ほし (1)
その噂がきこえてきたのは、球技大会が終わってしばらく経ってからのことだった。
「なあ、優ちゃん」
高等部一年生は、六月、校内で学習合宿をしていた。もとは寮だった建物を転用した合宿所で、一泊二日の共同生活。中間テストの結果を受け、各々の目標を掲げ勉学に専念するのがおもな目的だが、そこに重きをおくのは、精々、授業中が限度である。
同じクラスの仲のいい何人かで、就寝前のわずかな時間、同じ部屋にあつまると、はしゃいだ声の中へ不意に、シリアスな声が割りこんできた。
優はなにごとかと、声の主をみやった。か組ではおとなしいほうの、尋という生徒だ。
「た組の、綺麗な子と仲いいやろ」
一瞬で、雪平のことだとわかった。
つい照れそうになって、それを隠そうとし、優は内心あわあわしてこたえた。
「雪平? うん、そう、みえるかな?」
実際、いわれるほど仲がよくもない気がするが、そう思われるのは正直、うれしい。
優が微笑をおさえられずにいるのに、尋は、変に深刻そうな表情をくずさなかった。
「あの子、最近、変な噂あるで」
気づけば、周りの生徒たちも、こちらの話に集中している。優は辺りをみまわし、あらためて、尋の顔をみつめた。
「なんや、柄の悪い子たちとつるんでるらしいねん。街で先生がおらんような時間に、私服で遊んでるの、塾帰りの子がみたって」
「え――」
優が反応する前に、別の子が同じような口調でいった。
「わたしもきいた。男とおったって。それもええ大人の」
「わたし商店街でみたよ。た組の一人、近所やから、ようそのへん遊んでるねん」
「それ、星やろ」
「そうそう」
「神戸で他校の男子らとおって、補導されかけたの、去年やんか」
「あんとき逃げ切ったんやろ。よう進級できたわ」
立て続けにしらない情報がなだれこんでくる。優はきょろきょろと、うつりかわる声の主をみまわした。
「えっと」
それだけいうと、輪の中でただ一人、黙っていた一がぽつんという。
「優はしらんやろ」
そやな、と、何人かがうなずいた。
尋と仲のいい、爽という生徒が話題をひきとる。
「た組にな、何人かそういう子がおるのよ。一番目立つのが星っていって、髪長くて脱色しとる、派手な子なんや。その子らとな、雪平さん、最近仲いいらしい」
「球技大会で、同じ種目になったみたいで。それからようつるんではるって」
優がぼんやりしていると、尋がすぐあとにつづいて、優に心配そうな目をくれる。
「優ちゃんは、そんな心配あらへんと思うけど」
どういう意味か、少々、判別しかねた。
「気ぃつけた方がええよ」
「――」
それは……本当に、一体、どういう意味でいっているのだろう。
なんやかんやで、輪の中で優の正面にいて、一が顔をしかめるのが、はっきりみえた。
多分、同じ気持ちでいてくれている。
それだけで、一にいますぐ飛びつきたいような気もした。
「消灯!」
シスターの大音声が廊下にひびいた。輪の誰もが、びくりとし、大急ぎでそれぞれの寝室へちらばっていく。
優は一と同じ部屋だった。それがこのとき、心底、ありがたい。
「あの子らのいうこと、結局は他人事やねんわ」
うん、と、優は、小声で相槌を打った。蛍光灯に照らされた夜の廊下を、一緒に駆けもどりながら。
一はつづける。
「自分に害がふりかかってこおへんならいいねん。優は気に入ってるけど、雪平さんのことはどうでもええやんか」
「……」
「更生させるんなら好きにしたらええけど、切り捨てたってもええんやて、そういってるねん」
優は息をのんだ。
寝室に入りぎわ、優の気配を敏感に察して、一はこちらを気遣うようにふりあおいだ。
「ほんま、現金やわ。――何、まさか泣かへんよな」
優はうまくこたえられなかった。
一の、雑といえるほどぶっきらぼうないいぐさの、内側にある温かさと、さっきの皆の温情じみたことばのシビアさと。
たしかに、現金だ。そういってしまえる、一がすごい。
泣き笑いのような衝動にかられそうだった。
一をみおろして、優は口角をあげた。
