第4話:おぼろげな記憶
1:潮騒のマスター
午後の光が、岬の坂道を白く照らしていた。
湊は喫茶「潮騒」の扉を開けた。真鍮のベルが鳴る。いつもと同じ音のはずなのに、今日は少し違う響きに聞こえた。
カウンターに立っているのは、マスターだけだった。
五十代前後だろうか。がっしりとした体格に、白いシャツと黒いエプロン姿。
元柔道部という話は栞から聞いていたが、いつも目元に浮かぶ柔らかい笑みが、その印象をぼかしている。飄々としていて、どこか掴みどころがない。
「よう、羽月くん。今日は栞がちょっと遅れてるよ。配達の荷物、港まで取りに行ってるんだ」
「そうですか。少し待たせてもらってもいいですか」
「もちろん。座ってて」
マスターはすでにコーヒーを淹れ始めていた。豆を挽く音が、静かな店内に低く響く。客は湊以外に誰もいない。
湊がカウンター席に腰掛けると、マスターがコーヒーを差し出しながら、ぽつりと言った。
「……なんだか、前にどこかで会ったような気がするんだがなぁ、羽月くん」
湊はカップを両手で包みながら顔を上げた。
「初めてお会いしたのは先週ですよね」
「そうなんだけどね」
マスターは首を傾げるような仕草をしながら、笑みを崩さない。
「霧の中で見た夢みたいな、そんな感じかな。はっきりとは覚えてないんだけど」
湊はコーヒーを一口飲んだ。マスターのデジャヴは、栞のそれより薄い。もやのような、輪郭のはっきりしない感覚。それでも確かに、何かが滲み出ている。
マスターはカウンターを拭きながら、カウンターの端に置かれた文庫本に目をやった。『アルジャーノンに花束を』——栞の本だ。
「あの本、栞が最近読み返してるんだよ。ダニエル・キイスの」
「どんな話なんですか」
「賢くなった男の人が、また元に戻っていく話だよ。切ない話でね」
マスターは少し遠くを見るような目をした。
「あの子、昔はもっとスケッチブック抱えて町の外に出たがってたんだけどね。最近は一人で静かに過ごしてることが多いみたいだ」
言葉の端々に静かな含みがあった。この人は栞の過去をよく知っている、と湊は直感した。
「栞さんはここで働いてもう長いんですか」
「高校を出てすぐだから、もう三年ぐらいになるかな」
マスターはゆっくりと答えた。
「町のみんなからも人気でね。ウチの看板娘みたいなもんだよ」
マスターは店内を一度見渡してから、湊に向き直り、小声で言った。
「ま、今日は客も少ないし」
ニヤっとした笑いが、目元に浮かんだ。
「栞が戻ってきたら、旧灯台にでも連れてってやってくれよ。あそこ、景色がいいんだ。栞も昔から気にしてたみたいだし」
何気ない世間話のような口調だった。でも湊には、それが意図的な後押しであることが分かった。
「……ありがとうございます」
「何がだい」
マスターはとぼけた顔でコーヒーカップを受け取り、また拭き始めた。
2:栞の帰還
しばらくして、真鍮のベルが鳴った。
栞が配達から戻ってきた。私服にエプロンを羽織った姿で、少し息を弾ませている。ドアを開けた瞬間、湊を見て表情がわずかに変わった。
「ただいま……。あ、羽月さん」
「お疲れ様です」
栞はエプロンの紐を結び直しながら、カウンターの内側へ入った。マスターがすかさず言う。
「ちょうどいい。羽月くんが旧灯台に行きたいって言ってるぞ。栞、今日はスケッチブック持ってただろ? 一緒に行ってみたらどうだ」
栞は一瞬、戸惑いの色を顔に浮かべた。湊の方を見て、それからマスターを見た。
「……でも、仕事が」
「今日この後、予約も何もないよ。俺一人で大丈夫だから」
「マスター……」
「景色がいいぞ、あそこは」
マスターは飄々とした笑顔のまま、それだけ言った。
栞はしばらく迷うような顔をしていた。それから、小さくため息をついた。
「……少しだけなら、いいです」
マスターは満足げに頷き、それ以上は何も言わなかった。ただ、いつもの小さな笑みを浮かべていた。
3:旧灯台への道
午後の陽が少しずつ傾き始めた頃、二人は町外れの細い坂道を歩いていた。
栞はショルダーバッグにスケッチブックを入れていて、湊よりやや半歩後ろを歩いている。会話のない時間が続いたが、重くはなかった。波の音と、風に揺れる草の音だけが、二人の間にあった。
やがて栞が、静かに口を開いた。
「昨日は……ちょっと怖かったんです。高校の話のこと」
「……すみません」
「謝らなくていいです。ただ……」
栞は前を向いたまま続けた。
「マスターが促してくれたから、今日は大丈夫かなって思って」
「マスター、ああ見えてよく気がつく人ですよね」
「そうなんです」
栞は少し苦笑いした。
「いつも肝心なことは何も言わないのに、なぜか後からちゃんと背中を押されてる感じがして」
坂道の傾斜が緩やかになり、舗装が途切れた。草が生い茂る細い道が、旧灯台の方へ続いている。潮の匂いが、風に乗って強くなった。
湊は自然な口調で聞いた。
「カウンターに置いてあった文庫本、『アルジャーノンに花束を』ですよね。どんな話なんですか」
栞は少し考えてから答えた。
「知的障害のある男の人が、手術で天才になるんです。でも……やがてまた、元に戻っていく。恋人とも最後は別れることになって……」
「……切ないですね」
