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八月のリフレイン  作者: あじ


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第6話:絵の中に映る僕

1:庄介の言葉


 昼食の後、庄介は縁側に腰をかけていた。


 湊が「潮騒に行ってくる」と声をかけて出かけようとしたとき、庄介が口を開いた。珍しいことだった。


「……湊」


「うん」


 庄介は座ったまま、海の方を向いていた。


「好きなら、言え」


 湊は動きを止めた。


「言わんと後悔する。俺みたいにな」


 それだけだった。庄介はそれ以上何も言わずに、背中を向けている。


 湊はしばらく縁側の前に立っていた。


 俺みたいに、という言葉が、頭の中で繰り返された。


 亡き祖母に言えなかった言葉が、庄介の中にまだあるのかもしれない。


「……うん」


 湊は短く答えて、玄関を出た。




2:スケッチブック


 午後の潮騒は、いつもより静かだった。


 マスターが配達に出ていて、カウンターには栞が一人で立っていた。客は湊以外に老夫婦が一組いるだけで、店内には低くジャズが流れていた。


「いらっしゃいませ」


「こんにちは」


 湊がいつもの席に座ると、栞がコーヒーを淹れ始めた。その動作の傍ら、カウンターの端にスケッチブックが置かれているのが見えた。今日は表紙が開きかけていて、一枚目のページが少しだけ見えていた。


