第十六話:知恵が呼ぶもの
第十六話:知恵が呼ぶもの
朝の凍てつく冷気というものは、昨日にも増してその鋭さを増しており、吸い込むたびに呼吸の奥深くまで冷たい薄刃を突き立てられるかのような、激しい痛みを伴っていた。
夜明け前の暗闇の中から、土間の泥竈で絶やさず焚き続けていた細い火は、古びたあばら屋の中に微かながらも温もりと生の息吹を残してはいた。
しかしながら、風を遮る壁すら隙間だらけの貧しい我が家に、冬の過酷な寒気のすべてを完全に押し返すほどの力など、どこを探しても残されてはいなかった。
日吉は、赤々と熾火を湛える竈の前に深くしゃがみ込み、自らの手のひらで熱のうねりを確認しながら、炎の燃え方に細かく視線を走らせていた。
極限まで消費する薪の量を減らし、その熱を逃がさずにできるだけ長く強固に保つこと。
それは、前世の知恵をわずかに応用した、極めて単純で素朴な生活の工夫にすぎないものであった。
しかしながら、その「たった一寸の工夫」がもたらした驚異的な成果が、昨日一日という極めて短い時間の間に、周囲の欲望に満ちた他者たちの眼差しを、引き寄せすぎてしまったのだ。
日吉は、昨日のあの泥濘む河原で発生した、一連の不穏な出来事の数々を、胸の中で静かに思い返していた。
川並衆を率いるあの小六という大男の、底知れぬ危険な眼差し。
水路を滑るようにして入港してきた、物資を満載した三艘の細長い平田舟。 そこで行われていた不効率な荷役の作業と、自らの差配によって劇的に効率化した物流の流れ。
そして何より、対岸の深く生い茂る葦原の向こうから、自らの動きをじっと値踏みするようにして見つめ続けていた、不気味な三つの人影。
それらの不吉な事象のすべては、決して偶然の重なりなどではなく、明確な他者の悪意の予兆であるという結論に、日吉の頭脳の中ではすでに達していた。
隣で黙々と作業を続けている小竹もまた、自らと同じ不穏な結論を、その早熟な頭脳の中で深く抱いているようであった。
壁際に一人でちょこんと座り込み、自らの小さな手を不器用に動かして藁縄を綯い続けている弟は、今朝になってからというもの、ただの一言も無駄な言葉を口にしようとはしなかった。
小竹という男は、その精神が静まり返っていればいるほど、内に潜む知性を鋭く研ぎ澄ませ、最悪の結末を回避するための策略を深く考えているのだ。
やがて、凍りついたあばら屋の外から、乾いた土を踏みしめながら近づいてくる、他者の規則正しい足音が聞こえてきた。
一切のためらいもなく、直進してこちらを威圧するような、傲慢さを隠そうともしない歩き方であった。
粗末な板戸を乱暴に叩くこともなく、戸口の向こう側に静かに立ちはだかったのは、昨日、河原の実演の最中に庄屋の脇に控えていた、あの不愛想な使いの男であった。
男は、生活臭の立ち込める薄暗い室内へと足を踏み入れようとする気配すら見せず、ただ冷淡な視線だけで用件だけを無造作に告げた。
「今日の昼近くの刻限、村の者たちを集めたあの河原の広場へと、竈を携えて姿を現せ。庄屋様の目前において、その便利な火床の力を、皆に実演して見せるのだ」
言い終えるが早いか、男は日吉からの返答を待つことすら億劫であるかのように、即座に踵を返して、冷たい街道の向こう側へと去っていった。
それは、百姓同士の話し合いの相談などではなく、支配者から下された、逆らうことを許されぬ厳格な命令に他ならなかった。
男の気配が周囲から完全に消え去ると、家の中は、再び重苦しい沈黙の空気へと引き戻された。
幼い妹たちは、何事か不吉なことが起こるのではないかと怯え、母親のなかの着物の裾をきつく握り締めていた。
なかは、しばらくの間、自らの針仕事を止めて無言のままうつむいていたが、やがて、深く息を吐き出すと、厳しさを帯びた瞳を我が子である日吉へと向けた。
「日吉。あの方たちの前へ出たときには、決して、自分から余計な小賢しい知恵を口にするんじゃないよ」
