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八月のリフレイン  作者: あじ


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第5話:忘れても、消えるわけじゃない。

1:墓参り


 庄介が珍しく先に声をかけてきたのは、朝食を終えた直後だった。


「今日、ちょっと付き合え」


 それだけ言って、庄介は草履を履いた。湊は驚きながらも後を追った。


 向かったのは、町はずれの小さな墓地だった。常葉の海が見える丘の斜面に、古い石碑が並んでいる。庄介は迷うことなく一つの墓の前で立ち止まり、持ってきた線香に火をつけた。


 墓石には「凪原」と刻まれていた。


「……栞さんのお父さん?」


「ああ」


庄介は線香を立てながら、低く言った。


「昔、漁仲間だった。いい男だったよ」


 湊は黙って隣に立った。


「あの子が高校を出る頃に逝った。残された家族は……まぁ、本人から聞きなさい」


 それ以上は語らなかった。ただ、庄介がここへ湊を連れてきた理由は、言葉にしなくてもわかった。知っておきなさい、ということだ。


 二人でしばらく、海の見える丘に立っていた。


 風が来て、線香の煙がゆっくりと流れた。




2:潮騒の静けさ


 午後の潮騒は、客が少なかった。


 窓ガラスに細かい潮の粒が光り、店内にはコーヒーの残り香と掃除の匂いが混ざっている。マスターはカウンターの奥で新聞を折り畳んでいた。栞はまだ来ていない。


「よう、羽月くん。今日は早いな」


「少し早めに来てみました」


「コーヒーでいいか」


「はい、お願いします」


 湊はいつものカウンター席に座った。マスターがコーヒーを淹れる音が、静かな店内に低く響く。


 カップが差し出される。湊は一口飲んだ。


 マスターは新聞を脇に置いて、ゆっくりと言った。


「この間のこと、どうだった。旧灯台」


「行けました。景色が良かったです。栞さんも、少しだけ笑ってくれて」


「そうか」


 マスターは目元に笑みを浮かべた。


「あの子が人前で笑うのは、珍しいんだよ」


「……そうなんですか」


「うん」


「でも、栞さん、スケッチブックを持って行ったのに、描かなかったみたいで……」


 マスターはカウンターを拭きながら続けた。


「栞の絵、昔は本当に上手かったんだ。人物も、風景も。見た人が黙っちゃうような絵を描く子でね」


 湊は顔を上げた。


「お母さんに反対されてから、人に見せなくなってしまったけどね」


 マスターの声は変わらず穏やかだったが、言葉の奥に何かが滲んでいた。


「描くことはやめてないんだよ。ただ、外に出す勇気が持てなくなっただけで」


 それが湊への、マスターなりのメッセージだとわかった。


「……最初に見せる相手が、大事ですよね」


 湊が言うと、マスターは少し驚いたような顔をして、それからまた笑った。


「そういうことだよ、羽月くん」




3:スケッチブック


 栞が少し遅れて店に来た。


 配達の袋を下ろし、息を整えながらカウンターに入ってくる。その手にスケッチブックがあった。表紙の角が擦れて、長く使い込まれた様子が見えた。


「お待たせしました。今日は港で少しだけ描いてきました」


「お疲れ様」


 栞はエプロンを結び直しながら、スケッチブックをカウンターの端に置いた。湊の視線が自然とそこへ向かう。スケッチブックの端に、古い写真が挟まっているのが見えた。


 湊はしばらく迷ってから、口を開いた。


「そのスケッチブック……見せてもらってもいいですか」


 栞の手が止まった。一瞬の沈黙。


 それから、小さく頷いた。


「……いいですよ。でも、ページは乱暴に扱わないでください」


 湊はゆっくりとページをめくった。港の風景、岬のスケッチ、商店街の軒先。鉛筆の線は迷いがなく、光の当たり方への観察が細かかった。描く人間が、本当に「見ている」ことがわかる絵だった。


