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9/18

そら (2)




 萩まつりなるものがあるのをしったのは、観光客気分満々で、京都の年間イベントをウェブ検索していたからだった。


 あまたある年間行事の中でも、ついつい、花見、歳時記関連の行事を目でえらんでいた。それゆえの当然の帰結だろう。もとより優の念頭にあるのは、ただ一人なのだから。


 優は今度も散々まよい、思いなやんだすえ、一大決心をして電話をかけた。学校では毎日顔を合わせているが、文化祭準備の色々にとりまぎれてしまう。文字でのやりとりは、時間をえらばず手軽そうだが、失敗したときに形が残るのが、つらい。

 雪平はすぐ出た。


「はい。優?」

「こんばんは」


 第一声を、よどみなく、大して不自然でもなく発せられたと思う。あらかじめ最初の言葉をきめていてよかった。


「こんばんは」


 同じ言葉をかえす声が、微笑んででもいるように、やわらかかった。吐息が受話器にかかる音を耳がひろって、鼓動がはやるような気がする。


 萩まつりにいかないと、優は端的に誘った。開催期間と場所をしらせ、反応を待つ。

 めずらしく、少し考えるような間があって、


「朝、早くてもいい?」

と受話器の声は、いつになくやさしげだった。


「うん、いいけど。何時?」

「金曜日の朝がいいな。休み中は、ちょっと立てこむのよ」

「金曜って、学校の前?」

「うん。優、自転車持ってる?」


 わけもわからず、優はきかれたことに答えた。


「うん」

「乗れる?」

「乗れるよ。乗る用だよ」


 どれだけ運動できないと思われてるんだ、わたしは。日常生活を人並みに送れるくらいの身体能力はあるのである。


「じゃあ、六時に現地でどうかしら」


 おう、と、うめくような声をもらしてから、わかった、と、応じるまでに、それほど時間はかからなかった。


 金曜日の朝六時だよね、学校にいく前だね、と、念を押して確認する。雪平はこともなげに肯定の声をよこす。


「……萩まつり、土曜からだけど、その前?」

「萩をみにいくんでしょ?」


 そうだね、と、優は諾々とうなずいた。


 まあ、前日だから、大体咲いてはいるのだろう。祭りの有無など大したことではない。


 ふふ、と、きいたこともないくらいかろやかな、楽しげな笑いがきこえた。


「じゃあ、金曜の朝六時ね。楽しみにしてるわ」


 この声をきくために、電話をかけたのだ。


 非常な達成感と、満足感をもって、おやすみなさいのご褒美つきで優のその電話は切れた。


 優はうきうきしながら、即座に携帯端末のカレンダーに予定を登録した。金曜日、朝六時。平日の、学校前に待ち合わせだって。


 現地待ち合わせでも、自転車でということだから、さして遠くもない。遅刻しないようにしなきゃ。スケジュールアラームもきっちりセットする。遅れてしまったら、学校にいく刻限があるから、すぐ時間がなくなってしまう。


 自転車指定なのは、時間の融通が多少、きくからだろうか。

 雪平はどこからくるのだろう。そういえば雪平の住む場所をよくしらない。京都市内の子は、住所をいうのがすなわち家がばれることだというけれど、優は土地勘がないから、通りや小路、町名をきいても、どこをさすのかピンとこない。雪平も家バレをおそれて、わざとはっきりいわないのだろうか。


 考えてみればというか、考えはじめれば、雪平のほとんどなにも、優はしらないのだった。

 会長の(はるる)が自分を生徒会へ誘った理由と同じく、雪平のプライベートな部分も、あえてきかずにいるようなところが優にはある。

 前者は、ききたくない気がしたから(ついでに、晴もいいたくなさそうだったから)だけど、後者は少しちがう。謎なら謎でいいと思っている。


 雪平の口から、ことさら、彼女の素性をききたいという願望はない。ききたくないわけではないけれど。


 最初の出会いからして、彼女はそのもの、雪の精だった。


 夢をみている。それはそうだ。それでも、どんなにショッキングなことをその唇からきかせられても、その印象はこわれない。雪平がそうさせるのか、本人の意図は関係なしか、ひらひらと大気を舞ってはかなげなイメージが常にある。ほぼ明確な残像となって、彼女の風情に光彩をなげている。


 萩の咲いている、咲いていないなぞどうでもよかった。金曜日はもっと貴重な、大事なものに会いにいくのだ。


 思考がここにきて、完全に萩を餌にしていることに自分ながら心底、あきれたが、それでも電話の成果のほうがよっぽどうれしくて、浮かれた気持ちのまま優はベッドに横になった。


