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ほし (2)





 テスト休みののち、夏休みを目前に、終業式を残すばかりの生徒会室。


 放課後、優がいつものように入って、廊下側の椅子のひとつに腰をおろすと、窓辺でお茶をいれていた(まさき)が優の分も持ってきてくれた。

 優の向かいの席に自分のカップを置き、後輩に呼ばれて窓辺へ戻っていく。


 ホワイトボードのそばでは、(さや)(はるる)が、めずらしくじゃれる風もなく、なにか二人で話しこんでいる。柾を呼んだのは実里(みのり)芙蓉(ふよう)で、まだ(しずむ)は姿をみせていないらしい。


 夏休み中に周辺の私立高校の生徒会同士で交流会があるというので、清と晴の話題はそれに関することらしかった。


 夏休み、塾の夏期講習に通うのは決まりとして、ほかに特に予定もないなと、優はぼんやり携帯端末のカレンダーをみる。京都の蒸し暑さは想像通りで、耐えきれないほどではないが、どこをみまわしても地面ばかりの景色に、このごろ、ちょっと閉口気味になっている。


 お盆の帰省は、あまり気乗りしない。

 あの晴れきった白く色が飛んだような空と痛い日差し、爪先のむこういっぱいの海。


 広島が嫌いなわけじゃない。


「こんにちは」


 きょうもきょうとてまっすぐな声で、戸をあけて雪平があらわれた。首都のアナウンサーみたいな抑揚は、揺るぐこともない。

 ためらいのない目で清と芙蓉をとらえて、颯爽と窓辺へむかう。自分のカップにお茶をいれて、あるいはいれてもらって、少し冷めるまで飲まずに両手で包んで、芙蓉をからかったり、清と笑いあったりするのだ。


 清と晴の話し声が止んだ。そろそろ全体の話し合いだろうか。

 優は端末を鞄にしまう。隣の席の椅子がひかれ、誰かが腰かけた。


 そっちをみると、小づくりの顔と切れ長の目がまともにこっちをみていた。


 にっこり笑う。


 ――――。


 だから、最大の難問だって。

 わからないものが目の前にある。


「え」


 声は、それきり、途絶えてしまった。

 雪平は気にしていないようだった。


「優、夏休みの予定は?」


 形のいい唇がうごき、言葉の通りの形をつくる。

 雪平が、真っ先に優に話しかけるのなんて、一体、いつ以来だろう?


「え、講習――塾の、夏期講習いくけど」

「それって、毎日?」

「ううん、休みもあるよ。午後には終わるし」

「そう」


 満足そうに――満足したのか? 雪平は相槌を打ち、テーブルの方をむく。

 視線がはずれ、優がほっとした次の瞬間には、またこっちをみていた。


「きょう、このあとひま?」

「――」


 お茶を飲んだばかりなのに、喉がからからだ。


 この美人と自分のあいだで、全体、なにが起こっているのだろう?



       * * *



 帰りなれたはずの道を、かなり久しぶりに、雪平と二人でたどっている。


 春、入学してすぐの、あのときだ。それからは二人だけで帰ったことはなかった。

 住宅街の合い間の細い下り坂を、折れ曲がりながらおりていく。


 日は雲にかげっているが、地上には熱がたちこめ、日陰がどこかも判然とせず、ぼうっとするほど蒸し暑い。


「こっちにいきましょ」


 雪平の長い腕がするりとのびた方向へ、優は素直にしたがう。

 バス停までの道は大概、決まっている。いくらでもとれる道はあるけれど、生徒の使う道は最短・最安全の一ルートだ。


 そこからひとつ角をそれただけで、まったくみたことのない風景だった。


 夢でもみているみたいだ。

 熱の中を涼しげに歩く、氷の花の名を持つ少女の背中をみつめる。


 数歩前をいっていたのに、ふと立ちどまって、雪平は優が追いつくと、隣を同じ速さで歩きはじめた。


「哲学の道、歩いたことある?」

「――え?」


 哲学の道……というと、あれだろうか。

 かの西田幾多郎先生が散策したという、哲学者として有名な、代表作は《善の研究》、要するにすぐそこに横にのびている疏水沿いの……。


 なにもまとまらない。


 まさにそこをいきすぎる観光客は、この真夏に引きもきらない。


「いや、そこの? うん……」


 足を踏みいれたことくらいは、あるのだが。


「ずっと、端から端までよ。銀閣の方から」

「それはないな」

「つきあってくれる?」

「…………」


 頭が沸いたかな、と思う。


 え、なんだろう、いま。告白された?


