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八月のリフレイン  作者: あじ


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第7話:八十年分の夏

1:最期の朝


 目が覚めたとき、カレンダーはまだ8月28日だった。


 湊はしばらく天井を見ていた。


 今夜、消える。


 深夜0時に、この夏はリセットされる。栞は忘れる。手を繋いだことも、「好きです」と言ったことも、旧灯台の頂上で並んで見た夕日も、全部。


 わかっている。わかった上で、この朝が来た。


 でも今日、湊は初めて「消えることへの覚悟」ではなく、「消えることへの静かな恐怖」を感じていた。


 六度目が来れば、また始められる。でも、そうじゃないかもしれない。今夜で、本当に終わるかもしれない。


 階下から、庄介の声がした。


「湊。飯だぞ」




2:八十年前の記憶


 朝食の後、庄介が「ちょっと付き合え」と言った。


 町はずれの墓地。海の見える丘。庄介は迷いなく一つの墓の前に立ち、線香に火をつけた。


「潮見家」と刻まれた墓石。旧姓、潮見恵しおみめぐみ。湊の祖母の墓だった。


 煙が潮風に流れる。庄介はしばらく黙っていた。それから、海を見たまま低く言った。


「恵には、灯子あかこという親戚がいた。年は離れていたが、灯子が姉のように接して恵の話し相手になっていたらしい」


 湊は黙って聞いた。


「1945年の夏。灯子は恋人の海斗かいとが任務に向かうのを見送った。8月12日のことだ。海斗は三日で戻ると言った。でも終戦の混乱の中で、消息を絶った」


「……帰らなかったの」


「ああ」


 線香の煙が、細く上がった。


「灯子は灯台の麓で待ち続けた。夏が終わって冬になっても、再び夏が来ても。そのうちに、自分でも気づかないうちに、ただ願うようになったらしい。あの夏が終わらないでほしい、と」


