われたかのような、幼児のように無邪気で、純粋な喜びの笑みが満ち溢れていた。

 日吉は、その成功の喜びを共に分かち合いながら、静かに、男の肩に手を置いた。


「与助、明日もまた、朝早くに我が家の方へと顔を出すことだな」


「え? まだ、俺にはお前から教わらねばならぬ知恵が、他にあるというのか」


「いいえ、明日からは、お前が他の失敗している村人たちに向けて、竈の作り方を『教える側』の立場に立ってもらうのさ」


 与助は、あまりの想定外の言葉に、呆気にとられてぽかんと大きな口を開けた。


「お、俺が、教える側だと……? まだ、たった一回、お前のおかげで竈を成功させただけの、未熟な百姓なのだぞ」


「だからこそ、お前にしか教えられないのだよ、与助。失敗したばかりで、どこで泥が割れ、どこで風の道が塞がって苦労したのか、その失敗の『記憶』を鮮明に体の中に保持している今のお前だからこそ、これから失敗するであろう他の百姓たちの痛みを誰よりも深く理解し、正しく教え導くことができるのだからな」


 与助は、その日吉の深い教育の論理に、再び言葉を失って黙り込み、やがて、その瞳の奥に確固たる決意の光を宿しながら、静かに、力強く頷いてみせた。

 日吉は、その男の様子を見て、自らの手の中に、最初の、そして何よりも忠実で頼もしい「知恵の伝道者」を確保することに、完璧に成功したのだと確信した。


 帰り道。

 冷たい風が吹き抜ける庄内川の河原へと出ると、そこでは、あの小六が、自らの配下の男たちを引き連れて、陸に山積みにされた積み荷の最終的な確認の作業を行っていた。

 大男は、こちらへと歩いてくる日吉たちの姿を見つけると、その無精髭に覆われた口元に不敵な笑みを浮かべ、フンと大きく鼻を鳴らした。


「よう、竈の餓鬼。今日は、あの薄汚い他所の野良犬浪人どもに、途中で不必要に絡まれるような真似はされずに済んだようだな」


「残念ながら、彼らの姿は、どこを探しても見当たらなかったよ。おじさんこそ、俺が浪人たちに叩きのめされる姿を見物できなくて、ひどく残念だったんじゃないか」


「がはは、誰がそんなくだらない出来事を、残念がるというのだ」


 小六は、肩を大きく揺らしながら、快活な笑い声を河原に響かせた。  日吉もまた、その男の不器用な態度に、心から自然な笑みを浮かべることができた。

 以前のように、自らの生存を脅かす外敵として、不必要に相手を警戒し、牙を剥くようなピリピリとした緊張感は、彼らの間からは完全に消え去っていた。

 それは、単なる情緒的な信用などではなく、互いに、他者が自らにとってどれほど有益な「利用価値」を有しているかを、冷徹に理解し、認め合い始めた証拠であった。


「おじさんに、一つ、どうしても聞いておきたいことがあるんだ」


「ほう、また、その小さな頭を使って、何事かを企もうと企んでいるのか」


「この庄内川の水路を通じて、お前たちの運ぶ荷物は、一体どこまで深く、遠くの世界へと流れていくのだ」


 小六は、その予期せぬ質問を聞いて、僅かに怪訝そうな表情を浮かべて、日吉の顔を見下ろした。


「随分と、急に大きな世界の話を切り出してきたな、餓鬼」


「ただ、物資の流れというものの、本当の規模が、個人的に気になっただけだよ」


 小六は、自らの担いでいた木刀を地に突き立て、白く霞みゆく広大な川面へと、その鋭い眼光を静かに向けた。


「この川が繋がっている世界というものは、お前たちが暮らすこの狭い尾張の国の中だけに、留まってはおらんわ」


「他国、すなわち、駿河や美濃の国にまで、本当に物資が流れていくのか」


「ああ、当然だ。この川の流れに乗りさえすれば、どこまでも深く、遠い国にまで、物資を休むことなく送り届けることができる」