 こんな混乱、マジでどうかしている。


「うん?」


 優は内心、ぶるぶるとかぶりをふってから、雪平をみなおした。

 すぐ隣で、雪平はまっすぐな目で、こちらをみあげていた。


「歩きたかったの。哲学の道だけじゃなくて、京都観光したいの。でも学校の子たちは、みんな地元でしょ? 誰も誘えないんだもん」


 だもん、て、いつからそんなに可愛らしい言葉遣いをするようになったのだろう。

 優はまじまじと雪平をみる。


「だめ? 興味ない?」


 綺麗ないきものの可愛い挙動に頭の中の八割を持っていかれていたが、最後の言葉の意味だけ、かろうじてひろえた。


「興味あるよ、わたしもしたい、観光。ベタな名所とか、いってみたいとこ、沢山ある」

「そうでしょ!? やった、一緒にいこ!」


 即決。

 息をつくひまもなかった。


 雪平はうれしくてしかたないみたいに、かろやかに坂道を駆けおりた。


「ね、そこにカフェがあるの、しってた?」


 声も弾んでいる。


「あぁ、うん」

「これは? 《恋のかなう電話ボックス》」

「ああ――」


 中等部の子がなにやら話していたのを、ききかじったおぼえがある。ここだったのか。


「嬉しい、楽しみ! どこいこっか、どこいきたい、優?」


 これはいよいよ夢だなと、優はぼんやり目を細める。

 曇り空の下なのに、まばゆい笑顔に頭がやられそうだ。


 どこにいきたい、と問われても。


 中学時代、修学旅行先はなにを隠そう、京都だった。いったのは清水寺と金閣、三十三間堂。ベタ中のベタだ。あのときは市内のどこになにがあるのかよくわかっていなかった。バス移動の集団行動あるあるである……。


「そうだね」


 相槌を打ちつつ、いろんな打算をフル稼働させた。


「龍安寺、とか」


 その間、ほぼ一秒である。

 自分がいったことがなく、つまりは雪平にとっても、いくら観光したいとはいえ定番すぎないはずで、それでいて名前は世界規模に売れている。そのくせ見所は庭という、静かなこと請け合いのスポット。季節をずらせば何度でも楽しめるし、市内の子が当たり前にいくには、ちょっと不自然な距離のあるところ。


 あと、普通にいってみたい。


 雪平は破顔した。


「そうこなくっちゃ!」


 これが恋愛シミュレーションゲームだとしたら、大正解を引き当てたようだった。


 いや、正直、優は面食らった。


 こんなに直球で、喜びを返されるとは思っていなかった。


「次、会うまでに、考えておいてね。どこにいきたいか。あたしは哲学の道と、嵐山と、貴船にいきたいの。あ、あと清水寺も!」


 どうやら、清水もアリだったらしい。バス停のある通りに出るまでに、息をつく間も惜しいように矢継ぎ早に話すと、雪平は足音もほとんどさせず、飛ぶように坂道をくだった。制服を着た妖精のようだ。


 雪平がいま挙げたところだけでも、四ヶ所。

 そのうえ優が好きに挙げていいとなると……。


 急に、向こう何日もの休日の予定ができてしまう。


 それに気づいたとたん、かっと、頭に血がのぼってきた。


 週一回、いや二週に一度だとしても、そんなに何度も。


 目の前の少女と、同じ時間をすごせるのだろうか?


 それこそ夢のようだった。彼女と二人で話をすること。それだけを、そのことを、どんなに望んでいたことだろう。


 こんなに急激に、わけもなく、夢がかなうのだろうか?


