表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
八月のリフレイン  作者: あじ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/6

第3話:終わらない物語

1:曇天


 雨だった。


 朝から灰色の空が常葉の町を覆い、港の方から低い霧が流れてきていた。屋根を叩く雨音が、祖父の家の二階だと余計に響く。


 昼過ぎに階下へ下りると、庄介が縁側の雨戸の戸締りを確認しながら言った。


「今日は海も荒れるな。家で居てもつまらんだろ。店でゆっくりしてこい」


「……うん」


 傘を差して外に出ると、潮の匂いがいつもより濃かった。雨の日の常葉は、少し違う町に見える。観光客の姿が消えて、住んでいる人間だけが残ったような、静かな佇まいになる。


 湊は傘を傾けながら、岬へ続く坂道を上がった。


 今日は少し積極的にいこう、と心の中で決めていた。



2:ホットミルク


 喫茶「潮騒」の扉を開けると、真鍮のベルが鳴った。


 雨の日のせいか、客は湊以外に一人もいなかった。カウンターの奥で栞がグラスを磨いていて、扉の音に顔を上げた。


「いらっしゃいませ、羽月さん」


「こんにちは」


 湊は濡れた傘を傘立てに立て、いつものカウンター席に座った。栞はすでにエプロンを直しながら、注文を待つ姿勢をとっている。


「今日は雨だし……ホットミルクが飲みたくなるんですよね。蜂蜜を少し多めで、お願いします」


 栞の手が、一瞬止まった。


「……蜂蜜、多めですか」


「ええ、なんとなく。そんな気分で」


 栞は小さく頷いて、ミルクを温め始めた。でも、視線がわずかに湊の顔に留まるのを、湊は気づいていた。小さな違和感が彼女の胸をよぎったのが、表情の端にうっすら見えた。


 前回のループで、雨の日に栞がホットミルクを蜂蜜多めで飲んでいたのを、湊はちゃんと覚えていた。


 温かいカップが差し出される。湊はゆっくりと一口飲んだ。甘くて、少し重くて、雨の日に合う味だった。



3:音のある風景


 店内のスピーカーから、静かな音楽が流れていた。


 シンディ・ローパーの「Time After Time」が雨音に溶けていく中、やがて曲が変わった。リマールの「Never Ending Story」。


 栞はカウンターの奥でグラスを拭きながら、無意識のうちに小さくメロディを口ずさんでいた。気づいていないような、ごく自然な仕草だった。


「Never Ending Storyですね」


 湊が声をかけると、栞は少し驚いたように振り向いた。


「え……よく分かりましたね。この曲、なんとなく頭から離れなくて」


「僕も80年代の洋楽は結構好きで。あの頃のバラードって、なんか心に残る感じがして。特にこういう、どこか切ないメロディの曲がいいですよね」


「わかります。なんか、時間が止まったみたいな感じがするんですよね」


 栞はグラスを棚に戻しながら、少し柔らかい顔になった。音楽の話をするとき、彼女はいつもこういう顔をする。湊はそれを知っていた。


「映画も昔観たんですけど、なんか永遠に続いていく感じがいいですよね」


 湊は柔らかい笑みを浮かべ語りかけた。


「私もあの物語の雰囲気、好きなんです」


 栞が少しだけ声を弾ませ、続ける。


「終わらない物語、って響きが特に。普通なら終わらないことって怖いはずなのに、あの曲で聴くと、なぜか安心する気がして」


 栞はしばらく考えるように視線を落として、それから小さく微笑んだ。


「羽月さんって、意外と詩人なんですね」


 その言葉に、湊も少し笑った。店内はまだ雨音に包まれていて、BGMが静かに流れていた。



4:失言


 話が弾んで、湊は少し調子に乗っていた。


「栞さんって、昔から音楽が好きだったんですか」


「そうですね。子どもの頃から結構聴いてて」


「ですよね。なんか、高校生の頃に絵を描くときのBGMにこういう洋楽を流してたとか……」


 瞬間、栞の表情がぴたりと固まった。


 グラスを磨く手が、ゆっくりと止まる。


「……高校の頃の話、してないはずですけど」


 声は静かだったが、トーンが明らかに変わっていた。栞はカウンター越しに湊をじっと見つめ、目を細めた。


「羽月さん、私の高校の話……どこで聞いたんですか。もしかして、常葉に知り合いでもいるんですか」


 湊の背中に、冷たい汗が伝った。


「あ、いや……違うんです。僕の兄貴が洋楽好きで、いつも音楽を流しながら絵を描いてたから、栞さんもそうかなーって……。勝手に想像してました。ただの想像です」


 嘘だ。僕は一人っ子で、兄貴なんかいない。


 この言い訳、明らかにまずい。


「ほんとにただの想像ですか? それとも、この間言っていたことと何か関係が?」


