そら (1)
ざんばらの髪の毛を、袂からとりだした簪ひとつであっさりまとめあげる。
なにごともなかったような表情で、しかしその目は泣き腫らして、雪平は夜のバスに、いつもと同じ、優とは反対方向へむかって乗りこんでいった。
夜の横断歩道を、優も反対車線へむかって渡った。バスは意外に遅くまで走っていた。
しらぬ間に叔母からメールと電話があり、優は叔母へ折りかえし、いまバスを待っているところだとしらせた。
送り火で人出が多い夜ではあるけど、もう遅いからくれぐれも気をつけてと、安はさとすようにいった。かすかにとがめるような響きが、なぜか、少しうれしかった。
雪平の泣いていた理由を、優はついにきかなかった。雪平もそれにはふれなかった。
なんのいいわけも、約束もしないまま、いつものやり方をなぞってわかれた。
そのあとの夏休みも、変わったことなどなくすごした。毎日、塾へいったり、精々図書館へいったりして、長期休暇の課題を地道にかたづける。
携帯端末には、間違いなく、あの夜の着信履歴が残っている。ときおりそれをみかえすたび、どうしていいかわからなくなる。
優の携帯端末は、彼女からの連絡でだけは、その間、一度たりともふるえなかった。
私室の机の上で、着信をしらせるランプが光っているのをみつけたのは、夏休みをあと一日残すばかりの夜である。
シャワーを済ませ、居間のソファでバラエティ番組をみながら叔父と安と家族みたいな時間をすごした、それで気づくのが遅れてしまった。
机の前で端末をとりあげ、電話番号をみて、まず動揺した。
ものすごくみたことのある番号だった。みすぎて、つい触ってしまって、履歴を残してしまったのかもしれない。着信履歴でなく発信履歴かもしれない……しかし着信と書いてあるようである。
みたことのある番号だ……間違いかもしれないが、間違いでないようだった。
あの夜以来、優は結局、あの番号を登録していない。本当に彼女個人の携帯電話の番号なのか、確信が持てなかったからだ。
一旦、机に置きなおし、ベッドに腰をおろして、しばらく考える。
ああ、そうだ。着信履歴を、きちんと過去までさかのぼって、日時をたしかめればいい。本当に前と同じ番号か、ついいましがたの着信か、たまたま過去の着信をみまちがえたのか、確認できることはいくつかある。
そうするべきであった。そうだそうだ、そうしよう。立ちあがって机の前に立ち、携帯端末に手をのばす。指がふれる直前、それがふたたび振動した。
ぱっと手を遠ざけ、番号を視認し、瞬間的に受話ボタンをタップして耳に当てた。
「優?」
なにをいおうか、まよっているすきに、おぼえのあるイントネーションが鼓膜をふるわせる。
どぎまぎした。この反応の速さ、この抑揚。雪平だ。
「もしもし?」
とぼけようと思ったわけではない。そのことばが、口をついて出た、唯一のものだったのだ。
仕切りなおすかのように、雪平の声が多少、あらたまった。
「こんばんは。雪平です。優、あした、ひま?」
こんばんはと、悠長に同じ挨拶をかえすいとまもなかった。
あし――あした?
夏休み最後の日だ。
何の質問だろう。意図するところがわからない。
わからないながら、とにかくこたえる。
「うん。予定は、ないけど」
「ほんと? 花は好き?」
「花?」
花イコール桜というのは、文学趣味にすぎる発想だろうか。
この夏の盛りに、桜の花などみる影もない。
「うん」
桜じゃなかろうが、花は嫌いじゃない。
「よかった。あたしと散歩しましょ。あした、九時に今出川駅でどう?」
これは――めまいに似た感覚が、不意に襲ってきた。
なにかしらないが、お誘いだ。
それだけは間違いない。
「うん。大丈夫」
「やった。楽しみにしてるわ。じゃあ、おやすみなさい」
上の空で請けあったところで、とどめを刺された。
思ってもみないところに、とんでもない爆弾を落とされて、優はよろめいた。今度こそ同じ挨拶をくりかえすも、ふごふごと口が回らない、なにをいってるのかほとんどわからない発声になってしまった。
おやすみなさい、て。
そのことばを、雪平の声で、電話ごしに耳もとに、きく日がくるなんて。
ぼんやりしている間に、通話は向こうから切られてしまっていた。ツー、ツーと、一定の通信音が受話器からこぼれている。
電話機能を閉じるのも忘れ、優はふたたびベッドに腰をおろした。
よく通る声。
電話ごしで、少しいつもとちがう響きをしていたけれど。
東の方のまっすぐなイントネーションは、変わりがなかった。
夢じゃなかろうか。
どこにいくといっていた? 花? 今出川駅から朝九時に?