 楽しげに前を歩いていた雪平が、ふと、不思議そうにふりかえる。


「どうしたの、優?」


 どうしたのって――どうかしている。


 頬が熱い。


「いや、うん、暑いね……バスくるよ、雪平」

「やだ、夏バテ? 意外と体力ないよね、優。歩くんだから、備えておいてね。バスなんかどうでもいいけど、でも待ってるのも暑いから、先にいくわ」


 じゃあね、と、若干、支離滅裂にきこえることをいって、雪平はひらりと反転して、ついたばかりのバスの乗り口へ駆けのぼっていった。


 意外と体力ないって、血がのぼったのは誰のせいだと……いや、体力ないのか、わたし……と、優はめまいのように考えつつ、反対車線のバス停へむかうべく、横断歩道の青信号を渡った。


 順調なのか、ただの夢なのか、どっちでもおどろかない、と思えた。



       * * *



 そう。人偏に夢とかいて、儚いと読むのである。

 まったく、よくできている。こんなにできてなくてもいいというくらい。

 さらにいえば、人偏に憂うと書いて自分の名なのである。ほとんどやりすぎである。


 真夏も真夏、八月の半ば、優は下鴨神社の森の中をいきつもどりつしていた。


 世間はまだ、お盆休みの最中である。優もご多分にもれずというより、しがない高校生の身で親の命に逆らえるはずもなく、塾の盆休みスケジュールをがっちりおさえられ、すごすごと広島へ帰っていた。そして、どうしても叔母の安と五山送り火がみたいといいはって、舞いもどってきた。

 三日もいればさしもの母も溜飲的なものが半分くらいはさがったらしく、優が逃げるように退散しても、無理にひきとめようとはしなかった。


 もどってきたこの日、天気はあいにくの雨だったが、降っても降りつづかないのが京の天気であるらしい。どんよりと曇ったまま、止み間は案外、長かった。

 下鴨神社の木立ちの下では古本まつりが行われていて、もう数時間もすれば終わりのはずだが、そこそこの人出があった。


 古書販売という性格からか、人の数のわりには静かだ。ときおり、自転車で通行する人もいるが、砂利が濡れていて埃も立たず、事故が起こるほど混んでもいない。まどろむような、不思議な空気がひろがっている。


 優が特に目的もなく、おもに文庫本と辞書の棚をわたりあるいていると、棚の前でふと顔をあげたとき、背中がうしろの人にぶつかった。


「あっ」

「だーれだ」


 すみませんと、いう間もなかった。


 だーれだ、て……声は真後ろ、かなり近くからきこえてきた。

 この遊びは、目隠しをするから有効なんじゃないのだろうか。両手をぶらさげたまま他人のバックをとるような真似をするのは。その主は。


「いや横着しすぎじゃないですか……」

「開口一番それかい。しびれるね。やあ、優君」


 肩に近いところがぶつかったことからすれば、男性の可能性もあるのだが、優のふりむいたほぼ同じ高さにある顔は、みしった銀縁眼鏡をかけていた。


 ほんとにラスボスみたいだなあと優は思う。この人にだけはかなう気がしない。御世(みよ)にはばかる生徒会長、尊称は彦星さまこと晴である。なにがなにやら。


 曇天の下、Tシャツにパンツというシンプルな私服姿である。あいかわらずやや猫背だが、こうしてみると、意外と胸があるのがわかる。もしや清より大きいのでは。この人は、姿勢さえただせば、かなり見栄えのする体つきなのかもしれない。