「一がやさしくて、泣きそうだよ」
一は部屋に入ったところで、鴨居の下の優をみあげ、目をみはった。
シスターのものらしき足音が近づいてくる。部屋の電気を消すと同時に優を中へひっぱりいれ、一はドアをしめ、ついでに優の腕をひっぱたいた。ほぼ一瞬で。
「あほか。そんな殺し文句、本命にとっとき」
優は思わず、笑い声をもらした。たちまち、ドアがシスターの手でふたたびひらかれ、あわててベッドへもぐりこむ。
優がこの際、皆にきこうと思っていた、華道部に関する情報については、のちにとんでもない事実が待っていたのだけれど。
なんと、学内に華道部はなく、日本舞踊部もなく、道理で優も入学直後に思いださなかったわけだと、納得するはめになったのだけれど。
この晩の優は、それどころではなく、美しい雪の化身が夜をさまよう京の街の幻影に、気がかりばかりつのらせるのだった。
* * *
京都の子は近所にそういう付き合いがあったり、生家がそもそも家元だったりで、京の真ん真ん中の女子校ともなると、茶華道・日舞を部活動でやるニーズなどほとんどないらしい。
伝統芸能系の部活がないのが、どうやらそういうわけだと察せられた。優はしばらく思いなやんだすえ、叔母に相談し、実家の母にもやがてことわって、月謝制のお稽古を始めた。先輩の鎮よろしく。
月謝のために、ささやかな貯金をはたこうかと考えていたが、叔母はすぐ、その考えをしりぞけた。優の学費も生活費も、十分以上に優の父からあずかっているから、遠慮するべきではないといって。
当たり前の話かもしれないけれど、なんとなく、ショックだった。自分が結局、向こう見ずに親もとから距離をおいただけで、離れられたわけでも、自立できたわけでもないのが、はっきりわかった。それが当然すぎて、もどかしかった。
月々の小遣いも、ちょっとずつ積みかさねてきた貯金も、もとをただせば何ひとつ、自力で手に入れたものではない。
優は叔母からあずかった、つまるところ親のくれた月謝の封筒を持って、その日、職員室をおとなった。
「失礼します」
一礼して顔をあげ、室内をみまわす。最初、目が泳いだが、じきクラス担任の姿をみつけた。
近視が進行してきている。
「華道だな。確かに。空いてる枠があってよかったよ」
抑揚は京都風ながら、言葉はほとんど標準で話す担任は、おのずと銀縁眼鏡のラスボス的先輩を思わせる。
よろしくお願いしますと挨拶し、優がさげた頭をあげたときだった。
「その髪、染め直しや!」
怒っているのではない――ただきっぱりとした、強い声が近くでひびいた。
みると、ヘイゼルといっていいほどあかるい髪の、毛先をゆるくカーブさせたのが、華やかに背中へひろがる生徒が立っている。
ほっそりした――雪平と同じくらいの背丈だろうか――体つきはもう少し、活発そうではある(雪平のそれは、いかんせん、人形じみた美しさである)。ふと、思いあたった、球技大会で仲良くなった、補導されそうになって逃げきったというエピソードが、そのまましっくりきてしまうような。
後ろ姿の生徒は、わずらわしそうに片耳をおさえ、首をよじらせた。
「ええやない、こんなん、飾りや。派手な方が目立ってええわ」
「それを悪目立ちいうんや。目立ってどないすんの。もとから綺麗な髪やのに、もったいない。親からもらった大事なもんやろて、昔はいうたねんで」
「最後いらんわ、カンちゃん。もっと今時に説教変えてや。台無しや」
「綺麗な黒髪に戻しといで」
「染めても戻らんで」
「いいから、染め。ほんで今日は結うか切るかどっちかにし」
「なんでその二択!? 横暴やわ」
「じゃあ結い」
「えー。不器用やから結えん」
「座り。しばったる」
「嫌や。ゴムだけ貸して。みっちに結うてもらう」
奇妙にうわずったような、高い声で、早口でその生徒はいう。ぱっと教師の手からヘアゴムを奪い、身をひるがえすと優の横を通りすぎた。
あかるい髪がなびく、一瞬前に、薄い眉と淡く色づけた唇、まつげを強調した目がみえた。
目が合った?