「……分かっているよ、母ちゃん。ただ、竈に火を入れて見せるだけだ」
「いいえ、お前はちっとも分かっちゃいないから、こうしてわざわざ言っているんだ。知恵を持つ者は、この乱世においては、ただそれだけで他人の欲望の標的になり、命を縮めることになるのだよ」
日吉は、その母親の切実な警告に対して、それ以上の余計な言葉を返すことはせず、ただ静かにうつむいた。 分かっているのだ。
母親が、我が子の身に迫りつつある、目に見えぬ破滅の予兆を、誰よりも激しく恐れ、守ろうとしてくれているその深い温もりの意味を。
昼近くの刻限、雪混じりの冷たい風が吹き狂う広大な河原には、日吉の予想を遥かに超える、異様なほどに膨大な数の村人たちの姿が集まっていた。
中村の村落に住む小作農の百姓たちや、腕力自慢の若衆、おめおめと様子を窺う子供たちや、寒さに震える老人たちだけではない。
隣村や、さらにその先にある近隣の複数の集落から、わざわざこの厳しい寒さの中を、噂を聞きつけて集まってきたとおぼしき見知らぬ者たちの姿まで、多数混ざり合っていたのだ。
人間という生き物は、日々の過酷な暮らしの中で、他人の噂話や新奇な出来事を何よりも好む性質を持っている。
それが、もしも自分たちの過酷な生活の負担を劇的に減らし、何らかの直接的な「利益」をもたらすかもしれない話であるならば、彼らが血眼になって集まってくるのは、至極当然の生存の欲求であった。
凍てついた河原の中央には、人々の密集を避けるようにして、ぽっかりと不自然な空き地が設けられていた。
支配者である庄屋の男は、すでに自らの温かい毛皮の襟巻きを羽織り、数人の武装した若衆たちを両脇に従えて、威風堂々たる佇まいでそこに君臨していた。
男の浅黒い、恰幅の良い顔には、穏やかで人当たりの良い笑みが浮かべられていたが、その瞳の奥底に宿る光だけは、冷徹な天秤そのものであった。
目の前にある竈が、一体どれほどの金を生み出し、自らの支配権を強化するための道具となるか、万物の価値に値段を付けて量り知ろうとする、統治者特有の冷酷な目であった。
「始めよ、日吉」
庄屋の口から発せられたのは、一切の無駄を省いた、短い命令の言葉であった。
日吉は、無言のまま深く頷き、地べたに転がっていた、ただのありふれた川石と、野土の粘土、そして拾い集めてきた藁の山を用いて、静かに泥竈の再構築を開始した。
そこに用いられている資材は、村の周囲のどこを探しても転がっている、ごくありふれた不純物まみれの粗悪な泥と石ばかりであり、何ら特別なものではなかった。
だからこそ、目の前で監視している百姓たちの誰もが、その作り方の全貌を、一瞬にして自らの目で見て、容易に模倣することが可能なのだ。
やがて、泥竈の内部に最初の火種が落とし込まれ、吸気口から冷たい空気が流れ込むと、炉の奥底から、ごうごうと力強い燃焼の音が立ち上り始めた。
通常の囲炉裏であれば、到底部屋を温めることなど叶わない、わずか数本の極細の枯れ枝しか焚べていないにもかかわらず、泥の筒の内側では、炎が一気に完全燃焼を起こして吹き上がっていく。
沸騰した土鍋の隙間からは、白く香ばしい湯気が一気に立ち上り、周囲の空間を満たしていった。
それを見つめていた人々の間から、堰を切ったかのような、凄まじい驚嘆のざわめきが四方八方へと広がっていった。
「本当に、あっという間にお湯が沸き立ってしまったぞ……」 「使う薪の量が、いつも我が家で消費している量の、わずか半分以下ではないか」
「家の中に立ち上るあの嫌な煤煙の量も、通常の囲炉裏に比べて、驚くほどに少ないぞ」
男たちの顔に浮かび上がっていたのは、驚きと、自らの過酷な生活を救ってくれるかもしれないという、切実な希望の光であった。
しかしながら、日吉は、自らが完成させた竈の手応えに喜ぶことなどなく、ただ静かに、集まった人々の表情の微細な変化を、自らの目で値踏みするようにして観察し続けていた。
