表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
豊臣兄弟、最底辺から始める天下奪取 ――現代営業の知略で、戦国の理不尽を喰い破る――  作者: チャプタさん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
15/37

第十五話:川を渡る荷

第十五話:川を渡る荷


 朝の光が未だ白み切らぬ庄内川の周囲を包み込む深い朝霧というものは、川そのものが冷たい夜気の中で、凍えながらゆっくりと吐き出している、濃く湿った吐息のようでもあった。

 水面を低く這い回るようにして垂れ込めた濃密な霧は、対岸に広がる薄暗い葦原の輪郭を曖昧に溶かし去り、周囲の世界を果てしない不透明な白一色の中へと閉じ込めている。

 夜半のうちにしんしんと降り続いていた細かな雪は、夜明けとともに泥土の上へと冷たく溶け出し、河原の地面全体を、歩くことすら困難なぐずぐずのぬかるみへと変貌させていた。

 一歩を踏みしめるたび、ぬるりとした重苦しい泥が草鞋の裏へと執拗にまとわりつき、感覚を失いかけていた足先から、僅かに残されていた貴重な熱量を非情に奪い去っていく。

 日吉は、手作りの粗末な縄籠の重みを自らの細い両肩で受け止め、それをきつく締め直しながら、無言のまま冷たい川辺の砂利の上を、一歩ずつ慎重に歩み進めていた。

 隣を並んで歩く小竹は、今日はいつにも増して極端に口数が少なく、首元に巻かれた古い布をかじかんだ手できつく押さえたまま、細い瞳だけを絶えず周囲の闇に向けて走らせていた。


 昨日、あの強欲な庄屋の屋敷から不穏な使いの者が我が家へとやってきてからというもの、村を支配する空気の性質は、目に見えて不気味なものへと変貌を遂げていた。

 泥と古石を緻密に組み合わせて作り上げたあの竈の噂は、もはや木下のあばら屋の中だけに秘匿しておくことは叶わず、急速に村の隅々へと広がり始めていた。

 今日の昼近くの刻限になれば、村中の主立の男衆のすべてが、あの広い河原の広場へと一斉に集められ、支配者である庄屋の目前で、日吉の竈の知恵を公式に披露することになっているのだ。

 その出来事が、自分たち家族にとって一体どのような重大な意味を有しているか、日吉の脳髄はそれを正確に、かつ冷徹に理解していた。

 人々を冬の寒さから救い出すための優れた知恵というものは、確かに目の前で凍える人々を救うための「温かい盾」となる。

 しかしながら、それと同時に、これまでにその不便な仕組みに依存して他者から富を貪り続けていた強欲な者たちの、既得の「儲け」や支配の境界線を、根底から破壊する侵略の刃ともなるのだ。

 かつて暮らしていたあの前世の安穏とした社会にあっては、ただ日々の暮らしに有益な、少しばかり暖かい道具を自作した程度で、他者から物理的に命を狙われるなどという理不尽は、到底存在し得ない出来事であった。

 しかし、この暴力だけが唯一の法である戦国の乱世においては、他者の縄張りを削るような突出した知恵は、ただそれだけで命を奪い合う殺戮の引き金となるのだ。

 そして、そのようにして他者から目をつけられた危険な価値ある知恵は、いつの時代であっても、より強大な武力を持つ強者によって力ずくで強奪されるか、さもなくば、その存在ごとこの世から完全に消し去られる運命にある。