「星! いい加減にしいや! 明日戻さんかったらほんまに切るで!」
《星》――。
あかるい髪の毛先すら、とうに失せた戸口をみかえって、優はたまらない気がした。
あの生徒だ。最近、雪平と仲がいいという噂の《派手な子》。
生まれたままの髪の毛を、ただの飾りといいきって、色も形も変えてしまう。
それを雪平もするとしたら。あのすんなりした艶のある髪と、調和のとれた肌と目、まつげ。そのすべてが崩れてしまう。
「ほんとに、しゃあないなぁ」
優のクラスの担任が、独り言のようにもらして、カンちゃんと呼ばれていた、た組の担任と目配せしあった。
優はすわっている担任の姿をみおろし、なにかいおうとしたが、うまい言葉が浮かばなかった。
途切れ途切れに話す。
「先生、いまの――染めてるんですか」
「染めるっていうか、脱色だろうな。本人は抜けた言い張ってるけど」
その返事に、優がこたえずにいる間に、教師はおだやかな微笑をこちらへくれた。
「なに、心配しないでもいいよ。優が地毛だっていうのは、保護者の方からもちゃんときいてる」
優の憂いを、担任は、別のものと解釈したらしい。
いわれれば思いだすが、優はもともと茶っ毛だ。そのうえ癖っ毛なので、小さいころから目立つのを避け、ほとんど髪を長くしたことがない。
黒く染めることを、考えたことはある……周囲にとけこむために。それを思えば、生まれたままの姿で生きるなど、はなから無謀なことと思えなくもない。
別に規準などないのだ。盲目的に、多数にしたがうことを善しとする。
雪平のことだ、あの美しい姿を、おのれの手と意思で改変するのなら、徹底的に調和をはかるかもしれない。
それがなりゆきかもしれない。
それを惜しむのは、ただ、優の感傷か、わがままだろうか。
「まあ、折角だ、華道頑張りな。うまくできたら見せてな」
ほとんど優が忘れていた本題を律儀に蒸しかえして、担任は用件をきりあげる。
はい、よろしくお願いしますと、優も型通りにこたえ、一礼して職員室を出た。
* * *
「絶対、六花さんや。それしか考えられへん」
放課後の生徒会室前へさしかかると、京風の耳にふんわりした、それでいて低いところはしっかり低く、高いところはやけに高い、振り幅のひろい声が廊下までとどいていた。
毎日のように、この部屋でよくきく声である。中等部三年生の、芙蓉の声だ。
「ほかにないやろ。なんかある? 織姫さんと同じくらいばっちりやで」
「まあ、そやな、芙蓉はなんやかんやで一番、先輩とつうつうやもんな」
「嫌やわ、そんな言いかたせんといて!」
ばしんと肩を叩く。言葉とは明後日の方向で、声は高く、たしかによろこんでいる。
優は戸をあけたところで、身をくねらせてうれしげな芙蓉と、同じ中三の実里が、仲良く窓辺にならんでいるのをみた。
窓辺だったのかと思う。声のきこえかたからして、もっと廊下の近くにいるのかと思った。
「何の話?」
実里、ついで芙蓉と、目が合ったのできいてみる。
芙蓉はぷいっと顔ごと横へそらした。
「なんでもあらしまへん」
「こっちの話です。すみません」
芙蓉の態度はともかく、実里に正面からあやまられると、優としてはそれ以上、つっこみにくい。
リッカ……織姫?
何の話か、さっぱりわからない。
「そういえば、このあいだ誰か、彦星がどうとかいってたな」
いつきいたのか思いだせないが、この部屋でだった気がする。そのときも、何のことか、優はわからなかったのだ。
独りつぶやくと、斜め後ろから声がかかった。
「それ、会長のことよ」
ふりむくと、いつの間にやら、そばに柾が立っていた。
優の入ってきたときには、テーブルの廊下側についていたのである。
「会長、ってことは、晴先輩?」
優がきくと、柾はおっとりうなずく。
「彦星?」
「そう。そう呼ばれてるんよ。そんで、織姫さんが清先輩」
なにがなにやら。優が呆けていると、なあ、芙蓉ちゃん、と柾は後輩へ水をむけ、芙蓉が渋々といった体で肯んじた。
「はあ」