 湊の胸の奥で、何かが静かに動いた。


「恵は少女の頃にその話を聞いた。自分の父を早くに亡くしていたこともあって、灯子の未練をまるで自分のことのように背負い込んでしまった」


 庄介の声は、いつもより少しだけ低かった。


「俺はそれを知りながら、恵を妻にした。愛していたが、埋められなかった何かが、恵の中にずっとあった」


 波の音が、丘の下から聞こえた。


「恵が逝ってから、毎年この時期になると、恵が語っていた、あの夏の匂いがした。お前がここに来てから……その匂いが、また動いた」


 庄介はそれ以上何も言わなかった。


 湊は墓石を見た。「潮見家」という文字が、夏の光の中に白く浮かんでいた。


 8月15日から始まるループ。灯子が「夏が終わらないで」と願った夏の記憶が、八十年の時を超えてまだここに残っている。


 そして湊自身の中にある「失いたくない」という恐怖と、その記憶が、どこかで共鳴しているのかもしれなかった。




3:古びた日記


 午後の潮騒は静かだった。


 マスターが一人でカウンターにいた。その前に、古いアルバムが開かれていた。


「よう、羽月くん。栞は少し遅れてる。昨夜、眠れなかったみたいで」


 湊はアルバムに目をやった。モノクロの写真が並んでいる。常葉の古い町並み、港の風景、灯台。そして一枚、若い女性の写真。


 着物姿で、家族と共に集合写真を撮っている。写真の端には鉛筆で「灯子 女学校入学 1939年」と書かれていた。


「先代から預かっていたものだよ」


 マスターは静かに言った。


 アルバムの次のページに、古い便箋が挟まれていた。


 マスターが、そっと湊の方へ押した。


「日記の一部だよ。読んでいい。昨夜、栞がこれをずっと見て泣いていたらしい。自分でもなんで泣いているのかわからないって言ってたけどな」


 湊は日記を手に取った。インクが薄れて、紙が黄ばんでいたが、細い字は読めた。






8月12日


 海斗が今朝、出ていった。


 三日で戻ると言っていた。私は灯台の麓で見送った。


 彼の背中が坂の向こうに消えるまで、ずっと見ていた。


 袖を掴みたかった。行かないでと言いたかった。


 でも言えなかった。彼には行かなければならない理由があって、私にはそれを止める権利がなかった。


 夏が終わらないでほしい。


 このまま、ずっと八月でいてほしい。


 そうすれば、海斗はまだどこかにいる気がするから。




8月15日


 今日、戦争が終わったと聞いた。


 ラジオの声が、うまく聞こえなかった。


 海斗は、まだ帰らない。


 終戦になったのだから、もう大丈夫なはずだ。でも、なぜ帰らないのだろう。


 夏が終わらないでほしい。


 夏が続く限り、海斗はまだどこかで生きている気がするから。




8月20日


 海斗の消息が、わかった。


 終戦の混乱の中で、任務の途中で――。


 灯台に行った。海斗と最後に話した場所。


 風が強かった。


 どこかから、海斗の声が聞こえた気がした。


 気のせいだと思う。でも、もう少しだけここにいたい。




8月29日


 今日で、もう二週間以上経つ。


 私はまだ、ここにいる。


 行かなければならないとわかっている。


 でも、行ったら本当に終わる気がして。


 夏が終わらないでほしい。


 そう願うことしか、私にはできない。






 湊は日記を閉じた。


 胸の奥が、静かに痛んだ。


 夏が終わらないでほしい。灯子が八十年前に願った言葉と、湊が五度のループを繰り返してきた結果の感情が、同じ形をしていた。




4:灯子と海斗


 しばらくして、栞が来た。


 顔色が少し青白く、目の下に疲れが見えた。エプロンを結びながら、湊に気づいて小さく微笑んだ。


「……昨夜、あまり眠れなくて」


「大丈夫ですか」


「変な夢を見たんです」


 栞は言いながら、アルバムの上の写真に目をやった。灯子の写真を見た瞬間、栞の手がわずかに止まった。


「この人……」


「灯子さんです」


「……知ってる」


 栞は静かに言った。


「会ったことないのに、知ってる気がする」


 マスターがカウンターの奥に引っ込んだ。店内に、二人だけになった。


 栞は椅子に腰を下ろし、写真を見つめたまま黙っていた。


 湊は日記を栞の前に置いた。


「これ、読んだ?」


「昨夜、全部」


「どう思ったの?」


 栞は少しの間、日記の表紙を見つめていた。


「泣いてた。自分でもわからないままに。海斗さんのことを思って泣いているのか、灯子さんのことを思ってなのか……。それとも、自分のことを重ねてなのか」


「自分のこと?」


「湊さんが、今夜で行ってしまうから」


 栞は顔を上げた。その目が、少し濡れていた。


「灯子さんが海斗さんを見送った日と、私が湊さんを見送る日が、同じ感触に思えて」


 湊は何も言えなかった。


「灯子さんは、どんな顔で見送ったんだろう、って思ったら……突然、見えた気がしたの」


「何が?」


「灯台の麓。夜が明ける前の暗い岩場。風が強くて、海の音がして。二人がいて……」


 栞の声が、少し小さくなった。


「袖を掴んでいる手。離したくなくて、でも離さなきゃいけなくて。白くなるほど力を込めた指の感触が……なんか、自分の手のことみたいで」


 栞はゆっくりと自分の手を見た。


「夢だったのか、想像だったのか、わからない。でも……灯子さんが見送った時のことが、リアルに感じられて」




5:ループの連鎖


 夕方になる前に、二人は自然に旧灯台へ向かっていた。


 灯子が最後に立っていた場所へ。


 坂道を上がりながら、湊は話した。今朝、庄介から聞いたこと。恵が灯子の未練を受け取ってしまったこと。8月15日というループの始まりと、灯子の願いが一致すること。


 栞は黙って聞いていた。


 やがて栞が言った。


「湊さんはループの原因が、灯子さんだと思っているの?」


「原因というより……」


 湊は言葉を選んだ。


「この土地に、灯子さんの願いが染み込んでいて。それが、僕の中の何かと共鳴しているんじゃないかと思って」


「湊さんの中の、何かと?」


「失いたくない、という気持ちと」


 栞は歩きながら、少し俯いた。


「私も、同じ」


「栞……」


「灯子さんと同じことを、ずっと思っていた。夏が終わらないでほしいって。湊さんが行ってしまうのが、怖かった」


 二人の足音だけが、坂道に続いた。


「でも……」


 栞は続けた。


「灯子さんの日記は、8月29日で終わっていた。その後が、書かれていなかった」


「うん」


「その後を、ずっと考えていたの。昨夜から」


「どんな続きだと思う?」


 栞は空を見上げた。夕暮れが近づいて、空の端が赤く滲んでいた。


「灯子さんは、その後も生きたと思う。8月が終わって、秋が来て、冬が来て。海斗さんが帰らないまま、それでも待ち続けた。願い続けながら、生き続けた。そういう人だったと思う、あの日記を書いた人は」