「兄上」


 小竹が、前方の川霧の立ち込める向こう側を見つめたまま、他人に聞こえぬほどの極小の声で、静かに呟いた。


「川の渡し場のすぐ近くの辺りに、また、あの不穏な連中の姿が見えておりますよ」


「やはり、昨日のあの川並衆の男たちか」


「はい、間違いありません」


 日吉は、自らの視線を上げ、川霧の立ち込める向こう側へと目を凝らした。

 白く濁った霧のカーテンの切れ間から、水面にひっそりと浮かぶ、数艘の細長い川舟の影が静かに浮かび上がってきた。

 一艘、二艘、三艘。

 どれも、浅瀬を渡るために底が平たく、極めて頑丈に作られた、平田舟と呼ばれる水路の物資輸送のための舟であった。

 その周囲では、昨日遭遇したあの男たちの一味が、自らの逞しい四肢を動かして、舟から大量の荷を陸へと迅速に運び卸している最中であった。

 男たちが担いでいる荷物の中身は、塩の詰まった塩俵、干魚の束、油樽、布の束、太い縄の山、そして大人たちの理性を失わせる濁酒の詰まった陶器の瓶。

 どれも、人間がこの過酷な乱世を一日でも長く生き延びていくために、なくてはならない絶対的な生活物資ばかりであった。

 荷役を行う男たちの、その無駄のない俊敏な肉体の動きは、日頃泥にまみれて田畑を耕している凡庸な百姓たちの動きとは、その本質において決定的に異なっていた。

 衣服の帯の間には、いつでも獲物を切り裂くことのできる鋭利な刃物が無造作に差し込まれており、その口から漏れ出る声は一様に荒々しく、他者に対して遠慮なく道を譲るような生温かい足運びは、微塵も存在しない。

 川の上という、地上の法も身分制度も通用しない無法の領域において、自らの腕力と知恵だけを頼りにして生き抜いている、独特の川並衆たちの、生々しい肉体の動きそのものであった。


 日吉は、男たちが運び卸していく、そのあまりにも膨大な荷物の量を見つめながら、自らの目を細めた。

 それは、中村のような小さな村の全住民が、一冬を無事に越すために必要な生活物資を、丸ごと賄うことができるほどの、莫大な富の量に他ならなかった。

 物を動かし、流通させる者こそが、実際にはこの乱世において、多くの人々の命を実質的に生かしている。

 その事実を、日吉はこれまでに頭の中の知識としては十分に理解していたつもりであったが、眼前に山積みにされた圧倒的な荷物の現実に直面したその瞬間、その感覚が、自らの腹の底へと重く、かつ深く落ちていくのを感じた。

 武士たちが、どれほど強大な軍事力を誇り、名誉のために戦場で鋭い刀を振り回そうとも、彼らの運ぶ塩が尽き果てれば兵たちは戦うこともできずに斃れ、彼らの運ぶ油がなければ夜の城壁を動かすことは叶わず、彼らの運ぶ布がなければ兵たちは極寒の冬を越せずに死に果てる。

 この河原で黙々と荷を動かしている荒くれ者の男たちは、間違いなく、この戦国という世界の最も重要な生命線、すなわち「経済の根っこ」を、その汚れた手で強固に握り締めていたのだ。


「おう、そこに立っている、竈の餓鬼め」


 不意に、低い、掠れた重厚な声が、日吉の耳元へと投げつけられた。

 それは、昨日遭遇したあの岩のような太い肩幅を誇る大男、小六の放った声であった。

 男は、自らの逞しい両腕で、大人二人分はあろうかと思われる重い塩俵を平然と担ぎ上げながら、鋭い眼光を向けて、日吉たちの姿を見下ろしていた。


「また、性懲りもなくこのような寒冷な川辺へ、怪しげなゴミ拾いをしにやってきおったか」


「おじさんたちこそ、朝早くから、随分と忙しそうに大掛かりな泥遊びをしているじゃないか」


 日吉が、一切の物怖じをすることなくそう言い返すと、周囲にいた小六の手下の男たちが、一斉に下品な笑い声を響かせた。


「おいおい、頭、このチビの餓鬼は、本当に昨日あの渡し場で大見得を切っていた、噂の生意気な小僧なのかい」

「口の減らない、面白い餓鬼だ。普通の子供であれば、我らのこの姿を見ただけで、怖がって泣き叫ぶはずなのだがな」


 大男の小六は、担いでいた重い塩俵を、土間の泥の上へと無造作な動作で降ろすと、自らの太い顎を僅かにしゃくって、川舟を指し示した。


「おい、そこでおめおめと見物している暇があるならば、その小さな身体を少しは動かして、俺たちのこの荷運びの手伝いでもしてみせろ」


 それは、昨日とは異なり、明確な「命令」の形を帯びた、不遜な物言いであった。

 しかしながら、その男の鋭い瞳の奥底には、日吉が果たしてどのような態度を取り、どのような実用的な動きを見せるのかを、冷徹に見極めようとする、明らかな「試し」の光が宿っていた。

 日吉は、自らの頭脳を冷たく回転させ、その場の判断を巡らせた。

 彼らの要求を拒絶し、この場から大人しく立ち去るべきか。

 このような法の通じぬ危険なアウトローたちとの関わりは、深くなればなるほど、自分たち家族の安全にとって、多大なリスクとなることは分かっていた。

 しかしながら、もしもここで恐怖に怯えた姿を見せて逃げ出してしまえば、自分たちは彼らから「ただの無力で取るに足らない弱者」とみなされ、二度と対等の交渉の権利を得ることはできなくなる。

