第1話:潮騒のデジャヴ
1:異変の始まり
最初に気づいたのは、カレンダーだった。
8月29日の朝、羽月湊は祖父の家の二階で目を覚ました。出発の日だ。
カーテンの隙間から夏の光が差し込み、遠くで船のエンジン音がしていた。
ベッドの横の壁にかかった古いカレンダーに目をやったとき、湊は固まった。
8月15日、と書かれていた。
おかしい。昨日は28日だったはずだ。昨日は栞と喫茶店で話して、別れ際に「また明日」と言って——
湊は飛び起きた。スマホを掴む。画面には「8月15日 木曜日」と表示されていた。
窓を開ける。外の景色は、二週間前と全く同じだった。
祖父の古い軽トラックが同じ場所に停まり、洗濯物が同じように干されていた。港の方向から、同じ方向に風が吹いていた。
湊はしばらく、窓枠を掴んだまま立ち尽くした。
何かが、起こっている。
頭の中で、いろいろなことがよぎっては消えていく。
自分は、夏休みで祖父の家に来ている都心の大学生のはずだ。だが今は、この記憶すらひどく曖昧なもののように思えた。
そのとき階下から祖父の声がした。
「湊、飯だぞ」
低く、ぶっきらぼうな、いつもの声だった。湊は返事をしようとして、できなかった。
これは夢ではない、という漠然とした直感があった。夢にしては、潮の匂いがあまりにも鮮明だった。
2:繰り返す日々
それから四回、湊は8月15日を繰り返した。
二度目のループで、これが夢でも記憶違いでもないと確信した。三度目のループで、パニックをなんとか飲み込むことを覚えた。
四度目のループで、この反復に何らかの条件があると気づき始めた。そして五度目の今、湊はようやく、ただ繰り返すだけでなく「動く」ことに決めていた。
向かう先は決まっていた。
喫茶「潮騒」。
8月16日、午後2時。
昨日はお盆休みで店が閉まっていて、一日中部屋で過ごしていた。
潮風と灯台の町「常葉」。太平洋に面した、観光客が少しずつ減りつつある静かな港町。古い木造の建物や、寂れた商店街が残っている。
商店街を抜け、岬へ続く坂道を上がる。潮の匂いが濃くなった。正面に白い灯台が見えた。この町のシンボルだと、祖父が言っていた。
湊は、岬の麓にある喫茶店「潮騒」の扉を開けた。真鍮のドアベルが、慣れた、しかしどこか虚ろな音を立てる。
店内は薄暗く、窓から差し込む西日が空気を照らしていた。カウンターの向こうには、彼女が立っていた。
長い黒髪を後ろで束ね、白いシャツの袖をまくり、黒いエプロンをかけた20代前半の女性。たった今グラスを磨き終えたばかりらしく、指先に水滴が光っている。
凪原栞。
今この瞬間の彼女にとって、湊は見知らぬ旅行者の一人に過ぎない。それでも湊には、彼女のことがわかっていた。四回のループで積み上げてきた、彼女についての断片がある。
カウンターの端に文庫本を置く癖があること。褒められると素直に受け取れずに困ってしまうこと。悩んだ夜は決まって岬の灯台へ向かうこと。コーヒーを淹れるとき、最後の一滴だけ、少し時間をかけること。
それから——名前は、四回目のループの十日目に、やっとの思いで教えてもらったものだということ。
彼女とは、常葉に帰ってくるまで面識は無い。無いはずだが、なぜか彼女に惹かれて、ループする度にここに来てしまう。五度目のループの今度こそ、彼女の心を開かせるための行動に出るつもりだった。
理由は自分でも説明できないが、このループから解放される条件が、何か彼女と関連している気がする。そんな確信が、湊の中にはあった。
3:嵐の前の静けさ
「いらっしゃいませ」
栞の声は前回と全く同じトーンだった。
「ブレンドを一つ。できれば、今日挽いた一番香りの立つ豆で淹れてほしいんですけど、いいですか?」
「かしこまりました」
豆を挽く音が低く響き、やがて静かになる。栞がカップを差し出す。湯気から立ち上る香りは、湊の知っている、彼女が淹れる特別なブレンドの香りだった。
「どうぞ」
「いただきます」
一口飲んだ後、湊はそっと息を吐いた。
「このコーヒー、本当に美味しい。特にこの苦味の後の微かな甘みが、なんていうか……この町みたいで」
栞が一瞬、動きを止めた。
彼女の瞳に、わずかな動揺と、強い既視感が浮かび上がるのを、湊は見逃さなかった。いつもここだ。
毎回、この言葉を口にすると、栞の表情が微かに揺れる。リセットされた記憶の隙間から、それでも何かが滲み出ているように。
「……ありがとうございます」
栞は言葉を選ぶように間を置いた。
「そんな風に言われたのは、初めてです。詩的ですね」
「マスターが淹れる時とは、全然違う味になるんです。あなたが淹れる時だけ」
「……そんな、大した違いはないと思いますけど」
栞は少し困ったように眉を寄せた。それも知っている。褒められると、こうなる。
栞はしばらく沈黙した。窓の外を見て、それから湊を見た。
湊は栞の目を見ながら、意を決した。
4:一触即発
「……あの」
「はい」
「栞……さん」