 金曜日が待ち遠しい。最近、文化祭準備に追われて、学校では事務的なことばかり話していたのだ。


 寝つけるか心配だったけど、無心に呼吸ばかり繰りかえしていたら、いつの間にか意識が飛んでくれたので、優はその週末まで、なんとか寝不足を避けることができた。



       * * *



 雨上がりの露のしたたる、上天気の朝だった。

 優は自転車をこぎ、京都御苑の御所の脇をつっきって、六時よりよっぽど早く、梨木(なしのき)神社の入り口にのりつけた。


 時刻をみると、約束より二十分も前だ。距離感がいまいちつかめなかったから早めに出たのだが、御苑をつっきるルートは思った以上に短かったらしい。行きかう人も車もまばらで、朝ぼらけの薄闇のほか、障害がなにもなかった。


 鳥居の前にはすでに萩が植わっていて、そのそばに一台、誰のものともつかない自転車がとまっている。


 辺りをみまわすも、人影はなかった。自転車はこれといって特徴のない、荷台と籠のついた、茶色っぽい量産品のようだ。雪平のものかどうか、しばし考えたが、なんとなくちがう気がするというのが、ぼんやりした結論だった。


 空はようやくあかるくなってきたところだ。優はほころびかけの萩の花を薄目にみて(いよいよ視力が落ちてきているのか、あかるさがたりないのか、細かい花が判然としない)時間もあることだし、そこらをひとまわりしてこようかと、またがったままの自転車の向きを変えた。立派な鳥居はここにあるのだが、肝心の神社本体がみえない。入り口が別にあるのかもしれない。


 そのとき、御苑とは反対側から自転車の走ってくる音がして、


「優。おはよう!」


ほがらかな声と一緒に、わん、と低い心地よい響きが優の体を打った。


 オレンジの朝日を浴びて、まぶしげに目を細めた笑顔がまともにこっちをみている。

 赤いボディの鮮明な自転車からとびおりて、白い膝丈のワンピースに、薄手のカーディガンを羽織った雪平が、中型の和犬をつれて近づいてくる。

 賢そうな茶色の瞳をきらめかせ、最初のひと声以外はおとなしく、うれしげに尻尾をぱたぱたひらめかせる動物が、彼女の膝もとに決してまつわらず、つきしたがっている。


 そう、雪平はこうだろう――自転車の色も形も、はじめてみる洋装の清楚な着こなしも、どれひとつ優の予感を裏切らず、期待以上である。その犬の首輪のデザインさえ、根拠のない納得をもって優はみつめる。


「それ、何犬?」

「秋田犬よ。ケンっていうの」

「え」


 ひどいネーミングセンスだと、思っていいのだろうか。


「ケンちゃんは生粋の秋田犬なのよね。ねー、ケン」


 自転車をとめ、ハンドルにリードの持ち手をくくりつけて、雪平はしゃがみこんで和犬の首周りをなでた。毛だらけのおとなしい、頭のいい従順な相棒がいるのがうらやましいのか、無条件でハグされるその立場がうらやましいのか。3:7くらいだなと、優はその光景をみて思う。


故郷(ふるさと)は遠きにありて、同病相憐れんでるの」


 ひとりごとのように雪平はいった。そのフレーズをどこかできいたな、と、ぼんやり優はききとめたが、その場ではなにもいわなかった。


 雪平は立ちあがると、籠から紙袋をとり、鳥居のほうをみた。

 優もならって自転車を降り、停めて鍵をかける。


「あっちかな」

「多分ね」


 問いともつかない雪平の声に、やはり曖昧にこたえる。白いワンピースの裾の下の脚が歩きだすのに合わせ、優も足をうつした。


 塀や木々が朝日をさえぎる御苑沿いを、ゆっくり歩く。


「食べる?」


 雪平の手もとの袋から出てきたのは、紙に包まれたサンライズ――いや、全国的にはこれをメロンパンというのだったか――だった。


「朝ごはん?」

「のような、おやつのようなよ。食べてきた?」


 まだ、といって、優は首を横にふった。

 半分こね、と彼女はつぶやいて、紙ごしに器用にパンを割り、半分は紙袋にもどした。


「はい」


 包み紙のほうを、優にくれる。

 受けとってしばらく、このまま持ってかえろうかなと優は考えた。


 記念みたいな。


 ガサゴソと紙袋に手をつっこみ、雪平は入り口ぎわでパンをおさえたまま、底からなにものかとりだす。カフェオレのパックである。


「帰ってから、ちゃんと食べるの?」


 不思議に思ってたずねると、雪平はさっそく差したストローで飲みものを啜った。


「時間があればね。まあ、遠足のおやつよ」


 どうやらここだという石畳の小道に入る手前で、雪平はメロンパンをぺろりと平らげた。優も、甘いものなら朝食後にしたかったが、遠足のおやつといわれると、いま食べるものだと思いなおす。一緒に食べるものだろう。


