第11話 妖艶な月夜
「ミッチー、後輩来てんぞー。」
昼休み、クラスの友達たちと1週間後から始まる夏休みについて話していた充は、自分を呼ぶ声の主の方を向いた。そこには自分を呼ぶ友達と、バスケ部の現部長である2年生の有田理久がいた。理久は充に対し、会釈をした。理久の顔が上がり、充の目が理久の目と合った。
「ごめん。ちょっと席外すわ。」
充は、まだご飯が半分も残っている弁当の蓋を閉じ、バッグの中に仕舞う。
「もし授業遅れたら、良い感じにたけみっちゃんに話しといて。」
「おー任せろ。」
充は理久の元へ向かった。
「有田、ジュース買いたいからついてきて。」
「えっと、あの。」
「いいからいいから。」
充は、理久の背中を押して廊下を歩きだした。その様子を、充と共に昼食を食べていた友達たちは見ていた。
「ミッチーってさ、すげぇよな。」
一人がそう声に出した。
「自分後回しにしてでも、他の人優先すんじゃん?俺にはできねぇわ。」
「同感。頼りがいのある男だよな。」
「何かさ、男バスがインターハイ、良いところまで行ったの納得できる。」
「田崎が技術面で支えて、ミッチーが精神面で支える。最高の部長、副部長だったと思うな。」
「うちの高校、3年が冬まで戦って良い制度だったら、凛高倒して、東京行ってたんじゃねぇか?」
それぞれが食事を再開させながら話す中、一人、パンを片手に浮かない顔をしている者がいた。それは、最初に充について話し出した者である。彼の視線は、充のバッグに向けられていた。
「...無理してないといいけど。」
その小さな呟きは、周りの談笑に掻き消された。
充と理久は、体育館裏にいた。外は夏本番前とでも言うような、何もしていなくても汗が滲みだす程の暑さだった。しかし、この場所は木々の影があるおかげか、他よりも比較的に涼しさが感じられる、充のお気に入りの清涼スポットであった。
「何かあったのか。」
充は、コンクリートの上に胡坐を掻いて座っていた。その隣では、理久が体育座りをしている。充が、チラリと理久を見ると、理久は真剣な顔で俯き、手はズボンを握りしめていた。
(思ったより深刻そうだな...)
充は、空を見上げ、先程の理久の目を思い出す。3年の教室に来た理久の目。それは、悩みを抱えている目。前部長であった田崎ではなく、自分のところに来たということは、今のバスケ部が精神的な問題を抱えているということなのだろうと充は悟った。現に、理久の様子からそのことが窺えた。理久は元来、楽観的で明るい性格だ。そんな理久が、ここまで思い悩むということは、相当なことが起きているのだろう。充の目には、雲が流れていく様子が映っていた。
「杉宮のことなんです。」
「杉宮?」
しばらくして、口を開けた理久から紡がれた予期していなかった名前に、充は聞き返した。
「インターハイが終わった直後から、様子がおかしくて。」
「どんな感じに?」
「...冗談みたいに聞こえるかもなんですけど。」
理久は、充の目を見た。
「オーバーワークしてるんです。」
「杉宮が?」
充は、驚きで目を見開いた。充の知る「杉宮優希」という人物は、部活動に真剣に取り組むが、心身に害が出るまでは取り組まない人間である。身体を壊しては元も子もないと言う優希の考えは間違っておらず、充もそのことに同感していた。
「練習終わった後とか、朝練前、昼休み、あと水曜日とかの部活のない日にも自主練してて。最初は熱心だなって思ってたんですけど、まるで何かに取り憑かれたみたいに集中して、最近は正直、怖くなってて。」
理久のズボンを握る手が強くなった。
「杉宮、先週の練習試合で、膝の関節を痛めたんです。」
まるで鈍器で頭を殴られたような衝撃が、充に走った。理久が話していることは、本当のことなのだろうか。しかし、理久が嘘をつく必要は全くない。夢のような現実の話に、充は何も言うことができなかった。
「本当なら俺が解決しないといけない問題なんですけど、俺が言っても、聞いてくれないんですよね。」
理久の俯く角度が深くなる。充の目に映る理久は、息を吹きかければ消えてしまうような、そんな儚さであった。
「だから、先輩には本当に申し訳ないんですけど。」
理久は顔を上げると充に向き合い、正座をしながら真っ直ぐ充を見つめた。
「ミッチー先輩から、杉宮に言ってくれませんか?」
