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八月のリフレイン  作者: あじ


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9/9

最終話:はじめまして、もう一度。

1:冬


 二月の東京は、空気が乾いていた。


 湊は駅近くのカフェに入りながら、コートの襟を立てた。外は白い日差しで、でも温かくなかった。夏とは全く違う光だった。


 留学から戻って、もう半月近くになる。大学の残りの在籍期間も、気がつけば終わりに近い。


 あの夏のことを、湊はまだ覚えていた。


 正確には、覚えているような気がしていた。常葉の潮の匂い。灯台の白さ。防波堤の夕暮れ。誰かと並んで立っていた気がする。でも、その誰かの顔が、思い出せない。名前も、声も、霧の中にある。


 夢を見たのかもしれないと思うことがある。長い、夏の夢を。


 でも夢にしては、潮の匂いがあまりにも鮮明だった。


 昼時のカフェは混んでいた。


 湊が窓際の席に着いて注文をしていると、「相席、いいですか」と声をかけられた。


 振り返ると、コートを着た女性が立っていた。長い黒髪を後ろで緩くまとめていて、片手にスケッチブックを抱えている。


「どうぞ」


「ありがとうございます」


 向かいに座った女性は、コートを脱ぎながら少し息を整えた。急いで来たような様子だった。


 しばらく、二人はそれぞれのことをしていた。女性はスケッチブックを膝の上に置いて、窓の外を見ていた。何かを考えているような、少し遠い目だった。


 湊はその目が気になった。


 理由はわからなかった。


「絵を、描くんですか」


 気がついたら、声をかけていた。


 女性は少し驚いたように湊を見た。


「……わかりますか」


「ちょっと、スケッチブックが気になって」


「ああ」


 女性はスケッチブックに目をやった。


「今日、受験のために来てたんです。美術系の専門学校なんですけど」


 女性は苦笑した。


「緊張してるの、顔に出てました? 今更こんな歳で、って感じなんですけど」


「失礼ですが、おいくつですか」


「21です」


「全然今更じゃないですよ」


「そうですか」


 女性は少し笑った。


「なんだか、そういうことを言ってくれる人がいた気がして」


「友達か誰かですか」


「……わからないんです」


 女性は窓の外に目を戻した。


「夢で会ったのかな、って」


 その言葉が、湊の胸の奥で静かに響いた。


 夢で会った人。遠い夏の感触。でも、顔は思い出せない。


 湊は自分のコーヒーを一口飲んだ。苦かった。でもどこかに、微かな甘さがある気がした。


「どこのご出身ですか」


「地方の小さな町です。常葉っていうんですけど、たぶんわからないと思います」


「……知ってますよ」


 女性が顔を上げた。


「祖父が住んでいる町です。去年の夏、長く滞在していたので」


「え、本当に?」


「本当に。海が見える、灯台のある港町」


「そうです」


 女性は少し前のめりになった。


「その灯台のこと、知ってますか」


「知ってます。岬の上に新しくて白いやつがあって、古い方もあったような」


「旧灯台も?」


 女性の目が、少し変わった。遠くを見るような、でも何かを探しているような目になった。


「旧灯台……知ってるかもしれないです。行ったことはないはずなのに、なんか知ってる気がして」


 湊の胸の奥で、何かが動いた。


「あの」


 女性が続けた。


「変なこと聞いていいですか」


「どうぞ」


「どこかで……会いましたっけ。全然思い出せないんですけど」


「……いえ、初めてだと思います」


「そうですよね」


 女性は少し恥ずかしそうに笑った。


「すみません、変なこと言って。でも、なんだか」


 湊は続きを待った。


「懐かしい気がして」


 湊は少しの間、向かいの女性を見た。


「僕も……。なんだか、懐かしい気がします」


 二人は顔を見合わせた。それから、少し笑った。


 その笑い声が、どこかで聞いたことのある声に似ている気がした。でも、どこで聞いたのか、思い出せなかった。