「目当ての本はあるのかい? どうせ意中の人と予定が合わずに一人で来たんだろう?」


 ……うっかりスルーしそうな何気なさで、ひどいことをいう。

 みなれない服装に気をとられている場合ではない。なんて人だ。

 優は苦虫を噛みつぶした。


 お盆前に、市内私学の生徒会交流会で会った雪平は、毎日いそがしいらしく、ひまができたら声をかけると、一方的に告げてきた。

 それきり音沙汰はない。互いの連絡先もよくしらないのに、どうやって音沙汰がありうるのか、優には見当がつかない。


 夏休み中にどこかへ出かけるなら、この古本まつりにきたいと思っていた。もちろん、彼女と。その思いつきを、優は結局、単独で実行したわけだ。


「なんでわかるんですか……」

「図星かい。いや、君が来てそうだなと思ってさ」


 みまわしてたらいるんだもの、と、背表紙のタイトルをみつめながら、半分、上の空で晴はいう。

 この上の空の思いつきにみすかされたと思うと、一周まわって腹も立たない。

 優は素直にふてた。


「そんなにズバズバいいあてないでください。傷つきます」


 あれま、という文字を銀縁眼鏡と眼球のあいだに漂わせて、晴はこっちをかえりみた。


「しょうがないな」


 くいと顎をしゃくって、棚の並ぶテントの下から出る。

 中央の通路を、小砂利を踏みつけながら歩いていく。無言の背中に、内心、首をかしげながら、優はあとを追っていった。


 通路の端までくると、そこには軽食販売コーナーと簡易なテーブル席のある、ひときわ大きなテントが張られていた。

 唯一の休憩所なのか、ここだけにぎやかで、席も埋まっている。


「どれがいい?」


 おごっちゃろう、という銀色の縁のめざす方に、メニューがぶらさがっている。

 フランクフルト、かき氷、温かいぶっかけうどん……。


「カレーうどんがいいです」


 天気のせいかあまり暑くない。腹いせのつもりで、一番高いメニューにしてみる。


「遠慮ないな。食べたいならいいけど」


 独り言のように感想をもらして、晴はさっさとカレーうどんと、レモンのかき氷を注文した。


 たまたま空いた席にすべりこみ、鞄をおろす。


「ちゃんと食べるんだよ」

「いただきます」


 まさか本当におごってくれるとは。優は両手を合わせて拝み、粛々と食べはじめた。


 しゃりしゃりと、半分飲みこむようにして、晴は氷をハイペースで平らげていく。

 片や、熱くて冷めにくいので、優は三倍、ゆっくり食べた。


「そこの神社に美人水てのがあってね」


 優がじわじわとしか食べすすまないのに、氷のカップをからにした先輩は、目線と首のうごきでかたわらの鳥居を示す。


「カリンのジュースなんだが、まあなかなかうまい」


 レモンの氷を食べた直後に、なにをいうんだろうこの人は。


「おなか壊しますよ」

「おごらないけど、興味があるなら行くかい?」


 優は黙った。


 いや、おごらないとかそういうところが問題なんじゃなくて。


 優のだんまりを、晴はあっさり分析する。


「楽しみをとっとけとはいわないが。夢があるならあきらめないほうがいい」


 ――優が考えたのは、そういう名所があるなら、いくのは彼女とがいい、ということだった。


 ……その思考に、晴の言葉は、いかにも――。


「せんぱいは……」


 考え考え、うどんの切れめをみつけつつ、ぐずぐずとしゃべりだす。


「千里眼かなにかですか」

「いや、うまいんだよ、かりん水」


 はぐらかしているようにもみえるが、多分ちがう。わりと本気で飲みたくなっている目をしている。


「いきません。おなか壊しますよマジで」

「そうかな。結構、平気だよ。冷たいもの好きなんだ」

「ジュースの氷とか齧っちゃう人ですか」

「やるね」

「あれ、鉄分不足らしいですよ」


 あそう、と晴は興味もなさげにうなずく。優も、その説の論拠も出処も不明だから、つっこまれても困る。


 ざわざわと、騒がしさが割り増しになる。テントのすぐ外で、また雨がふりだしたのだ。


「ちょっと責任というか、負い目を感じているんだ」


 雨音を縫ってひびく声は、テントの下だけとじこめられたみたいに、異様にクリアに耳にとどいた。


 優は思わず、うどんを運ぶ箸の手をとめた。


「なにがですか」

「君に関してね」


 はて、と思う。

 晴本人は、いつになく真剣そうな風情がないでもないが。いいたいことはなにも伝わってこない。


