最終話:はじめまして、もう一度。
1:冬
二月の東京は、空気が乾いていた。
湊は駅近くのカフェに入りながら、コートの襟を立てた。外は白い日差しで、でも温かくなかった。夏とは全く違う光だった。
留学から戻って、もう半月近くになる。大学の残りの在籍期間も、気がつけば終わりに近い。
あの夏のことを、湊はまだ覚えていた。
正確には、覚えているような気がしていた。常葉の潮の匂い。灯台の白さ。防波堤の夕暮れ。誰かと並んで立っていた気がする。でも、その誰かの顔が、思い出せない。名前も、声も、霧の中にある。
夢を見たのかもしれないと思うことがある。長い、夏の夢を。
でも夢にしては、潮の匂いがあまりにも鮮明だった。
昼時のカフェは混んでいた。
湊が窓際の席に着いて注文をしていると、「相席、いいですか」と声をかけられた。
振り返ると、コートを着た女性が立っていた。長い黒髪を後ろで緩くまとめていて、片手にスケッチブックを抱えている。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
向かいに座った女性は、コートを脱ぎながら少し息を整えた。急いで来たような様子だった。
しばらく、二人はそれぞれのことをしていた。女性はスケッチブックを膝の上に置いて、窓の外を見ていた。何かを考えているような、少し遠い目だった。
湊はその目が気になった。
理由はわからなかった。
「絵を、描くんですか」
気がついたら、声をかけていた。
女性は少し驚いたように湊を見た。
「……わかりますか」
「ちょっと、スケッチブックが気になって」
「ああ」
女性はスケッチブックに目をやった。
「今日、受験のために来てたんです。美術系の専門学校なんですけど」
女性は苦笑した。
「緊張してるの、顔に出てました? 今更こんな歳で、って感じなんですけど」
「失礼ですが、おいくつですか」
「21です」
「全然今更じゃないですよ」
「そうですか」
女性は少し笑った。
「なんだか、そういうことを言ってくれる人がいた気がして」
「友達か誰かですか」
「……わからないんです」
女性は窓の外に目を戻した。
「夢で会ったのかな、って」
その言葉が、湊の胸の奥で静かに響いた。
夢で会った人。遠い夏の感触。でも、顔は思い出せない。
湊は自分のコーヒーを一口飲んだ。苦かった。でもどこかに、微かな甘さがある気がした。
「どこのご出身ですか」
「地方の小さな町です。常葉っていうんですけど、たぶんわからないと思います」
「……知ってますよ」
女性が顔を上げた。
「祖父が住んでいる町です。去年の夏、長く滞在していたので」
「え、本当に?」
「本当に。海が見える、灯台のある港町」
「そうです」
女性は少し前のめりになった。
「その灯台のこと、知ってますか」
「知ってます。岬の上に新しくて白いやつがあって、古い方もあったような」
「旧灯台も?」
女性の目が、少し変わった。遠くを見るような、でも何かを探しているような目になった。
「旧灯台……知ってるかもしれないです。行ったことはないはずなのに、なんか知ってる気がして」
湊の胸の奥で、何かが動いた。
「あの」
女性が続けた。
「変なこと聞いていいですか」
「どうぞ」
「どこかで……会いましたっけ。全然思い出せないんですけど」
「……いえ、初めてだと思います」
「そうですよね」
女性は少し恥ずかしそうに笑った。
「すみません、変なこと言って。でも、なんだか」
湊は続きを待った。
「懐かしい気がして」
湊は少しの間、向かいの女性を見た。
「僕も……。なんだか、懐かしい気がします」
二人は顔を見合わせた。それから、少し笑った。
その笑い声が、どこかで聞いたことのある声に似ている気がした。でも、どこで聞いたのか、思い出せなかった。
女性がスケッチブックをそっと開いた。
「これ、最近描いたんです」
夕暮れの光の中で、海を背景に立っている灯台が遠くに見える。その手前に、防波堤があって、二人の人物の後ろ姿が小さく描かれていた。
湊の手が、止まった。
「なぜか、毎回同じ灯台を描いてしまうんですよね。しばらく行ったことはないはずなのに」
湊はその絵を見つめた。
二人の後ろ姿。海。夕暮れ。
どこかで、見た光景だった。いつか、誰かと並んで、同じ方向を見た気がした。でも、それがいつで、誰と、何を見たのか、霧の中にある。
「……きれいですね」
「ありがとうございます」
女性は照れくさそうに笑った。その笑顔を見て、湊は胸の奥が微かに痛んだ。
理由は、わからなかった。
2:惹かれ合う距離
カフェを出る前に、女性が言った。
「私、凪原栞といいます」
「羽月湊です」
二人は少しの間、互いの名前を確かめるように黙っていた。
「また、話せますか」
栞が言った。
「なんだか、もう少し話したい気がして。変ですよね、初対面なのに」
「変じゃないですよ」
湊は静かに微笑んだ。