誰が、心から喜び、その恩恵に縋ろうとしているのか。 誰が、自分の知らない新しい知恵に対して、底知れぬ恐怖と警戒を強めているのか。
そして、これまで村の中で薪や炭の伐り出しを独占し、それを他者へ売りつけることで生計を立てていた男たちが、どれほど憎悪に満ちた複雑な顔でこちらを睨みつけているのか。
誰かが得をするということは、この乱世においては、必ず、その裏で古い仕組みに依存していた別の誰かが、自らの富と権利を奪われて損失を被るということに直結している。
その人間の欲望の衝突が引き起こす、避けられぬ対立の現実を、日吉は十分に自覚していた。
実演のすべてが無事に完了すると、庄屋の男は、自らの満足げな笑みを浮かべながら、日吉のすぐ目の前へとゆっくりと歩み寄ってきた。
「見事な出来栄えじゃ、日吉」
「ありがたきお言葉にございます、庄屋様」
「この泥の竈は、我が村だけでなく、周辺のすべての集落を冬の厳寒から救うために、何としても大いに活用すべき、極上の知恵であるな」
男の口から発せられたその言葉の置き方に、日吉は、言葉に言い表せぬほどの不快な違和感を覚えた。
男は、村の貧しい農民たちを寒さの病から救うために、この竈を広めたいと言っているのでは決してなかった。
ただ、この画期的な新技術を自らの統治下に完全に置き、年貢の納入を確実にするための、有益な「使える道具」として、利用価値を測っているにすぎなかったのだ。
「この素晴らしい竈の作り方の全貌を、我が村の他の小作農たち、そして近隣の村々の者たちへ向けて、自らの手で広く教え伝えるのだ、日吉」
それは、優しげな提案の形を帯びてはいたが、実際には、弱者に対して拒絶することを一切許さない、絶対的な強者の側からの無償の強要であった。
日吉は、その庄屋の冷徹な目を、逃げることなく真っ直ぐに見つめ返した。
「庄屋様のお言葉、畏まりました。この我が家の持つ竈の知恵のすべて、喜んで村の皆様へ向けて、包み隠さずお教えいたしましょう。ただ……その代わりに、私からも、庄屋様に向けて、ただ一つだけのお願いを聞き届けていただきとう存じます」
その、身分の低い子供の側からの対等の「取引」の提示に、周囲を取り囲んでいた百姓たちの間に、一瞬にして張り詰めた緊張の沈黙が走った。
庄屋の男も、僅かに不快そうにその太い眉を動かしたが、自らの懐の大きさを衆目の前で示すためか、穏やかな笑みを浮かべたまま顎を引いた。
「ほう、このわしを相手に、取引を申し出るとは、随分と度胸のある餓鬼だな。申してみるが良い、お前の望むそのお願いとは、一体何なのだ」
「我が家に対して課されております、今年の冬の分のすべての年貢の納入の刻限を、来たるべき春の暮れまで、特別に猶予していただきとう存じます」
その、あまりにも現実的で、切実な「年貢の猶予」の要求を聞き、村人たちの間から、激しいどよめきが沸き起こった。
庄屋の男は、しばらくの間、無言のまま日吉の顔をじっと凝視していたが、やがて、その大いなる肝の据わり方に感心したかのように、喉の奥でケラケラと笑い声を漏らした。
「がはは! たかが百姓の餓鬼の身でありながら、随分と、自らの知恵の価値を大きく見積もった、大した口を叩く小僧だな、お前は」
「我が家の持つこの技術が、村全体、ひいては庄屋様にもたらすであろう今後の莫大な薪の節約と、年貢の安定した納入の価値を考えれば、これしきの猶予、十分に釣り合う取引であると確信しております」
冷たい川風が、二人の間に、鋭く吹き抜けていった。 長い、沈黙の果てに、庄屋の男は、自らの優位を保ったまま大きく首を縦に振った。
「よかろう。お前がその竈の知恵を、一寸の出し惜しみもなく村の全員へと教えるという約束を守る限り、お前たちの家の今年の冬の年貢の猶予、このわしの手で確実に聞き届けてやる」
日吉は、地べたに再び深く平伏して頭を下げたが、自らの胸の奥底では、一片の安心感も抱くことはなかった。
