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豊臣兄弟、最底辺から始める天下奪取 ――現代営業の知略で、戦国の理不尽を喰い破る――  作者: チャプタさん


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第十四話:川向こうの男

第十四話:川向こうの男


 朝靄の深く立ち込める冬の庄内川は、まるで極限の寒さの果てに命を失いかけた野獣の腹部であるかのように、鈍く濁った灰色を湛えて、どこまでも重苦しく横たわっていた。

 雪解けの泥水を大量に呑み込んだ川の流れは、不気味なほどの重みを帯びてうねり、流れの急な縁の土手では、赤黒い泥の壁が、水流に削り取られて静かに、かつ音もなく崩れ落ちていた。

 岸辺を埋め尽くすように生い茂る葦の群れは、白く冷たい霜を全身に纏い、凍てつく北風が吹き抜けるたびに、カサカサと乾いた不快な摩擦音を響かせている。

 空の天井は驚くほどに低かった。

 今にも地表へと押し潰してきそうなほどの、分厚い灰色の雲が、尾張の広大な平野の全域を覆い尽くし、太陽の温かき兆しを完全に遮断している。

 日吉は、手作りの粗末な縄籠を自らの細い背中に背負い、水分を含んで重くなった泥濘を足並みで踏み締めながら、荒涼とした河原の砂利の上を、一歩ずつ慎重に歩み進めていた。

 一歩を踏み出すたびに、冷酷な冷気が藁を突き抜けて足裏から心臓へと這い上がってくるのが、嫌というほどに感じられた。

 重ねて巻いた古い足袋は、すでに川辺の湿った泥水によって完全に中まで湿り切っており、指先は感覚を失って、まるで感覚のない小石の塊のようになって久しい。

 しかしながら、そのような過酷な極限状態にあっても、自らの歩みを立ち止まらせることなど、彼には決して許されてはいなかった。

 この冬を無事に越すための肝心の薪の備えは未だに不十分であり、明日の一家の口を繋ぐための食い扶持も、常に限界に近いところで切迫し続けていた。

 白い米を食べられる生活など、今の彼らにとっては天上の楽土の幻影のようであり、日々の雑穀の粥さえも、満足に満腹になるまで食することなど、到底叶わない日常であった。

 この何らの秩序も存在しない戦乱の時代にあっては、自らの肉体を動かして必死に働かなければ、待っているのはただ静かに餓死していく運命のみである。

 そして悲しいかな、どれほど必死になって身を粉にして働いたところで、容赦のない年貢の取り立てや、飢饉の不条理によって、結局は同じように餓死していくのが、最下層の農民たちの逃れられぬ現実であった。