 そして何より、日吉自身、この川を拠点にして莫大な富を動かしている彼らが、一体どのような「仕組み」をもって日々を生き、利益を得ているのか、その裏の構造を、自らの目で直接確かめてみたいという、強烈な知的好奇心を抱いていたのだ。


「分かったよ。ただし、あまりにも俺が手際よく仕事を進めてしまっても、後から文句を言うなよ」


「何だそりゃ、随分と大層な大口を叩く餓鬼だな」


 男たちが一斉に笑い声を響かせる中、日吉は、自らの縄籠をその場に静かに降ろし、袖をまくり上げて、川舟の方へと歩み寄った。

 日吉は、川舟に積み上げられた荷物の山を見回したが、お世辞にも、その積載の仕方は、効率的なものとは程遠い、極めて不条理で、雑多な代物であった。

 水分を含んで極めて重くなった塩俵と、比較的軽いが衝撃に弱い油樽が、何の区別もなく無造作に混ざり合って積み重ねられており、人足の男たち全員が動きを止め、無駄な相談や手戻りを繰り返している状態であった。

 それは、単に力任せに男たちが怒鳴り散らしながら、根性だけでその場を維持している、極めて非効率的な状況に他ならなかった。


「おじさんたち、ただ力任せに荷を運ぶ前に、まずその塩の俵と、干魚の束を綺麗に分けろ」


 日吉は、川舟の縁に立ち、自らのよく通る力強い声で、その場の男たちに向けて、電光石火の指示を飛ばした。


「はぁ? お前、一体誰に向かって指図してやがるのだ」


「聞こえなかったのか。塩俵と干魚の束を、何の仕切りもなしに地べたに直置きして混ぜ合わせるなと言っているのだ。川辺の湿気をお互いに吸い込んで、塩は溶け出し、魚はたちまちのうちに傷んで売り物にならなくなるぞ」


「……ぐっ、それは、確かにそうなのだが……」


「あと、そこの奥にいる二人。重い樽を動かす前に、まずその足元の通り道を綺麗に空けてスペースを確保しろ。毎回、お互いの身体が狭い通り道でぶつかり合って、無駄な往復と待ち時間を繰り返しているではないか」


「おい、餓鬼、偉そうに指図を――」


「それと、そこの髭の長いおじさん」


「……俺のことか?」


「お前はただその場で、重い塩俵を陸へと持ち上げる『運ぶ側』の役割だけに専念しろ。無駄に往復の歩みを繰り返して、体力を浪費するな。力はあるが、戻る足並みが遅すぎるんだ」


