第3話:終わらない物語
1:曇天
雨だった。
朝から灰色の空が常葉の町を覆い、港の方から低い霧が流れてきていた。屋根を叩く雨音が、祖父の家の二階だと余計に響く。
昼過ぎに階下へ下りると、庄介が縁側の雨戸の戸締りを確認しながら言った。
「今日は海も荒れるな。家で居てもつまらんだろ。店でゆっくりしてこい」
「……うん」
傘を差して外に出ると、潮の匂いがいつもより濃かった。雨の日の常葉は、少し違う町に見える。観光客の姿が消えて、住んでいる人間だけが残ったような、静かな佇まいになる。
湊は傘を傾けながら、岬へ続く坂道を上がった。
今日は少し積極的にいこう、と心の中で決めていた。
2:ホットミルク
喫茶「潮騒」の扉を開けると、真鍮のベルが鳴った。
雨の日のせいか、客は湊以外に一人もいなかった。カウンターの奥で栞がグラスを磨いていて、扉の音に顔を上げた。
「いらっしゃいませ、羽月さん」
「こんにちは」
湊は濡れた傘を傘立てに立て、いつものカウンター席に座った。栞はすでにエプロンを直しながら、注文を待つ姿勢をとっている。
「今日は雨だし……ホットミルクが飲みたくなるんですよね。蜂蜜を少し多めで、お願いします」
栞の手が、一瞬止まった。
「……蜂蜜、多めですか」
「ええ、なんとなく。そんな気分で」
栞は小さく頷いて、ミルクを温め始めた。でも、視線がわずかに湊の顔に留まるのを、湊は気づいていた。小さな違和感が彼女の胸をよぎったのが、表情の端にうっすら見えた。
前回のループで、雨の日に栞がホットミルクを蜂蜜多めで飲んでいたのを、湊はちゃんと覚えていた。
温かいカップが差し出される。湊はゆっくりと一口飲んだ。甘くて、少し重くて、雨の日に合う味だった。
3:音のある風景
店内のスピーカーから、静かな音楽が流れていた。
シンディ・ローパーの「Time After Time」が雨音に溶けていく中、やがて曲が変わった。リマールの「Never Ending Story」。
栞はカウンターの奥でグラスを拭きながら、無意識のうちに小さくメロディを口ずさんでいた。気づいていないような、ごく自然な仕草だった。
「Never Ending Storyですね」
湊が声をかけると、栞は少し驚いたように振り向いた。
「え……よく分かりましたね。この曲、なんとなく頭から離れなくて」
「僕も80年代の洋楽は結構好きで。あの頃のバラードって、なんか心に残る感じがして。特にこういう、どこか切ないメロディの曲がいいですよね」
「わかります。なんか、時間が止まったみたいな感じがするんですよね」
栞はグラスを棚に戻しながら、少し柔らかい顔になった。音楽の話をするとき、彼女はいつもこういう顔をする。湊はそれを知っていた。
「映画も昔観たんですけど、なんか永遠に続いていく感じがいいですよね」
湊は柔らかい笑みを浮かべ語りかけた。
「私もあの物語の雰囲気、好きなんです」
栞が少しだけ声を弾ませ、続ける。
「終わらない物語、って響きが特に。普通なら終わらないことって怖いはずなのに、あの曲で聴くと、なぜか安心する気がして」
栞はしばらく考えるように視線を落として、それから小さく微笑んだ。
「羽月さんって、意外と詩人なんですね」
その言葉に、湊も少し笑った。店内はまだ雨音に包まれていて、BGMが静かに流れていた。
4:失言
話が弾んで、湊は少し調子に乗っていた。
「栞さんって、昔から音楽が好きだったんですか」
「そうですね。子どもの頃から結構聴いてて」
「ですよね。なんか、高校生の頃に絵を描くときのBGMにこういう洋楽を流してたとか……」
瞬間、栞の表情がぴたりと固まった。
グラスを磨く手が、ゆっくりと止まる。
「……高校の頃の話、してないはずですけど」
声は静かだったが、トーンが明らかに変わっていた。栞はカウンター越しに湊をじっと見つめ、目を細めた。
「羽月さん、私の高校の話……どこで聞いたんですか。もしかして、常葉に知り合いでもいるんですか」
湊の背中に、冷たい汗が伝った。
「あ、いや……違うんです。僕の兄貴が洋楽好きで、いつも音楽を流しながら絵を描いてたから、栞さんもそうかなーって……。勝手に想像してました。ただの想像です」
嘘だ。僕は一人っ子で、兄貴なんかいない。
この言い訳、明らかにまずい。
「ほんとにただの想像ですか? それとも、この間言っていたことと何か関係が?」