 日吉は、自らの内に宿る前世の高度に洗練された記憶を保持しているからこそ、その乱世の不条理の構造が、他の誰よりも正確に、かつ冷酷に理解できてしまっていた。

 かつて暮らしていたあの平穏な前世の世界において、空腹というものは、せいぜい仕事の合間に感じる一時的な身体の不快感のレベルにすぎない出来事であった。

 しかしながら、この戦国の地においては、その空腹という微小な事象が、そのまま自らの「死」という名の奈落の底へと、一直線に直結しているのだ。

 肉体が痩せ衰える。

 働くための筋力が失われて、動けなくなる。

 免疫が落ちて、目に見えぬ病の牙に倒れる。

 そして、待ち望んだ温かい春の訪れを目にすることなく、寝床の中で静かに息を引き取っていく。

 それだけの、極めて単純で、冷酷な自然淘汰の理が、何の躊躇もなくこの地を支配し続けていた。


 日吉は、泥の中に自らの身体を深く低くしゃがみ込ませ、そこに半ば埋もれるようにして転がっていた、白い川貝の殻を一つ、指先でつまみ上げた。  川貝の殻。

 この村に住む他の農民たちの誰もが、ただの川辺のゴミとして全く見向きもせず、顧みることすらしない無価値な泥の塊。

 しかしながら、前世における素朴な生活の知恵によれば、これを炉の火でじっくりと焼き、細かく砕いて土に混ぜ合わせれば。

 粘土質の野土を石のように強固に焼き締めるための、即席の石灰石、すなわち、優れた泥竈の補強材となるのである。

 これを用いて竈の泥壁を補強してやれば、熱による急激な膨張や亀裂を完璧に防ぎ、竈の物理的な耐久性は飛躍的に高まる。

 耐久性が上がれば、無駄に熱が外へと逃げ散るのを防ぎ、結果として薪の消費量を劇的に減らし、冬を越すための生存率を大幅に向上させることができる。

 それを、実用的な生活の技術として頭の中で組み立て、実行に移すことのできる者など、この尾張の中村にあっては、日吉の他には誰一人として存在してはいなかった。


「兄上」


 すぐ背後の、冷たい朝の空気の中から、小竹のよく通る物静かな声が届けられた。

 日吉が、痛む腰を庇いながらゆっくりと振り返ると、そこには、寒風を避けるようにして小さな身体を健気に縮こませた、弟の小竹が佇んでいた。

 極寒の冷気によって、小さな鼻先は、まるで熟した木の実のように真っ赤に染まり、身体を動かすたび、衣服の隙間から覗く指先が、寒さのために震えている。

 それにもかかわらず、その双眸の奥底に宿る光だけは、いつものように不気味なほどに静まり返り、冷徹であった。


「母上が、兄上にこれをお渡しするようにと、私をこちらへと遣わされたのです」


 差し出された、古びた麻の布包みを開けてみると、そこには、竈の残り火で硬く焼き締められ、煤の香ばしい匂いを放つ、粗末な雑穀の握り飯が二つ、静かに収められていた。

 昨夜、家族全員で分け合って食べた、あの薄い雑穀粥の貴重な残り物を用いて、母親が手作りしてくれたに違いないものであった。

 日吉は、その質素な握り飯を見つめながら、自らの太い眉を僅かに寄せ、胸の奥にこみ上げる痛みを堪えた。


「……母ちゃん、今朝は自分の分の粥を、ちゃんと食べたのか」


「いえ、母上は、今朝はただの一口も、自らの口には運んではおりませんよ」


「やっぱりな、そうだろうと思ったよ……」


 分かっていたことだった。

 なかの優しく、かつ愚直な人柄からすれば、我が子たちの空腹を少しでも和らげるためであるならば、自らの身体の飢えなど、平気で隠し通して耐え忍ぶに違いない。

 前世における、あの希薄で個人の独立が重視されていた社会にあっては、他者のために自らの命を削ってまで食物を譲るという精神は、どこか現実味を欠いた美談のように思えたかもしれない。

 しかしながら、この過酷極まりない中世の現実においては、人は守るべき大切な存在があって初めて、自らの肉体の限界を超えた、驚異的な生存の執念を発揮することができるのだ。

 日吉は、手元にあった温かい握り飯を半分に割り、その片方を小竹の小さな手の中へと強引に押し付けた。


「ほれ、これをお前が半分食べろ」


「いいえ、これは母上が兄上のために用意してくださったものです。私は、まだ十分に動けますから、兄上こそすべて食べてください」


「いいから、四の五の言わずに口へ放り込むんだ。交渉という名の過酷な奉公仕事を完遂するためには、何より肉体の体力を維持することが、最大の武器になるのだからな」


「……えいぎょう、ですか? 兄上は時折、本当に誰も聞いたことのないような、不思議な呪文のような言葉を口にしますね」


 日吉は、自らが前世の商売の専門用語をうっかり口にしそうになったことに気づき、慌てて咳払いをして、苦笑を浮かべて誤魔化した。

 小竹は、不思議そうに首を傾げながらも、兄の強硬な態度に観念したのか、大人しく握り飯を受け取り、自らの小さな口を動かして、静かに咀嚼し始めた。

 その、一生懸命に顎を動かして食物を胃袋へと流し込もうとする姿は、どれほど言葉遣いが生意気であっても、やはり紛れもない、ただの五歳に満たない幼児のそれであった。

 日吉は、その弟の健気な横顔を見つめながら、自らの内に生じた、熱く激しい「生への執念」を、改めて強固に燃え立たせた。

 この弟だけは、どのような卑劣な罠に嵌まろうとも、絶対に死なせてなるものか。

 いや、小竹だけでなく、あの優しい母親も、傷だらけの父親も、姉のともも含めて、自らの大切な家族の全員を、この手で完璧に守り抜いて見せる。

 そのためであるならば、自らの精神がどれほど冷酷に汚れていこうとも、いかなる謀略を巡らせようとも、一切の躊躇など抱く必要はないのだ。


「兄上」


 不意に、小竹の声のトーンが、それまでの子供らしい和やかさから、一瞬にして刺すような冷徹なものへと変貌した。


「私たちの、すぐ後ろの方向です。怪しげな他者の影が迫ってきておりますよ」


 その一言を聞いた瞬間、日吉の背筋の筋肉が、一瞬にして強固に緊張して強張るのを感じた。

 しかしながら、彼は、慌てて振り返って自らの狼狽を敵に示すような愚かな真似はせず、まずは静かに佇んだまま、周囲の空気の気流の変化と、かすかな足音の反響を読み取ろうとした。