実里と楽しく話していたときとは打って変わった、仏頂面である。
「生徒会に限らず、人気のある先輩にはそういう、あだ名みたいなのがあるんよ。あだ名というか」
「尊称です」
むすっとしたまま芙蓉が主張し、柾は微笑んでそのことばをひきとる。
「――なんよ」
「へえ、尊称……」
そういわれても、優には、ぴんとこなかった。そういうものなのだと、受けいれるしかない類いのものらしく思える。
「――晴先輩が《彦星》さん?」
「ああ、そやな、違うんよ、ほんまは《さま》なの」
「さま? 《彦星さま》?」
「そう、そう。うちらは、それ、言いづらいねん。言えへんのよ、何々《さま》て」
「そうなの?」
「《さん》になってまうねんな。直らへんのよ、なかなか」
芙蓉は唇をとがらせたまま、またもやそっぽを向いていた。その分というわけでもなかろうが、実里が柾をみかえし、熱心に首を縦にふる。
《さま》がいえない。そんな小さなことが、優はわけもなくおもしろかった。
「気持ちは《さま》なの?」
「そうよ。気持ちは《さま》よ。神さ・ま、かて、頑張らんと言えへんのよ」
「《神さん》?」
柾はうなずく。
「そっか。みんな《マリアさん》いうてるもんね」
優が訳知り風に応じると、柾はふわっと噴きだした。
「優ちゃんも大分、うちらにつられてるわ」
柾が笑っただけでなく、実里が素直に笑顔になったので、芙蓉もなんとなく表情をゆるめているのがみえた。場がなごんだことで、優が内心、胸をなでおろしたときだ。
「何の話?」
肩に息がかかったような錯覚がした。
ぎょっとしたが、そんな優以上に、芙蓉が悲鳴じみた声をあげた。
「ひぇっ、ゆゆ雪平先輩!」
そんなおどろきかたがあるだろうか。不審に思うくらいのおどろきようである。
優のかたわら、腕がふれるほど近くに立った雪の化身は、きょうも端然と美しい。
学内の心ない噂など、はねかえすかのごとく、毅然として高い鼻筋の横顔が、芙蓉をまっすぐみつめていた。
こんな美人にまっすぐみつめられたら、あわてるのも無理はない。芙蓉の反応は、ただ素直なだけだったのだなと、優は考えなおす。
「どれだけ驚いてるのよ。内緒話? あたしには教えてくれないの?」
「あぁ、いえ、そのぅ」
隠してるわけじゃ、と、しどろもどろになる芙蓉をみかねて、優はつい、雪平に声をかける。
「雪平、そんなにつっこんだら、芙蓉ちゃんがびっくりしちゃうよ」
「そんなこと。いつもこんなもんよ、ねえ」
一瞬だが、しっかり優に目を合わせて、雪平はすぐ、芙蓉に目を向けた。
そやけどぉ、と、尻すぼみに語尾をふるわせ、芙蓉は隣の実里のうしろに隠れようとする。
その行動の理由はわからないが、意図するところは、とってもわかりやすい。
「わざとらしい。実里ちゃんを盾にしないの。芙蓉ちゃん、出てきて言ってごらん。あたしに隠し事する気?」
「言われへんねんもん~」
「また敬語が抜けてる。ちゃんと言いなさい」
「言われへんです」
「ほら、おかしな言葉遣い」
「言われしまへん。もう、堪忍してください~!」
実里を挟んだそんなやりとりを、雪平は完全に楽しんでいるようだった。
若干、同じ気のありそうな芙蓉はともかく、あいだに無表情で立つ実里がなんだかみるにみかねて、優はやっぱり、もう一度割ってはいった。
「雪平。その辺で。実里ちゃんがかわいそうだよ」
「大丈夫よ。わかってて芙蓉と仲良しなんだから」
なんて身も蓋もないことをいうんだろう。
絶句して実里をみると、実里は黙ってうなずいた。
うなずくのかよ、と思い、優はこっちの論法での説得をあきらめる。
ほかの方法を考えなくては。
「あー、つまり……芙蓉ちゃんはこれが楽しいんだから絶対いわないよ?」
「人をドMみたいに言わんといてください!」
「それは一理あるわね。わかった、引きさがるわ」
芙蓉の非難と雪平の納得が、ほぼ同時だった。
涼しい顔をしている雪平を唖然としてみつめ、それから芙蓉は、なぜか優をきっとにらみつけてくる。
「優先輩のいけず!」
わたし!?
