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豊臣兄弟、最底辺から始める天下奪取 ――現代営業の知略で、戦国の理不尽を喰い破る――  作者: チャプタさん


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第二十五話:開門

第二十五話:開門


 朝、与助は書いていた。


 紙が三枚になり、五枚になった。塩の量。火の入れ方。束の縛り方。乾燥にかける日数。桶の下に敷く藁の厚み。全部、数字と文で書いた。五年間、自分の手と目で覚えてきたことを、紙の上に移した。移すたびに、何かが与助から離れていった。痛くはなかった。ただ、軽くなった。軽くなることが、痛みに似ていた。


 昼前に女衆の一人、おとよが来た。


「基準書ができたと聞きました」おとよは言った。三十半ばの、口の速い女だった。「見てもよいですか」


 与助は紙を渡した。おとよは読んだ。うなずいた。隣のおきねを呼んだ。おきねも読んだ。二人はしばらく紙を挟んで話した。


「これがあれば」おとよが言った。「新しい者が来ても、すぐ動けますね」


 与助は何も言わなかった。


「与助さんがおらんでも回るようにするんか」おとよは何気なく言った。おきねに向けて言った言葉だった。与助への言葉ではなかった。


 与助は帳簿に目を戻した。


 その言葉は、特別な速さで刺さった。おとよは悪意で言ったのではなかった。だからこそ速かった。与助は数字を見た。数字は動かなかった。窓から風が来た。紙の端が揺れた。与助は紙の端を手で押さえた。


 与助がおらんでも、倉は回る。


 正しい。与助はそう思った。それが目的だった。日吉が望んだことだった。自分も分かっていた。だが分かっていることと、音として聞くことは、別だった。基準書の紙は与助の手の下で動かなかった。



 昼過ぎ、日吉が倉の者たちを広間に集めた。


 女衆、荷役人、甚助、源三、小六。十五人ほどが板の間に座った。小竹は柱の陰に立っていた。与助は後ろの壁に背をつけていた。


「結いについて話す」日吉は立ったまま言った。「先に銭の話をする。隠すものは何もない」


 帳簿を開いた。書き写した紙を甚助に渡させた。人数分あった。


「今季の収支じゃ。仕入れ、人件、出荷、利益。全部ここに書いてある」


 紙が回った。誰も声を出さなかった。


 最初に動いたのは表情だった。驚く顔があった。うなずく顔があった。数字を指で追う顔があった。それから音が来た。


「思ったより儲かっておる」荷役の若い男が言った。


「いや」隣の男が首を振った。「経費引けばそんなに残らんぞ」


「源三さんの給分はいくらじゃ」女衆の一人が小声で言った。


 小声だったが、広間に届いた。源三が少し体を固くした。


「女衆は少ない」おとよが数字を見ながら言った。怒った声ではなかった。ただ、確認するような声だった。「荷役の半分以下じゃないか」


「力仕事と同じにはなりません」甚助が言った。


「力仕事だけが仕事ですか」おとよが返した。甚助が黙った。


 日吉は話を続けた。「結いの積み立ては、給分の一割じゃ。倉が同額を足す。病の者、家族が倒れた者、急に銭が要る者に渡す。おきねへの薬代が、第一号じゃ」


 おきねが俯いた。周囲がおきねを見た。おきねは何も言わなかった。


「疑問がある者は聞け」


 しばらく静かだった。源三が口を開いた。「結いの銭を誰が管理するのですか」


「甚助じゃ。帳簿はこの紙と同じく、結いに関わる部分は全員に見せる」


「それは……」源三はゆっくり言った。「管理する者が損をするということになりませんか。何かあれば責めを負う」


「そうじゃ」日吉は言った。「だから甚助の給分は上げる」


 甚助が驚いた顔をした。今初めて聞いたようだった。実際、初めて聞いた。


 広間がまた動いた。甚助の給分が上がるという話が、静かに波紋を作った。日吉は見ていた。疑いは確かに減った。紙を見れば銭があることが分かった。隠してある、ごまかされているという感触は薄れた。だがその代わりに、別のものが広間に満ちてきた。数字は嘘を消した。そして同時に、人の目を開いた。開いた目は、隣を見た。


 人は比べた。


 日吉はそれを見ていた。喜ばなかった。想定していた。だが想定と、実際に目の当たりにすることは、やはり別だった。



 その夜、小竹は一人でいた。


 広間の隅、灯の近くに座っていた。帳簿ではなかった。紙の束だった。与八が来ていた頃の記録だった。何日に来た。何時ごろ来た。何を話した。その日の顔色。声の調子。小竹が書き留めていたものだった。


