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八月のリフレイン  作者: あじ


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2/9

第2話:君が笑った夜

1:祖父との会話


 午後6時半。


 羽月湊は鏡の前で、シャツの袖を捲った。しばらく鏡の中の自分を見つめて、また戻した。こっちの方が清楚な感じが出る気がして、結局そのままにした。


 階段を下りると、台所で湊の祖父・庄介が夕飯の片付けをしていた。流し台に背を向けて、無言でフライパンを拭いている。


「ちょっと出てくるよ」


「……ああ」


 それだけだった。振り返りもしない。湊は靴を履きながら、少し迷って口を開いた。


「遅くなるかも」


「ああ」


 同じ返事だった。庄介はフライパンを棚に戻し、次の皿を手に取った。会話をする気がないわけではなく、これが彼の普通だということを、湊はこの夏で学んでいた。


 玄関を出ると、潮の匂いがした。夕暮れの空は、まだ西の端がオレンジ色に燃えていた。


 岬へ続く坂道に向かおうとしたところで、後ろから声がした。


「……湊」


 振り返ると、庄介が玄関口に立っていた。腕を組んで、こちらを見ている。


「潮騒の娘か」


 湊は立ち止まった。


「……知ってるの?」


「あの子はよく、灯台に行く」


 それだけ言って、庄介は中へ引っ込んだ。引き戸が静かに閉まった。


 湊はしばらく、閉まった引き戸の方を見ていた。


 凪原栞が、灯台に行く。世間話にしては、妙に重い言い方だった。何かを知っている人間の言い方だった。


 坂道を上がりながら、湊は考えた。栞が灯台へ向かうのは、何かを抱えているからだと、四回のループで知っていた。


 でも祖父がそれを知っていることは、今夜初めて気づいた。


 五度目のループは、まだ知らないことだらけだ。



2:防波堤での再会


 午後7時ちょうど。


 防波堤の入口に、栞はすでに来ていた。


 喫茶店の制服ではなく、薄いブルーのワンピース姿だった。髪は下ろしていて、潮風に少し揺れている。


 湊が近づくと、栞は時計を見て「ちょうどですね」と言った。


「待ちましたか」


「5分くらい」


「……すみません」


「謝らなくていいです。私が早く来ただけなので」


 栞は前を向いたまま、防波堤を歩き始めた。湊はその隣に並んだ。夕暮れの海は穏やかで、遠くの水平線がまだ橙色に滲んでいた。


「喫茶店のときと、雰囲気が違いますね」


 湊が言うと、栞は少し眉を上げた。


「……どういう意味ですか」


「いや、私服が似合ってるなと」


「お世辞はいいです」


「本当のことなんで」


「……もういいです」


 短い沈黙の後、栞が小さく前を向いたまま言った。


「……ありがとうございます」


 声が、わずかに小さかった。褒められると困ってしまう、いつもの栞だと湊は思った。


 しばらく二人で歩いた。波の音と、遠くの町から流れてくる祭囃子の残響だけがあった。


 やがて栞が、少し早足のまま口を開いた。


「さっきから思ってたんですけど」


「はい」


「羽月さん、なんで私のことそんなに知ってるんですか。コーヒーの話もそうだし、花火の場所もそうだし」


「……夢で」


「それ、本当に全部夢なんですか」


 湊は答えられなかった。足が、自然に止まった。


 栞も気づいて、立ち止まった。海を背にして、湊を見た。


「信じるかどうかは、私が決めます。だから、話してもらえますか」


 その目が、真剣だった。


 湊は少し考えた後、息を吸った。


「……実は」



3:波打ち際の告白


 防波堤の端の石段に、二人は並んで腰を下ろした。打ち上げまで、まだ少し時間がある。


 湊は話した。ただし、全部は話さなかった。「8月29日になると、自分以外の記憶がリセットされる」という事実だけを。


 何度繰り返しているか、なぜ毎回ここへ来るのか——その核心は、まだ胸の中にしまったままにした。


 話しながら、湊は自分の声が少し震えていることに気づいた。目は俯いたまま、握りしめた手の辺りをぼんやり見ていた。誰かに話したのは、これが初めてだった。


 栞は途中で口を挟まなかった。ただ静かに、膝の上で指を軽く組んだまま、波の白い飛沫を見つめていた。


「……信じられないですよね、こんな話」


 湊が言うと、栞はしばらく黙っていた。


「……はい」とやがて言った。


「信じられないです」


「ですよね」


「……でも」


 栞は湊の方を向いた。


「嘘を言ってるようには見えなくて」


 湊は栞の目を見た。疑ってはいる。でも、切り捨ててもいない。その中間の、不思議な目だった。


「なんで私のことを、そんなに調べてきたんですか」


「調べたわけじゃなくて」


湊は少し言葉を選んだ。


「話すうちに、わかったんです。少しずつ」


「……話したことを、私は覚えていない」


「そうです」


 栞はまた前を向いた。波が防波堤に当たって、白く散った。


「それは……」


栞は静かに言った。


「孤独ですね」


 湊は答えなかった。答えられなかった。その一言が、胸の奥の、ずっと触れないようにしていた場所に、静かに触れた気がした。



4:打ち上げ花火


 夜空に最初の一発が上がった。


 白い光が広がって、遅れてドンという低い音が腹の辺りに響いた。火薬の匂いが潮風に混じる。栞が少し顔を上げた。


 その表情は、湊の知らない表情だった。柔らかくて、少し遠くを見るような目。花火の光が、栞の瞳の中で煌めいている。


「好きなんですか、花火」


「ええ。昔は毎年来てたんです」