 雪の凍土を踏みしめるその足音は、驚くほどに重く、かつ自らの接近をこちらに対して隠し立てしようとする一片の意図すら感じられない、不遜な歩みであった。

 敵の数は、おそらく複数。

 三人、いや、少なくとも四人はいるであろうか。

 河原を支配していた空気の性質が、一瞬にして、野生の猛獣が自らの縄張りの中に侵入してきた外敵を値踏みする際のような、粘りつくような凄まじい「威圧感」を帯び始めていた。

 日吉は、ゆっくりとした落ち着いた動作で身体を起こし、対岸の浅瀬の方へと向き直った。


 白く立ち込める川霧のカーテンを引き裂くようにして、闇の中から、数人の屈強な男たちの影が、静かにその姿を現した。

 先頭を堂々たる足取りで歩く大男の体躯は、周囲の者たちに比べても一回りも大きく、その肩幅は異様なまでに広かった。

 粗暴な獣の皮を羽織り、その顔立ちには無精髭が鬱蒼と生い茂っており、その佇まいは、そこらの農民たちとは明らかに一線を画していた。

 野盗。

 あるいは、川の渡しを守る渡し守。

 それとも、法の通じぬ河原に身を置く、凶暴な河原者の一味。

 それらの、中世における日陰の存在を示す言葉が、日吉の脳裏に次々と浮かび上がってきたが、どの枠組みをもってしても、目の前の大男が放つ独特の存在感を、正確に捉えきることはできなかった。

 この男は、もっと別の、社会の境界線の外側において、自らの腕力と知恵だけで万物を支配している、本物のアウトローの佇まいを帯びていたのだ。


「よう」


 男の口から漏れ出たのは、以前、あの庄内川の渡し場の近くで遭遇した時と、全く寸分違わぬ、不敵に掠れた低い声であった。


「久しぶりだな、例の奇妙な火床を振り回して、村中を大騒ぎさせているという、噂の竈の餓鬼め」


 男の背後に控えていた若衆たちが、自らの優位を誇示するようにして、下品で冷ややかな嘲笑の声を河原に響かせた。

 しかしながら、日吉はその男たちの無礼極まりない威圧に対しても、一寸も怯むことなく、その目を真っ直ぐに見据え返し続けた。


「……川の向こうの小六と名乗ったおじさんが、一体何の用があって、このような貧しい農民の子供たちの前に、わざわざ姿を現したのだ」


「随分と、肝の据わった面白い餓鬼だな。普通の子供であれば、俺のこの顔を見ただけで、恐怖のあまり小便を漏らして逃げ出すはずなのだがな」


「用があるなら、今すぐ手短に話してくれ。これほど冷たい冬の風が吹き荒れているんだ、お前たちと無駄話をして、身体を不必要に冷やすつもりはない」


 小六は、その子供とは思えぬ合理的な態度を聞いて、その口元に、低く、かつ獰猛な笑みを浮かべて見せた。

 しかしながら、その野生の獣を思わせる鋭い眼光だけは、微塵も笑ってはおらず、ただ目の前にいる日吉という存在の有用性を、冷徹に見極めようと値踏みしていた。

 日吉は、その男の眼差しの中に、前世におけるあの過酷な商談の場において、何度も対峙してきた「他者の価値を貪欲に測ろうとする支配者」のそれと、全く同一の本質を感じ取っていた。