「僕も、そう思ってます。理由はわからないけど……会いたい」
二人は連絡先を交換して、別れた。
栞が去っていく後ろ姿を見送りながら、湊は胸の中に残った感触を確かめた。懐かしさでも、初めての感覚でもない、その中間のような何かが、まだそこにあった。
しばらくして、栞から「受験、受かりました」という短いメッセージが届いた。
湊は「おめでとう」と返した。
そこから何度かやり取りが続いて、ある日、栞が電話をかけてきた。
「アパートも決まって、地元を離れるための整理をしようと思うんですけど。湊さん、前におじいさんが常葉に住んでるって言ってましたよね?」
「そうですよ。祖父が住んでいる町です」
「やっぱり? じゃあ、潮騒ってカフェ知ってますか?」
湊の脳裏に何かがよぎった気がしたが、それはおぼろげな記憶だった。
「いえ、知らないです」
「そうですか。私、そのカフェで働いてたんですけど、そこのマスターにもお世話になったんで、ちゃんと挨拶しておきたくて。……それで……」
少しの間があって、栞が口を開いた。
「……一緒に行きませんか、常葉。なんだか、あなたと行きたい気がするんです」
湊は息を飲んだ。常葉へ栞と一緒に行くということが、単なる帰省ではなく、それ以上の意味があることのように思えた。
「わかりました。おじいちゃんにも久しぶりに会いたいし、今度一緒に。ぜひ」
湊はスマホを持ったまま、冬の東京の灰色の空を見た。
胸の奥に、夏の光の残像がある気がした。
3:庄介との再会
それから日程を調整して、二人は同じ日に帰ることになった。
冬の常葉は、夏とは全く違う顔をしていた。
観光客は誰もいない。商店街のシャッターがいくつか下りている。港は静かで、漁船が揺れている。空気が冷たく、潮の匂いだけがある。
電車を降りたとき、栞が「あ」と言った。
「どうしましたか」
「なんだか、帰ってきたなぁって感じがする。当たり前なんですけど」
栞は海の方向を見た。
「でも……やっと帰ってきたって感じ。湊さんと来たのも、今日が初めてじゃないみたいな」
湊は黙って、同じ方向を見た。
湊の祖父の家に向かう途中、庄介と鉢合わせた。
庄介は栞を一目見て、少しだけ表情が変わった。驚きでも、懐かしさでもない。ただ、静かに何かを確かめるような顔だった。
「……栞か」
栞は驚いた。
「知っているんですか」
「潮騒で働いていた子だろう。父親とは漁仲間で、小さい頃はよく会ったものだった」
庄介は短く言った。
「久しぶりだな」
「あの……私のこと、覚えていてくださったんですね」
「ああ」
庄介はそれ以上言わなかった。でも、もう一度だけ栞を見て、小さく頷いた。
その頷きの中に、何が込められているのか。湊にはわかる気がした。はっきりとでは無いにしても、庄介は覚えている。あの夏のことを。湊と栞のことを。言葉にはしないが、確かに知っている。
「上がっていけ」
庄介が短く言って、先に歩き始めた。
4:縁側の三人
庄介の家の縁側。冬の海が見える。
三人で並んで、海を見た。
庄介はいつものように無言だった。
栞は「きれいですね、冬の海って」と言った。
「夏とはまた違う静けさがあって」
庄介がぽつりと言った。
「この海は、変わらんよ。夏も冬も。見ている人間が変わるだけで。違って見えるとしたら、自分の心が変わったんだろう」
栞はその言葉の意味を探るように、しばらく海を見ていた。
湊は庄介の横顔を見た。庄介はいつもの顔だった。でも、今日は少しだけ穏やかに見えた。あの夏の終わりから、何かが庄介の中で変わった気がした。
5:赦し
その後、庄介が「ちょっと付き合え」と言った。
丘の上の墓地。海が見える場所。庄介が線香を立てる。
「潮見家」と刻まれた墓石の前に、三人で立った。
栞は墓石を見て、少し首を傾けた。
「潮見……」
「旧姓だよ」と庄介が言う。
「湊の祖母だ。恵には、灯子という親戚がいた。仲の良い姉妹のような関係だったそうだ」
「灯子……」
栞はその名前を繰り返した。どこかで聞いた名前のように、口の中で転がした。
「知ってますか、その人を」と湊が聞く。
「知らないはずなんですけど……」
栞はゆっくり言った。
「でも……なんだか、知ってる気がする。灯台の前に立っている女の人の夢を、前に見たことがあって」
庄介は黙って線香の煙を見ていたが、やがて口を開いた。
「灯子は……恋人の海斗を失ってからも、心の中で帰りを待ち続けた。常葉の街の大衆食堂で人気の給仕として働きながら、生涯独身を貫いたらしい。年の離れた親戚の恵が生まれてからは、実の妹のようにかわいがっていたそうだ」
黙って話を聞いていた二人だったが、栞がぽつりと呟いた。
「灯子さんはね」
栞は続けた。
「幸せだったと思うんです。会ったこともないのに、なんでなのかそう思う。悲しかったけど、街の人々や恵さん、周りの大勢の人たちにちゃんと愛されていた人だって」
庄介の肩が、わずかに動いた。
「……そうだな」
庄介は静かに言った。