 ページを進めると、一枚の写真が挟まれていた。


 若い女性と、小さな子ども。二人が手を繋いで、どこかの海辺に立っている。写真の裏には日付と地名が書かれていたが、インクが滲んで読みづらかった。


 湊の指先が、写真の端で止まった。


「それは」


 栞の声が、静かに割り込んだ。


「……昔の写真です。母と私です」


 湊は顔を上げた。栞は目を伏せていた。店内の空気が、一瞬止まった。




4:断片の回想


 栞がスケッチブックをそっと引き取りながら、ゆっくりと話し始めた。


「母は元々、絵が好きだったんです」


 声は静かで、感情を抑えているような落ち着きがあった。


「私が描くようになったのも、母の影響で。描いていると、少しだけ世界が広がる気がして」


「……絵を描くのを、お母さんに反対されたんですか」


「反対、というか」


 栞は少し考えてから続けた。


「母は私に『自分に才能があると思うなら、外へ行きなさい』と言ったんです。でも私は、常葉に残った」


「どうして」


「家の事情もありました。父が倒れて、家計を支えなきゃいけなくなって」


 栞はカウンターに視線を落とした。


「でも、それだけじゃなくて。外へ出ることが、怖かったんだと思います。何かを失うのが」


 湊は黙って聞いていた。


「描くことはやめなかった。描くことで、自分を保っていたから」


 栞はスケッチブックの表紙を指でそっと撫でた。


「でも人に見せることは、できなくなってしまって」


「……さっき、見せてくれましたよね」


 栞は少し驚いたような顔をした。それから、困ったように微笑んだ。


「そうですね。なんでだろう」




5:マスターの含み


 マスターが、カウンター越しに静かに話を切り出したのは、そのときだった。


「昔な、常葉には絵描きが集まる時期があってな」


 栞が顔を向けた。


「灯台の周りに、小さなアトリエがいくつかあったんだよ。栞のお母さんも、その一人だったらしい」


「……そんなこと、初めて知りました」


「そうだろうね。町の人間は、昔のことを全部は覚えてない」


 マスターはゆっくりと続けた。


「でも、匂いみたいに残ることがある」


 マスターが湊の方を向いた。


「羽月くん、君がここにいると、そういう匂いが少しずつ蘇るんだよ」


 湊は胸が締め付けられた。この町に自分が何かを残しているのかもしれないという感覚が、ほんの少しだけ温かかった。それと同時に、外から来た者である自分の居心地の悪さを再認識する。


