第8話:さよなら常葉
1:旧灯台の夜
手を繋いだまま、空が藍色に変わっていった。
星が増えていた。遠くに常葉の灯りが見える。旧灯台の外の石段に、二人は並んで腰を下ろしていた。
「行っていいよ」という言葉は、夕暮れの風の中にもう溶けていた。でも湊の胸の中に、まだある。
波の音だけが、繰り返していた。
深夜0時まで、あと数時間。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
言葉にしなくても、伝わるものがあった。この沈黙は重くなかった。ただ、時間が惜しかった。
やがて栞が、繋いだ手をわずかに動かしながら言った。
「ねぇ、湊さん」
「うん」
「私のことを……最初に好きになったのって、いつ?」
湊は少し考えた。
「一度目のループで、潮騒に来たときだと思う。栞がコーヒーを淹れて、差し出してくれたとき」
「最初から?」
「一目惚れってやつ」
栞は少しの間、星を見ていた。
「不思議だね。私は湊さんのことを何も知らなかったのに」
「……そうだね」
「私が好きになったのは……」
栞は続けた。
「いつだろう。自分でも、わからなくて」
「わからなくていいよ」
「でも……」
栞は湊の方を向いた。
「理由はわかるの。なんで好きになったのか」
「どんな理由?」
栞はしばらく考えてから、静かに言った。
「ちゃんと、私を見てくれていたから」
「……」
「知識とか、ループとか、関係なく。何かを誤魔化しているときも、嘘をついているときも、それでもちゃんと私を見ていた」
湊は答えられなかった。
「それが最初は怖かったけど、嬉しかった。それだけで十分だった」
夜の海が、波の音を繰り返していた。
湊の胸の奥で、ずっと抱えていた問いが、静かに溶けた。資格があるのかという問い。この人に近づく権利があるのか。
あった、と思った。
知識を使って近づいたことは、確かにずるかったかもしれない。でも、栞を見続けていた背景にある気持ちは、本物だった。
2:約束
「もし、私が忘れていても……」
栞が静かに言った。
「また、話しかけてくれる?」
湊は栞の横顔を見た。
「する。絶対に」
「約束だよ」
「約束する」
栞は繋いだ手をもう一度握り直した。それから、星を見上げながらぽつりと言った。
「……覚えてなくても、待ってる。たぶん」
「たぶん?」
「わからないけど」
栞は小さく笑った。
「なんか、そういう気がして」
その笑い声が短く、夜の空気に溶けた。
3:繰り返した言葉
時間が経つにつれて、二人は自然と言葉が少なくなった。
語るべきことは、もう語ってあった。伝えるべきことは、伝えてあった。残っているのは、ただこの時間だけだった。
遠くの町の時計が23時を告げた。
あと一時間。
「湊さん」
「うん」
「怖い? 記憶が消えることが」
湊は少し考えた。
「前は、怖かった。ものすごく」
「今は?」
「……」
湊は夜の海を見た。波が来て、返して、また来る。その繰り返しが、今夜は少し違って見えた。終わりではなく、始まりに向かっているかのように。
「今は、大丈夫な気がする」
「どうして」
「栞が送り出してくれたから」
湊は言った。
「それだけで、十分」
栞はしばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「また明日」
湊は栞を見た。
栞は前を向いたままだった。何気なく、自然に出てきた言葉のようだった。でもその言葉の重さを、湊は知っていた。何度繰り返した「また明日」か。
「また明日」
湊は返した。
それが最後の「また明日」だった。
4:深夜0時
サイレンの音が、鳴り始めた。
遠くの港から、低く、確かな音が届いた。
一つ。
湊は栞の手を、離さなかった。
二つ。三つ。
視界の端が、わずかに滲み始めた。
四つ。五つ。
栞の横顔が、いつもより少し遠く見えた。
六つ。
頭の中で、何かが動き始めた。
静かに、でも確実に。
七つ。
八月十五日の朝が、五回分、重なって見えた。カレンダー。スマホの画面。窓の外の景色。庄介の「飯だぞ」という声。それが一瞬に圧縮されて、光になった。
八つ。
栞の「いらっしゃいませ」が、五回分、重なって聞こえた。花火の光。雨の音。スケッチブックのページ。旧灯台の夕日。「好きです」という声。それも光になった。
九つ。
灯台の麓の岩場が、見えた。
暗い夜。風が強い。服の袖を、白くなるほど力を込めて掴んでいる手。その手が、ゆっくりとほどかれていく。背中が遠ざかる。暗闇に溶けていく。
灯子の「夏が終わらないで」という声が、遠くから聞こえた。
その声が、潮風の中に溶けて、消えた。
十。
すべての光が、一度だけ強く輝いて——
それから、静かになった。
湊の視界が白くなる中で、最後に見えたのは、栞の顔だった。
星明かりの中で、静かに湊を見ている顔。
栞の口が、何かを言っていた。