庄屋は、こちらの条件を一時的に了承しただけであり、決して自分たちを信用したわけでも、対等のパートナーとして迎えたわけでもない。
互いに、相手の持つ「利用価値」を冷徹に量り終え、当面の間の危うい一時的な均衡を結んだだけにすぎなかったのだ。
実演が終わり、集まっていた村人たちが、口々に竈の噂を囁きながらそれぞれの家へと散り始め、河原に静寂が戻り始めた頃。
すぐ隣を歩いていた小竹が、他人に聞こえぬ極小の声で、そっと日吉の着物の袖を引っ張った。
「兄上。土手の上です。昨日のあの怪しげな三人の人影が、今日も変わらぬ位置に佇んで、こちらをじっと見つめていますよ」
日吉は、自らの頭を動かすことなく、ただ横目だけで、背後の高い土手の上へと視線を走らせた。
夕暮れの薄暗い大気の中に、確かに、擦り切れた衣服を身にまとった三人の不審な男たちの影が、静かに佇んで、日吉の一挙一動を執拗に監視し続けていた。
彼らが見つめているのは、新しく完成したあの竈という道具の価値などではなく、ただ一点、それを作り出した「日吉」という名の子供の肉体そのものであった。
胸の奥底が、一瞬にして氷結するかのように冷たく強張るのを、日吉は自覚せざるを得なかった。
夕暮れの帰り道、周囲には日吉と小竹の二人を遮るような、他者の影はどこにも見当たらず、ただ静まり返った河原の石が、冷たい風に吹かれて不快な音を立てていた。
まさに、その中村へと戻る手前の寂しい曲がり角に差し掛かった、その瞬間のことであった。
不意に、目の前の薄暗い闇を切り裂くようにして、あの土手の上に潜んでいた三人の男たちが、行く手を塞ぐようにして立ちはだかった。
至近距離で対峙したその男たちの様子は、一言で言えば、この過酷な乱世の底辺にまで没落した「敗残者」たちの凄惨な佇まいそのものであった。
身にまとっている衣服はあちこちが破れかぶれに擦り切れて泥に汚れ、その顔色は、連日の飢えのために土気色に変色している。
しかしながら、その細い腰の間には、刃こぼれを幾重にも繰り返した、不気味な錆びた「脇差」の柄が、無造作に差し込まれていた。
彼らの全身からは、硝煙と、焦げた血の匂い、すなわち、凄まじい「戦場帰り」の殺伐とした異臭が、ぷんぷんと漂っていた。
男たちの両瞳には、未来に対する希望や生の温もりなどは微塵も存在せず、ただ、極限まで追い詰められた窮鼠が放つ、狂暴な焦りの光だけが、ギラギラと不気味に瞬いていた。
だが、その男たちの視線は、最初から一瞬たりとも逸れることなく、日吉の顔だけを、執拗に射抜き続けていた。
「そこで止まれ、餓鬼ども」
「何の用だ、俺たちには、お前たちに分け与えてやるような余分な食べ物など、どこを探しても残されてはいないぞ」
「そんなものは求めておらん。お前が作り出したという、あの薪を減らす特別な竈の技術を、今すぐ俺たちに、包み隠さずに教えるのだ」
小竹が、その男たちの威圧を前にして、素早く一歩前へと進み出で、自らの手に握られていた頑丈な細木を、いつでも敵を打ち据えられるようにして構えた。
日吉は、その弟の無茶な行動を手で優しく制し、自らの身体で小竹を背後にかばいながら、冷静に男たちの様子を観察した。
「教えるだけでいいのか。それとも、俺たちの懐に眠る、大切な持ち物もすべて出せと脅すつもりなのか」
「そうだ。隠し持っている貴重なものがあるならば、それもすべて今ここで差し出すが良い」
「残念ながら、我が家には、庄屋様からいただいたような金銀財宝など、どこを探しても一粒の米すら残されてはいない。ただ、今年の冬の分の年貢の納入の刻限を、暮れまで待ってもらうという、猶予をもらっただけだ」
男たちの、焦りに満ちた両瞳が、日吉の言葉を聞いて僅かに揺れ動き、その顔つきには、明らかな困惑の色彩が走った。
日吉は、その男たちの僅かな動揺の様子を注意深く観察するうちに、自らの頭脳の中に、拭い去ることのできない深い違和感を抱き始めていた。
何かが、決定的に、おかしい。