 新手のなぞなぞだろうか。

 なんだかわからんが。いまの責任感のありそうな発言といい、さっきの千里眼発言といい。


 一旦、箸をやすめ、優は首をひねった。


「先輩、もしかして、意外と真っ当なこといってますか」

「…………君の私に対する認識は一貫してひどいよね」


 自業自得だけどさ、と、つぶやいて、晴はちょっと唇をとがらせた。

 かこんと音をたてて、からのカップを脇に寄せ、テーブルに頬杖をつく。


「優君は素直だね」


 微笑み未満の顔の、眼鏡の奥の瞳が慈愛に満ちている。

 優はとまどった。


「バカにしてますか」

「違うよ。心が痛むといっている」

「こころ……」

「君のいいたいことはわかるが、いわないでくれるのが礼儀ってもんだ」


 あったんですねといいそうになっていた。いわないでよかった。

 いや、いいわけのようだが、なにも本当に、慈悲も心もない人だと思っていたわけじゃない。


 ただ、優には、まったく思いもおよばない考え方をする人だと思っていたのだ。


 彼我の差はたった一年。それなのに。それでも。


 優はようやくぬるくなったうどんの汁を、小汗をかきながら飲みほす。

 優が器を置くより早く、立ちあがって外をながめ、晴は向こうをむいていう。


「いつかちゃんと謝るべきかね」


 なにいってんだこの人は、と、改めて思った。


「そんなのいいです。またなにかおごってください」


 立ちあがりがてら、優は声を返す。レンズを通さず、銀縁の端からこっちをみた目が、困ったようにわずかにゆがむ。


「実際、バカなのか、男らしいのかわからんな」


 ひどいことをいわれた。


「バカかもしれませんが。後悔してないといってるんです」


 こっちも負けじと顔をゆがめて、おごそかに優は宣言する。


「ほんとに? 恨んでもしらないよ?」

「一生たかってやりますよ」

「マジかよ。洒落にならんな」


 そんなに洒落にならないほどのなにかを、この人は自分にしたのか。


 少なくとも、そう思っているのか。


 晴が優に対してしたことなんて。

 核心としては――。


 晴はリュックのベルトにつるしていたビニール傘を、優は鞄に入れてきた折り畳み傘をひらき、テントの外に出て、雨音の喧騒の中をならんで歩く。


 雨の中、時間としてももうじき店じまいだというのに、棚やワゴンを透明なカバーで覆い、古書店の主人たちは悠然としている。


「先輩」

「ん」

「いつか洗いざらい、話してくださいね」

「それ、脅迫?」


 だるそうに返して、小ぶりになりはじめた天に傘をかかげ、晴は伸びをした。


「あー。人生すっころんだなー」


 その言葉が自分にぴったりで、優は声をあげて笑った。


「お互い様ですね」

「意味わかってる? わかってないんだとしたら、そのセリフはうがちすぎている」


 また理屈っぽいことをいう。優は笑いつづけた。


 どうせわかってなどいない。

 晴の言葉の半分も、自分は理解していないと優は思う。


 わかるわけがない。難しい、頭のいい、あるいは綺麗な、道程も境遇もちがう人の言葉の、本当に意味するところなど。


 それでも得られるものがあるのだ。そう思うから、こうして隣に。


 同じ場所にいて、言葉を交わしていたいと思うのだ。



       * * *



 その夜、夕方から刻一刻、明かりが薄くなるにつれ、京の鴨川沿いの道々は人であふれた。


 辺りの店が電気を消し、大きな街路の歩道と、いきすぎる車と、うごかないほど客をつめこんだバスが白々と光を放っている。


 優は叔母の(やすら)と一緒に、出町の橋の下の河原に、少し前からならんで立って、東の山に火がともるのを待ちのぞんでいた。


 橋の上は人でごった返している。河原も人だらけだが、優のいる辺りは、比較的、すいている。安が見物に慣れていて、優ほど背丈がなくとも、人と人のすき間からきちんとみられる場所をしっていたのだ。


 叔母はすっきりした半袖のワンピースをまとっている。優はといえば、かわりばえのしない、ジーンズにシャツという出で立ちだったが、祇園祭のときとちがって、周りにも似たり寄ったりの格好がけっこういる。


 五山のひとつ、最初の送り火、《大》の文字の点火は夜八時。

 みな、そのときを待ちかまえて、携帯端末とにらめっこしたり、カメラを東へかざしたりして、弱い光が無数にちらちらしている。こんなことで、大文字の遠い炎が目立つのか、心配になってくる。