 読んだ。最初から読んだ。


 どこで外したか、探していた。


 三日前の記録があった。与八の母が足を痛めた、と与八が話した日だった。小竹はその時、それを記録に残していた。母の話。足の痛み。薬代がかかること。しかし小竹はその日、与八について「動かない」と読んだ。記録がそう書いていた。


 なぜか。


 小竹は紙を見た。自分の文字を見た。


 与八は母の話をした後、仕事の話をした。荷役の段取り。来週の出荷予定。普通に話した。だから小竹は読んだ。母の件は心配しているが、倉への忠義は揺れていない、と。


 外れた。


 なぜ外れたか。


 小竹はもう一度読んだ。与八が話した内容ではなく、与八が話した順番を見た。最初に母の話をした。それから仕事の話をした。人は大事なことを先に話す。あるいは、大事なことを一度だけ話して、二度目は別の話をする。与八は一度だけ母の話をした。一度だけ。


 小竹は紙を閉じた。


 人の恩が、数字に変換できなかった。熱賀屋が母への薬を持っていった、その一点が、倉への五年間の恩を上回った。五年間と一回の薬代。数字にすれば比較にならない。だが与八は数字で動かなかった。


 損得だけでは動かない。しかし恩だけでも動かない。恐怖だけでも動かない。何かが混ざる。混ざった結果が、人の動きだった。その混ざり方が、外側からは見えない。


 小竹は初めて、自分が何を見落としていたかを理解した。人間が計算より面倒だということを、頭では知っていた。だがそれは知識だった。今は違った。与八の記録が、紙の上で実物として存在していた。


 灯が揺れた。小竹は紙を置いた。


 日吉が廊下を歩く音がした。近づいてきた。止まった。


「まだ起きているか」日吉は言った。


「読んでいました」


「何を」


「与八の記録です」小竹は灯の向こうを見たまま言った。「どこで外したか」


 日吉は廊下に座った。板が軋んだ。「分かったか」


「少し」小竹は言った。「人は一つで動かない、ということは知っていました。だが私は、一番重いものが勝つと思っていました。一番重いものを見つければ、人の動きが読める、と」


「違ったか」


「与八にとって重かったのは、母への恩でした。薬代を持ってきた、その一回でした。それは五年間の倉への恩より小さいかもしれない。しかし」小竹は少し間を置いた。「速かった」


 日吉は何も言わなかった。


「重さではなく、速さで動く場合がある」小竹は続けた。「宗右衛門が速い理由が、少し分かりました」


 日吉は小竹を見た。十歳の横顔が、灯の中にあった。子供の顔だった。だがその目は、どこか違うものを見ていた。


「今日の帳簿公開で、何か気になったことはあるか」日吉は聞いた。


 小竹はすぐには答えなかった。「倉の者が給分を比べ始めました」


「そうじゃ」


「それ自体は日吉様の想定内でしょう」小竹は言った。「ただ」


「ただ」


「開いた数字は、外にも見えます」小竹の声は静かだった。「宗右衛門が動かない理由が、分かった気がします。今は待っている。中が揺れるのを待っている。そして数字から、次の手を考えている」


 日吉は黙った。


「違いますか」小竹は聞いた。


「違わない」日吉は言った。



 津島では、宗右衛門が夜の縁側にいた。


 番頭が傍らに座っていた。手元に紙があった。日吉の倉の帳簿から写し取られた数字だった。誰が写したか、番頭は言わなかった。宗右衛門も聞かなかった。


「塩の仕入れ先は」


「三箇所です。一が南の問屋、二が川沿いの小商、三が熱田の——」


「二だけ押さえろ」宗右衛門は言った。「一と三は触るな」


「全部押さえれば完全に止められますが」


「止めるな」宗右衛門は静かに言った。「止めれば日吉が動く。少しだけ滞らせろ。首が締まってきたと感じさせるだけでいい。人は確かな危機より、曖昧な圧迫に弱い」


 番頭は書き留めた。


「藁はどうしますか」


「仕入れ値を少し吊り上げろ。倍にはするな。一割五分だ」宗右衛門は言った。「高くなったと気づいた時、日吉が帳簿を見る。利益率が下がっている。だが原因が分からない。分からない間は動けない。動けない間に、次が打てる」


「今回は与八の情報は使いますか」


「与八」宗右衛門はゆっくり言った。間があった。「ああ」


 番頭は何も言わなかった。


「今は使うな。まだ時間がある」宗右衛門は遠くを見た。「日吉が結いを動かした。帳簿を開いた。正しいことをしている。正しいことをする者は、自分が正しいから油断する。その隙を待て」