 女性がスケッチブックをそっと開いた。


「これ、最近描いたんです」


 夕暮れの光の中で、海を背景に立っている灯台が遠くに見える。その手前に、防波堤があって、二人の人物の後ろ姿が小さく描かれていた。


 湊の手が、止まった。


「なぜか、毎回同じ灯台を描いてしまうんですよね。しばらく行ったことはないはずなのに」


 湊はその絵を見つめた。


 二人の後ろ姿。海。夕暮れ。


 どこかで、見た光景だった。いつか、誰かと並んで、同じ方向を見た気がした。でも、それがいつで、誰と、何を見たのか、霧の中にある。


「……きれいですね」


「ありがとうございます」


 女性は照れくさそうに笑った。その笑顔を見て、湊は胸の奥が微かに痛んだ。


 理由は、わからなかった。




2:惹かれ合う距離


 カフェを出る前に、女性が言った。


「私、凪原栞といいます」


「羽月湊です」


 二人は少しの間、互いの名前を確かめるように黙っていた。


「また、話せますか」


 栞が言った。


「なんだか、もう少し話したい気がして。変ですよね、初対面なのに」


「変じゃないですよ」


 湊は静かに微笑んだ。


「僕も、そう思ってます。理由はわからないけど……会いたい」


 二人は連絡先を交換して、別れた。


 栞が去っていく後ろ姿を見送りながら、湊は胸の中に残った感触を確かめた。懐かしさでも、初めての感覚でもない、その中間のような何かが、まだそこにあった。


 しばらくして、栞から「受験、受かりました」という短いメッセージが届いた。


 湊は「おめでとう」と返した。


 そこから何度かやり取りが続いて、ある日、栞が電話をかけてきた。


「アパートも決まって、地元を離れるための整理をしようと思うんですけど。湊さん、前におじいさんが常葉に住んでるって言ってましたよね?」


「そうですよ。祖父が住んでいる町です」


「やっぱり? じゃあ、潮騒ってカフェ知ってますか?」


 湊の脳裏に何かがよぎった気がしたが、それはおぼろげな記憶だった。


「いえ、知らないです」


「そうですか。私、そのカフェで働いてたんですけど、そこのマスターにもお世話になったんで、ちゃんと挨拶しておきたくて。……それで……」


 少しの間があって、栞が口を開いた。


「……一緒に行きませんか、常葉。なんだか、あなたと行きたい気がするんです」


 湊は息を飲んだ。常葉へ栞と一緒に行くということが、単なる帰省ではなく、それ以上の意味があることのように思えた。


「わかりました。おじいちゃんにも久しぶりに会いたいし、今度一緒に。ぜひ」


 湊はスマホを持ったまま、冬の東京の灰色の空を見た。


 胸の奥に、夏の光の残像がある気がした。




3:庄介との再会


 それから日程を調整して、二人は同じ日に帰ることになった。


 冬の常葉は、夏とは全く違う顔をしていた。


 観光客は誰もいない。商店街のシャッターがいくつか下りている。港は静かで、漁船が揺れている。空気が冷たく、潮の匂いだけがある。


 電車を降りたとき、栞が「あ」と言った。


「どうしましたか」


「なんだか、帰ってきたなぁって感じがする。当たり前なんですけど」


 栞は海の方向を見た。


「でも……やっと帰ってきたって感じ。湊さんと来たのも、今日が初めてじゃないみたいな」


 湊は黙って、同じ方向を見た。


 湊の祖父の家に向かう途中、庄介と鉢合わせた。


 庄介は栞を一目見て、少しだけ表情が変わった。驚きでも、懐かしさでもない。ただ、静かに何かを確かめるような顔だった。


「……栞か」


 栞は驚いた。


「知っているんですか」


「潮騒で働いていた子だろう。父親とは漁仲間で、小さい頃はよく会ったものだった」


 庄介は短く言った。


「久しぶりだな」


「あの……私のこと、覚えていてくださったんですね」


「ああ」


 庄介はそれ以上言わなかった。でも、もう一度だけ栞を見て、小さく頷いた。


 その頷きの中に、何が込められているのか。湊にはわかる気がした。はっきりとでは無いにしても、庄介は覚えている。あの夏のことを。湊と栞のことを。言葉にはしないが、確かに知っている。