「もうそろそろね」


 隣で安が、ひかえめながらはしゃいだ声をもらした。

 そうですねといって、優は時計代わりの携帯端末を、さすがにみるのをやめようかとポケットに押しこむ――。


 その瞬間、端末が振動した。


 なんだろう。(はじめ)や、クラスの誰かからの、メッセージの着信かもしれない。そう思ったが、振動はつづいている。メールや新着コメントなら、こんなに長くふるえない。


 電話――。

 とっさにポケットからとりもどし、受話ボタンの操作と同時に耳にあてた。


「はい」


 わああ、と、なんとも表しがたいどよめきが辺りに起こった。端末の表示は《20:01》……最初の文字に火がつけられたのだ。


 周りの声、音、光と熱気のうるささにまぎれて、受話器の声は耳をおしつけてもうまくきこえない。


「もしもし!?」

「優――」


 しらない携帯番号。しっている声。


「――」


 なにもききとれないのに、優はさっと顔の向きを変え、あいている方の耳をふさいだ。


「雪平?」


 泣いている。


 安が、ちらとこちらをみたような気がした。


 受話器ごしの声はほとんど涙声で、なにをいっているか、こっちの喧騒ではすくいとれない。

 指をひろげて水をうけるように、とりこぼしていく。


「どしたの? いまどこ!?」


 まだ雪平とは信じられない、そう断じたのは自分なのに、普段の彼女とはかけはなれていて。


 かぼそい声が、コツンと耳にとびこんだ。


「電話ボックス」

「電話ボックス? どこの!?」

「学校、の」


 ――あそこだ。


 優はふりかえって安をみた。


「安さん、あの」


 何といったものか!?


 叔母はまじめな顔で、優の目をみて、こくりとうなずいた。

 一瞬、ほっとして、優はなんとか説明する。


「すみません、友だちが、泣いてて。ちょっと行ってきます」

「どこまで? バスなら臨時ダイヤだから、気をつけないと」


 つい、息をのむ。――後押ししてくれるのだ。

 なにかこみあげてきそうだった。


「――学校のほうです。すみません、連絡します。すぐ戻ります」

「うん。いってらっしゃい」


 出町柳の駅前から乗るといいよと、安の声が駆けだす優の背中を追いかけた。メールしてね、とも。


 優は河原を駆けあがり、人ごみを縫ってバス停へいそいだ。ときどき、通りをみまわし、バスがいまにもくるかと気を揉みながら。

 ようやくバス停につくと、遅々としてこないバスを待ちわびて、客たちも東の方の大文字にみいっている。

 そこで初めて、優もその火の列をみる。暗い夜のかなたの山の、斜面に横たわる、大の文字。バス停と街灯の明かりなど敵ではない。鮮やかな、強烈な、あかい炎。


 ……雪平が泣いている。


 やがて停車したバスに乗りこみ、優は夜道を東へひた走る前の方ばかりみつめた。


 こうしていると、学校は結構、遠い。広い道をほとんどまっすぐ、東へむかうだけなのに。端末の表示時刻はどんどん数をかさねていく。五山送り火は五分ごと。もう二十分もすぎている。