 この男は、ただ暴力によって他者を脅して悦に浸っているような、単純な荒くれ者では決してない。

 知恵の価値を理解し、それをどのようにして自らの権力や利益へと変換させるか、その裏の法則を深く知り抜いた、極めて老獪で危険な交渉者であったのだ。


「お前が最近、中村の中で作り出したというあの奇妙な竈の噂は、すでにこの川沿いのあちこちにまで、広く流れ始めているぞ」


「ただ、日々の暮らしに便利な、少しばかり薪を節約するための道具を作っただけにすぎないよ」


「便利、という言葉はな、この乱世においては、そのまま巨万の『銭』を生み出すことができるという、凄まじい意味を有しているのだよ」


 日吉は、無言のまま、男の言葉を静かに噛み締め続けた。  この男、見た目の野蛮さに反して、経済や流通の本質を、恐ろしいほどの正確さで理解している。

 ただ暴力的に技術を奪い去るだけの馬鹿であるならば、まだ対処の仕方はいくらでもあったが、これほどまでに頭の回る男を相手にするとなれば、一寸の言葉の妥協も許されない極限の対峙となる。


「お前たちが村の中で『薪の消費を半分にした』と大騒ぎしているその事実はな、俺たち川を拠点に生きる者たちにとっても、決して無視することのできない重大な関心事なのだよ」


「……おじさんたちは、川をうろついて、渡しを守っているだけの放浪者だろう。貧しい村の百姓たちの竈の事情など、お前たちには何の関係もないはずじゃないか」


 小六は、その日吉の指摘を聞いて、自らの恰幅の良い腹を大きく揺らしながら、大声を上げて豪快に笑い転げた。


「がははは! 面白い、これほどまでに俺の本質を、一瞬にして見抜いて見せた餓鬼は、この尾張中を探しても他にはおらぬわ!」


「違うのか」


「ああ、半分は確かに当たりだ。この庄内川という巨大な川はな、ただ水が流れているだけの退屈な場所などでは決してない。ここには、日々莫大な量の銭と、米と、そして武器となる鉄や、戦の死体までが、休むことなく流れ続けているのだよ。この川の流れを完全に手の中に押さえることができれば、この尾張の流通の命脈を、すべて自らの指先一つで、思い通りにコントロールすることができるようになるのだ」


 日吉は、男のその言葉を聞いて、心の中で戦慄すると同時に、自らの中にあった全てのパズルが完璧に繋がり、合致したのを感じた。

 物流。

 この道が満足に整備されておらず、陸路の移動が著しく困難極まりない戦国の乱世において、物資を大量に運ぶことのできる大河の水路というものは、まさに国家の生命線とも言える最重要のインフラであった。

 つまり、目の前にいるこの小六と名乗る男は、ただの野蛮な川賊や盗賊などではなく、この尾張の流通の裏の支配者として君臨する、非合法の「物流の覇者(川並衆)」に他ならなかったのだ。


「で、お前の作り出したその泥竈の存在だが」


 小六は言葉を切り、その鋭い眼光を、日吉の顔に真っ直ぐと向けた。


「あれは実におもしろい、これまでに見たことのない価値ある仕組みだ。ただの貧しい村の中だけで終わらせておくには、あまりにも勿体なさすぎるほどの、巨万の富を生み出す可能性を秘めている」


 日吉は、その言葉を聞いて、自らの胸の奥で、警戒の度合いを極限にまで引き上げた。

 いよいよ、この男が牙を剥き、本題を切り出してくる瞬間が訪れたのだ。


「どうだ、日吉。この俺と、手を組んで、一緒にこの川を支配してみる気はないか」


 やはり、自らの想定していた通りの、最も厄介な「勧誘」の条件を提示してきたのだ。

 背後に控えていた若衆たちが、日吉を値踏みするようにして、薄汚い笑みを浮かべる。

 しかしながら、日吉は逆に、その条件を突きつけられたことによって、自らの頭脳を完璧に冷たく冴え渡らせることができた。

 この小六という男は、今この瞬間においては、自分たちの技術や命を、暴力によって力ずくで奪い去ろうとはしていない。

 それはすなわち、自分たちを今ここで無理やり消し去ってしまうよりも、日吉の持つその突出した知恵と頭脳を、自らの傘下に取り込んで活用した方が、将来的に遥かに莫大な利益を生み出すことができると、冷徹に判断しているからに他ならなかった。

 ならば、対等な「交渉」を成立させるための、微かな主導権の糸口は、未だ自分たちの側に残されている。


「おじさんと、手を組む? 一体、具体的にどのような利益を、俺たちに保障してくれるというのだ」


「お前は、その小さな頭を使って、俺たちのために新しい有益な仕組みを次々と生み出す知恵を出せ。その代わりに、俺たちの持つ圧倒的な武力と影響力をもって、お前たちのその脆く壊れやすい命と家族のすべてを、外敵の理不尽な暴力から、完璧に守り抜いてやろうというのだ」