「上がっていけ」


 庄介が短く言って、先に歩き始めた。




4:縁側の三人


 庄介の家の縁側。冬の海が見える。


 三人で並んで、海を見た。


 庄介はいつものように無言だった。


 栞は「きれいですね、冬の海って」と言った。


「夏とはまた違う静けさがあって」


 庄介がぽつりと言った。


「この海は、変わらんよ。夏も冬も。見ている人間が変わるだけで。違って見えるとしたら、自分の心が変わったんだろう」


 栞はその言葉の意味を探るように、しばらく海を見ていた。


 湊は庄介の横顔を見た。庄介はいつもの顔だった。でも、今日は少しだけ穏やかに見えた。あの夏の終わりから、何かが庄介の中で変わった気がした。




5:赦し


 その後、庄介が「ちょっと付き合え」と言った。


 丘の上の墓地。海が見える場所。庄介が線香を立てる。


 「潮見家」と刻まれた墓石の前に、三人で立った。


 栞は墓石を見て、少し首を傾けた。


「潮見……」


「旧姓だよ」と庄介が言う。


「湊の祖母だ。恵には、灯子という親戚がいた。仲の良い姉妹のような関係だったそうだ」


「灯子……」


 栞はその名前を繰り返した。どこかで聞いた名前のように、口の中で転がした。


「知ってますか、その人を」と湊が聞く。


「知らないはずなんですけど……」


 栞はゆっくり言った。


「でも……なんだか、知ってる気がする。灯台の前に立っている女の人の夢を、前に見たことがあって」


 庄介は黙って線香の煙を見ていたが、やがて口を開いた。


「灯子は……恋人の海斗を失ってからも、心の中で帰りを待ち続けた。常葉の街の大衆食堂で人気の給仕として働きながら、生涯独身を貫いたらしい。年の離れた親戚の恵が生まれてからは、実の妹のようにかわいがっていたそうだ」