もしも、彼らが、この乱世をただその日暮らしの強奪で生き抜いている本物の「野盗」の一味であるならば、このようなまどろっこしい言葉の交渉など、最初から試みるはずがなかったのだ。
最初から、圧倒的な暴力をもって子供たちを叩きのめし、懐の貴重な物資をすべて力ずくで毟り取って逃げ去れば良いだけのことであった。
なのに、彼らは、執拗なまでに「竈の作り方」という、抽象的な技術の開示にこだわり、自ら交渉を長引かせようとしていた。
それは、彼ら自身が自発的な欲望で竈を欲しているというよりは、背後にいる何者か、もっと強大な力を持つ支配者から、「あの餓鬼の持つ竈の仕組みを、力ずくで手に入れてこい」と、命じられた仕事を忠実に遂行しようと足掻いている、雇われの密偵たちの動きそのものであった。
「お前たちに、その竈の作り方を手に入れてこいと、裏から命令を下したのは、一体どこの何者なのだ」
日吉が、男たちの核心を突く鋭い問いかけを投げかけた、まさにその瞬間であった。 男たちの顔が、一瞬にして恐怖と驚愕のために硬直した。 それで、十分であった。
「な、何を馬鹿なことを言っているのだ! 俺たちは、ただ自らの生き残りのために……」
「とぼけるな。お前たちのその不自然に統制された動きを見れば、背後に誰か、本物の武士や、あるいは村の有力者の存在が隠されていることくらい、一瞬にして見抜くことができるのだよ」
男たちは、自らの企てを完全に見透かされたことに驚愕し、互いに顔を見合わせ、その錆びた脇差の柄へと、震える手を伸ばしかけた。
まさに、その一触即発の危機が訪れようとした、その刹那のことであった。
ざざっ、ざざっ――。
凍てついた川辺の土手を、力強く踏みしめながら、こちらへと近づいてくる、不穏な複数の重い足音が響き渡った。
三人の浪人たちの男が、驚いて背後を振り返ると、白く立ち込める川霧の向こう側から、夕暮れの赤い陽光を浴びながら、屈強な川並衆の男たちの姿が、静かに浮かび上がってきた。
その先頭を歩いていたのは、あの岩のような太い肩幅を誇る大男、小六であった。
男は、自らの担いだ木刀を肩に担ぎ直しながら、圧倒的な存在感と威圧感を全身から放ち、ただそこに立っているだけで、河原全体の空気の性質を、一瞬にして塗り替えて見せた。
浪人たちの男の顔面が、一瞬にして土気色に変色し、彼らの全身は、小六の放つ本物の暴力の気配の前に、完全に怯みきっていた。
「……おい、日吉。お前たち、このような寂しい河原の曲がり角で、随分と、みすぼらしい他所の野良犬どもに絡まれているではないか」
小六は、日吉を一瞥しただけで、それ以上の関心を示すことなく、ただただ、立ちはだかる三人の男たちに向けて、氷のように冷たい眼光を突き刺した。
「邪魔だ。もしも、これ以上その道を塞いで、俺たちのこの川の流れの商いを邪魔するつもりがあるならば、お前たち全員の首を、今すぐこの場で川の底へと沈めてやるが、どうする」
その、一片の容赦もない、絶対的な「暴力」の宣告を聞き、三人の浪人たちは、自らの錆びた脇差に伸ばしかけた手を慌てて引っ込め、脱兎の如き勢いで、振り返ることもなく土手を駆け上がり、夕暮れの葦原の向こうへと、呆気なく逃げ去っていった。
小六は、逃げ去る男たちの背中を追いかける真似など、毛頭行おうとはせず、ただ平然とした佇まいでその場に留まり続けていた。
「助かったよ、おじさん」
「別に、お前たちの命を救ってやるために、わざわざここまでやってきたわけではねぇさ」
「でも、朝早くから、俺たちの動きを土手の上から注意深く見張ってくれていたんだろう」
小六は、その日吉の言葉を聞いて、自らの鋭い双眸を僅かに細めた。
「昨日の時点で、あの葦の茂みの影に、妙な他所の土地の野良犬どもが紛れ込んでいる気配には、完璧に気づいていたからな。放っておけば、川の荷物の流れにどのような不必要な揉め事を起こすか分からんから、念のために監視していただけにすぎんよ」