夏休み最後の日に。
「えっ」
思わず声をあげ、優は飛びあがった。
クローゼットに駆けよって扉をあける。
何を着ていこう。
今出川から、どこへいくんだって?
携帯端末をみやるも、それがみたびふるえることはなく、優からかける勇気もなかった。なんならトップ画面にもしわすれていたくらいである。
夜も遅いというのに、なけなしの衣類をひっぱりだし、さんざん脱いだり着たりしたあげく、寝ても寝つけない。履いていく靴のことだとか、きめたはずの服のことだとか、待ち合わせ場所までの時間とか。心配事が目白押しで、頭の中が一向にしずまらない。
夏休みの課題を最終日直前にかたづけるような無茶もしたことがない優が、この夜にかぎって、嘘のような夜更かしをしたのである。
* * *
翌朝は、晴れているのか曇っているのかよくわからないが、少なくとも雨ではなかった。早くには実はちらほら降っていたようだが、まあ、やんでいた。つまるところ、それどころではなかった。
普段の自転車でいこうとしていたのを、急に思いなおして、優は徒歩で今出川駅へむかった。幸い、時間はおどろくほどあったし、駅までは十分、歩ける距離である。駅で待ち合わせというのが、駅周辺が目的地だからなのか、駅から地下鉄でどこかへいくためなのか、判断もつかない。
曇っていると思うと晴れたりする、蒸すが照りつけるわけでない残暑の中を、優は目的もはっきりしないまま歩いていった。もうちょっと、努力して目的をみつけるべきだっただろうか、と思わなくもない。緊張しているのか、夢見心地なのか、喉が渇いているのか、のぼせているのか、どれもかれもわからない。
薄々、心配していた通り、駅にもやたら早くついてしまった。はて、どこが目的地で、その場合の待ち合わせ場所は駅のどこだろう。なにもわからないまま、ひまに任せて、いくつかある出口と改札口のあいだをいったりきたりしてみる。地下は地上よりすずしいが、駅のどこかの出口が待ち合わせ場所だとしたら、彼女は地下鉄ではなく地上からくるのかもしれない。地上出口を張るべきだろうか。我ながら、引くほど考えすぎである。
同じところをさまようのをやめ、地下の改札口付近で立ちつくしていると、改札の内側から出てくる人の中に、楚々とした佇まいの爽やかな夏着物があった。
「優!」
その声でよばれた途端、優の目は和装の彼女に釘づけになった。
髪をさっぱりと結いあげて、片手には巾着と日傘――薄手の和服の袖と裾がよくみるとわずかに透けて、冬の終わりの蕾のような香りが立ちのぼってくるようである。
「ごめん、もっとちゃんと、待ち合わせ場所をきめておくべきだったわ。よかった、ここにいて。待った?」
一度にみっつ以上の話題を投げかけないでほしいものだ……優はぽかんと口をあけて彼女をみつめた。
本当に、何の待ち合わせだっけ、これ。
優は半袖のシャツに夏物の薄手のパンツ、スニーカーという、これ以上ないくらいの軽装だ。目の前の少女といると、季節というより時空がずれている錯覚が起こるレベル。
なんてことだ。
目的の人と会ったことで、さらに目的が謎に包まれてしまった……。
「相国寺にいきましょ。蓮の花が綺麗らしいの。もう終わっちゃったかしら」
優が呆然としていると、謎に包まれたはずの目的地が雪平の口からさらりとすべりでた。なんてことだ、闇の中と思われた答えが一瞬で判明してしまった。
これは、と、優は観念した。
考えるのをやめよう。
いま、雪平に会えている。わかるのは、はっきりしているのは、それだけだ。
「蓮か。花っていうから、何のことかと思った」
雪平の言葉の端をつかまえ、それらしいせりふにして返す。会話をないがしろにするつもりはないのだが、彼女としゃべっていると、こういうことが多い気がする。
「蓮がだめなら、芙蓉ですって、この時期は。萩には少し早いみたいね」
流れるように花の名がつらなる。優は隣をあるく着物美人をみて目をしばたたいた。
「花、好きなの?」
「まあ、好きよ」
そういって、ちらと雪平は横目をくれた。
「それよりも、興味があるっていうのが大きいわね」
どういうことだろう。構造とか、繁殖とか、双葉か単葉かとかいうことだろうか。優が混乱しがちなのは、優だけのせいではないのかもしれないという気がしてきた。雪平が一々、謎めいているのか。
「植生になじみがないから」
ショクセイ?