 マスターはそれ以上何も言わず、エプロンを外しながら言った。


「今日は早めに閉めるよ。二人でゆっくりしてきなさい」


「え、でも」


 マスターは帽子を被りながら、さりげなく言った。


「栞、羽月くんは本気だぞ」


 それだけ言って、マスターは店の奥へ引っ込んだ。


 店内に、静寂が戻った。


 栞は少し赤くなった耳を隠すように、前を向いたまま言った。


「……灯台、行きますか」




6:夕暮れの灯台


 町のシンボルである白い灯台の近くに、二人は並んで腰を下ろした。


 夕方の光が海に反射して、水面が温かく光っている。遠くで船のエンジン音がして、それからまた静かになった。


 栞が話し始めた。


「父が倒れたのは、私が高校三年の夏でした」


 声に震えはなかった。ただ、確かな重みがあった。


「最初は一時的なものだと思っていたんです。でも、そうじゃなかった。高校を卒業する頃には、もう……」


 栞は言葉を区切った。


「私はここに残ることにした。マスターが声をかけてくれて、潮騒で働くようになって。美術の道は、そのとき諦めたんだと思っていたんですけど」


「思っていた、というのは」


「今は……」


 栞は少し考えてから言った。


「諦めた、というより、選ばなかった、という感じがしていて」


「選ばなかったのと、諦めたのは違いますか」


「……違うと思いたい。でも、自信はないです」


 波の音が続いていた。湊は前を向いたまま、胸の中で言葉を組み立てていた。


 栞が自ら過去を打ち明けてくれた。誰にも見せないというスケッチブックを、湊には見せてくれた。それなのに、自分は彼女に嘘をついている。


 言うべきだ。今がその時だ。君に嘘をつき続けることは、もうできない。


「……栞さん」


「はい」


「僕は……ずっと君に言いたかったことが……」


 栞は黙って湊を見つめている。


「実は僕……何度も同じ夏を繰り返しているんです」


 栞は一瞬固まったが、すぐに普段の穏やかな顔に戻った。


「……それ、前にも似たようなこと聞きましたね」


 栞が静かに呟いた。


「それだけじゃないんです。もうこれが5度目の繰り返しで、何度も君に会いに潮騒に来てる。それに8月の終わりには……」


「羽月さん」


 湊が捲し立てるように話し始めると、栞はふっと息を吸って先に言った。


「あなたのことは、いい人だって信じてます。でも……」


 栞は視線を海に戻した。


「全部わかろうとするのが、今は怖くて。ごめんなさい」


 その声は驚くほど穏やかだったが、確かな境界を示していた。


 栞は小さく首を振り、目を伏せる。


「……私にも、心の準備があるんです。急に全部を求められると、驚いてしまうだけで」


 少しの沈黙のあと、栞が口を開いた。


「でも、あなたがここにいるのは嬉しいです」


 湊は言葉を飲み込んだ。


 栞の言葉は優しかったが、だからこそ湊にとっては残酷な壁だった。




7:衝突


 沈黙が続いた。


 湊は自分の中で何かが決壊する感覚があった。言わなければ、という焦りと、言えない、という絶望が、同時に押し寄せてきた。


「栞さん」


 声が、少し荒れていた。自分でも気づいていたが、止められなかった。


「僕は……ただ前に進みたいだけなんだ。記憶を持ったまま、同じ日々を生きている。だから、栞さんのことを知っている。君のことを、何度も見てきた」


 栞は動かないまま、静かに言った。


「……でも、どうして今なんですか?」


「言わなきゃいけない気がして。これ以上、君に嘘をつくのが辛いんだ」


 栞は湊の目をじっと見つめた。怒りでもなく、驚きでもなく、ただ深い何かがそこにあった。


「嘘をつくのも、つかれる方も、どっちだって辛いです」


 静かな声だった。


「だけど、あなたが何を背負っているかは、私には分からない。私が覚えていないことを、あなたが覚えているというのは……私にとっては、不思議で、怖いことです」


 湊は言葉を失った。


 栞の言葉が、胸の奥に深く刺さった。怖い。そうだ。自分がしていることは、栞にとって怖いことなのかもしれない。


 それでも、湊は感情を抑えられなかった。


「君は僕のことを信じてくれると言った。でも、僕が何を言っても『怖い』で止まるなら……僕はどうすればいいんですか」


 風が来た。二人の間に、冷たい空気が流れた。




8:夕立と雨宿り


 最初の一滴が頬に当たったのは、そのときだった。


 空を見上げると、いつの間にか雲が厚くなっていた。次の瞬間、雨が落ちてきた。


「走りましょう」


 栞が先に立ち上がった。二人で灯台の軒下へ駆け込む。雨はすぐに強くなり、アスファルトを叩く音が大きくなった。


 軒下は狭く、二人が並ぶと肩が触れるくらいの幅しかなかった。


 二人はしばらくの間、黙って雨を見ていた。先ほどの言葉が、まだ空気の中に残っているようだった。


 やがて栞が、ぽつりと言った。


「羽月さんって、8月の終わりに常葉を出るんですか」


「はい」


「……寂しいですね」


 湊は栞の横顔を見た。栞は前を向いたままだった。


「栞さんは、寂しくないですか。この町にいて」


「慣れました」


 栞は答えた後、少し間を置いて呟いた。


「……たまに、なんでここにいるんだろうって思うことは、あります」


「もし美術の夢、選んでいたら、今どうなっていたと思いますか」


 栞はしばらく黙っていた。


「……わかりません。でも」


 栞は視線を雨に向けたまま言った。


「ここで描き続けたことは、無駄じゃなかったと思いたい。誰にも見せなくても、自分の中には残っているから」


 忘れても、消えるわけじゃない。


 栞が旧灯台への道で言った言葉が、また湊の胸に蘇った。


「……栞さん」


 湊は静かに言った。


「全てを信じてくれとは言えない。でも、これだけは伝えたいことがある」


 栞が湊の方を向いた。


「君と過ごす時間は、僕にとって本物だ。君が笑ったり、怒ったり、描いたりする姿は、僕の中で確かに残っている。それは……何があっても消えないと思う」


 栞は湊の言葉を聞いていた。目が少し潤んだが、すぐに静かな表情に戻った。


「……私も」


栞は雨の方を向き直した。


「羽月さんといる時間は、不思議な感じで。初めて会ったはずなのに、懐かしい気持ちになる。私には、あなたが背負っているものの全ては分からないけれど……」


 少し間があった。


「今はここにいるあなたを、見ていたい」


 湊は小さく息を飲んだ。


 言おうとした言葉が、喉の手前で止まった。好きだ、という言葉が。


 でも今は、言えなかった。この気持ちを言葉にしてしまったら、次のループでそれが消えることに、もう耐えられない気がした。


 代わりに、湊は静かに言った。


「忘れても、消えるわけじゃない。僕はそれを信じたい」


 栞は少し驚いたように湊を見た。自分がかつて言った言葉だと、気づいただろうか。


「……私も」


 栞はゆっくりと言った。


「信じてみます。少しずつでいいから」


 雨の音が続いていた。


 二人の手が、ほんの少しだけ近くなった。触れるか触れないかの距離で、でもどちらも動かなかった。それで十分だった。




9:いつか帰る道


 雨が上がった頃、二人は灯台から歩いて帰路に着いた。


 分かれ道の手前で、栞が立ち止まった。


「また明日、来てもらえますか」


「来ます」


「……また明日」


「また明日」


 栞が歩いていく。その背中が、角を曲がって見えなくなった。


 湊にとって何度目の「また明日」か、栞は知らない。


 湊は立ったまま、しばらくそこにいた。


 やがて縁側に戻ると、庄介がいつものように海を見ていた。


 湊は隣に座った。庄介は海を見たまま、短く聞いた。


「話せたか」


「……うん」


 少しの沈黙があった。


「おじいちゃん」


「何だ」


「おばあちゃんのことを思って、毎朝岬に行くんだよね」


 庄介は答えなかった。ただ、波の音の中で、少しだけ頷いたような気がした。


「おじいちゃんの気持ち、少しだけわかった気がする」


 庄介はそれ以上何も言わなかった。


 二人で並んで、暗い海を見た。


 湊にとって五度目の夏の、終わりが近づいていた。(つづく)

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