「そこでは、一体、どのようなものが主に運ばれているのだ」


「何でもだ。生きるために必要な万物、すなわち、塩も、鉄も、布も、米も、油も、すべてがこの川の流れを通じて、休むことなく他国へと流れていく」


「人も、運ばれるのか」


「ああ、当然だ。富を生み出す優れた人間も、戦で傷ついた哀れな兵たちも、すべては物資と同様に、この川の流れに乗って、他国へと運ばれていくのだよ」


 日吉は、その男の言葉を聞きながら、自らの内に宿る、前世のあの「大局的な物流の構造」の記憶が、現在の戦国の厳しい現実と完璧に重なり合うのを感じ、深く沈黙した。

 自分の持つあの暖房の竈の知恵や、保存食の仕組みは、未だ、この中村という小さな集落の内部だけで完結している、小さな「点」にすぎないものであった。

 しかしながら、もしもその優れた技術を、小六たちの維持している、この広大な水路の「流れ」の中に完璧に乗せて、他国へと流通させることができたならば、一体どうなるというのだ。

 自分たちの持つ価値は、一瞬にして尾張全域、さらには他国にまで広く認知され、誰もが自分たちの存在を、決して手放したくない有益な存在として、死に物狂いで保護しようとする強固な防壁を築くことができるに違いない。

 それは、ただの無力な百姓の枠組みを完全に飛び越えて、この乱世を誰よりも自由に生き抜くための、絶対的な生存への唯一の道であった。


「実におもしろい、悪い顔をするな、日吉」


 小六は、じっと、自らの頭脳をフル回転させて思案に暮れている日吉の横顔を見つめながら、楽しげに笑い声を漏らした。


「そうか。自分では、全く自覚はなかったのだがな」


「いや、完全に、自らの持つ知恵を武器にして、また新たな大掛かりな悪巧みを仕掛けようとしている、恐ろしい顔つきだぞ」


「否定はしないよ、おじさん。生き延びるためであるならば、俺はどんな汚い手段であっても、躊躇なく使いこなすつもりだからな」


「がはは、正直な餓鬼だ! 俺は、そのような自らの欲望に正直な奴のことが、何よりも大好きなのだよ」


 男の、不敵な高笑いが、夕暮れの河原の冷たい静寂の中に、力強く響き渡っていた。


 まさにその時であった。


 それまで日吉の背後に静かに佇んでいた小竹が、不意に、自らの足並みをぴたりと止めた。


「兄上」


 その声は、いつもとは異なり、極限まで低く抑えられており、ただ事ではない緊張を孕んでいた。  日吉は、慌てて振り返ることなく、静かに声をかけた。


「小竹、どうした。また、不審な他者の視線を感じるのか」


「はい。土手の遥か上、冬枯れの草木の生い茂る向こう側に、一頭の馬が、佇んでおりますよ」


 日吉は、自らの視線だけを、極めて不自然にならないようにして、高い土手の上へと静かに向けた。

 薄暗い夕暮れの影が伸びる土手の上に、確かに、一頭の逞しい軍馬と、その上に微動だにせずに跨る、一人の完全武装を施した「武士」の姿が存在していた。

 兜を被っているため、その男の具体的な顔立ちや、眼光を読み取ることは到底叶わなかったが、その鎧の隙間からは、自分たちの動きを冷酷に見つめ、監視している、強烈な殺気の圧力が、肌に伝わってきた。

 それは、昨日のあの敗残の浪人たちや、村の庄屋の手下たちのそれとは、明らかに一線を画する、本物の支配階級にある者が放つ、絶対的な威圧の気配に他ならなかった。

 日吉の背筋に、氷水を直接流し込まれたかのような、凄まじい悪寒が走り抜けた。


 あの監視の武士は、一体どこの大名や領主から差し向けられた、死の使者なのだ。

 自分たちの生み出した、あの新技術の竈の価値は、すでに、この村の境界線を遥かに越えて、外の広い世界を支配する大名たちの耳にまで、届き始めてしまっているのではないか。