ききなれなくて、雪平が何をいわんとしたのか、優は理解できなかった。
地上へ出ると、日傘をさして、雪平はまよいなく道をすすむ。優はそれにしたがった。
歩道はきちんと整備されており、二人ならんで歩ける幅だけれど、すれちがう人がいるとそうもいかない。しばらくいくと雪平がこちらをかえりみて、日傘をするりととじた。
薄曇りだが、夏の日差しは強い。
「いいの?」
何とも示さずに優が問うと、雪平は前をみたままこたえた。
「いいの。優、隣に立って」
細い指先と和服の袖口が、半袖からのびた優の腕をかすめた。
優はなにとなく車道側にならんだ。歩道との境にはガードレールがあるし、車よけはもちろん、まさか日よけに指名されたわけでもなかろうが。
こめかみの辺りにうっすらと汗を浮かべているが、雪平は涼しい顔をしている。
優も背だけは高いが、さして大柄な方でもないので、日傘がなければ二人、ならんでいても人とすれちがえた。
しかし、道を譲ろうとそばに寄るたび、上品かつ高価そうな着物を、うっかり自分の肌でよごしはしないかと、気が気でない。
「着物」
つぶやくようにいうと、雪平が目だけでこっちをみあげた。
「いつも着てるの? 練習してるんだっけ」
装いに似合わず、雪平は両肩をちょっとすくめた。
「そう。ようやく自分で着られるようになったわ。まだ着くずれがひどいの」
「へえ。すごい、着られるなら直せるじゃん」
「そうね。でも、直さなくてすむのが一番いいわよね」
「そりゃそうだ……」
なんでそこまでして、と、ちらりと思ったが、きくところまでいかなかった。
思わぬ核心にふれそうで、きく構えがなかった。
ふと、この、あわただしいような、幼い子を相手にするような感覚を味わいかえして、面映さとわくわくがまぜこぜになった気分になる。
笑うのも変かと思い、優は不自然に顔をゆがめた。
幸い、雪平はこっちに気づかず、道を曲がると早速、日傘を差しなおした。歩道もないが、車通りもなくなり、ならんだままひろびろと歩ける。
当たり前のように、優の頭も傘にいれてくれた。
「ほんと、暑くて参っちゃう。きょうが曇りでまだよかったわ」
「傘、持つよ」
「いいわよ、差させて」
「いや、頭が、ぶつかる」
「じゃあ差して」
素直に柄をひきとり、雪平が陰にすっぽり入るよう、優は日差しの方向をみさだめた。髪と顔とうなじと、あと出ているのは、両手くらいか。
「巾着、持とうか」
「――なんで?」
申しでてみると、困ったような、微笑のような不思議な顔つきで、雪平は優をふりあおいだ。
「どうみても、わたしの方が身軽かと思って」
「気持ちだけもらっておく。あたしが脱水とか起こしたら、また考えて」
「脱水」
いかにも起こしそうだ。この蒸し暑い中、暑いといいながらこの和装。
手にさげた巾着はどうみても、500mlのペットボトルは入らない。可愛らしさ重視の小ぶりのものだ。
「飲みもの、持ってる?」
「塩飴持ってる」
用意周到なのだか、必要最低限なのだか、どっちともつかない。
まあ、水くらいなら、どうにでもなるか。優がそばについていて、ひとっ走りする元気があれば、問題ないだろう。軽装できてよかった。
行き先が近場で、道が平坦なのも、心丈夫である。
大きな門をくぐると、ひらけた庭に入った。整然と区画され、石畳と生垣がのびる。かなり広そうだが、ここがすべて相国寺の境内らしい。
背の高い木々はまばらで、見通しはいいのに、どこに何があるのかちっともわからない。
入ってすぐ、雪平が口をひらいた。
「蓮だから、池があるはずよ、多分。優、水の匂いはどっちからする?」
「なんちゅう無茶を。そんなさがし方?」
一応、空気の匂いを嗅いでみるが、この高湿度の真夏に、水場をかぎわけられるほどの嗅覚は優にはない。誰にあるとも思えないが。
「適当にいきましょ。あっちじゃない?」
意外な無計画さで、雪平は左斜め前方を指さした。まあいいけども、と思い、優はうなずいて付きあう。たしかに庭らしいところは、右手よりは左手にありそうだ。