思いのほかの評価で、衝撃だった。
ふんと鼻をならし、踵をかえして、窓際の隅にむかう芙蓉を、実里が追いかける。
「こら、芙蓉!」
芙蓉はあえて反応せず、無言でお茶の支度を始めるのだった。
呆気にとられて、優は後輩二人の背中をしばらくみまもった。
いけず、といわれてしまった。人生で初めて……(なにせ、そんな言葉を遣われる環境に、いままでいなかったので)。
「なにがいけなかったのかな……」
つぶやくと、雪平がぱっとこちらをふりあおいだ。
「いけなくないわ。当然、芙蓉ちゃんが悪いのよ。あとあたしと」
「――? 雪平は悪くないでしょう」
優が首をかしげると、雪平は、片頬と口角をうごかし、半笑いのような、目をすがめるような表情をした。
「お茶、飲むでしょ、優」
もらってくるわといって、美人は黒髪をひるがえし、いましがた離れたばかりの後輩の背へ近づいていく。
なにかいいたげにみえたが、ちがっただろうか。
優は黙って、後輩たちに話しかける雪平をながめた。
仮に、なにかいおうとして、やめたのだとしたら、あの一瞬で雪平は話題を変えてしまったのだ。
なにをいおうとしたのだろう。それを呑みこんだのだろうか。そうさせたのは、優だろうか。
そう思うこと自体、ただの思い過ごしかもしれないけれど。
食器棚から優のカップをとりだし、こちらをちらとふりむいて、雪平が微笑んだ。
しらぬ間におぼえていてくれたらしい。中学生のころ、誕生日に友だちからもらって、使わずにしまっていたマグカップだった。
雪平がいつの間にか持ってきていた自分のカップは、厚手で、くっきりしたシンプルで鮮やかな花柄の、有名なブランドのものだった。
雪平が自分でえらんで買ったのか、それとも、優と同様、もらいものだろうか。
似合いはするけれど、違和感といえば、違和感でもある。なにがそう思わせるのか、はっきり、これとはいえないけれど。
もしかしたら、実は、本人がそういう趣味なのかもしれない。
そんなことすらまともにきけない立場でいることが、優をたまらない気持ちにしていた。
* * *
期末テストの終わりに祇園祭が待っている。七月の京都は、どこからともなくお囃子の音がきこえ、なにをしていても浮き足立ってしまいそうだ。
テスト前は部活動もない。生徒会活動もそうで、優は日曜日、CDショップに寄ったついでに足をのばして、本屋の雑誌コーナーをひやかしていた。
参考書の棚も一応、みてはみたが、テスト前になって問題集など買いあつめてもやりきれない。そっちは手持ちでなんとかするとして、いま読みたい本は、この際、古本屋までいってさがしてみようか。テスト前ほど別のことが気になってしまう。
雑誌は、最新号が一番いいから、こっちの本屋がいい。雑誌コーナーには、しかしここが京都だからか、最新とはいえないものまで、京都を特集した表紙がずらりとならんでいる。
せっかく住んでいるのに、優はほとんど、この古い都のことをしらないのだった。
中には、広島ではみかけたことのないタイトルもある。優は一冊、手にとり、ぱらぱらとページをめくった。京都市内のパン屋や、新規オープンのレストラン等々。
「待ってや。もう済んだ?」
通路をいきすぎるガヤガヤと騒がしい一団の、一人の声にききおぼえがあるような気がして、優は京の町屋の記事から目をあげた。町屋で宿泊できるサービス、伝統工芸体験……。
「先に出てて」
聞きたがえるはずのない声。よく通る、艶のある声。
さっきの声につづいたのは、きれいな標準イントネーションの、ただ一人、雪平の声だった。
書架と書架のあいだに、すらりと姿をあらわし、こちらをみた目がばちりとかちあった。
雪平はやや目をみはり、すぐ、にこりと、深い笑みを優によこした。
黒髪を後ろへなびかせ、次の書架の蔭へ消えていく。
おそらく、レジへむかったのだろう。すぐあとに、カウンターの店員がしゃべりだす声がきこえてきた。
優は、呆然と……そうとしか、いいようがない……しばらく呆然としていた。
笑み。あの瞬間の。
あでやかな――あれは、一体、どういう笑みだろう。声をかけないで、たしかにこっちをみとめた、目が合った。優だとわかったはずだ。口をきかない仲でもないはず。
直前にきこえたのは、星という子の声だったのかも。
連れがいた。あの騒がしい一団の、中にいた?