申し訳なさ、無力感、そして、充ならという期待。理久は、それらの気持ちが入り混じった目を充に向けた。新体制で部長としての経験がまだ浅い理久。そんな後輩を見捨てることなんかできるわけがない。理久の気持ちに応えるために、充も正座で向き合った。
「わかった。言ってみる。」
充がその言葉を口にすると、理久の肩から少し力が抜けたように見えた。思いつめた顔から幾分安心したような表情になったので、充は安堵した。
「だけど、問題を解決できるかはわからねぇぞ。」
充は、表情を引き締め、真剣な顔で理久にそう答えた。それは、充の心の底からの言葉だった。充ができるのは、あくまで声掛けくらいだ。オーバーワークを止めるのを最終的に決定するのは、優希自身である。自分の行動は、自分にしか変えることはできない。それは、充が過去に身をもって経験したことである。
「大丈夫ですよ。ミッチー先輩なら、解決できます。」
理久はふっと笑った。
「だって、杉宮にとって、ミッチー先輩は。」
理久は言葉を区切り、再び口を開けた。
「憧れの先輩なんですから。」
木々の葉を弱く揺らす生温い夏風とともに、理久が吐いたその言葉が、充の心の弱いところを撫で上げた気がした。
ダンッ、ダンッ、ダンッ――――――――――
体育館から、床にボールを強く打ち付ける音が聞こえる。金曜日の19時30分。日が沈み、空は深い青色に染まっていた。充は、体育館へと続く渡り廊下を一人で歩いていた。体育館に近づくにつれ大きくなる音に、充の足は自然と早くなった。
(膝の関節を痛めてんのに、何自主練してんだ。)
充が思い出すのは、理久の悲しそうな表情。新部長になって不安もあるだろうに、問題を起こす優希にお灸をすえねばと、充は覚悟を決めていた。充は、優希に気付かれないように体育館のドアを静かに開けた。均等に配置された赤コーン、散らばったいくつものバスケットボール、優希の横に置かれたボール籠、そしてゴールネットを見据える優希の後ろ姿。
(何か圧があるな...杉宮の周り5mくらいに入った瞬間、氷漬けにされそう。)
漫画みたいなことを考えながら、充は苦笑いで優希を見やった。しかし、充がそう感じたように、優希の纏う集中力は凄まじいものであった。優希はボールを突くのを止め、そのボールを胸の前に構えた。辺りが、まるで時が止まったような静寂に包まれる。しばらくして、優希は飛んだ。ボールが手から離れる。それは綺麗な弧を描き、吸い込まれるようにネットに入った。ネットに入ったボールは、何度か跳ねた後、そのまま壁側へと転がっていった。
(あぁ、やっぱ綺麗なフォームだな。)
充は優希を見つめながらそう思った。美しく綺麗な姿勢。それは、優希が身に付けた、たゆまぬ努力の結晶であることを充は知っていた。膝を痛めてもなお、そのことを勘づかせない姿勢。ほとんどの人は先程の優希のフォームを見て、膝を痛めているとは気づかないだろう。しかし、充は気づいた。優希が飛んだ時、左足を庇うかのように、右足に力が入っていたことに。充は奥歯を噛み締めた。優希が、次のボールを籠から取り出し、またボールを突き始めた。そのタイミングで、充はそっと優希に近づく。ボールを突く優希は集中しているからか、背後から近付く充に気付いていないようだ。充は優希に手が届く程の距離に近づくと、左手に持っていたスポーツドリンクを優希の首筋に押し付けた。
「うわっ!!!」
驚きで飛び跳ね、振り向いた優希と充の目が合った。
「充先輩!?」
目を丸くし、充を見る優希の姿に、充は思わず笑った。
「あはは!驚き過ぎ!」
「笑い過ぎでしょ...」
「ごめんごめん。」
お腹を抱えて笑う充を、呆れ交じりに見つめる優希。しかし、その目は優しく、優希が纏う雰囲気も柔らかくなっていた。
「ほら、これやるよ。」
充は、優希に先程首筋に押し付けたペットボトルを渡す。それは、高校近くのコンビニに売っているスポーツドリンク。以前、優希が同じように充の首筋に押し付けたものと同じスポーツドリンクであった。
「いや、でも。」
「先輩からのありがたーいご厚意は、大人しく受け取っていなさい。」
「...わーい、ありがとうございまーす。」
「棒読みはやめなさい。」
充の一言に優希は冷めた返事をし、それに充はツッコむ。部員であった頃は当たり前のようにしていたこのようなやり取りを久しぶりにできたことに、充は嬉しさを感じるとともに、このやり取りをしていたあの頃にはもう戻ることができないという事実に寂しさも感じた。
「それより充先輩、何でここに?」