 ひとつの文字がどれほどつづくのか、そんなことも優はしらない。

 窓の外をみても、バス通りは建物にはばまれて、最初の大文字さえめったにみれない。

 着実に、そちらへ近づいているはずなのに。


 なにも考えられなかった。


 学校最寄りのバス停についたのは、一体、何分だったろう。

 優はバスをとびおり、学校への夜の坂道をあがった。坂の途中に、近所の家族だろう、テーブルやクーラーボックスを出して西方の山をみていた名残があった。


 朝や昼間とは別人のような顔でたたずむ学校の看板。それを横目に、優は道をえらぶ。めざすのは学校ではない。


 消えいりそうな声が告げた場所。

 疏水にかかる小橋のあちら。


 夜の闇の下、細い坂道の上。


 四角い暗いグレーのドアの前に、小さくうずくまる影があった。


 優は最後の坂を駆けあがった。


「雪平」


 声を――荒らげていいのか、控えたほうがいいのか、わからない。


 びくりと肩がふるえて、膝にうもれていた顔がこちらをみあげた。


 夜目にも泣き崩れているのがわかる。

 弱い街灯の光にも、きらきらと涙目が反射する。


 なんと、いっていいのか。

 立ちつくす優に、片手をのばして、すがりつくように立ちあがり、雪平は優の肩に顔を押しつけた。


 うっと、おさえたような嗚咽をもらして、たえきれなくなったか、啜り泣きはじめた。


 しゃくりあげたり、ううと唸ったりして。両腕を優の背中に回し、がっちり握りしめるので、優は肘から上がうごかせない。


 なんとか身動きを確保し、背中をさすってやろうとすると、彼女が和服を着ていることに気づく。帯の、華やかな結び目の硬いこと。

 もうちょっと手をのばして、優は和服の襟の下の、雪平の背中にあてた。和装なら、きっと結いあげていたのだろうに、髪はなすがまま背中と肩に流れ、首から下とえらくちぐはぐだ。


 泣き声がしずかになったので、優はつとガラスつきのドアをみた。


 暗すぎて、その中の公衆電話はほぼみえない。


「……中にいるのかと思った」


 雪平はなにもいわず、顔もあげず、優のシャツの肩に額をこすらせて首を横にふった。


「わたしの番号、しってたんだ」


 答えを期待しないで、間を持たせるようにいうと、不意に肩がかるくなった。


 顔はまだみえない。


「きいた」

「誰に?」

「清先輩」


 清に教えたおぼえもない。


「――に、きいたら、晴先輩が教えてくれた」


 あの人……(あいつといいたいところだけど)。


 あれでもきちんと生徒会のトップなので、メンバーの連絡先は把握しているのだ。

 やったことは職権濫用だが、昼間の口ぶりからして、優の思いは全部ばれている。批判するのもばかばかしい。


 腕の中の少女は、清に電話して、それで、晴を経由して。


 優でよかったのだろうか。


 こうして、駆けつけるのが。


 そう思ったが、優はきかないことにした。


 呼びだされたのが自分なら。それも、人にきいてまで番号をしろうとしていたのなら。


 もう。


「……すぐる、なにしてたの」


 みられるのがいやなのか、雪平は優の肩にまた顔をつけ、シャツごしの肌に息を吹きつけるようにしゃべる。


 暑いが、もうどうでもいい。夏は夜だ。


「大文字の点火をみそびれたよ」

「点火がみたかったの?」

「うん、どうせなら。でも()ききったあとはみたから、いいかな」


 バス停と、バス通りのすき間から、燃える遠い炎を、あんな思いで。


 ほかの文字も、みれるものならみたいと思っていた。安と一緒にいれば、散歩するように、他の文字のみえるところへ移動していたのかもしれない。

 いまや、そんなことは些末なことだった。


「……」


 いつもなら、ぽんとこたえがあるはずのところで、雪平は黙った。


 まだ本調子ではないらしい。


 優は雪平の黒髪の上、坂道をみあげる。右へ折れれば学校が、まっすぐいけば未知の空間がひろがっているのだろう通路。


 雪平の答えはない。

 何があったのと、きいていいのか、さっきからずっと、まよっている。


 人偏に憂うだけでない。優の名は、優柔不断の優でもあるのだ。

 いやになる。


「優」

「ん?」


 いつもより高い、細い声が、首筋と耳もとをさまよって、拒むほどでないがくすぐったい。


「バスの最終、時間、みてきた?」

「あ……みてない」


 やばい。


 ここにくるあいだ、叔母の安に一度はメールしたが、帰りのことまで気が回っていなかった。


 それを気にするのかと、それならもうじき帰るのかと。優がうごこうとするのを、とどめるように、雪平はがっちり抱きしめてくる。


 どうしたいんだ。


 とりあえず、優はうごくのをやめる。


 優、と、じわりと汗のにじむ首もとと、熱を増すふれあう面に、わかっているのかわかっていないのか、雪平は小声を吐きかけた。


「会いたかった」




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