 周囲にいた男たちの間から、堪えきれなくなったような、一斉の笑い声が漏れ出た。


「がはは! まんまと言われてやがるぞ!」

「実際、あいつは力自慢のくせに、戻る足がいつも一番遅いからな」


 髭の男は顔をしかめたが、日吉の指摘があまりにも的確であったため、言い返すこともできずに黙り込むしかなかった。


「そっちの痩せたお兄さんは、力仕事は向いていない。足元が不自然にふらついているぞ。お前は重い俵を無理に運ぼうとせず、陸の上で縄を締め直す作業に専念しろ」


「何で、そんなことまで分かるのだ……」


「足の運びを見れば、重心がブレているのがすぐに分かる。お前は縄の扱いに長けていそうだから、そっちの方が遥かに役に立つ」


「見てやがったのか、この餓鬼……」


 男は、半ば呆気にとられながらも、素直に指示に従って縄の調整へと回っていった。

 すると、それまで滞っていた河原の空気の流れが、まるで魔法にかかったかのように、一瞬にして変わり始めた。

 荷の流れが止まらず、人が狭い通り道でぶつかり合わず、不必要な手戻りや怒鳴り声が激減し、俵が崩れる心配も完全になくなった。

 日吉は、その変化を自らの五感で敏感に察知し、さらにその手を緩めることなく、一気に全体の「流れ」を掌握していった。


「泥の上に直接、荷物を直置きするな。拾ってきた藁を敷き詰めて、その上に置け。湿気を防ぐのが何より先決だ」

「重い樽の搬出は後回しだ。まずは、最も必要とされている塩の俵を優先して陸へと引き上げろ」

「左側の通路を完全に空けておけ。荷を持って戻る人足の流れと、新しく荷を取りに行く者の動線がぶつかり合って、完全に行き詰まっているぞ」


 男たちの動きが、完全に一つに噛み合い始め、作業は流れるような均整を帯びて推移していった。

 日吉は、自らも泥まみれになりながら、現場の隅々にまで視線を走らせ、的確に声をかけ続けた。

 前世におけるあの過酷なビジネスの現場にあって、組織を動かし、無駄を徹底的に排除してプロジェクトを完遂させてきたあの「商いの差配」の経験。

 誰にどのような役割を分担させれば最も高い成果が得られるのか。

 どこに作業のボトルネックとなる滞留が生じているのか。

 それらの、組織を効率的に動かすための絶対的な「法則」は、日吉の肉体と精神の全域に、何らの疑いもなく、完璧に染み付いていたのだ。

 この戦国の不毛な河原であっても、前世の近代的な物流の現場であっても、人間が集団を形成して労働を行う以上、そこで求められる合理性の本質は、何一つとして変わることはない。


「おい、そこ、腕だけの力で俵を持ち上げようとするな」


 日吉は、俵を泥の上に落としかけた男に向かって、すかさず鋭い声を飛ばした。


「重心を低く落として、自らの腰で抱え込むようにして、身体の全体の質量を使って持ち上げるんだ」


「ぐっ、こうか……!?」


「そうだ。力任せに腕の力だけに頼るから、重心がブレて何度も荷を落としかけるのだよ」


「がはは、本当の図星を突かれてやがるぞ!」

「あいつはいつも、力任せしかできねぇからな!」


 男たちの間から、先ほどまでの刺すような警戒の気配は完全に消え去り、そこには、確かな信頼を伴った笑顔が広がり始めていた。

 日吉は、この手の荒くれ者たちは、人前で自らの無能を暴かれて恥をかかされることを何よりも嫌う性質を持っていることを十分に知っていた。

 だからこそ、彼らの悪い動きを鋭く叱責するだけでなく、直後に「お前は力があるのだから、正しい持ち方に変えれば、この中で一番多くの荷を運べるはずだ」と、自尊心を絶妙に刺激する肯定の言葉を付け足して、彼らの反発心を未然に防ぐ配慮を怠らなかったのだ。

 その細やかな人心掌握の手際こそが、彼の持つ最大の「武器」であった。


 大男の小六は、自らの太い腕を胸の前でしっかりと組みながら、その日吉の驚異的な差配の手際を、一言も発することなく、灰色の空の下でじっと無言で見つめ続けていた。

 その瞳の奥には、周囲の男たちのような単純な驚きではなく、目の前にいる日吉という存在の有用性を、冷徹に見極めようとする、底知れぬ危険な光が宿っていた。


 それから、それなりの時間が経過した頃には。

 川舟三艘に満載されていたあの膨大な量の物資は、当初の彼らの予定を遥かに超える、信じ難いほどの圧倒的な速度を以て、すべて無傷で陸へと運び卸し終えられていた。


「……おい、本当に終わっちまったぞ」

「いつもであれば、この量の荷を運び卸すためには、少なくとも丸一日以上の時間を浪費していたはずなのだがな。しかも、俵がただの一つも濡れておらん……」


 男たちは、空っぽになった川舟の底を、呆然とした表情で見つめていた。

 日吉は、自らの衣服についた黒い泥を払い落とそうとして、そこで初めて、小竹が先ほどからずっと、自分たちの作業の様子ではなく、特定の方向を、極めて鋭い眼光で見つめ続けていたことに気づいた。