余計な解説を一切交えない、至極現実的で、冷徹な大人の言葉であった。
しかしながら、その言葉の裏には、自分たち親子の生存を、自らの「使える道具」として、確かに保護し、守ろうとしてくれている、戦国の世の裏の「合理性」が、確かに存在していたのだ。
「自らにとって役に立つ奴は、どのような困難からであっても、全力で生かしてやる。それが、この乱世における、俺たちの唯一の絶対的なルールだからな」
大男はそう言い残すと、自らの手下の男たちを従えて、川舟の方へと足早に去っていった。 夕暮れの冷たい静寂が、再び河原の隅々へと、静かに降り積もり始める。
日吉は、去り行く小六の逞しい背中を見つめながら、自らの胸の奥底で、昨日とは異なる、新たなる生存への「覚悟」の火が、青々と燃え上がるのを感じていた。
今日一日という短い時間を通じて、この尾張の中村においては、三つの異なる巨大な「力」のうねりが、同時に動き始めていたのだ。
庄屋は、自らの支配権を維持するための「権力の理」によって動いた。
浪人たちは、雇い主の命令を遂行するための「物理的な暴力」によって動いた。
そして、小六は、自らの物流の流れを守り抜くための「実利の武力」によって動いた。
それらすべての、相容れぬはずの三つの力学のすべてが、今、自分が考案したあの竈という、泥の塊の一点に向けて、吸い寄せられるようにして激しく激突し、渦を巻き始めているのだ。
たかが、貧しい百姓の竈であった。
しかしながら、この戦国の地においては、それは単なる煮炊きのための道具などではなく、生きるための「絶対的な価値」そのものであった。
価値のある場所には、必ず、他者の剥き出しの欲望が集まり、それを巡って争いが発生し、強者によって奪い去られる運命が待ち受けている。
それは、ただの知恵であっても、物資であっても、そして、それを作り出すことのできる自分たち「人間」の命であっても、全く同様の不条理な掟が支配していた。
「兄上」
小竹が、静かに隣へと歩み寄り、自らの衣服の端をきつく握り締めた。
「あの浪人たちの男、竈の作り方を狙っていたのではなく、ただ一点、兄上という存在のその価値だけを、じっと見つめていましたね」
「ああ。どうやら、彼らの背後にいる黒幕は、俺の頭脳の価値を、すでに完璧に見抜いて、奪い去ろうと企んでいるようだな」
知恵だけでは、この世界を生き残ることは叶わない。
どれほど優れた、前世の合理的な知恵を持っていようとも、それを守るだけの「強大な力(武力)」を自らの手の中に持たぬ限り、自分たちは、ただ強者たちに都合よく利用され、使い潰されて終わるだけの、哀れな道具にすぎないのだ。
今はまだ、自らにとってその盾となる力がないからこそ、小六のような危険な男たちの力を、巧みに利用して、自らの生存の境界線を守り抜くほかなかった。
日吉は、自らの手の中にある、あの小六から投げ渡された干し柿をじっと見つめ直した。
そこからは、あの不器用な、だが確固たる実利のルールによって駆動される、生命の温かい香りが、確かに漂い続けていた。
この川の流れを掌握し、人と物と金が流れるシステムに食い込むことができれば、自分たちは、ただ庄屋に平伏して頭を下げ続けるだけの、無力な百姓の運命を完全に飛び越えて、もっと強く、もっと自由に、生き残っていくことができるのではないか。
「兄上」
「何だ、小竹」
「また、とても悪い、恐ろしい企みをしておいでですね」
「そうか。自分では、全く気づいてはいなかったがな」
「ええ、かなりですよ。ですが、私は、そのような兄上の不退転の覚悟の横顔が、決して嫌いではありませんからね」
小竹は、自らの口元に小さな、本当に嬉しそうな笑顔をそっと浮かべて見せた。
日吉は、泥だらけの自らの草鞋を踏み締めながら、隣を歩く小竹の手をしっかりと握り締め、ただ、今日を凍えずに生き残るための、薄暗いあばら屋の方向へと、確かな一歩を踏み出していくのであった。