 男の口から発せられたその条件は、この何らの保障もない世界にあっては、何よりも魅力的で、かつ抗いがたいほどに強固な「盾」の提示であった。


「この乱世においてはな、どれほど優れた知恵や、素晴らしい技術を有していようとも、それだけでは生き残ることは絶対に叶わん。知恵というものは、それを守るだけの圧倒的な『暴力』を持たぬ限り、常に強者によって力ずくで強奪され、踏みにじられる運命にある。だからこそ、お前たちには、俺たちの持つこの強固な暴力の盾が、どうしても必要なはずなのだよ」


 それは、否定することのできない、この乱世における絶対的な「真理」そのものであった。

 どれほど便利な竈を築こうとも、どれほど優れた保存食を作ろうとも、一騎の武装した武者が押し寄せてくれば、それらすべての成果は、一瞬にして踏み荒らされ、奪い去られてしまうのだ。

 しかしながら、日吉は、その魅力的な条件に対しても、即座に肯定の返答を返すような安易な真似はしなかった。

 目の前にいるこの小六という男は、極めて危険な野生の猛獣であり、不用意に懐へと近づけば、たちまちのうちにその大きな口に呑み込まれ、自らの主体性を失って、都合の良い道具として一生搾取され続けることになるのは明白であった。

 だが同時に、この男を感情的に拒絶して敵に回してしまえば、それもまた、自分たちの生存の可能性を劇的に低下させる最悪の選択肢となる。

 生殺与奪の主導権を常に自らの側で握り続けるための、絶妙な「取引の間合い」を、慎重に見極めねばならなかった。


 小竹が、静かに自らの口を開き、その場に端座したまま小六に向かって静かな、冷ややかな声を響かせた。


「兄上」


「何だ、小竹」


「この川向こうの大男は、兄上の作った竈の技術そのものを、欲しがっているわけではありませんよ」


 小六の、太い片眉が、驚きのためにピクリと不自然に跳ね上がった。


「この方は、竈の背後にある、兄上の有するその驚異的な『頭脳』そのものを、自らの支配の道具として、何よりも激しく欲しがっているのです」


 周囲にいた若衆たちが、その幼児の年齢にそぐわぬ、あまりにも的確に核心を突いた指摘を聞いて、うろたえたようにざわめき立った。

 しかしながら、当事者である小六だけは、決して笑い声を漏らすことはせず、ただその獰猛な瞳の光を一段と鋭くさせ、小竹の姿をじっと見つめ続けていた。

 図星であったのだ。


「おい、日吉」


 小六は、低く、押し殺したような声で、目の前にいる日吉に語りかけた。


「お前、本当にその隣にいる餓鬼は、実の弟なのか? まるで、人の心の奥底にある汚い本音を、すべて透かし見ているかのような、気味の悪い幼児ではないか」


「俺も、最近になって、この弟が本気で怖くて仕方がなくなる瞬間が、何度もあって困っているところなのだよ」


 日吉は、自らの首を振ってため息をつきながらそう答えると、小竹は、不満そうに兄を横目で睨みつけて見せた。

 その、兄弟の日常と変わらぬ、微笑ましいやり取りを前にして、日吉は自らの肩の力を、僅かに抜くことができた。

 小六は、その親子のやり取りを、自らの頭脳で細かく分析し、どちらがこの関係において、本当の決裁権を握っているのかを、冷徹に見極めようとしていた。

 その姿は、前世におけるあの過酷な商談の場において、誰が本当の最終決定権を有するキーマンであるかを、本能的に見極めようとしていた、百戦錬磨のバイヤーたちの姿と、完璧に重なり合っていた。


「すぐ今その場で、俺の誘いに対する答えを出す必要など、どこを探してもねぇさ」


 小六は言うが早いか、踵を返し、自らの巨体を雪の積もる街道の方へと向けた。


「だが、これだけは、その小さな頭の中に固く叩き込んでおくことだな」


 男は、去り際に一度だけ、その鋭い眼光を日吉へと投げかけた。


「この、誰も助けてはくれぬ過酷な乱世において、最期まで生き残る奴というのはな、決して肉体が強い奴でも、あるいは武芸が優れた奴でもねぇのだよ」


 その瞳の奥深くから、この世の真理を語る者の、非情な光が放たれた。


「自らにとって、他者が利用したくなるような、絶対的な『使い道』が存在し続ける奴こそが、最も長く、確実に生き残る権利を手にするのだ。己の使い道を、決して他者に見失わせるんじゃねぇぞ」