「兄上」


「何だ、小竹。何かあったのか」


「向こう岸の、あの葦の茂みの影に、三人おりますよ」


 日吉は、言われた通りに目を凝らして、対岸の鬱蒼とした茂みへと視線を走らせた。

 白く濁った川霧の向こう側に、確かに、じっとこちらの動きを監視している、不自然な三つの人影が存在していた。

 荷を狙って襲撃してくる様子もなく、かといって、ただの通りすがりの見物人のような気配でもない。

 ただ、不気味な沈黙を保ちながら、こちらを値踏みするようにして、じっと見つめ続けていた。


「見えるのか」


 不意に、すぐ隣から低い、掠れた声が投げかけられた。

 大男の小六であった。


「おじさんも、あの葦の影の不審な存在に、気づいていたのか」


「川の渡しを拠点にして、この川の流れを見て食っている奴が、あのような不気味な他者の目を見逃すはずがなかろう」


 小六は、自らの鋭い視線を対岸へと向けたまま、低い声で語った。


「あの連中、この庄内川の周辺を縄張りにしている者たちではねぇな」


「他所の土地からやってきた、敵ということか」


「さぁな、まだそこまでは分からん」


 しかしながら、小六の放った声には、僅かながらに、普段とは異なる不穏な緊張の重みが伴っていた。

 男はしばらくの間、無言のまま日吉の小さな顔を見下ろしていたが、やがて、その口元に不敵な笑みを浮かべた。


「お前、本当に妙な餓鬼だな」


「何がだよ、おじさん」


「多くの人間を、それぞれの性質に合わせて効率よく動かすことに、あまりにも慣れすぎている。どこが詰まっているか、誰が作業の邪魔をしているかを、一瞬にして見抜いて見せる」


 大男の目が、鋭く、細められた。


「普通の貧しい百姓の子供は、そのような大局的なものの見方など、決してできはせんのだよ。お前のその頭脳には、一体どのような知恵の仕組みが隠されているのだ」


 日吉は、その問いかけに対して、何も答えることはせず、ただ静かに口を閉ざした。

 前世におけるあの過酷なビジネスの現場にあって、人間関係の不条理と、売上数字の重圧に挟まれながら、毎日頭を下げ、それでも現場を死に物狂いで回し続けていた自らの過去の記憶。

 そんな話を、この時代の人間に対して語ったところで、誰一人として信じて理解してくれるはずがなかったからだ。


 小六は、日吉が黙秘を貫くのを見て、ふっと鼻の奥で小さく笑い声を漏らした。

 しかしながら、その男の口元は、決して楽しげに笑ってはおらず、ただ自らの利益の計算に満ちていた。


「便利な奴だ」


 小六は、そう短く言い残すと、自らの懐から、昨日よりも一回りも大きく、極上のみずみずしい輝きを放つ、手作りの「干し柿」の束を放り投げた。

 日吉は、反射的に自らの小さな両手でそれを受け取った。

 冷え切った指先へと、干し柿の甘酸っぱい豊かな香りが移り、手のひらに伝わるその実用的な重みは、この極限の飢餓が支配する尾張にあっては、何より確実な、生存を保証する富そのものであった。


「今日の分の、お前の働きに対する正当な対価だ。受け取るが良い」


「随分と、気前が良いな、おじさん」


「俺は、自らにとって役に立った存在に対しては、いつでも相応の対価を支払ってやる主義なのだよ。実にお前は、今日の仕事において役に立ったからな」


 それは、実利と損得だけで繋がることのできない、この乱世の残酷な人間関係の縮図そのものであった。

 しかしながら、その一片の綺麗事も言わない実利主義の割り切りこそが、日吉にとっては、この不条理な時代にあって、最も信用しうる、確固たるルールのように思えてならなかった。


 小六は自らの大きな背中を向け、川舟の方へと歩み出しながら、肩越しに、低い、凄まじい響きを伴った声だけを投げかけてきた。


「明日もまた、朝早くにこの渡し場の近くへと顔を出すことだな」


「……何で、俺がわざわざ、お前たちの汚い荷運びの手伝いを、毎日続けなければならないのだ」


「お前という存在が、俺たちにとって、極めて『便利で役に立つ存在(使い道のある奴)』だからだよ。俺たちの世界においてはな、自らにとって役に立つ奴は全力で生かしてやるが、役に立たねぇ奴は、いとも呆気なく、ただの死体となって川の底へと沈むだけなのだからな」


 河原の空気が、その一瞬の宣告を聞いて、再び氷結したかのように静まり返った。

 手下の男たちも、先ほどまでの笑顔を完全に消し去り、静かに小六の背中に付き従っていった。

 それは、冗談でも脅しでもない、彼らが日々背負って生きている、絶対的な「生存の掟」そのものであったのだ。

 日吉は、その男たちの背中を見つめながら、自らの内側に、かつてないほどの凄まじい「生への執念」を、静かに、そして強固に燃え上がらせていた。


 小六は、本当に、自らの持つ暴力の限界と、実利のルールの中で生きている。

 必要であれば人を助けるが、不要になれば何の躊躇もなく切り捨てる。

 その境目が、極めて冷酷に、かつ実利の計算だけで決定されている。

 しかしながら、その身分や血筋ではなく、ただ自らの「使い道(役に立つかどうか)」だけによって、生存の権利が決定されるという過酷な公平さこそが、今の日吉にとっては、この泥の底から這い上がるための、唯一の希望の糸口に見えていたのだ。