 旧灯台が、見えてきた。




6:栞のデジャヴ


 内部の薄暗い螺旋階段を、二人で上った。


 手すりの錆の匂い。足音が石の壁に響く。狭い階段を湊が先に、栞が後に続く。


 階段の途中で、栞が立ち止まった。


 湊も止まった。振り返ると、栞が手すりを握ったまま、目を閉じていた。


「栞?」


「……ここ」


 栞は目を開けずに言った。


「この感じ、知ってる」


「この階段を?」


「違う。もっと外の……岩場の感触。波の音。風が強くて、髪が顔に張り付いて」


 栞の指が、手すりをゆっくりと握り直した。


「海斗さんが、行こうとしていた。私は……灯子は、袖を掴んでいた。離したくなくて。でも指が、ほどかれていって」


 栞の声が、わずかに震えた。


「行かないで、って言いたかった。でも言えなかった。彼には行かなければならない理由があって、私には……止める権利が、なかったから」


「栞……」


 栞は目を開けた。その目が、少し遠くを見ていた。


「灯子さんは、あのとき何を思っていたんだろう。行かせてあげることが、正しいと思っていたのかな。それとも、ただ……手を離すしかなかっただけなのかな」


 湊は答えられなかった。


「私は……どっちだろう」


 栞は静かに言った。




7:送り出す言葉


 扉を押し開けると、夕暮れの海が広がった。


 空の半分が赤く燃えていた。水平線に太陽が沈もうとしていて、海がその色を受けて揺れていた。遠くに常葉の町が見える。新しい灯台が、小さく光っている。


 栞は手すりに両手をついて、その景色を見た。


 しばらく、二人とも何も言わなかった。


 風が強く、栞の髪が顔にかかった。栞はそれを直さないまま、海を見ていた。


「灯子さんも、ここから見たのかな」


「そうかもしれない」


「同じ海で、同じ灯台で。でも、海斗さんはもういない」


 太陽が、水平線に触れた。


「湊さん」


「うん」


「今夜、消えるんだよね。この夏が」


「……うん」


「何時に?」


「深夜0時だと思う」


 栞は水平線を見たまま、小さく頷いた。


「あと何時間」


「六時間くらい」


「……そう」


 波の音が続いた。太陽がゆっくりと沈んでいく。


「私、覚えていないんだよね。リセットされたら」


「そうだね」


「この場所に来たことも。手を繋いだことも。好きって言ったことも」


「……だね」


「湊さんは、覚えているんだよね。全部」


「多分」


 栞は手すりから手を離した。湊の方を向いた。


 夕日の赤い光の中で、栞の目が濡れていた。泣いているのか、風のせいなのか、わからなかった。


「重いよね、それは」


「うん」


「ずっと一人で覚えていたら、怖くなかったの」


 湊は少し考えた。


「怖かったよ。でも……君に会いに来る理由でもあったから」


 栞は湊を見た。長い間、見ていた。


 やがて、栞が言った。


「灯子さんはね、行かせてあげたかったんだと思う。止めたかったけど、同時に行かせてあげたかった。海斗さんに、ちゃんと前に進んで欲しかったから」


「……そうだね」


「でも、手を離した後で、後悔したと思う。言えばよかった、もっと引き止めればよかった、って」


 栞は続けた。


「それが、夏が終わらないでほしいっていう願いになったんじゃないかな。もう一度だけ、あの時に戻れたら、今度こそちゃんと言えるのに、って」


 太陽が、水平線の向こうへ消えた。


 空が、深い赤から藍色へと変わり始めた。


「私は……」


 栞は静かに言った。


「灯子さんと同じ後悔はしたくない」


「栞……」


「あなたが消えた後で、言えばよかったって思いたくない」


 栞が一歩、湊に近づいた。


「だから、今言うね」


 湊は動けなかった。


「行っていいよ、湊さん。ちゃんと前に進んで」


 その言葉が、夕暮れの風の中に溶けた。


 灯子が言えなかった言葉。恵が手放せなかった感情。八十年分の未練が、この頂上で、栞の口から静かに放たれた。


「でも、また戻ってきて。絶対に。ループじゃなくて、ちゃんと会いにきて」


 湊の目が、熱くなった。


「……来るよ」


「約束だよ?」


「約束するから」


 湊は栞の手を取った。栞は握り返した。


 二人で、消えていく夕日の残光を見た。


 空が藍色に変わっていく。星が、一つずつ現れ始めていた。


 手を繋いだまま、しばらく何も言わなかった。


 言葉は、もう十分だった。


 この夜はまだ、終わらない。(つづく)

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