第2話:君が笑った夜
1:祖父との会話
午後6時半。
羽月湊は鏡の前で、シャツの袖を捲った。しばらく鏡の中の自分を見つめて、また戻した。こっちの方が清楚な感じが出る気がして、結局そのままにした。
階段を下りると、台所で湊の祖父・庄介が夕飯の片付けをしていた。流し台に背を向けて、無言でフライパンを拭いている。
「ちょっと出てくるよ」
「……ああ」
それだけだった。振り返りもしない。湊は靴を履きながら、少し迷って口を開いた。
「遅くなるかも」
「ああ」
同じ返事だった。庄介はフライパンを棚に戻し、次の皿を手に取った。会話をする気がないわけではなく、これが彼の普通だということを、湊はこの夏で学んでいた。
玄関を出ると、潮の匂いがした。夕暮れの空は、まだ西の端がオレンジ色に燃えていた。
岬へ続く坂道に向かおうとしたところで、後ろから声がした。
「……湊」
振り返ると、庄介が玄関口に立っていた。腕を組んで、こちらを見ている。
「潮騒の娘か」
湊は立ち止まった。
「……知ってるの?」
「あの子はよく、灯台に行く」
それだけ言って、庄介は中へ引っ込んだ。引き戸が静かに閉まった。
湊はしばらく、閉まった引き戸の方を見ていた。
凪原栞が、灯台に行く。世間話にしては、妙に重い言い方だった。何かを知っている人間の言い方だった。
坂道を上がりながら、湊は考えた。栞が灯台へ向かうのは、何かを抱えているからだと、四回のループで知っていた。
でも祖父がそれを知っていることは、今夜初めて気づいた。
五度目のループは、まだ知らないことだらけだ。
2:防波堤での再会
午後7時ちょうど。
防波堤の入口に、栞はすでに来ていた。
喫茶店の制服ではなく、薄いブルーのワンピース姿だった。髪は下ろしていて、潮風に少し揺れている。
湊が近づくと、栞は時計を見て「ちょうどですね」と言った。
「待ちましたか」
「5分くらい」
「……すみません」
「謝らなくていいです。私が早く来ただけなので」
栞は前を向いたまま、防波堤を歩き始めた。湊はその隣に並んだ。夕暮れの海は穏やかで、遠くの水平線がまだ橙色に滲んでいた。
「喫茶店のときと、雰囲気が違いますね」
湊が言うと、栞は少し眉を上げた。
「……どういう意味ですか」
「いや、私服が似合ってるなと」
「お世辞はいいです」
「本当のことなんで」
「……もういいです」
短い沈黙の後、栞が小さく前を向いたまま言った。
「……ありがとうございます」
声が、わずかに小さかった。褒められると困ってしまう、いつもの栞だと湊は思った。
しばらく二人で歩いた。波の音と、遠くの町から流れてくる祭囃子の残響だけがあった。
やがて栞が、少し早足のまま口を開いた。
「さっきから思ってたんですけど」
「はい」
「羽月さん、なんで私のことそんなに知ってるんですか。コーヒーの話もそうだし、花火の場所もそうだし」
「……夢で」
「それ、本当に全部夢なんですか」
湊は答えられなかった。足が、自然に止まった。
栞も気づいて、立ち止まった。海を背にして、湊を見た。
「信じるかどうかは、私が決めます。だから、話してもらえますか」
その目が、真剣だった。
湊は少し考えた後、息を吸った。
「……実は」
3:波打ち際の告白
防波堤の端の石段に、二人は並んで腰を下ろした。打ち上げまで、まだ少し時間がある。
湊は話した。ただし、全部は話さなかった。「8月29日になると、自分以外の記憶がリセットされる」という事実だけを。
何度繰り返しているか、なぜ毎回ここへ来るのか——その核心は、まだ胸の中にしまったままにした。
話しながら、湊は自分の声が少し震えていることに気づいた。目は俯いたまま、握りしめた手の辺りをぼんやり見ていた。誰かに話したのは、これが初めてだった。
栞は途中で口を挟まなかった。ただ静かに、膝の上で指を軽く組んだまま、波の白い飛沫を見つめていた。
「……信じられないですよね、こんな話」
湊が言うと、栞はしばらく黙っていた。
「……はい」とやがて言った。
「信じられないです」
「ですよね」
「……でも」
栞は湊の方を向いた。
「嘘を言ってるようには見えなくて」
湊は栞の目を見た。疑ってはいる。でも、切り捨ててもいない。その中間の、不思議な目だった。
「なんで私のことを、そんなに調べてきたんですか」
「調べたわけじゃなくて」
湊は少し言葉を選んだ。
「話すうちに、わかったんです。少しずつ」
「……話したことを、私は覚えていない」
「そうです」
栞はまた前を向いた。波が防波堤に当たって、白く散った。
「それは……」
栞は静かに言った。
「孤独ですね」
湊は答えなかった。答えられなかった。その一言が、胸の奥の、ずっと触れないようにしていた場所に、静かに触れた気がした。
4:打ち上げ花火
夜空に最初の一発が上がった。
白い光が広がって、遅れてドンという低い音が腹の辺りに響いた。火薬の匂いが潮風に混じる。栞が少し顔を上げた。
その表情は、湊の知らない表情だった。柔らかくて、少し遠くを見るような目。花火の光が、栞の瞳の中で煌めいている。
「好きなんですか、花火」
「ええ。昔は毎年来てたんです」
栞は空を見上げたまま言った。
「ここ数年、忙しくて来られなくて」