スポーツドリンクを飲んだ優希が、充に尋ねた。中身が半分減っていることから、集中により必要な休憩を取っていなかったことが窺えた。
「それは帰りながら話すわ。先に片付けしよーぜ。20時過ぎると先生たちにめっちゃ怒られるから。俺は1回やらかして、1週間自主練禁止になった。あの時の潤の笑顔はトラウマもの。」
充は、遠い目をした。
「...お疲れ様です、先輩。」
そんな充を見た優希は、ボールを片付けるためにゴール側へと向かった。
「久しぶりに食べたけど、美味いなこれ。杉宮がよく買う理由、わかった気がする。」
「...まぁ、そうですね。美味しいです。」
充と優希は、コンビニ近くにある公園のブランコに座っていた。時刻は20時30分。空では星々が輝きを放っていた。2人が手にしているものは、バニラアイスにチョコレートがコーティングされ、クッキークランチが塗された棒付きアイス。夏の暑い夜に食べるアイスの冷たさが、2人の火照った身体に染み渡った。
「杉宮。」
充は、アイスを二口齧った後、優希の名前を口にした。優希は、アイスを口に運ぼうとした手を止めた。優希は充の声色から、充が今から本題を話そうとしていること、そして、その話は優希の自業自得ではあるが、先程まで食べていたアイスの甘さを打ち消すくらいに喜ばしくない話であることだと気づいた。
「もう気づいているかもだけど、俺は杉宮に物凄く怒っている。」
充の目が、優希を捉えた。その目には、若干の冷たさが窺えた。突然、大丈夫だと思っていた優希の左足に、痛みが走った。
「俺さ、今年のウィンターカップは、凛高倒してうちの高校が行けると思ってるんだ。これは願望とかじゃなくて、マジな話。潤や3年の奴らとも話してた。それくらい、今の1,2年は技術面でも体力面でも、他校に比べると優っていると思っているんだよ。特にさ、俺は後輩の中だとお前と自主練とかで一緒に練習いた時間が長いから、お前がどれだけ頑張ってきたかを知ってる。だからさ、今まで積み重ねてきた努力を、オーバーワークで壊そうとしている杉宮を、俺は許すことができない。」
優希は息を飲んだ。充を含む先輩たちがウィンターカップでの勝利を期待してくれていること、充が自分の努力を見ていてくれたこと、その努力を自らの手で壊そうとしていること。インターハイ終了後から、優希は焦りを感じていた。普段なら入るシュートが入らなくなっていたこと、それにより無理な自主練を積み重ねて、怪我をしそうになった。今年のウィンターカップは、絶対に東京に行く。先輩たちの、充の意志のために。しかし、その思いよりも、優希には忘れたいものがあった。言葉にするのが難しい、自分の胸の奥に針のような痛みを与えるもの。それを、優希はバスケに打ち込むことで忘れようとした。優希は、どうしようもない息苦しさを感じた。
「俺は、お前に期待してんだからさ、あんま有田を困らせんなよ、エース兼副部長。」
充は眉を下げて優希に笑顔を向けた。その目には、もう怒りは感じられない。優希から反省の色が見えたからだ。感じられるのは、期待、そして信頼。優希が思い出したのは、次期副部長の座を決める最後のミーティングで、優希を一番に推薦した充の笑顔だった。優希は、充に何も言うことができず、ただ、充を目に映していた。
(この人、本当に「綺麗」だな。)
「あ、杉宮!アイス落ちそう!」
「え!」
優希は充の声で、アイスを見る。チョコレートの間から、溶けたバニラアイスが滲み出そうとしていた。優希は慌ててアイスを口に含んだ。
「あっぶな...」
間一髪、アイスを地面に落とさずに済んだ優希は安堵した。
「お前、時々、そういう危なっかしいところあるよな。」
「充先輩には言われたくないです。」
「ん~、生意気だが許す。」
充はいつの間にかアイスを食べ終わっており、アイスの棒を袋に入れていた。何も言わないということは、「はずれ」だったのだろうと、優希は充を横目にアイスを食べる。淡い光を放っていた月が、雲に隠され、少しだけ辺りがうす暗くなった。
「んで、ここからが本題。」
「え、今の話が本題だったんじゃなかったんですか?」
優希がアイスを食べ終わると同時に衝撃的な言葉を放った充に優希は驚きの声を上げた。
「今のは、前菜みたいなものだろ?」
「何を言っているんだ」とでも言うような顔で見てくる充に、優希は力が抜けそうになった。
(今からが本題って、何か他にあるのか?)