 大男たちは川舟へと戻り、次の流れに向けて静かに出航していった。

 日吉は、手の中の干し柿をきつく握り締めたまま、川の向こう側、先ほどまで不気味な人影が潜んでいた、あの葦の茂みの方向を見つめ続けた。

 不気味な三つの影は、すでに跡形もなく消え去っていたが、隣に立つ小竹の視線だけは、未だにその茂みの方向を、静かに睨みつけたまま動かそうとはしなかった。


「……やはり、あの葦の影の存在が、気にかかるか、小竹」


「ええ。とても嫌な、胸を悪くさせるような眼差しでしたね、兄上」


「庄屋が、俺たちの知恵を監視するために差し向けた、手下の手先かもしれないな」


「いえ、あの方たちの目には、そのような利口な計算の光などは、どこを探しても見当たりませんでした。あれは……ただ自らの飢えを満たすためだけに、獲物の一挙一動を執拗に監視する、飢えた野犬のような目そのものでしたよ」


 日吉は、その弟の鋭い分析を聞いて、自らの口を重く閉ざした。

 小竹は、他人の心の性質を、理屈ではなく、生き物としての野生の「本能」によって、恐ろしいほどの正確さで見抜く才能を有していた。

 だからこそ、彼が告げたその警告は、近いうちに自分たち家族の元へと、新たなる凄まじい「死の試練」が襲いかかってくるであろう不吉な未来を、克明に予感させるに十分なものであった。


 日吉は、自らの視線を、再び冷たい川面へと落とした。

 完成したあの竈。

 冬の生存を左右する、貴重な薪の節約。

 他者から容易に奪い去ることのできない、確固たる塩の保存技術。

 そして、今日この目で直接確かめることができた、巨大な「物流の仕組み」。

 それらのすべての出来事は、決して無関係な、バラバラの事象などではなかったのだ。

 武士であっても百姓であっても、人間という生き物は、物資と富の「流れ」の中でしか、一日たりとも生きることはできない。

 そして、その流れの最前線に身を置き、そのシステムを支配する者こそが、この過酷な生存競争の最期の「勝者」となり、自由を手にするのだ。


「兄上」


小竹が、静かに隣へと歩み寄り、その物静かな瞳を兄へと向けた。


「何だ、小竹」


「先ほどから、また、自らの内に生じた何か恐ろしい策略に胸を高鳴らせているかのような、ひどく悪い表情をしておいでですよ」


「そうか。自分では、全く気づいてはいなかったがな」


日吉は、自らの口元に、無意識のうちに不敵な、かつてないほどの快活な笑みが浮かび上がっているのを自覚した。

もしも、この川の流れを、自分たちの生み出した技術や、泥の補強の知恵と連動させることができれば。

自分たちは、この閉ざされた中村という小さな村の枠組みを完全に飛び越えて、もっと多くの富と物資を、自らの指先一つで動かすことができるようになるのではないか。

そしてそれこそが、自分たち家族を、この狂った時代の理不尽から完全に救い出すための、唯一の確実な道となるに違いない。


川霧が少しずつ晴れ渡り、対岸の葦原の全貌が、朝の光に照らされておぼろげに見え始めていた。

 そこにはもう、自分たちを脅かす不気味な影の姿はどこにもなく、ただ静かな冷たい水面だけが、どこまでも広がっている。

 日吉は、深く、冷たい朝の空気を吸い込み、ゆっくりとそれを白く吐き出した。

 寒さはどこまでも厳しく、自分たちの行く手には、未だ何の確かな保障も残されてはいない。

 しかしながら、日吉は、草鞋の裏に張り付く冷たい泥の重みを、自らの身体で確かに確かめながら、静かに、そして力強く自らの歩みを開始した。

 その、泥の冷たさと歩くための痛みの感触だけは、何らの欺瞞もない、自分たちが確かに今を生きているということの、何よりはっきりとした、現実の証明に他ならなかったのだ。

 日吉は、手にした籠をきつく背負い直し、隣を歩く小竹の手をしっかりと握り締めながら、ただ、今日を凍えずに生き残るための、薄暗いあばら屋の方向へと、確かな一歩を踏み出していくのであった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