 黙って話を聞いていた二人だったが、栞がぽつりと呟いた。


「灯子さんはね」


 栞は続けた。


「幸せだったと思うんです。会ったこともないのに、なんでなのかそう思う。悲しかったけど、街の人々や恵さん、周りの大勢の人たちにちゃんと愛されていた人だって」


 庄介の肩が、わずかに動いた。


「……そうだな」


 庄介は静かに言った。


「恵も、そうだったかもな」


 線香の煙が、潮風に流れた。


 庄介が初めて、妻の墓の前で穏やかな顔をしていた。ただ静かに、妻との思い出を振り返っているようだった。


「もういいんだよ、恵」


 庄介はそっと言った。


「灯子さんも、お前も、もういい」


 波の音が、丘の下から聞こえた。




6:懐かしい場所


 午後、二人で潮騒を訪れた。


 マスターが顔を上げて、栞を見た。それから湊を見た。何も言わなかったが、目元に笑みが浮かんだ。


「久しぶりだな、栞」


「ただいま……です、マスター」


「東京はどうだった」


「人が多くて疲れたけど……。まだまだこれからです。春から一人暮らしを始める予定で」


「そうか」


 マスターはグラスを磨きながら言った。


「ちゃんと行くんだな」


「はい」


「よかった」


 それだけだった。でもその「よかった」の中に、長い時間の重みがあった。


 マスターが湊の方を見て、笑みを浮かべた。


「栞の彼氏? さぁ、座って座って」


「失礼します」


 湊はカウンターの、”いつも”の席に座った。


 マスターは湊を見つめながら、ぽつりと言った。


「……なんだか、前にどこかで会ったような気がするんだがなぁ」


 湊がはにかみながら呟く。


「僕も、初めてここに来た気がしないんですよね。なんだか懐かしい気がして」


 マスターがにやりと笑って、栞に声をかける。


「せっかくだし、栞がコーヒーを淹れてあげなよ」


 栞が笑みを浮かべてカウンターの内側に入りながら、「久しぶりにここに立つと、体が覚えてる感じがしますね」と言った。


「何も考えなくても、手が動く」


 やがて、コーヒーが差し出される。


 湊はゆっくりと一口飲んだ。


 苦味の後に、微かな甘さ。


 この味だ。


 どこかで、何度も飲んだことのある味。いつ飲んだのか、思い出せない。でも体が覚えている。この人が淹れるコーヒーの味を。


「……おいしい」


「ありがとうございます」


 栞は少し照れたように、グラスを磨き始めた。


 湊は窓の外を見た。冬の海が、灰色に光っていた。




7:いつか見た夕陽


 夕暮れ前に、二人で防波堤へ向かった。


 冬の防波堤には、誰もいなかった。風は無く、波は穏やかだった。夏とは違う色をしていた。


 栞はバッグからスケッチブックを取り出した。


「描いていいですか」


「どうぞ」


 栞は鉛筆を走らせ始めた。湊は海を見ていた。


 しばらくして、栞が言った。


「ここに来たことがある気がするんです」


「常葉の出身だから?」


「そうじゃなくて」


 栞は手を止めた。


「あなたと、ここに来たことがある気がして」


 湊は栞の横顔を見た。


「初めて会ったの、先月ですよね」と栞が続ける。


「なのに……ここで並んで海を見たことがある気がする。夏の夕暮れに」


 栞は鉛筆を動かしながら言った。


「おかしいですよね」


「いや、別に。僕もなんとなく、そんな気がするから」


 栞は少し手を止めた。それから、また描き始めた。


「変な二人ですね、私たち」


「そうだね」


「でも」


 栞はスケッチブックを閉じて、海を見た。


「悪くないです」


 夕日が水平線に近づいていた。冬の夕日は、夏より低い位置に沈んでいく。




8:灯台の光


 帰り道、二人は自然に旧灯台の方へ向かっていた。


 冬の灯台は、夏より白く見えた。空気が澄んでいるせいかもしれない。


 灯台の前に立って、二人で海を見た。


「ここにも来たことがある気がする」


 栞が言った。


「もっと上まで行ったことがあるような……」


「螺旋階段がありますよ」


「登ったような気がします」


 二人は顔を見合わせた。それから、少し笑った。


「なんか、全部知ってる気がするんですよね、この町のこと」


 湊が灯台を見上げながら言った。


「初めて来たわけじゃないみたいで……。自分でもよくわかりません」


 湊が続けた。

 

「でも、そんな気がして」


 栞はしばらく灯台を見ていた。


「春から、東京に行きます」


「はい」


「一緒にまた、常葉に来てもらえますか」


「……来ます」


「約束ですよ」


 湊は微笑んだ。


「約束します」


 遠くで、新しい灯台の光が点いた。白い光が、冬の海を照らした。


 風の中で、二人は並んで灯台の光を見ていた。


 忘れても、消えるわけじゃない。


 湊はその言葉を、誰かから聞いたような気がした。いつ聞いたのか、誰が言ったのか、思い出せない。でもその言葉は、体のどこかに残っていた。


 この光は、ずっとここにあった。灯子の夏にも。恵の時代にも。あの夏にも。そしてこの冬にも。


 忘れても、消えない。形を変えて、どこかに残り続ける。


 隣で、栞が小さく息を吐いた。白い息が、冬の空気に溶けた。


「……あなたと、会えてよかった」


「僕も……」


 二人の手が、重なった。


 湊は、庄介からいつか聞いた言葉を思い出していた。


「灯台が光を灯し続けるのは、帰る場所を忘れた船のためではなく、旅立つ勇気を持てない船のためだ——」


 灯台の光が、静かに二人を照らしていた。


 二人の新たな旅立ちを、祝福しているような優しい光だった。(おわり)

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