優希はそんな疑問を胸に、充から飛び出してくる言葉に身構える。
「杉宮。俺と勝負しようぜ。」
「勝負?」
充の口から出てきた言葉に優希はそのまま返す。
「8月末にある、3年生と新生バスケ部員とのOB戦。その勝負で負けた方は。」
充はそこで言葉を区切り、優希の目を見つめた。雲に隠れていた月が現れ、青白い光で地上を照らした。
「勝った方の言うことを何でも一つ聞く。」
充の蜂蜜のように甘い金色の目が、月の光を受けてきらりと光った。どことなく怪しさ、そして煽情的な雰囲気を纏った充に、優希の背中にゾクリとした感覚が走った。
(充先輩...だよな...。)
優希は目の前にいる充に対してそう思った。優希がそう思う程までに、優希の知る充の人物像とかけ離れた人物がそこにいた。しかし、優希は、自分の意識を、充が先程放った言葉に向けた。
「...何でもって、本当に何でもですか?」
「あぁ、もちろん。撤回はしない。だけど、1つ条件がある。その勝負の日まで、自主練は禁止。練習をするなとは言わない。しっかり痛めた左膝を直すこと。負傷中のお前に勝っても、つまらないからな。」
充は挑発的に微笑んだ。その顔を見た優希の心の中で、月明かりに照らされた充から感じられたとあることが確信に変わった。優希にとって美味し過ぎる、充からの提案。その提案をした表向きの真意は、自分のオーバーワークを止めるためのもの。そして、その願いを確実なものにするために提案された勝負。そこから伝わる、充の心情。優希は、力が抜けたように笑った。
「いつから気づいてたんですか。」
「杉宮が入部して1週間くらいから。」
「1年も前からですか。」
優希は頭を抱えた。自分の気持ちが張本人に筒抜けであったことに恥ずかしさを覚えた。そんな優希の様子を、充は微笑みながら見つめていた。
「今まで逃げてきてごめんな、杉宮。」
優希は、充を見た。そこにいる充は、申し訳なさそうに、眉を下げて笑っていた。全て知っていた上で、自分の願いを確実なものにするために、この提案をした充に、優希は一生充には敵わないことを悟った。
「俺、充先輩のこと、今まで「綺麗」な人だなって思ってたんですけど、そこまで「綺麗」じゃないですね。」
優希は、皮肉を込めて充に伝える。それは、優希の、充に対する最後のあがきだった。充は、その言葉を聞いて笑った。
「うん、全然違う。俺は、何かを叶えるためなら、持っているもの全部利用するような人間だから。」
どこか自嘲的に、月を見ながら答えた充に、優希は目を逸らすことができなかった。太陽のような充の、脆い部分。それは、優希が初めて見る、充の姿だった。
(あぁ、この人、やっぱり「綺麗」なんかじゃない。「美しい」んだ。)
優希は、無意識に口を開き、言葉を紡ぐ。
「そういうところ。」
優希は、我に返って口を閉ざす。思わず、4文字の言葉が飛び出しそうになったが、優希は堪えた。これを伝えるのは、今じゃない。正々堂々、勝負に勝ってからだと、優希は決意した。不自然なところで言葉を区切った優希に、充は首を傾げた。優希は、目線を逸らした。
「嫌いじゃないです。人間らしくて。」
優希の言葉に、充の目が僅かに見開いた。それと同時に、目線を逸らす優希の耳が若干赤く染まっていることに気付いた。可愛い後輩の照れ隠しに、充は笑った。
「俺、アンタに勝ちますから。絶対に逃げないでくださいね。」
「そうこなくちゃ面白くない。」
充と優希は互いに口角を上げた。そんな二人を、月は淡く照らしていた。