少しいくと、すぐにそれらしい場所がみえてきた。夏の光をきらきらと反射する水面がみえる。残念ながら、蓮はすでにほぼ終わっていて、いくつかの花と無数の立ち枯れのような茎に、盛りの風情がしのばれるばかりである。
もう終わっちゃってるわね、と、ちょっとすねたようにつぶやいて、雪平はたちまち身をひるがえす。特に気落ちする様子もない。
ぶらぶらと目的もなく、しかしやけに満遍なく、境内をみまわって、どこの建物に入るでもなく、入った門とはちがうところから外へ出た。
西へのびる細い道をたどる。大きな車道まであと少しというところで、あっと声をあげて、雪平は小走りに角の店まで近づいていった。
優はのんびり後を追う。赤い軒の下に、ガラス張りの壁面があり、中のテーブル席が透けている。フルーツのお店らしいが、開店前である。
くるりと雪平がふりむいた。
「ここ、入りたい」
「おう。まだ開いてないね」
「十時半からだって。いま、何時?」
優は薄っぺらいポシェットから、携帯端末を出して時刻をみた。
「十時十五分。けっこう、お寺にいたね」
「待っていい?」
優はうなずく。店内はすでに明るく、ここにいると店員さんに気づかれそうである。
「ちょっと、その辺うろうろしましょ」
雪平は優の腕をとり、すばやくドアの前をはなれた。大通りのきわに立って、向こう端をみはるかす。
せわしないのか、落ちついているのか、両極端な動きだった。
優が隣に立つと、顔の向きを変えずにいう。
「あっちにずっと歩くと、妙蓮寺っていうのがあってね」
「うん。いく?」
「いきたい」
「道、わかる?」
「大体まっすぐよ」
不安な答えであった。
「みょうれんじ?」
「妙蓮寺」
優は端末でそわそわと検索を始めた。その手首を雪平がとらえる。
「大体わかるわよ。大丈夫よ」
「うん。一応だよ、うん」
雪平にくらべれば、自分は心配性の方なのだと思う。
「本当よ。一本道よ。いいわよ、調べなくて。まよっちゃ駄目なの?」
「駄目じゃないけど、保険だよ、保険。調べてもまようかもしれないじゃん」
なぜそう駄々っ子のようにいやがるのか。こっちは安心したいだけなのに。
「あたしとまよっちゃ嫌? 時間ないの?」
「――ええ? 時間はあるよ……なにそれ何のプロポーズ?」
なにに誘われているんだろう。一体。
「冒険かしら」
「冒険かよ……まじかよ」
大丈夫かな。いまさらだが急に先行き不安になってきた。
「でも、とりあえずお茶よ」
赤い軒をもう一度ふりむくと、入り口にお店の人が立って、時間より早く店を開けてくれていた。
季節の果実のジュースや盛り合わせ、フルーツサンド……カラフルで甘くてすっぱい、メニューの数々に目移りする。優はしばらく悩んだが、大しておなかもすいていないのでぶどうのジュースをたのんだ。雪平はフルーツサンドに即決している。
「この前」
苺やらマンゴー、キウイ諸々で彩られた白いパンをつまみ、雪平が口をひらいた。
「部屋に真緑の塊があって、なにかと思ったら、パンが綺麗にカビてたの」
濃紫の巨峰のジュースをストローで啜っていた優は、思わずむせた。
ごほごほと、気管がすっきりするまで咳きこみ、お冷やを飲んでなんとか持ちなおす。
よりにもよってパンを食べながら、なんという話を始めるのか。
「この時期に部屋に放置したの?」
「え、だって、パンって常温でしょ?」
「いやカビるでしょ、そりゃカビるでしょ」
「そんなに経ってないのよ」
「何日」
「――四、五日くらい?」
「いやアウトじゃろ、そりゃ……」
優はあきれたが、雪平は納得いかないような、不思議そうな顔つきをしていた。
なにがそんなに不思議なのか、逆に不思議である。
優は首をかしげた。
「一日中クーラーつけてる?」
「ううん。まさか。部屋にいるときだけ」
「そりゃカビるよ。この熱気と湿度だもん」