「いつ動きますか」


「日吉が次の一手を考え始めた頃じゃ」宗右衛門は答えた。「人は前を見ている時、背中が空く」


 番頭はうなずいた。帳面を一度閉じかけて、また開いた。


「一つ、ご報告があります」


 宗右衛門は振り返らなかった。


「川沿いの小商への話は、すでに昨日のうちに通してあります。今朝から塩を出しておりません」


 宗右衛門は何も言わなかった。風が来た。縁側の灯が揺れた。


「日吉は明朝、気づくと思います」


 宗右衛門は小さくうなずいた。「ならよい」


 それだけだった。番頭は帳面を閉じた。


 宗右衛門は動かなかった。すでに動いていたから、動かなくてよかった。



 日吉は秤を見ていた。


 夜が深かった。広間は静かだった。昼間のことを思い出した。紙が回った。数字が見えた。疑いが消えた。代わりに比較が生まれた。おとよが言った。女衆の給分は少ない、と。源三が体を固くした。甚助が驚いた顔をした。帳簿を開くということは、扉を開くことだった。風が入った。新鮮な風だった。だが同じ扉から、別の何かも入ってきた。


 正しいことをした。間違っていない。だがそれでも、新しい問題は生まれた。


 問題は解いた数だけ、また生まれた。それが仕組みというものだと、日吉は思い始めていた。終わりのない作業だった。だがそれは仕事が続くということでもあった。


 与助の言葉が戻ってきた。


 正しいことが、遅かった。


 日吉は静かに首を振った。


 遅かった、はその通りだった。だがそれだけではなかった。正しいことにも、値がある。帳簿を開けば疑いは消えるが比較が生まれる。結いを作れば安心が生まれるが依存も生まれるかもしれない。基準書を作れば誰でも動けるが、与助が自分でなくてもよいと思うかもしれない。全部、正しいことの副作用だった。副作用のない薬はなかった。薬と毒は、量と速さで変わった。


 扉の向こうから、小竹の声がした。


「兄上」


「入れ」


 小竹が入ってきた。灯の前に座った。


「一つ、聞いてもよいですか」


「聞け」


「結い、基準書、帳簿公開」小竹は静かに言った。「これは倉の者のためですか。それとも宗右衛門に勝つためですか」


 日吉は小竹を見た。


 問いとしては、鋭かった。どちらか、と聞いていた。日吉はしばらく考えた。正確に答えなければならないと思った。


「両方じゃ」日吉は言った。「どちらかではない。倉の者のためにやって、結果として宗右衛門に勝てれば、それが最もよい。だがもし宗右衛門に勝つためだけにやれば、倉の者は感じる。目的のために使われていると。そうなれば与八と同じことが起きる」


 小竹はうなずいた。何かを確かめるような、ゆっくりとしたうなずきだった。


「もう一つ」


「まだあるか」


「次は私が先に読みます」小竹は言った。「与八の件は私が外しました。次は外しません」


 日吉は小竹を見た。十歳の顔が、灯の中で真っ直ぐだった。誓いでも宣言でもなかった。ただ、確認するような言い方だった。


「信じる」日吉は言った。


 小竹は一礼して出て行った。


 足音が遠ざかった。日吉は再び秤を見た。秤は揺れていた。止まらなかった。止まらないことが、生きていることに似ていると、日吉は思った。


 しばらくして、廊下に足音が来た。小竹の足音ではなかった。重かった。小六だった。


「夜分に申し訳ありません」小六は言った。声が少し固かった。「荷が来ました。今夜届くはずの塩です」


「来たか」


「いえ」小六は言った。「来ませんでした」


 日吉は小六を見た。


「船が出ておりません。川沿いの小商から知らせが来ました。急に都合がつかなくなったと。理由は言いませんでした。問屋の方にも当たりましたが、こちらも明日以降になるかもしれないと。理由は、言いませんでした」


 広間が静かだった。灯が揺れた。日吉は何も言わなかった。しばらく灯を見ていた。


「分かった」と日吉は言った。「下がっていい」


 小六が去った。足音が消えた。


 日吉は秤を見た。


 宗右衛門が先に動いていた。日吉が扉を開いた夜に、もうすでに動いていた。帳簿を読まれた。仕入れ先を割り出された。そして一箇所だけ、音もなく押さえられた。一箇所だけ。止まったのではなく、滞った。その差が、恐ろしかった。止まれば分かる。滞れば、分からないまま時間が過ぎる。


 小竹が言っていた。開いた数字は、外にも見える、と。


 正しかった。その通りになった。日吉は透明にしようとして、自分の内側を外へ向けて開いた。宗右衛門はその光を見て、影を作った。


 扉を開くことと、背中を見せることは、同じではないはずだった。だが今夜、その境界が、どこにあるのか分からなくなっていた。


 戦は始まるのではなかった。


 塩は、もう止まっていた。

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