 もうひとつの鳥居をくぐる前に、優はパンを食べおえ、そのあいだ、雪平はほとんど休みなくカフェオレを吸い、飲みきった。


 喉が渇いてたのかな。


 からのパックと、優の手もとに残った包み紙も紙袋にもどして、彼女は小さく畳んで携える。


「咲いたら見事でしょうね」


 その視線を追うと、鳥居のそばからこんもり生えている萩のつぼみを差しているのだった。


 思った以上に狭い参道の両脇に、道をさらにせばめるように萩がしげっている。紫や白の咲き始めと緑の葉がどれも細かな露をまぶして、銀色にきらめく中に、黄色の小さな蝶が一匹、とまっていた。


 奥の方からラジオ放送がかすかにきこえてくる。誰かがきいているらしい。どこかで津波注意報が発令されている。


 つと、足をとめた雪平の顔の方向に、看板が立っていた。


「染井の井戸だね」


 案内板の最初の文字をみて、ああ、これが、と、優は記憶をなぞって背中に声をかけた。

 雪平はじっと文字をみている。


「どれ? これ?」

「そこの、手水のとこじゃない? 京都三名水のうち、唯一残ってる水だって」


 手水舎のかたわらに黒と白のぶちの犬が一頭、じっとすわっている。ラジオも、本体はみえないが、近くに置かれているらしい。


「染井の井戸、っていうのは、かぶってるんじゃない?」

「あぁ、染井の水か、じゃあ。昔、染物につかったとかなんとか。清和天皇のお母さんのご実家が染殿っていって、この辺なんだっけ。ここの水でお茶会もやってるってさ、ちょっときてみたいよね」


 雪平はしばらく反応せず、ゆっくりと首を回してこっちをみかえった。


 見返り美人かな、と優は思う。なんて印象的な眼だろう。


「調べたの?」


 あ、それか。


 雪平の沈黙とまなざしの理由に気づいて、優はいたく納得した。

 誰が怪訝に思っても無理はない。いつにない情報量を口から流していたのだった。


「いや、萩まつりを調べたとき、ここのホームページもみたから」


 祭神や由緒など読むうち、些細な不明なことが気になって、いろいろ連鎖的に調べてしまったのだ。


「清和天皇って、平安時代?」

「平安初期かな。《日本三代実録》の一代目」

「お母さんの名前、これ、なんて読むの」

明子(あきらけいこ)、またはめいし。藤原氏の摂関政治の時代だね。すごい美人だったらしいよ」

「この神社、新しいわね」

「うん、できたのも最近だもん。明治になってからだよ」

「誰を祭ってるの?」

「三條、実萬(さねつむ)さんと実美(さねとみ)さん」


 学問に秀でて今天神とよばれたそうな――そこまでいわないうちに、雪平が口をおさえて肩をふるわせはじめた。

 とうとう笑いだす。


「そんなに調べなくても! なんでも出てくるわね。記憶力いいのね、優っ……」

「いや、つい」


 そこまで笑わなくても。雪平の笑い声につられてか、犬とラジオの所有者らしきおじさんが手水舎のむこうにひょっこり顔を出したので、優はおはようございますと挨拶してお辞儀した。

 雪平も挨拶するが、笑いはやまない。

 手水舎で一緒に手を洗いながら、笑いの合い間に口をすすぐという、器用なことをやってのける。


「趣味でやってるならいいけど、そんなに調べなくてもいいのよ、来て、読めばわかることなんだから」


 腕をどつくように押され、半歩ほどよろめきながら、優は困惑する。


「いや、好きでやってるから、いいんだよ」


 雪平がそういうなら、いっそ趣味にするよ。もう。

 ぽんぽんと休みなく出される質問に、ただちにこたえられるのは、ちょっと癖になりそうな心地よさである。


 ふふっと、雪平は、余韻のような笑いをこぼす。


「ガイドいらずね」


 参道からさらに門をくぐった。急に空間がひらけ、足もとが土になる。道らしき道もなく、萩と、いくつかの建物が点在し、これまでの真新しい石畳とは異質な静けさがあった。


 参道より、こちらの方が咲いている。


 いつの間にか添えられていた雪平の手が、音もなく離れた。萩から萩へ、拝殿から本殿へ、つかず離れず、互いに申しあわせたわけでもなく無言になって、お参りを済ませ、ひと回りして同じ門へもどった。