 しかしながら、土手の上に佇む武士は、日吉たちに対してそれ以上の具体的なアクションを起こす真似はせず、ただじっとその場に留まり続けた。

 やがて、全体の状況を確認し終えたかのように、無言のまま馬首を静かに返し、そのまま闇の向こう側へと、音もなく去っていった。


 すぐ傍らに立っていた小六も、間違いなく、その土手の上に潜む強大な武士の存在に完全に気づいていたはずであった。

 しかしながら、大男は、そのことについて日吉に対して何らの言葉をかける真似はせず、ただ無言のまま、冷淡に去り行く武士の背中を見つめ続けていた。

 日吉もまた、その沈黙の意図を正確に理解していたため、敢えて自らの側から余計な質問を投げかけるような真似はしなかった。

 今はまだ、自分たちを脅かす強大な支配者たちの正体について、詮索を試みるための、肝心の材料が決定的に不足しているのだ。

 分からない不気味な出来事に対して、不用意に手を出して動揺を晒すことこそが、最も致命的な隙を敵に与える結果となる。

 今はただ、自らの内に生じた不穏な予感を、胸の奥深くの箱に固く仕舞い込み、自らの力をさらに強固に蓄えることだけに、集中せねばならなかった。


 あばら屋へと戻ると、母屋の内部では、母親のなかが温かい雑穀の粥を丁寧に温め直しており、妹たちが竈の放つ豊かな温もりを浴びながら、楽しげに竈の周りに集まっていた。

 そこには、外の冷酷極まりない世界とは完全に切り離された、泥臭くも、何よりも温かい家族の「日常」の光景が、美しく広がっていた。

 日吉は、燃え盛る竈の炎を、吸い込まれるようにしてじっと無言で見つめ続けた。

 昨日までは、ただ自分たちの生存を一時的に繋ぎ止めるための、極めてささやかな、家族だけの弱い火にすぎなかった。

 しかし、今日、実直な若者である与助が、自らの手で、この竈の新しい火を成功させて燃え立たせて見せた。

 そして明日は、その与助の指導の言葉を通じて、村の別の百姓たちが、それぞれの家の中に、さらに新しく正しい火を、次々と広げ、立ち上げ始めることになる。

 そうやって、自分たちの生み出した知恵の火は、この閉ざされた共同体の隅々へと、決して消え去ることのない強固な「野火」として、確実に広がり、伝播していくのだ。

 竈の火も。  そして、それを用いて自らの生存を守り抜こうとする、人間の胸の奥に灯った「生の執念」の火も。

 気づかないうちに、日吉の胸の奥深くにまで、新たなる生存への不敗の策略が、静かに、そして強固に根を下ろしていった。


「兄上」


 小竹が、静かに歩み寄り、日吉のすぐ隣へと座り込んだ。


「何だ、小竹」


「今日の兄上は、いつものような、他人を陥れるための不気味で悪い顔をしておられませんね」


「そうか。お前には、俺の顔がそのように変化して見えているのか」


「ええ。今日の兄上のお顔には、自らの策略が確実に形になり始めた喜びを噛み締めているような、少しだけ、本当に嬉しそうな表情が浮かんでおりますよ」


 日吉は、その弟の言葉に対しては何も答えることはせず、ただ口元に穏やかな微笑みを浮かべたまま、目の前に差し出された温かい粥の器を両手で受け取った。

 そして、温かな白粥を、一口ずつ、噛み締めるようにして、自らの冷え切った身体の奥深くへと運んでいった。

 外の世界では、冬の冷酷な風が吹き荒れ、万物を凍てつかせようと狂暴な牙を研ぎ澄ませていた。

 しかしながら、自分たちの住まうこの薄暗いあばら屋の内部には、確かに、何ものにも脅かされぬ生きた「火」が赤々と灯り続けていた。

 それは未だ、この広大不条理な戦国の世にあっては、本当に小さく、脆い、塵の火にすぎないものであった。

 しかしながら、その泥の竈の中で燃え盛る古石の炎は、確かに、まだ見ぬ未知の未来、自分たち家族が生き残り、いつの日か泥の底から這い上がっていくための、神聖な希望の道標そのものを、暗闇の向こう側へと、力強く、そして鮮やかに照らし出し始めているのであった。

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