そんなとき優に出くわして、はにかむでも、困るでも、惑うでもなく。まして、話しかけるでもなく。
笑み。
一切、わからない。
あの美人が何者なのか、金輪際、わからない。
彼女の正体にくらべたら、どんな難問もやさしく思える。期末テストにその問いがなくて、本当によかったと思う。
そんなわけで、最大の難問が優の頭のてっぺんを占めていたので、テスト勉強は意外にはかどった。手ごたえとしても、まずまずの結果になりそうだった。
テストの最終日、午後の授業もなく、部活動も早めに解散となって、生徒たちは祇園祭の宵山へくりだす。優はクラスメイトたちに誘われ、一緒にいくことにした。
夕方、四条のデパートで待ち合わせ。皆は浴衣をまとって着かざっていたが、優だけ、Tシャツにパンツ姿だった。和装にコンプレックスがあるのもひとつの理由だが、もっと実際的に、けっこうな雨模様だったのである。
台風が近づいてきていた。雨は降ったりやんだりで、街のそこかしこに建てられている山鉾も、いつもの建てかたとはちがうらしかった。
皆が傘や荷物に難儀しつつも、きゃいきゃいとはしゃいでいるのが、可愛らしかった。一がちゃんと浴衣を着ていて、それが小柄な体に似合っていたのも、みれてよかった。
飛びぬけて一人、背が高いので、雨のぱらつくときは優が傘をさした。目印にもなって重宝がられたと思う。
翌日の本番、山鉾巡行は、雨天ながら決行された。優はおもに京都のローカル局の生中継でそれをみていた。
テスト休みだったし、京の家の生徒は多かれ少なかれ、なにかしらの行事があって、ひまでもなさそうだ。男子なぞ、この時期、お囃子の練習と期末テストが同時進行するのが常だそうな。宵山の最中に、クラスの子らが、どこかの鉾にいた知り合いらしい男子とそんなことをしゃべっていた。
いろんなおつとめがあって、都の子は忙しいのだ。
叔母もその日は用事があって出かけていたので、優は家に一人だった。
一度、噂にきこえた山鉾の辻回しなるものを、ひと目だけでもみようかと、通りまでくりだしたものの、辻、すなわち交差点の付近は見物客がひしめいている。そのうえ、傘ではふせぎきれない大雨で、風もないのに立っているだけで足もとからどんどん濡れてくる。
ちょうど通りすぎた一つ、二つの曳き回しをみたのをしおに、優は観光客の熱意に感心して、さっさとひきかえしてきてしまった。
生徒会で、祭にいこうという話が出なかったのは、おそらくそういうことなのだろう。
たしかな理由はないが、そう思う。
《織姫さま》、そう呼ばれる清先輩は、老舗の呉服屋のお嬢さまだという。中三の芙蓉も、家がふるくからやっているお店のようだ。会長の晴は、いまひとつ京都っぽくないが、どうにもこうにも、わけありくさい。
そして、そんな人たちに囲まれて仲良くやっている、あきらかにわけありの雪平が、なんのいわれもない家に寝起きしているとは、考えるべきでない。
居間のソファにすわってテレビをつけたまま、耳は外の土砂降りの音をひろっている。
「…………あー……」
声に出すまいとしたが、少しばかり、もれてしまったかもしれない。
テレビの音と雨の音がやかましく、周りにはきく人などいないけれど。
考えると、気が滅入りそうだった。
雪平がわけありだとして(いや、いまさら、疑うべくもない。なぜって、第一、あの標準イントネーション!)生徒会に入りたがり、清や芙蓉と仲良くしているのに、最初は優と一緒に入会したがったこと。
出汁………………いや、いいようにつかわれた、のだろうか、なんて。
ぐしゃぐしゃにぬりつぶそう。
「うん!」
急に独り大声でうなずいて、立ちあがる。優は叔父の古めかしいコンポのスイッチを押し、洋楽のラジオを流してテレビの音を消した。カウンターキッチンへむかい、鼻歌をうたいながら食器を洗いはじめる。
考えてもわからない。そんなこと、何度も考えて、何度もわかっていたじゃないか。
最大の難問だ。あの美人の、頭のきれる、魅惑的でやさしくないのなんか。
休み明けにはテストが返ってくる。できないところもあったけど、わりとできていたと思う。なにせ雪平のこと全部よりは簡単だったんだから。
星とか――あの笑顔とか。なにか別のことを考えよう。
一は家が滋賀らしい。いわれてみれば、京都っぽさが薄い気がするような、よくわからないような。でも、浴衣の立ち居振る舞いが、どうやら和服を着なれているようにみえた。宵山のときは籠バッグから出てきた小型のデジカメから、さりげなくのがれるのがひと仕事だった。
なにが写っているのだろう。優が一回、あからさまに避けたので、そこだけ高速でブレてると非難していた。
撮ったらあかんもん撮ったみたいになっとるやん! と。
ふてくされていても、楽しいのがベースにあったので、楽しかった。優もカメラのレンズを、冗談みたいにやりすごすことができた。
そう――それで、十分楽しい。
しらない土地にきて、一緒に遊べる友達ができた。それ以上なんて、ないだろう?