 参道へ出ると、突然、いまつけたかのようにラジオの音が耳を打つ。

 石畳をひきかえすと、少し日が高くなっていて、日差しから赤みが消え、参道の電灯が消えていた。


 優は携帯端末の時計をみる。


「何時?」

「六時半」

「丁度いいわね」


 石畳をかろやかに踏みながら、雪平は両腕を真横にまっすぐのばした。


 丁度いいのだろうか。優がなんとなしに疑問に思っていると。


「帰って、ご飯食べて、学校にいけるわ。余裕ね」

「そうだね」


 ――ということは、雪平の家も、優の家と大して変わらない距離なのだろうか。


 わからんな、と、優はすぐ考えなおした。ここからの距離がどうというより、学校の方に近いのかもしれない。どこかきこうかと思ったが、きいてもわからないんだった、そういえば。


 わかったとしても、いずれわかるとしても、わかるのが怖いのもあるのだ。


「結構、咲いてたわね。きてよかった。人も少ないし。誘ってくれてありがとう」


 満面の笑みが、こっちへふりむく。そのまばゆさに優は目を細める。


「マメ科って感じの花ね。実際、マメ科かしら」


 それは調べなかった。そうか、そういうみかたもあるのか。

 優が目をまるくして萩の花をみなおしていると、雪平の短い笑い声が耳をくすぐった。


「これは調べたかどうかしらないけど、昔、萩が桜よりも親しまれていた時代があったんですって」


 どこかで読んだかもしれない。優は思ったが、なにもいわずに続きを待った。


「桜よりせかせかしなくていいわね。みあげなくていいし、なんかこう、地に足がついてる感じ」

「それは、単にみおろすからでは」


 優の返しに、くすくすと笑って、雪平はこたえない。


「葉っぱのある花もいいわね。のどかだわ」


 ――桜なら寒の戻りの雪のつもった姿。


 いつかみたテレビの映像と、紅葉に白銀のふりつむ絵がフラッシュバックした。


 散りゆく葉、または花びら。


 きょうの萩なら、紫でも白でもなく、日ののぼるにつれ消える銀の露。


 結局、彼女のイメージはそこだ。

 待てば咲かず、咲けば散る桜にせかせかする以上のはかなさ。すぐ消えるという淋しさと、安堵感。

 なにを考えているのだろう……。


 半歩先をいく雪平は、満足げに、楽しげに足を運んでいる。ちょっと手をのばせばふれられる距離にいる。


「つぎはどこ行こうか」


 そんなことを上機嫌で口にする。


 優は苦笑をおしとどめるのに、苦労した。


「いそがしいんじゃないの」

「連休中はね。時間、つくるわよ。土日はあいてる?」

「わたしは、大体ひまだよ」

「じゃ、絶対、時間つくるわ。土日どっちか、あけたらすぐ連絡するから。即、確保してね」

「うん。期待しないで待ってる」

「当てにならないわね。期待してよ!」

「当てにならないって、どっちが」


 こっちのせりふだ。今度こそ苦笑して、優は駄々っ子のような雪平のふりまわす手をかわした。


 本当に雪平が日にちを指定してくれるなら、自分は何が何でもその日はおさえるだろうと思う。万障繰りあわせるというやつだ。


 自転車をとめたところまで戻ると、最初の茶色の自転車の持ち主らしきおばさんが、近所の人とおぼしき誰かと世間話をしている。

 御苑の中も、反対側の向こうの道路も、さっきより騒がしく、市内はもう活動を始めている。


 若い秋田犬は、主人が戻ってきたのを察してか、きちんと行儀よくすわったまま目だけで白いワンピースを待ちかまえていた。飼い主はよしよしとその頭をなで、リードを手にとって、自転車のハンドルをめぐらす。


「じゃ、またあとでね、優」


 学校でという意味の、その滅多にない言葉が、ついさっきよりよそよそしい微笑とともにこっちにかけられた。


 優は思わず面食らって、うなずいた。

 手をふりふり、自転車をこぎ去っていく彼女をみおくる。


 ……人目があるからだろうか。


 境内や参道での、はばかりのない笑顔とはたしかにちがった。


 祭りの前の早朝を指定し、人の少ないのをよろこんだ。

 連休中は予定がある。土日もあけなければ時間がない……。


 とりのこされたようにひとり、自転車のストッパーを外しながら、優は彼女について、なにも思わずにはいられなかった。




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