声は聞こえなかった。
でも、口の形で、わかった。
「湊さん」
視界が、白くなった。
5:新しい朝
目が覚めたとき、窓から夏の光が差し込んでいた。
湊はしばらく、天井を見ていた。
体が重い。でも、いつもの重さとは違った。何かが変わった朝だと、起き上がる前から感じた。
壁のカレンダーを見た。
8月29日。
そのまま、動かなかった。
8月29日のまま、だった。
湊はゆっくりと起き上がった。スマホを取り、画面を見る。8月29日、木曜日。
窓を開けた。
潮の匂いがした。遠くで船のエンジン音がした。灯台が、朝の光の中で白く光っていた。いつもの常葉の朝だった。
でも今朝は、胸の奥に締め付けるような恐怖がなかった。
何度もループを繰り返してきた。毎朝、この景色を見るたびに、また始まるという緊張があった。でも今朝は、ない。
ただ、静かだった。
湊は窓の外の灯台を見た。
何かを、忘れている気がした。大切な何かを。でも何を忘れているのか、思い出せない。
夢を見た気がする。長い、夏の夢を。でも夢の中身が、霧の中にある。
潮の匂いだけが、鮮明だった。
6:庄介との別れ
階段を下りると、庄介が台所にいた。
いつものように、無言で朝食の片付けをしている。湊が下りてきた音に気づいて、振り返った。
「起きたか」
「うん」
「今日、出るんだろう」
「うん。昼前の電車で」
庄介は頷いて、また流し台に向き直った。湊は椅子に座り、残っていた朝食を食べた。二人の間に、言葉はなかった。でもいつもとは違う類の沈黙だった。
荷物を持って玄関に立つと、庄介が台所から出てきた。
珍しいことだった。いつも見送りには来ない人だった。
庄介は湊の前に立って、しばらく湊の顔を見た。
「……行くのか」
「うん、行ってきます」
「そうか」
庄介はそれ以上何も言わなかった。でも、一度だけ湊の肩に手を置いた。それだけだった。長い間、海での漁で鍛えられた、皺だらけのゴツゴツした手だった。
「ありがとう、おじいちゃん」
「ああ」
庄介は手を離して、縁側の方へ歩いていった。また海を見るのだろう。いつものように。
でも今朝の庄介の背中は、いつもより少しだけ小さく見えた。気のせいかもしれない。でも湊には、そう見えた。
7:坂道
外に出ると、夏の光が降り注いでいた。
荷物を持って商店街を抜け、岬への坂道へと向かう。喫茶店に向かうのではなく、常葉から出ていくために。
坂道の途中で、湊は立ち止まった。
見慣れた坂道だった。何度も上り下りした坂道だった。でも今日は、何かが引っかかる気がした。
振り返ると、灯台が見えた。夏の光の中で、白く静かに立っている。
湊はしばらく、灯台を見ていた。
何かを、あそこで見た気がする。夕暮れの中で。誰かと並んで。でも、誰と、何を見たのか、思い出せない。
湊は向き直り、また歩き始めた。
8:立ち止まる足
潮騒が見えた。
岬の麓にある、小さな喫茶店。真鍮のドアベルが、ガラス越しにかすかに見えた。
湊はその前を通り過ぎようとして——
足が、止まった。
理由はわからなかった。ただ、止まった。
コーヒーの匂いがした。潮の匂いに混じって、微かに。どこかで嗅いだことのある匂いだと思った。でも、いつ、どこで嗅いだのか、思い出せない。
湊はゆっくりと、窓の方を向いた。
ガラス越しに、カウンターが見えた。
一人の女性が立っていた。長い黒髪を後ろで束ねて、白いシャツに黒いエプロン。グラスを磨いていた。
その人が誰なのか、湊にはわからなかった。
でも、目が離せなかった。
数秒、湊はそこに立っていた。
女性は窓の外に気づかなかった。ただ、グラスを磨いていた。
やがて、女性が顔を上げた。
窓の外を見た。
湊と、視線が交わりそうになった。
でも交わらなかった。女性の視線は湊を見ていなかった。窓の外の、もっと遠く——灯台の方を見ていた。
それから、また下を向いて、グラスを磨き始めた。
湊は、また歩き出した。
振り返らなかった。
でも、胸の奥に、微かな甘さのようなものが残っていた。苦味の後に、甘さがあるコーヒーの味に似た、何か。
それが何なのか、わからなかった。
9:常葉との別れ
駅のホームで、電車を待った。
ホームから海と灯台が少しだけ見えた。
電車が来ると、湊は荷物を持って乗り込んだ。
座席に座って窓の外を見た。
常葉の町が、ゆっくりと流れていった。港、商店街、岬への坂道、灯台——
灯台の光は、昼間は見えない。でも湊には、そこにあることがわかった。夜になれば、あの光はまた灯る。どんな夜でも、変わらずに。
電車が、トンネルに入った。
窓が暗くなった。
湊は目を閉じた。
頭の中に、何かが残っている気がした。夢の残像のような。潮の匂いと、波の音と、誰かの声と。それが何なのか、形にならない。でも、消えていない。
トンネルを抜けた。
窓の外に、夏の景色が広がった。
常葉は、もう見えなかった。
湊の夏が、終わった。(つづく)