 コーヒーが差し出される。


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


 栞はカウンターを拭き始めた。湊はコーヒーを一口飲んで、それからスケッチブックに目をやった。


「今日、描いてきたんですか」


「朝、少しだけ」


「どこを描いたんですか」


 栞は手を止めた。少し考えるような間があった。


「防波堤です。早朝に行ってみたくて」


「そうですか」


 老夫婦が会計を済ませて出ていった。店内に、二人だけになった。


 栞はしばらく黙って拭き続けていた。それから、カウンターにスケッチブックをそっと置いた。湊の方へ、向けて。


「……見ますか」


 湊は栞の顔を見た。


「いいんですか」


「はい」


 栞の声は静かだったが、迷いはなかった。




3:絵の中の後ろ姿


 湊はゆっくりとページをめくった。


 最初の数枚は、見慣れた常葉の風景だった。港、商店街、岬への坂道。どれも鉛筆の線が細かく、光の方向が丁寧に描き込まれていた。


 ページを進めると、防波堤の絵が現れた。


 早朝の光の中で、海が広がっている。遠くに灯台が小さく見える。そして防波堤の手前に、一人の人物の後ろ姿が描かれていた。


 湊は手を止めた。


 その後ろ姿は、見覚えのある輪郭をしていた。肩の幅、シャツの裾、少し猫背気味の立ち方。


「……栞さん」


「はい」


「これ、誰ですか」


 栞はカウンターを拭く手を止めずに答えた。


「さぁ、誰でしょう」


 声が、わずかに明るかった。


 湊はもう一度、その後ろ姿を見た。描かれた人物は海を見ていて、顔は見えない。でも湊には、それが誰なのかわかった。わかった上で、なぜ描いたのかもわかった。


「……ありがとうございます」


「お礼を言うことじゃないですよ」


 栞はそう言って、またカウンターを拭き始めた。耳が少し赤かった。




4:マスターの機転


 夕方近く、マスターが配達から戻ってきた。


「よう。まだいたのか、羽月くん」


「すみません、長居してしまって」


「いいんだよ、別に」


 マスターはエプロンを直しながら、栞に向かって言った。


「栞、今日はもう上がっていいぞ。後は俺がやる」


「でも、まだ仕込みが」


「いいから。たまには早く上がれ」


 栞はマスターを見て、それから湊を見た。マスターは何食わぬ顔でコーヒーメーカーの掃除を始めた。


「……じゃあ、お言葉に甘えて」


 栞がエプロンを外しながら湊に言った。


「もし良かったら、防波堤まで一緒に歩きませんか。今日の絵を描いた場所を、見てほしくて」




5:残された時間


 夕方の防波堤には、人が少なかった。


 遠くの方から子どもの声が聞こえ、釣り人が一人、端の方に座っていた。海は夕暮れの光を受けて、橙色と金色が混ざったような色をしていた。


 二人で並んで、栞が朝描いた場所の前に立った。


「ここです」


「朝はどんな感じでしたか」


「雲が少し残っていて、灯台がぼんやり見えて」


 栞は海を見ながら言った。


「誰もいなくて、静かで。ここで描いていると、自分だけが世界にとり残されたみたいな感じがして」


「一人で、怖くなかったですか」


「なんか……怖くなかったんですよね。むしろ、落ち着いて」


 二人はしばらく、並んで海を見ていた。


 やがて栞が静かに聞いた。


「羽月さん、常葉を出るのって、あと何日ですか」


 湊の胸が、静かに締まった。


「……あと、少しです」


「何日まで居るんですか」


「8月の終わり……29日まで」


 栞はそれ以上聞かなかった。ただ海を見たまま、少し間を置いた。


「……そうですか」


 波の音が続いた。夕暮れの光が、二人の影を長く伸ばしていた。


「……寂しいですね」


 栞が、ぽつりと言った。


「まだそんなに長く知り合ってないのに、寂しいって思うのは、変ですよね」


「……変じゃないですよ」


 栞は小さな笑みを浮かべて、湊を見つめた。


「会うたびに、もっと知りたいって思うんです。話すたびに、もっと話したいって思う。それって、どういうことなんだろうって」


 前を向いて、栞は続けた。


「……でも私、気付いたんです」


 湊は栞の横顔を見た。


 栞は海を見たまま、言葉を探すように少し黙った。


「私、羽月さんのことが——」




6:告白


「好きです」


 湊が先に言った。


 栞が振り返った。


 湊は栞の目を見て、もう一度言った。


「好きです。ずっと言えなかったけど。言う資格があるのかわからなかったけど」


 声が少し震えていた。


「君がどこかを見ている時も、何かを話している時も、描いている時も。全部、本物でした。何度繰り返しても、変わらなかった」


 栞は黙って湊を見ていた。


 波の音が、静かに続いていた。


「何度、って」


 栞が湊の本心を探るように、静かに言った。


「また、ループの話ですか」


「そうです」


「……信じていいんですか、そういう話」


「信じなくていいです」


 湊は、きっぱりと言った。


「ただ、好きだということだけは、本当のことです」


 栞はしばらく湊を見ていた。困ったような、でも何かを決心したような顔だった。


 それから、小さく息をついた。


「……私も」


 湊は息を呑んだ。


「私も、好きです」


 栞の声は静かで、でも迷いがなかった。


「変な人だって思ってた。夢で名前を知ってるとか、ループしてるとか。でも」


 栞は視線を海に向けて、また湊に戻した。


「ずっと、怖かったんです。あなたのことが好きだって、認めるのが」


「……どうして」


「あなたは、8月の終わりに去るから」


 湊は答えられなかった。


「でも、好きだって思う気持ちに、嘘をつくのも違う気がして」


 波が来て、返した。


「だから言います。好きです、羽月湊さん」


 湊は栞の名前を呼ぼうとして、言葉より先に、手が動いた。


 栞の手に、自分の手を重ねた。栞は驚いたように見たが、離さなかった。


 二人は並んで、夕暮れの海を見た。


 手を繋いだまま、しばらく何も言わなかった。


 それで十分だった。




7:二人の距離


 日が沈んで、空の端が藍色に変わっても、二人はまだ防波堤にいた。


 波の音と、遠くから漂ってくる町の気配だけがある。街灯が点いて、防波堤の石畳が薄く光っていた。


「ねぇ」


 栞が口を開いた。


「何?」


「もう恋人同士なら、敬語やめませんか?」


 湊は少し驚いた。栞が自分から距離を詰めてくることなんて、今までなかったことだ。


「……わかった。ありがとう、栞さん」


「栞、でいいよ。私も、湊さんって呼ぶから」


 そう言って微笑む栞の横顔は、自然体の彼女らしいものだった。


「それで……ループが終わったら、どうなるの?」


 栞の問いに対し、湊は少し考えた。


「わからない。常葉を出て、留学に行くと思う。それだけだよ」


「また常葉に来る?」


「ちゃんと来るよ。絶対に」


 栞は少しの間黙っていた。それから、繋いでいた手を少し強く握った。


「じゃあ、待ってる」


「……栞」


 湊は胸が締め付けられた。


「でも、ループが終わったら、栞はこの夏のことを覚えてないかも。この会話も、今夜のことも……」


「わかってる」


「それでも、いいの?」


 栞はしばらく黙った。波が来て、返すのを繰り返す。


「忘れても、消えるわけじゃないって、湊さんが言ったんだよ」


 湊は言葉を失った。


「だから、私が覚えていなくても……」


 栞は続けた。


「湊さんが覚えていてくれるなら、それでいいかなって。……なんか、おかしいよね」


「おかしくない」


「……ほんとに?」


「ほんとに。……ありがとう、栞」


 栞が小さく笑った。夜の防波堤で、二人の笑い声が短く溶けた。




8:別離の予感


 分かれ道の前で、栞が立ち止まった。


 いつもの別れの場所だ。湊は何度、ここで栞の背中を見送ったか。


「また明日」と栞が言った。


「また明日」と湊は返した。


 栞が歩き始めて、それから数歩のところで振り返った。


「湊さん」


「ん?」


「今日、来てよかった」


 それだけ言って、栞は歩いていった。角を曲がって、見えなくなった。


 湊は立ったまま、暗い路地を見ていた。


 あと二日。


 二日後の深夜0時に、この夏は消える。栞は忘れる。この夜も、この手の温もりも、「好きです」という言葉も、全部。


 湊は強く拳を握りしめたまま、じっとそこに立ち尽くしていた。




9:言えなかった言葉


 家に戻ると、庄介が縁側にいた。


 いつものように、暗い海を見ている。湊が隣に座ると、庄介は海を見たまま言った。


「言えたか」


「……うん」


「そうか」


 それだけだった。庄介はそれ以上聞かなかった。


 湊は膝を抱えて、海を見た。


「おじいちゃん」


「何だ」


「おばあちゃんに言えなかった言葉って、どんな言葉だったの」


 長い沈黙があった。


「……あいつに、好きだ、って」


 庄介はやがて、海を見たまま言った。


「生きているうちに、もう一度言えばよかった」


 湊は何も言えなかった。


 庄介の横顔が、今夜は少し違って見えた。寡黙な漁師の顔の奥に、長い時間をかけて積み上がった後悔と、それと同じだけの愛情が、静かに灯っているような気がした。


「……今日、言えてよかった」


 湊は小さく言った。


「そうか」


 庄介は短く返した。それから、少しだけ頷いた。


 二人で並んで、暗い海を見た。


 波の音だけが、静かに繰り返していた。


 湊の五度目の夏は、残り二日になった。(つづく)

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