「そっか。でも、綺麗だったわ。むらがなくてこんもりしてて、遠目だと盆栽みたい」
「いや、それだめなやつ、置いといたらいけないやつ」
「さすがに匂いはひどかったし、さわる気にはならなかったけど」
「おふ」
変な声が出た。優は言葉につまったが、雪平は平然と宝石みたいな食べものを咀嚼している。
ひどい落差だった。
「雪平、それ……学校ではいわないほうがいいよ」
「ん?」
「カビ生やしたとか、きいたら泣く子が出てくるよ」
「そうなの? みんな苦手なのね。見た目は綺麗なのに」
いや、そうじゃない――そっちじゃない。
忠告の意図を、雪平はわかっていないようだった。
カビの話題がNGだとか、そういう話じゃない。雪平が、この綺麗な生徒がそんな日常を送っていることが大問題なのだ。
「カビの研究するために来日するとか、いってる意味がわかった気がするわ。あんなにすぐ生えるのね」
頓着なく同じ話題をつづける。そのさまに違和感みたいなものを感じて、優は雪平の言葉の続きを待った。
「苺もね、春先に生やしたの。初めてみたわ。白くてもやーっとしてて」
「雪平……」
「びっくりした」
待たなきゃよかった。ちょっとききたくなかった系の話だった。
あれ? と。違和感の正体をつかみそこねて、優は内心、首をひねる。
いいところのお嬢様だと、そう思っていたのだ。いたのだが。
…………科学的な興味が先に立ったのだろうか。
「雪平、生物とか、好きなほう?」
「まあ、好きよ。きらいな科目とか、そんなにないわ」
「……生やしてみたかったの?」
なにが、とは、このお店でいうのははばかられた。ルビーみたいな果物を目の前にして。
「珍しかったから」
あっけらかんと、雪平はこたえる。
上質な和服と装いと、その言行は、大分、不似合いだった。
この違和感は、なんだろう。優はどう反応したものかわからず、ただ、たしかにあきれて、ぼんやりと動きをとめていた。
意外というか、好奇心旺盛というか。
こういうのを、こっちのことばで、なんというのだったか。
「やんちゃか」
「それ、よくきくわね」
同じ思考に至ったらしい。
思いがけないあまり、優は目をみはった。
雪平は平然と水をのんでいる。
「やっぱり? そうだよね、こっちの人、よくいうよね。やんちゃって」
「きいたことはあるし、意味もわかるけど、そうそう遣う言葉じゃないわよね」
うんうんと、優は何度もうなずく。雪平も同じ思いをいだいていたのだ。
「ほんと、ときどきびっくりするわ。多少の方言ならなんとなくでやりすごせるけど」
「雪平、ガチ標準だもんね。わたしはまだ広島だから、そこまで違和感ないけど」
「標準ってわけでもないのよ、実は」
「え?」
「これ、おもしろくって猫被るのが癖になっちゃってるの」
優は目をまるくして黙った。
ちらと上目遣いの視線をくれて、雪平はにっこり笑んだ。
「すごい浮くじゃない? この東京標準のお嬢様ことばみたいなの。おっかしくって」
楽しいったらないの、と、雪平はふふと笑う。
「だって、どうせ無理だもの、京ことばで京都の人に違和感なくしゃべるなんて。だから、わざと全然ちがうことばでしゃべってるの。通じりゃいいでしょ、なんなら通じなくてもいいわ。そのくらいの気分で」
……すごい遊びを考えつくものだ。
優はそうっと息をもらす。その気持ちの、片鱗くらいは、わからないでもないけれど。
「こっちがどれだけ京ことばに寄せても、どうせ、なんかおかしい、京都人じゃないなんていわれるだけでしょ。ほんと、くやしいし憎たらしいし、不愉快だわ。百パーセント同じことばをしゃべる人間なんて、いないのに」
思いもよらない激しい言葉で、華麗な微笑と、優しげな居ずまいは崩さぬままで、目の前の少女はそんなことをいう。
優はしばらく、何とかえすか、考えた。
「でも、雪平、仲いいよね、清先輩と芙蓉ちゃんと……」
親しげに話しながら、内心では腹立たしく思っていたのだろうか。