栞は空を見上げたまま言った。


「ここ数年、忙しくて来られなくて」


「何年ぶりですか」


「……3年ぶりくらい」


「それは……久しぶりですね」


「はい」


 しばらく二人で、空を見上げていた。花火が続くたびに、海面に光の残像が揺れた。栞はときどき、色の変わる光を目で追っていた。


 大きな一発が上がって、夜空が一瞬、昼間のように明るくなった。


「きれい……」


 栞がぽつりと言った。湊に向けて言っているというより、独り言のような声だった。


「……本当に」


 湊は空を見ながら答えた。でも視線は一瞬、栞の横顔に向かっていた。



5:打ち明け話


 花火が続くなか、空がまだ明るく染まっているうちに、栞が口を開いた。


「美術の勉強がしたかったんです。昔は」


 唐突な告白だった。湊は黙って続きを待った。


「東京の大学を受けようとしてたんですけど」


栞は膝の上で手を組んだ。


「母親に反対されて。『あなたにそんな才能はない』って……。気づいたら、常葉に残ってました」


「それは、つらいですね……」


「……別に、後悔してるわけじゃないんです。でも」


栞は少し間を置いた。


「時々、夢に出てくるんですよね。高校生の頃の自分が。スケッチブック持って、どこかへ行こうとしてる夢」


「どこへ?」


「わからないです。いつも、そこで目が覚めるので」


 花火の光が、栞の横顔を一瞬照らした。


「……こんな話してる場合じゃないですよね、私」


「いや」と湊は言った。


「続きを聞かせてください」


 栞が少し驚いたように振り返る。


「なんで」


「君の話が聞きたいから」


「……それって」


「下心はないです」


「信用できないですよ、夢で名前を知ってた人の言うことは」


 その夜、君は初めて僕の前で笑った。


 小さくクスクスとした声で。声に出して笑うというよりは、こらえきれなかったような、小さな笑いだった。


 湊も、つられて少し笑った。


 その笑い声は短くて、すぐに波の音に溶けた。でも湊には、その小さな笑い声が、今夜一番の大切なものに思えた。


 湊は微笑みながら、胸の奥に静かな痛みを感じていた。この会話は、次のループでは消える。栞はこの笑い声も、夢の話も、覚えていない。


 それでも今夜は本物だ、と思った。


「……この町」


栞が、また空を見上げながら言った。


「好きなんです。出たかったけど、好きで」


「……矛盾してますね」


「そうですね」


栞は静かに答えた。


「でも、そういうものじゃないですか。たいていのことは」


 湊は答えなかった。ただ、その言葉を胸の中にしまった。



6:別れ際


 花火が終わり、祭囃子も遠ざかった頃、二人は防波堤を戻り始めた。


 岬を下りて、商店街を抜けて、しばらく並んで歩いた。どちらも特に何かを話すわけではなかったが、沈黙が重くはなかった。潮の匂いが、二人を包むように薄れていった。


 路地の分かれ道の前で、栞が立ち止まった。


「私、こっちなので」


「あ、はい」


「羽月さんは?」


「逆です。こっち」


「そうですか」


 少しの沈黙があった。


「また、行ってもいいですか。潮騒に」


「……お客さんは誰でも歓迎です」


「そういう意味じゃなくて」


「……分かってます」


 栞は前を向いたまま、一拍置いた。


「来てください」


 それだけ言って、栞は分かれ道の向こうへ歩き始めた。


 湊はその背中を見送りながら、カレンダーの8月28日に、心の中で印をつけた。


 あと十二日。


 十二日後の深夜0時に、この夏は消える。



7:縁側にて


 家に戻ると、縁側に庄介が一人で座っていた。


 酒も煙草も持たず、暗い海の方向をただ見ていた。足元に、古い草履が揃えて置かれている。


 この姿を、湊は何度か見たことがあった。夜に一人で縁側にいる祖父を。でもこれまで声をかけたことはなかった。


「ただいま」


「ああ」


 湊は縁側に上がり、庄介の隣に腰を下ろした。少し距離を置いて。庄介は海を見たまま動かなかった。


「楽しかったか」


「……うん」


「そうか」


 波の音だけが、しばらく続いた。


「おじいちゃん」


「何だ」


「潮騒の栞さんのこと、知ってたの。前から」


 庄介はしばらく黙っていた。それから、ゆっくりと口を開いた。


「父親の見舞いに、よく来とったからな。病院で何度か」


「そっか」


「いい子だ」


庄介は短く言った。


「……ちゃんと残った」


 湊はその言葉の意味を、すぐには解せなかった。「ちゃんと残った」という言葉が、誰か別の人のことを意識しているように聞こえた。


「おじいちゃんは」


湊は少し迷ってから言った。


「今でもおばあちゃんのこと、思い出す?」


 庄介の肩が、ほんの少し動いた。


 長い沈黙だった。波が来て、返して、また来た。


「……毎朝」


庄介はやがて、海を見たまま言った。


「船を海に出す前に、岬に寄る」


「……そこに、おばあちゃんがいるの?」


「好きな場所だった。海が見えるからって」


 それ以上は、何も言わなかった。でも湊には、その短い言葉の奥に、長い時間の重みがある気がした。何年分もの、毎朝の積み重ねが。


 湊は縁側に座ったまま、祖父と並んで暗い海を見た。波の音だけが、静かに何度も繰り返していた。


 ループする、という感覚が、湊には少しだけわかる気がした。戻れない時間と場所に、それでも繰り返し向かうということが。


 庄介はまだ、海を見ていた。


 8月16日の夜が、潮の匂いの中で、静かに更けていった。(つづく)

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