「恵も、そうだったかもな」
線香の煙が、潮風に流れた。
庄介が初めて、妻の墓の前で穏やかな顔をしていた。ただ静かに、妻との思い出を振り返っているようだった。
「もういいんだよ、恵」
庄介はそっと言った。
「灯子さんも、お前も、もういい」
波の音が、丘の下から聞こえた。
6:懐かしい場所
午後、二人で潮騒を訪れた。
マスターが顔を上げて、栞を見た。それから湊を見た。何も言わなかったが、目元に笑みが浮かんだ。
「久しぶりだな、栞」
「ただいま……です、マスター」
「東京はどうだった」
「人が多くて疲れたけど……。まだまだこれからです。春から一人暮らしを始める予定で」
「そうか」
マスターはグラスを磨きながら言った。
「ちゃんと行くんだな」
「はい」
「よかった」
それだけだった。でもその「よかった」の中に、長い時間の重みがあった。
マスターが湊の方を見て、笑みを浮かべた。
「栞の彼氏? さぁ、座って座って」
「失礼します」
湊はカウンターの、”いつも”の席に座った。
マスターは湊を見つめながら、ぽつりと言った。
「……なんだか、前にどこかで会ったような気がするんだがなぁ」
湊がはにかみながら呟く。
「僕も、初めてここに来た気がしないんですよね。なんだか懐かしい気がして」
マスターがにやりと笑って、栞に声をかける。
「せっかくだし、栞がコーヒーを淹れてあげなよ」
栞が笑みを浮かべてカウンターの内側に入りながら、「久しぶりにここに立つと、体が覚えてる感じがしますね」と言った。
「何も考えなくても、手が動く」
やがて、コーヒーが差し出される。
湊はゆっくりと一口飲んだ。
苦味の後に、微かな甘さ。
この味だ。
どこかで、何度も飲んだことのある味。いつ飲んだのか、思い出せない。でも体が覚えている。この人が淹れるコーヒーの味を。
「……おいしい」
「ありがとうございます」
栞は少し照れたように、グラスを磨き始めた。
湊は窓の外を見た。冬の海が、灰色に光っていた。
7:いつか見た夕陽
夕暮れ前に、二人で防波堤へ向かった。
冬の防波堤には、誰もいなかった。風は無く、波は穏やかだった。夏とは違う色をしていた。
栞はバッグからスケッチブックを取り出した。
「描いていいですか」
「どうぞ」
栞は鉛筆を走らせ始めた。湊は海を見ていた。
しばらくして、栞が言った。
「ここに来たことがある気がするんです」
「常葉の出身だから?」
「そうじゃなくて」
栞は手を止めた。
「あなたと、ここに来たことがある気がして」
湊は栞の横顔を見た。
「初めて会ったの、先月ですよね」と栞が続ける。
「なのに……ここで並んで海を見たことがある気がする。夏の夕暮れに」
栞は鉛筆を動かしながら言った。
「おかしいですよね」
「いや、別に。僕もなんとなく、そんな気がするから」
栞は少し手を止めた。それから、また描き始めた。
「変な二人ですね、私たち」
「そうだね」
「でも」
栞はスケッチブックを閉じて、海を見た。
「悪くないです」
夕日が水平線に近づいていた。冬の夕日は、夏より低い位置に沈んでいく。
8:灯台の光
帰り道、二人は自然に旧灯台の方へ向かっていた。
冬の灯台は、夏より白く見えた。空気が澄んでいるせいかもしれない。
灯台の前に立って、二人で海を見た。
「ここにも来たことがある気がする」
栞が言った。
「もっと上まで行ったことがあるような……」
「螺旋階段がありますよ」
「登ったような気がします」
二人は顔を見合わせた。それから、少し笑った。
「なんか、全部知ってる気がするんですよね、この町のこと」
湊が灯台を見上げながら言った。
「初めて来たわけじゃないみたいで……。自分でもよくわかりません」
湊が続けた。
「でも、そんな気がして」
栞はしばらく灯台を見ていた。
「春から、東京に行きます」
「はい」
「一緒にまた、常葉に来てもらえますか」
「……来ます」
「約束ですよ」
湊は微笑んだ。
「約束します」
遠くで、新しい灯台の光が点いた。白い光が、冬の海を照らした。
風の中で、二人は並んで灯台の光を見ていた。
忘れても、消えるわけじゃない。
湊はその言葉を、誰かから聞いたような気がした。いつ聞いたのか、誰が言ったのか、思い出せない。でもその言葉は、体のどこかに残っていた。
この光は、ずっとここにあった。灯子の夏にも。恵の時代にも。あの夏にも。そしてこの冬にも。
忘れても、消えない。形を変えて、どこかに残り続ける。
隣で、栞が小さく息を吐いた。白い息が、冬の空気に溶けた。
「……あなたと、会えてよかった」
「僕も……」
二人の手が、重なった。
湊は、庄介からいつか聞いた言葉を思い出していた。
「灯台が光を灯し続けるのは、帰る場所を忘れた船のためではなく、旅立つ勇気を持てない船のためだ——」
灯台の光が、静かに二人を照らしていた。
二人の新たな旅立ちを、祝福しているような優しい光だった。(おわり)