少し不穏な気がして、優がためらいがちにいうと、雪平は苦笑するように、かすかに鼻で息をもらした。
「そうね、あの二人は、二人とも、京都の人だからね。一緒にいるだけで勉強になるな」
勉強――。
ふわりと身が浮くような、ぴしゃっと冷水をかけられたような、わけのわからない気分になった。
そうか、と、思う。
全部はとてもわからないけど、そうか。
思っていたより、というより、思った以上に、ただ無邪気に仲がいいという関係ではないのかもしれない。
そうだ。
あの疑いは、最初から、根拠などなかった。
彼女が生徒会に入ったのは、優が誘いを受けていたからだ。優の見学に同行して、たまたまそこに、京都人の二人がいた。そういう順番だ。
理由は最初から優にあったのだ。
気づいた瞬間、のぼせそうになった。
優はうつむいてストローをくわえ、ぶどうジュースを飲んだ。
フルーツ専門店の巨峰は、おそろしく甘い。甘すぎる。
旬の果実だからだとしても、おなかどころか頭まで一杯になりそうである。
霞でも食べるみたいに、音もなくフルーツサンドを唇のあいだに押しこんで、雪平はやっぱり、涼しげに咀嚼している。
「それじゃ、噂の芙蓉ちゃんをみにいきましょうか」
「え」
「妙蓮寺には、蓮じゃなくて芙蓉をみにいくのよ」
それでは、話がちがう――ではなくて、漢字がちがう。
端末をちらりとみやり、さっきしらべた《みょうれんじ》の変換候補をみとめ。
妙な話だ、と、優はつい思ったが、さすがに口に出すのは寒かろうと、胸のうちにとどめた。
* * *
みごとな芙蓉だった。紅と白が門前から絢爛豪華に咲きほこっていた。
前例にたがわず、雪平は人が立ちいってもいいところはくまなく踏みつくして、優もそれにつきそった。建物には一歩も立ちいらなかった。
夢のような、嘘のような最後の一日を飾って、夏休みが明けると、学校では文化祭の準備がクライマックスである。
生徒会もいままでの平穏が冗談のようにいそがしい。自体が出し物をするわけではないのに、各団体の催し物のとりまとめ、会場の割り振り、形ばかりでもやる必要のある開会式・閉会式の用意など、仕事だらけで大わらわである。
見習いの立場をいまだに抜けていない優と雪平は、おっとりした雰囲気に似合わず采配上手な柾に教わり、指示されたことを片っ端から地道にこなすのみだ。
意外に、と、いまさらいうのは失礼だろう、晴は立派に会長で全生徒のトップだったし、清は柔らかい物腰の中にも相手に有無をいわさぬ迫力をもっていた。鎮は第一印象を裏切らない有能ぶりと、一貫した冷静さ。中等部生の面々も、普段はきゃいきゃいしているばかりにみえるが、なんやかやで人の上なり、中心なりに立つのになれている。
つくづく、自分がなぜその団体によばれたのか、謎である……晴には別に謝らなくてもいいといってしまったし、理由をきいてもしょうがない気がするし、なんだかいいにくそうにしていたから流してしまったけど。
謝るような理由なのだなと気づくと、余計に、ちょっとききたくないかもしれない。
放課後、人と物でごったがえす廊下を、おつかい帰りにあるいていると、目の前もみえないだろう荷物を抱え、廊下のすき間をよたよたと縫う、みるからにたよりない後ろ姿がある。
中等部生だった。晴に最初にならった、学年をみわけるすべを、優もいまや使いこなしていた。
「持つよ」
ひょいと腕をのばし、とりあえず視野を遮るシートのロールを持とうとしたが、みおろした生徒の顔色が紙のように白い。
とっさに、土台の段ボールごと抱えようとすると、中等部生はかぶりをふった。
「あ、大丈夫です、もうすぐなんで」
「すぐなら、それこそ持つよ、通り道だし。大丈夫? 顔、真っ青だよ」
ここで一旦待たせて、荷物は優が運び、この子を保健室へ連れていくために引きかえしてきた方がいいかもしれない、と、優が思いつくまでに、少女はまた弱く首をふる。
「大丈夫です、薬、飲んだんで、効いてくれば……いつものことなんで」