栞がさらに問い詰める。花火の夜に湊が打ち明けた、記憶のリセットとの関連を疑っているのだろう。
「いえ……思いつきですから」
湊が答えると、栞はしばらく無言で湊の顔を観察するように見つめた。
「……そうですか」
短く答えた後、小さくため息をついて、独り言のように呟いた。
「念のため、高校の友達に電話してみようかな……。変な人が私のこと聞きに来てなかったか、確認した方がいいかも」
「え、ちょっと待ってください! 本当にただの想像ですから! 変な人とかじゃないですって!」
声が少し大きくなって、必死さが丸出しになってしまった。
栞はそんな湊を見て、ジトっと眉を寄せたまま、でもどこか面白がるような目をした。
店内のBGMが、気まずくなった空気の中で静かに流れ続けていた。
5:雨上がり
雨が小降りになった頃、西日が店内に差し込み始めた。
オレンジ色の光が、カウンターの木目を柔らかく照らしている。先ほどまでの気まずい空気が、少しだけ薄らいでいた。
栞はカウンターをゆっくり拭きながら、静かに言った。
「正直、ちょっと怖いんです」
湊は顔を上げた。
「でも……羽月さんと話していると、初めて会った気がしないんです。変ですよね」
その言葉が、胸の奥を静かに締め付けた。
変じゃない、と湊は思った。それはループの残像だから。でも、言えない。
湊はしばらく迷ってから、まっすぐ栞を見た。
「すみません。怖がらせてしまって」
「……いえ」
「でも、本当に僕はただ……栞さんと話すのが楽しくて」
言葉を選びながら、慎重に続けた。
「栞さんが嫌じゃなければ、また会いに来てもいいですか」
真剣な眼差しだった。誤魔化す気持ちは、もうなかった。
栞はしばらく湊を見ていた。困ったような、でも何かを確かめるような目だった。
やがて、小さく息をついた。
「……また来てくださいね」
それだけだった。でも、それで十分だった。
警戒と引力が同時に存在する、不思議な空気。湊はホットミルクの残りを飲み干した。甘さが、喉の奥にゆっくり広がった。
「ごちそうさまでした」
「お気をつけて」
扉を開けると、雨上がりの風が入ってきた。湊は傘を手に取りながら、一度だけ振り返った。栞はもうグラスを磨き始めていた。でも、その横顔は、来たときより少しだけ柔らかかった気がした。
雨上がりの常葉の町は、いつもより少しだけくっきりして見えた。
6:夜の縁側
家に戻ると、縁側に庄介が座っていた。
いつものように、暗い海の方向を見ている。足元に古い草履が揃えて置かれていた。
「ただいま」
「ああ」
湊は縁側に上がりかけて、庄介が顔をこちらに向けたのに気づいた。珍しかった。
「……どうだった」
短い問いだった。湊は少し驚いて、それから縁側に腰を下ろした。
「楽しかったよ」
「そうか」
庄介はまた海に目を戻した。波の音が、低く繰り返している。しばらくの沈黙があった。
やがて庄介が、ぽつりと言った。
「心配するな」
湊は顔を上げた。
「明日が来れば、良くなる。時間が解決してくれる」
自分の心を見透かしたような言葉だった。庄介は海を見たままで、こちらを向いてはいない。でもその言葉は、確かに湊に向けられていた。
「……ありがとう、おじいちゃん」
庄介は返事をしなかった。ただ、少しだけ頷いたような気がした。
二人はしばらく、並んで海を見ていた。波が来て、返して、また来る。その繰り返しが、今夜は少し違う意味を持つように感じた。
7:眠れない夜
その夜、ベッドの中で湊は考え込んだ。
天井を見つめたまま、今日のことを何度も辿った。ホットミルク。失言。栞の固まった表情。「怖いんです」という言葉。そして「また来てくださいね」という、それでも差し伸べられた言葉。
知識を使って近づいているのに、栞はそれでも許そうとしてくれている。
でもこのまま続けていたら、いつか本当の意味で傷つけるんじゃないか。
頭の中で、「Never Ending Story」のメロディが静かに繰り返されていた。終わらない物語。永遠に続いていく感じがいい、と昼間自分で言った言葉が、今は少し違う意味で響いていた。
終わらない物語——それが今の自分自身のように思えた。
壁のカレンダーに目をやった。あと十日あまり。
窓の外では、雨上がりの空に灯台の白い光が静かに灯っていた。
栞の瞳に宿った「小さな影」と「それでも残る微笑み」が、胸に重く残ったまま、湊の五度目の夏の夜は、静かに更けていった。(つづく)