 栞がさらに問い詰める。花火の夜に湊が打ち明けた、記憶のリセットとの関連を疑っているのだろう。


「いえ……思いつきですから」


 湊が答えると、栞はしばらく無言で湊の顔を観察するように見つめた。


「……そうですか」


 短く答えた後、小さくため息をついて、独り言のように呟いた。


「念のため、高校の友達に電話してみようかな……。変な人が私のこと聞きに来てなかったか、確認した方がいいかも」


「え、ちょっと待ってください! 本当にただの想像ですから! 変な人とかじゃないですって!」


 声が少し大きくなって、必死さが丸出しになってしまった。


 栞はそんな湊を見て、ジトっと眉を寄せたまま、でもどこか面白がるような目をした。


 店内のBGMが、気まずくなった空気の中で静かに流れ続けていた。



5:雨上がり


 雨が小降りになった頃、西日が店内に差し込み始めた。


 オレンジ色の光が、カウンターの木目を柔らかく照らしている。先ほどまでの気まずい空気が、少しだけ薄らいでいた。


 栞はカウンターをゆっくり拭きながら、静かに言った。


「正直、ちょっと怖いんです」


 湊は顔を上げた。


「でも……羽月さんと話していると、初めて会った気がしないんです。変ですよね」


 その言葉が、胸の奥を静かに締め付けた。


 変じゃない、と湊は思った。それはループの残像だから。でも、言えない。


 湊はしばらく迷ってから、まっすぐ栞を見た。


「すみません。怖がらせてしまって」


「……いえ」


「でも、本当に僕はただ……栞さんと話すのが楽しくて」


 言葉を選びながら、慎重に続けた。


「栞さんが嫌じゃなければ、また会いに来てもいいですか」


 真剣な眼差しだった。誤魔化す気持ちは、もうなかった。


 栞はしばらく湊を見ていた。困ったような、でも何かを確かめるような目だった。


 やがて、小さく息をついた。


「……また来てくださいね」


 それだけだった。でも、それで十分だった。


 警戒と引力が同時に存在する、不思議な空気。湊はホットミルクの残りを飲み干した。甘さが、喉の奥にゆっくり広がった。


「ごちそうさまでした」


「お気をつけて」


 扉を開けると、雨上がりの風が入ってきた。湊は傘を手に取りながら、一度だけ振り返った。栞はもうグラスを磨き始めていた。でも、その横顔は、来たときより少しだけ柔らかかった気がした。


 雨上がりの常葉の町は、いつもより少しだけくっきりして見えた。



6:夜の縁側


 家に戻ると、縁側に庄介が座っていた。


 いつものように、暗い海の方向を見ている。足元に古い草履が揃えて置かれていた。


「ただいま」


「ああ」


 湊は縁側に上がりかけて、庄介が顔をこちらに向けたのに気づいた。珍しかった。


「……どうだった」


 短い問いだった。湊は少し驚いて、それから縁側に腰を下ろした。


「楽しかったよ」


「そうか」


 庄介はまた海に目を戻した。波の音が、低く繰り返している。しばらくの沈黙があった。


 やがて庄介が、ぽつりと言った。


「心配するな」


 湊は顔を上げた。


「明日が来れば、良くなる。時間が解決してくれる」


 自分の心を見透かしたような言葉だった。庄介は海を見たままで、こちらを向いてはいない。でもその言葉は、確かに湊に向けられていた。


「……ありがとう、おじいちゃん」


 庄介は返事をしなかった。ただ、少しだけ頷いたような気がした。


 二人はしばらく、並んで海を見ていた。波が来て、返して、また来る。その繰り返しが、今夜は少し違う意味を持つように感じた。



7:眠れない夜


 その夜、ベッドの中で湊は考え込んだ。


 天井を見つめたまま、今日のことを何度も辿った。ホットミルク。失言。栞の固まった表情。「怖いんです」という言葉。そして「また来てくださいね」という、それでも差し伸べられた言葉。


 知識を使って近づいているのに、栞はそれでも許そうとしてくれている。


 でもこのまま続けていたら、いつか本当の意味で傷つけるんじゃないか。


 頭の中で、「Never Ending Story」のメロディが静かに繰り返されていた。終わらない物語。永遠に続いていく感じがいい、と昼間自分で言った言葉が、今は少し違う意味で響いていた。


 終わらない物語——それが今の自分自身のように思えた。


 壁のカレンダーに目をやった。あと十日あまり。


 窓の外では、雨上がりの空に灯台の白い光が静かに灯っていた。


 栞の瞳に宿った「小さな影」と「それでも残る微笑み」が、胸に重く残ったまま、湊の五度目の夏の夜は、静かに更けていった。(つづく)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