……と、いうことは、おそらく頭痛か生理痛なのだろう。優はうなずいた。
「そっか」
まあでも、具合が悪いときの体力仕事はつらいだろう。
なおも優がダンボールを抱えようとすると、やけに頑固に少女は箱をつかんだ。
「いや、いいです、お気持ちだけで」
「そう?」
優はもとの目的へ戻り、ロールを二本、箱から抜きとった。
「どこまで?」
「教室――ち組です」
中等部二年生の、一番奥の教室だ。
「あの、先輩、途中まででいいですから」
「そういっても、危ないよ、ふらふら歩いてたら。それ、重くないの?」
「普通です」
普通ってなんだろう。優は段ボールの中をのぞきこむ。中身はおもに、ナイロンテープやガムテープ、ビニール紐のようだ。優が勝手に抱えこんだシートよりは軽そうだ。
さっきまでの少女の足並みに合わせ、隣や少し前をゆっくりゆっくり進む。優が隣に立ったことで、ペースを乱してしまっていたら申し訳ない。
事故も怪我もなく、ち組の教室までたどりついて、戸口をくぐった少女にあとからロールを返そうとすると、にわかに室内の空気が沸いた。
えーっ、とか、きゃーっとか、わーっとかいう高い歓声で。
「何、なんで!?」
「優先輩!」
「あっ、ありがとうございます!」
さっとこちらへ飛んできた何人かの手から、またたく間にロールをとりかえされ、気づくと手には何も残っていない。
なんだろう、みんな元気だなあ、なんで名前しってるんだろう……。困惑しつつ、優は段ボールの少女に笑みかける。相変わらず顔色が悪い。
「じゃあ、お大事に」
そそくさとその場をはなれた。
もしかして、あのちょっとした騒ぎをみこして、少女には敬遠されていたのだろうか。
階段を降りようとしたところで、斜め後ろから声をかけられた。
「みたで」
ふりむく前に、声でわかった。一が壁際に立っていた。
こんなところで何をしているのか。首にはカメラをぶらさげているけれども。文化祭準備の記録撮影だろうか?
「そんな見境なしにナンパしとったらあかんで。けさも中等部生に絡まれとったやろ」
「けさ? 絡まれてなんて……」
いわれて思いだす。からまれたわけではないが、いつもバスで一緒になる下級生が、きょうは早いバスできたのにやはり一緒で、そんなことを話しかけてきたのだった。
なりゆきで名前をきいたが、顔もそりゃおぼえているが、きょうはたまたま、バス停から学校まで一緒だっただけである。
「……ていうかナンパじゃない」
「よりタチ悪いわ。あんまり本気にさせんとき。ややこしいことになるで」
ならんで歩きだす一の忠告に、思わず首をひねった。
そんなこといわれても、どうやってすればいいのか。
「それは、わたしがコントロールするものなの?」
「なんや禅問答みたいになってきたな。やめるか」
優が深く考えそうになっているというのに、一はすっぱり切りすてる方向だ。本当に、皮肉でもなんでもなく、こういうところはありがたい。
一見、切りすてるようなことをいっておきながら、吟味しなおすようなところも。
階段を降りながら、一はカメラをいじくりつつ、いう。
「そないに誰にでも優しくせんでも。罪作りなだけやで」
「いや、優しくしてるわけじゃ」
「違うのん」
「うん、実は……ちょっと、気になって。たしかめたいことがあってさ」
「何」
「荷物、持ってもらったら、嬉しくないかなって」
思って、と、つづける。
隣をみおろすと、一はものすごく嫌そうに顔をゆがめてこちらをみあげていた。
しまった、と、優は悟る。
この発言も発想も、余計にタチが悪かったかも。
「そりゃ、嬉しいやろ、喜んどったやろ、さっきの子も」
「いや、そうでもなかったよ、すっごい拒まれた。勝手に持ったんだもん」
「そりゃ、あんくらいの子はとりあえず反発するやろ。嬉しくないわけないで」
「そうかな」
「そうよ」
そうなら、いいのだが。――そうだとしたら、なぜ雪平は、あのときことわったのだろう?