湊は、あえて彼女の名を呼んだ。
次の数秒間の沈黙は、湊がこれまでのループで経験した中で、一番長い沈黙に感じた。
「……ちょっと待ってください」
栞の表情が、すっと変わった。困惑から、明確な警戒へ。グラスを持ったまま、カウンターから半歩引く。
「なんで名前、知ってるんですか」
「あ、それは——」
「この店のネームプレート、今日はつけてないんですけど」
「……ですよね」
「常連さんでもないですよね。初めて来たお客さんですよね」
「……そうですね」
「じゃあなんで?」
湊は口を開きかけたが、口ごもってしまう。四回のループで考えてきたはずの答えが、一瞬で霧散した。
「その……」
「まさか外で調べました?SNSとか?」
「……違います」
「理由を説明してください」
栞はグラスをカウンターに置いた。決して慌てていないが、目が笑っていない。
「普通に怖いんですけど。あの、一応言っておくと、うちのマスター、元柔道部なんで。呼べますよ」
「呼ばないでください。お願いします」
「じゃあ答えてください」
湊は額に手を当てた。何度もシミュレーションしてきたはずだった。名前を呼んでしまったときの対処法を。
四回目のループでは名前は聞き出せたものの、距離が縮まらないまま八月が終わった。
「……正直に言います」
「どうぞ」
「夢で見たんです」
一拍の沈黙。
「……夢?」
「はい」
「私の名前を?」
「……はい」
栞はしばらく湊を見た。何かを考えている顔だった。それから小さくため息をついた。
「……一番意味わからない答えでした」
「すみません」
「警察呼ぶのも、なんか大げさな気がしてきました」
「……ありがとうございます」
「でも怖いのは変わらないので、もう少し離れて座ってもらえますか」
湊は素直に一つ隣の席へ移動した。栞はそれを確認してから、また渋い顔でグラスを磨き始めた。
沈黙が戻った。潮の音と、冷蔵庫の低い駆動音だけが、店内に漂っている。
湊はもう一度、冷めかけたコーヒーを飲んだ。微かな甘さは、まだそこにあった。
5:歩み寄り
「あの……」
湊が恐る恐る口を開く。
「なんですか?」
「僕、羽月湊って言います。夏休みで祖父の家に来ていて、東京の大学生なんです」
栞は黙って湊の話を聞いている。その目には、まだ警戒の色が残っている。
「今日、町の夏祭りがあるらしくて、花火が上がるらしいんです。それで、もしよかったらなんですけど……」
少し呼吸を整えて、湊は言った。
「……今日の夜、僕と花火を見ませんか?」
自分が不審者だと思われても仕方ないのは分かっていた。だが、遠回りする時間が、もうあまりない気がしていた。
「常葉にいられる時間が、あまり残されていないので……」
栞は何も言わずに、少し眉を寄せて話を聞いていた。やがて、おもむろに口を開いた。
「……やっぱり、警察呼んだ方がいいかな」
「呼ばないでください。お願いします!」
湊がカウンターに頭をぶつける勢いで頭を下げる。
「……冗談ですよ」
栞が、グラスを磨く手を止めずに言った。
「……花火の話ですけど」
「はい」
「何時ですか」
湊は顔を上げた。栞は窓の方を向いたままだった。耳が、少し赤い気がした。
「7時半、打ち上げ開始です。防波堤の突端から見るのが、一番きれいで……」
「なんでそれも知ってるんですか」
「……夢で」
「もういいです」
短い沈黙の後、栞はため息をひとつついた。
「……仕事は6時上がりなので、7時に防波堤の入口で」
「ありがとうございます!」
「夢で名前を知ってた人を信用するのは、どう考えてもおかしいんですけど」
栞はようやくこちらを向いた。その目には、警戒と、それと同じくらいの、説明のつかない何かが混在していた。
「断れない気がするんですよね。なんでか分からないけど」
湊の胸の奥で、何かが静かに綻んだ。
五度目の夏で、初めて聞いた言葉だった。
「私も不思議なんですけど」
栞は視線を窓の外へ向けた。灯台が、西日の中で白く光っている。
「あなたのこと、初めて見た気がしないんです。ずっと前から知ってる気がして」
6:約束
それがデジャヴだと、栞はまだ知らない。四回のループで積み上げてきた感情の残像が、リセットされた記憶の向こう側から、それでも滲み出していることを。
でも栞には、言えないことだ。まだ。
「じゃあ7時に、また」
湊は言った。
「はい」
栞は短く答えた。
「遅刻したら帰りますから」
「しません!」
「……夢で私の名前を知ってた人を待つのは、やっぱりどう考えてもおかしいな」
栞は小さく独り言のように言って、グラスを磨く作業に戻った。
その夜、この海岸線で、すべてが始まる。あるいは、すべてが終わる。
湊は五度のループの記憶を胸に抱えながら、窓の外の灯台を見た。白く、静かに、ただそこに立っている。旅立てない誰かのために光を灯し続けているような、そんな灯台だった。
8月16日の午後。潮の匂いの中で、湊の五度目の夏が、静かに動き始めた。(つづく)