 そう言い残すと、小六とその手下の男たちは、立ち込める白い川霧の向こう側へと、大股の足取りで音もなく消え去っていった。

 河原を支配していた緊張の気配が霧散し、再び、庄内川の鈍い水音だけが、虚しく周囲に響き渡る。

 小竹が、静かに深く、溜め込んでいた安堵の息を吐き出した。


「……本当に、底知れぬ危険な、嫌な性質の方でしたね、兄上」


「ああ。あれほどの巨体でありながら、頭が恐ろしいほどに回り、こちらの出方を完璧に読み切って交渉してくる、本物の怪物だよ」


「ですが、あの方は、今この瞬間においては、決して私たちを暴力によって強奪しようとはいたしません」


「そうだな。今はまだ、自らが生み出す知恵の価値を天秤にかけて、生かして利用した方が得であると、冷徹に判断しているからにすぎないがな」


 日吉は、自嘲気味の笑みを浮かべ、泥にまみれた自らの手をそっと見つめ直した。

 まったく救いのない、実利と損得だけでしか繋がることのできない、この乱世の残酷な人間関係の縮図であった。

 しかしながら、その不条理の論理こそが、今の自分たちにとって、何よりも確実で、何よりも不敗の「生存の境界線」となることを、日吉は深く自覚せざるを得なかった。

 自分たちは未だに小さく、無力で、いつ誰に踏み潰されてもおかしくない、吹けば飛ぶような塵にすぎない。

 しかしながら、自らの頭脳の中に宿る、あの前世の知恵を形にし、他者に対して、自らが「決して手放したくない有益な存在(使い道のある奴)」であり続ける限り。

 いかなる強大な支配者であっても、自分たちの命を、そう簡単には奪い去ることはできなくなるのだ。


 日吉は、泥の中からすくい上げた、白い川貝の殻を、自らの籠の中へと静かに放り込んだ。

 それは、泥にまみれて汚れ、僅かな衝撃によって容易に砕け散る、脆いゴミにすぎないものであった。

 しかしながら、これを一度熱の力によって焼き締め、泥に混ぜ合わせれば、竈の壁面を石のように強固に焼き固める、絶対的な補強材へと生まれ変わるのだ。

 その、泥にまみれて強くなっていく貝殻の姿は、まるで、この過酷な乱世の不条理によって心を冷徹に鍛え直され、生き残ろうと足掻いている、自分たち自身の姿そのもののようにも思えてならなかった。


 小竹が、じっと、兄のその静かな表情を見つめていた。


「兄上、このような危険な交渉の連続の毎日が、本当に、怖いですか」


 日吉は、少しの間、深く目を閉じて自らの胸の奥に問いかけたが、やがて、その口元に不敵な、かつてないほどの快活な笑みを浮かべてみせた。


「怖いに決まっているだろう。だが、それ以上に……なんだか、この生きるか死ぬかの極限の駆け引きが、たまらなくおもしろくなってきたのを自覚しているよ」


 口から発せられたその言葉は、かつて前世におけるあの安穏とした会社員生活を送っていた頃の自分であるならば、到底、想像すらも叶わない、狂暴極まりない生存への適応の証明であった。

 小竹は、その兄の恐るべき精神の変化を目の当たりにして、一瞬だけ不思議そうに目を細めていたが、やがて、自らの口元に小さな、本当に嬉しそうな笑みをそっと浮かべて見せた。


「やはり、兄上は、目の前に壊れかけた危うい薄氷の橋が架かっていれば、自ら進んでそれを笑いながら渡りたくなる、とんでもないお人なのですね」


「お前は、本当に兄に対して遠慮というものを知らんな」


「ですが、私は、そのような自らの命を賭けて果敢に立ち向かう兄上の背中が、決して嫌いではありませんよ」


 凍てつく冬の風が、再び河原を激しく吹き抜け、庄内川の水面の上を、細かな白い雪が静かに流れて消え去っていく。

 日吉は、手にした籠をきつく背負い直し、隣を歩く小竹の手をしっかりと握り締めながら、ただ、今日を凍えずに生き残るための、薄暗いあばら屋の方向へと、確かな一歩を踏み出していくのであった。

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