貴重品だったから。さして重たくなかったから。どちらかだろうか。
あと、もうひとつ、解せないことがある。
「それと、なんで、わたしの名前しってる子がちょいちょいいるのかな」
「そんなん――」
一は急に声をとぎれさせた。
どうしたんだろう。優がみおろすと、一はえもいわれぬ表情でこっちをみあげている。
何かをものすごくいいたげではあるが、何なのかはこれとひとつに絞れない顔である。
「一、どしたの? 大丈夫? その顔」
「顔は関係あらへんやろ!」
「顔、何、って、ききたかったんだよ、途中だったんだよ」
「もうええわ。優なあ、女子校なんてどこも似たようなもんやで。中高一貫の六年間に転入生がおったら、そら目立つやろ」
「あ、そうか、それで? それにしても」
「おまけに生徒会入って、そのなりや。しらないほうが稀やで」
そうか、と、つぶやいて、優は自分の頭に手をやった。やはりこの身長だけで、人目についてしまうものらしい。
一をみやると、こちらを横目でじとりとにらんでいたが、あきらめたように溜め息をついた。
「ほんまに、そんなんで写真嫌いとか、罪にもほどがあるで」
「えっ……」
ちょうど、二人は階段を降りきっていた。一はさっさと廊下へむかいながら、ベストショットをのがしたわと、あくびするような気のぬけた声音でいった。
言葉につまったまま、とりあえず、優はそのあとを追う。追いかけて、隣にならぶ。他の階の例にもれず散らかり放題の廊下の障害物をよけながら。
「はじっ、あの――」
「気にせんでもええで。無理に撮ったりせえへんから」
「――」
またしても、優は言葉につまった。
いつから、気づかれていたんだろう? 本気で嫌がっていると。
あきらめられていたんだろう?
「嫌なことは嫌やろし――なんて顔してんの」
祇園祭のあのときだ。何度も、冗談のようにしていたつもりだったのに。
足をとめ、こちらをふりかえった一をみて、優はようやく、自分がさきに足をとめていたことに気づく。
「……ごめん」
いいたいのは、きっとこの言葉ではないのに。ほかの言葉が何も、思いうかばなかった。
謝るのじゃない。謝りたいのとは、正確には、ちがう気がするのに。
一はとまどったように、眉を寄せ、わずかに首をかしげた。
「何言うてんの。何も悪いことないで」
その通りだ。本当に、ここでそういえるのが、えがたいところだと思う。
一に手首を引かれ、廊下の曲がり角のむこうへ誘導された。渡り廊下にまで資材ははみだしているが、普通教室棟の比ではない。人通りも激減する。
雑多な物のとだえたところで、壁際に優は身を寄せた。
一は目の前に立ちどまる。
「ごめん」
また謝ってしまった。
優はあわてて言葉をついだ。
「いいそびれてて……隠してたわけじゃなくて」
「いいよ。言いにくいやろ。こちとら写真部や言うてる奴に」
「あの、その、全部が全部だめってわけじゃ。だから……しらないうちに撮られてるのとか、大丈夫だったり」
「許可ナシ盗撮OKって、おかしいやろ。それ、よそに言うたらあかんで」
いよいよ言葉もなく、優は無言でうなずく。よそになんて、いわない。一だからいうのだ。
一なら、大丈夫だと思うから。
「うん……」
それでも、苦手なことに変わりはないのである。
説明する言葉もなく、黙っていると、一がにやりと口角をあげた。
ほんでも、とつぶやく。
「ええこと聞いたわ。盗撮免状、わたしだけは撤回させたらへんで。おぼえとき」
「えっ」
「まぁま。ええ写真とれたらみせたるわ。期待せんどいてな」
「どっ、どっち」
「撮れたらや、撮れたら。神さんのみぞしる、や」
ぱんぱんと優の腕を叩き、踵をかえす一につられて、優もふたたび歩きはじめる。
気づかなければ撮られていてもいいと思うのは、本当だ。写真が嫌なのは、それを自分でみるのが嫌なのだ。自分の目に入るところに自分の写真があるのが嫌なのだ。
たとえば、一のいう《ええ写真》が、優のしらないところで、一のアルバムの中にほんの数枚、保管されているというなら、それは貴重なことなのかもしれない。
尊ぶべきことなのかもしれない。
「あかん、犯罪に手を染める気分やわ。わたしがお縄頂戴になったら、あんたのせいやで、少しは責任感じてな」
「それこそ、わたしがコントロールするものじゃないよ」
「殺生な」
「ええ写真、撮れたら、残しといてね。みせてくれなくていいから」
「ほんまアンビバレンスやわ、何やの。年頃は難しいからやろ。自分かてわかってるやろ」
「ほんとだ。しょうがないね、もう」
「そうや。しゃあないねん。思い知ったか」
「知ったよ、ほんと知った」
軽口を叩き、笑いながら、同時に同じ熱量で、泣きそうになる。
一はやさしい。なんというか、クールだ。優が苦手としていることを、当たり障りなく、みのがしてくれる。
突っこむでも、剥きだしにするでもなく。きわめて自然にぼかしてくれる。意識的にか、無意識にかわからないけど。
あの美人とは真逆のようだ。
どうして、それでも、かかわらずにいられないのだろう?