「うん」
栞は頷いた。
「でもね」
少し間があった。
「賢くなった間に出会った人との時間は、本物だったと思うんです。忘れても、消えるわけじゃないから」
その言葉が、湊の胸に深く刺さった。
忘れても、消えるわけじゃない——。
湊は前を向いたまま、その響きを胸の奥にしまった。
4:螺旋階段
旧灯台は思ったより大きく、静かに佇んでいた。
廃されてから何年も経つのだろう。白い塗装は所々が剥がれ、足元の石畳には苔が生えている。それでも構造自体はしっかりしていて、入口の扉は開いた。
「本当に入れるんですね」
栞が少し驚いたように言った。
「鍵がかかってなかったので」
「町の人は知ってるのかな、ここ」
「近くの人しか来ない場所なんじゃないですか」
内部は薄暗く、細い螺旋階段が上へ向かっている。手すりは古びた鉄製で、触れると少し錆の匂いがした。二人で並んで上がるには少し狭く、湊が先に、栞が後に続いた。
階段を上りながら、栞がふと手すりを握る手を止めた。
「この階段……なんかつい最近、何度も上ったことがあるような気がするんですよね。初めての場所なのに」
湊は足を止めずに答えた。
「気のせいじゃないですか」
「そうかな」
栞は少し不思議そうに自分の手を見つめ、またゆっくり上り始めた。
「でも、不思議と怖くないんですよね。なんでだろう」
螺旋はゆっくりと回り続け、二人の足音だけが薄暗い空間に響いていた。
5:頂上
扉を押し開けると、強い風が吹き抜けた。
常葉の町が眼下に広がり、港、商店街、白く輝く灯台、そしてその向こうに、太平洋が広がっている。夕暮れ前の光が水面に散って、遠くまで金色に照らされていた。
「すごい……」
栞が小さく息を飲んだ。その声には、飾り気のない純粋な驚きがあった。
栞はしばらく景色を眺めてから、バッグからスケッチブックを取り出した。何かを描こうとして、でも鉛筆を持ったまま止まっていた。ただ、風景をじっと見つめている。
湊は少し離れたところで、同じ景色を見ていた。ここから見る常葉は、地上から見るのと全く違う。自分がこの町の外側から来た人間だということが、改めて実感できた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
やがて栞が、海を見たまま静かに言った。
「羽月さん、嘘をつくのが下手ですよね」
湊の胸が、強く鳴った。
「……そうですか」
「うん」
栞は振り返らなかった。
「高校の話のこと。兄貴がいるって言ったとき、顔が一瞬変わったから」
湊は何も言えなかった。
栞がゆっくりと振り向いた。
「でも……悪い嘘じゃないと思うから」
風が栞の黒髪を揺らした。
「もう少し待ちます。ちゃんと話せるようになるまで」
その言葉の重さを、湊はゆっくりと受け取った。
待ってくれている。それが嬉しいのと同時に、罪悪感と胸の奥を締め付ける痛みが同時に押し寄せてきた。
この言葉を、次のループで栞は忘れてしまう。それでも今、彼女は「待つ」と言ってくれた。
「……ありがとうございます」
「お礼を言うことじゃないですよ」
栞は小さく微笑んだ。
「私が知りたいだけだから」
二人は再び、黙って景色を見つめた。風が強く吹き、遠くの波の音が届いていた。
6:分かれ道
螺旋階段を下りる途中、栞が前を歩きながらぽつりと言った。
「来てよかった」
「そうですか」
「うん。……また来たいかも」
その言葉は自然だった。昨日までの小さな棘が、少しだけ溶けたように聞こえた。
「また来ましょう」
旧灯台を出ると、夕暮れの日差しが二人の影を長く地面に伸ばしていた。坂道を下りながら、互いの足音と、時折交わす短い言葉だけがあった。
分かれ道の手前で、栞が立ち止まった。
「羽月さん」
「はい」
「マスターが言ってたんですけど……」
栞は少し言いにくそうに続けた。
「羽月さんのこと、前にどこかで会ったような気がするって」
湊は静かに頷いた。
「不思議でしょ。私も同じこと思ってたから」
栞は湊の顔をまっすぐ見た。
「……羽月さんって、ここに来る前から、常葉に来たことあったんですか」
湊は一瞬迷い、それから正直に答えた。
「いえ。初めてです」
それは本当のことだった。少なくとも、この人生では。
栞は「そっか」と短く言い、微笑んだ。
「じゃあ、また」
二人の影は、夕日の中でゆっくりと別れた。
7:記憶の回廊
家に戻ると、庄介はいつものように縁側に座っていた。
足元に草履を揃えて、暗い海を見ている。湊が隣に腰を下ろすと、庄介は海を見たまま小さく頷いた。
しばらく二人で黙って波の音を聞いた。
湊はマスターの言葉を思い出していた。
「前にどこかで会ったような気がする」
栞だけじゃない。マスターにも、薄いデジャヴが起きている。この夏を繰り返すうちに湊の存在が少しずつ、常葉の人々の記憶の端に滲み始めているのかもしれない。
それは何を意味するのか。ループの条件と関係があるのか。まだわからない。
すると、庄介がぽつりと言った。
「……いい顔してるな、今日は」
「そうかな」
「ああ」
それだけだった。でも湊には、その短い言葉がとても温かいものに感じられた。
波が来て、返して、また来る。
この夏は、まだ終わらない。(つづく)