「何年ぶりですか」
「……3年ぶりくらい」
「それは……久しぶりですね」
「はい」
しばらく二人で、空を見上げていた。花火が続くたびに、海面に光の残像が揺れた。栞はときどき、色の変わる光を目で追っていた。
大きな一発が上がって、夜空が一瞬、昼間のように明るくなった。
「きれい……」
栞がぽつりと言った。湊に向けて言っているというより、独り言のような声だった。
「……本当に」
湊は空を見ながら答えた。でも視線は一瞬、栞の横顔に向かっていた。
5:打ち明け話
花火が続くなか、空がまだ明るく染まっているうちに、栞が口を開いた。
「美術の勉強がしたかったんです。昔は」
唐突な告白だった。湊は黙って続きを待った。
「東京の大学を受けようとしてたんですけど」
栞は膝の上で手を組んだ。
「母親に反対されて。『あなたにそんな才能はない』って……。気づいたら、常葉に残ってました」
「それは、つらいですね……」
「……別に、後悔してるわけじゃないんです。でも」
栞は少し間を置いた。
「時々、夢に出てくるんですよね。高校生の頃の自分が。スケッチブック持って、どこかへ行こうとしてる夢」
「どこへ?」
「わからないです。いつも、そこで目が覚めるので」
花火の光が、栞の横顔を一瞬照らした。
「……こんな話してる場合じゃないですよね、私」
「いや」と湊は言った。
「続きを聞かせてください」
栞が少し驚いたように振り返る。
「なんで」
「君の話が聞きたいから」
「……それって」
「下心はないです」
「信用できないですよ、夢で名前を知ってた人の言うことは」
その夜、君は初めて僕の前で笑った。
小さくクスクスとした声で。声に出して笑うというよりは、こらえきれなかったような、小さな笑いだった。
湊も、つられて少し笑った。
その笑い声は短くて、すぐに波の音に溶けた。でも湊には、その小さな笑い声が、今夜一番の大切なものに思えた。
湊は微笑みながら、胸の奥に静かな痛みを感じていた。この会話は、次のループでは消える。栞はこの笑い声も、夢の話も、覚えていない。
それでも今夜は本物だ、と思った。
「……この町」
栞が、また空を見上げながら言った。
「好きなんです。出たかったけど、好きで」
「……矛盾してますね」
「そうですね」
栞は静かに答えた。
「でも、そういうものじゃないですか。たいていのことは」
湊は答えなかった。ただ、その言葉を胸の中にしまった。
6:別れ際
花火が終わり、祭囃子も遠ざかった頃、二人は防波堤を戻り始めた。
岬を下りて、商店街を抜けて、しばらく並んで歩いた。どちらも特に何かを話すわけではなかったが、沈黙が重くはなかった。潮の匂いが、二人を包むように薄れていった。
路地の分かれ道の前で、栞が立ち止まった。
「私、こっちなので」
「あ、はい」
「羽月さんは?」
「逆です。こっち」
「そうですか」
少しの沈黙があった。
「また、行ってもいいですか。潮騒に」
「……お客さんは誰でも歓迎です」
「そういう意味じゃなくて」
「……分かってます」
栞は前を向いたまま、一拍置いた。
「来てください」
それだけ言って、栞は分かれ道の向こうへ歩き始めた。
湊はその背中を見送りながら、カレンダーの8月28日に、心の中で印をつけた。
あと十二日。
十二日後の深夜0時に、この夏は消える。
7:縁側にて
家に戻ると、縁側に庄介が一人で座っていた。
酒も煙草も持たず、暗い海の方向をただ見ていた。足元に、古い草履が揃えて置かれている。
この姿を、湊は何度か見たことがあった。夜に一人で縁側にいる祖父を。でもこれまで声をかけたことはなかった。
「ただいま」
「ああ」
湊は縁側に上がり、庄介の隣に腰を下ろした。少し距離を置いて。庄介は海を見たまま動かなかった。
「楽しかったか」
「……うん」
「そうか」
波の音だけが、しばらく続いた。
「おじいちゃん」
「何だ」
「潮騒の栞さんのこと、知ってたの。前から」
庄介はしばらく黙っていた。それから、ゆっくりと口を開いた。
「父親の見舞いに、よく来とったからな。病院で何度か」
「そっか」
「いい子だ」
庄介は短く言った。
「……ちゃんと残った」
湊はその言葉の意味を、すぐには解せなかった。「ちゃんと残った」という言葉が、誰か別の人のことを意識しているように聞こえた。
「おじいちゃんは」
湊は少し迷ってから言った。
「今でもおばあちゃんのこと、思い出す?」
庄介の肩が、ほんの少し動いた。
長い沈黙だった。波が来て、返して、また来た。
「……毎朝」
庄介はやがて、海を見たまま言った。
「船を海に出す前に、岬に寄る」
「……そこに、おばあちゃんがいるの?」
「好きな場所だった。海が見えるからって」
それ以上は、何も言わなかった。でも湊には、その短い言葉の奥に、長い時間の重みがある気がした。何年分もの、毎朝の積み重ねが。
湊は縁側に座ったまま、祖父と並んで暗い海を見た。波の音だけが、静かに何度も繰り返していた。
ループする、という感覚が、湊には少しだけわかる気がした。戻れない時間と場所に、それでも繰り返し向かうということが。
庄介はまだ、海を見ていた。
8月16日の夜が、潮の匂いの中で、静かに更けていった。(つづく)




