だれにも相談できないとき
深谷さんは、恋愛相談サイトのユーザー登録を淡々と進めた。メールアドレスには「deepvale」で始まるアドレスを、ハンドルネームには「deepvale」を入力した。
今の時間は相談中だったので、次の空き時間を予約し、時間が来るのを待った。
時間になると、チャットに着信があった。
「こんばんは、”deepvale”さん。はじめまして、当恋愛相談サイトのアドバイザーの結城亜衣です。よろしくお願いいたします」
「”deepvale”さん、音声に切り替えますか? それともこのまま文字で続けますか?」
「音声でお願いします」
「承知いたしました」
音声に切り替わり、結城さんの声が聞こえた。
「改めまして結城です。よろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「deepvale…すてきな名前ですね。深い谷。人目につかない、静かな場所…」
「でも、そこには、まだ誰にも知られていない何かが眠っている」
「……そんなふうに感じました」
深谷さんは、少し視線を落とした。
「でも、私の相談ごとは、どこにでもある下世話な話です」
「好きな人ができて……」
「その人には好きな人がいて……」
「私はその人には到底かなわない……」
「だけどあきらめきれない……」
結城さんは、答えました。
「deepvaleという名前も、今のお話も、どちらもあなたの素直な気持ちです」
「人の心から生まれたものに、下世話も崇高もありません」
「だから私は、そのどちらも大切にして、ご相談をお聞きします」
深谷さんは、胸の奥にこわばっていたものが、ほんの少し緩んだ気がした。
「それでは、その『下世話』な方の相談に乗っていただけますでしょうか」
「もちろんです」
深谷さんは、自分が鷹宮さんを好きになった経緯と、今の状況を静かに話した。
話が終わると、結城さんは、少しだけ考え込んだ。
「なるほど……そういうことですね」
「相手の方は、同じチームの女性に好意をお持ちなのですね」
「そして、その方とは毎日仕事をご一緒されている」
「それは、あなたにとって、かなり不利です」
少し間を置いて、結城さんは言った。
「はじめのアドバイスです」
「まずは、物理的な距離を縮めなさい」
「……物理的な距離、ですか?」
「ええ。」
「例えば、大きな会議なら、その方の近くに座る」
「休憩へ向かうタイミングが同じなら、一緒に歩く」
「AIは、入力情報のすべてを認識しているわけではありません」
「近くにいて、関わりのある人は、自然と認識対象になります」
「反対に、どれほど魅力的でも、遠くにいる人は背景として扱われます」
「人も、それほど変わりません」
「まずは、その方にとって背景ではなく、認識対象になることです」
「自然な範囲で、その方の認識圏に入ってください」
「回収」の担当となって初めての会議。
二十人ほど入れる会議室には、篠原マネージャーと鷹宮さん、そして深谷さんの三人しかいなかった。
それでも深谷さんは、迷わず鷹宮さんの隣に座った。
結城さんの言葉が、深谷さんの頭の中によみがえった。
「自然な範囲で」
深谷さんは、あのときの自分を思い返した。
「……あれは、どう考えても自然ではなかった…」
「2つめのアドバイスです」
「お相手の方が窮地に陥ったとき、いつでも支援できるよう、準備をしてください」
「……準備、ですか?」
「ええ。」
「あなたのお話を聞く限り、その方は、とても行動力のある方です」
「行動力のある方は、大きく前へ進める反面、ときどき前へ出すぎます」
「そのとき、一番必要なのは、突進力ではありません」
「支えてくれる人です」
「あなたは、お仕事のできる方とお見受けしました」
「今すぐ役に立つ必要はありません」
「ですが、その日が来たときに力になれるよう、今から準備しておきなさい」
深谷さんは、仕事が終わっても帰らなかった。誰もいなくなったオフィスで、端末に表示した結城さんのAIシステムの仕様書を、何度も読み返した。
それでも、理解できない。
深谷さんは、頭を抱えた。
「……難しい。」
何度目かわからない資料を開き直す。
ページを切り替える。
コードや図を見比べる。
深谷さんは、ふいに顔を上げた。
「……そういうこと。」
深谷さんの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
そこから先は速かった。
深谷さんは、誰よりも結城さんのAIを理解していった。
鷹宮さんの声が、回想の中によみがえった。
「……この『個体』の特定は、日向さんにだって無理だよ」
深谷さんは、すぐに言った。
「鷹宮さん、試してみたい方法があります」
「3つめのアドバイスです」
「欲しいものは、遠慮せず求めなさい」
「……欲しいもの、ですか」
「ええ。」
「人は、自分が本当に欲しいと思うものを、無意識に遠慮してしまいます」
「自分にはふさわしくない」
「迷惑をかける」
「そんな理由を並べて、自分であきらめてしまうのです」
「でも、本当に欲しいと思うものには、理由があります」
「それを手にしたとき、あなただけでは生み出せない価値が生まれるからです」
「ですから…」
「欲しいものは、遠慮せず求めなさい」
深谷さんは、結城さんというAIの能力を知った。答えの速さ、思考の深さ。そして、人の心を動かす言葉。
「……人間だけでは勝てない」
深谷さんは、一人、静かにつぶやいた。
「私も……欲しい」
「……鷹宮さん、お願いします!」
「はじめまして、深谷さん。南七星伶伊と申します……。どうぞ、よろしくお願いします!」
「じゃあ、しっかりね。期待してる。」
「任せてください」
深谷さんは、静かにつぶやいた。
「頼れる人はいる」
「それなのに、このことだけは誰にも相談できない」
思考は、さらに静かに沈み続けた。
やがて、ひとつのあぶくが浮かび上がってきた。
結城さんの言葉が、回想の中から聞こえてきた。
「あなたは、孤立していなくとも、誰にも助けを求められない状況になることがあるかもしれません。そのときは……」
深谷さんはハッとした。
あまりにも、今の自分を言い当てていた。
「そのときは……」
深谷さんは、その続きを明確に覚えていた。
だが、即座に否定した。
「……それだけは、ありえない。」
長い沈黙が流れた。
やがて深谷さんは、ゆっくりと顔を上げた。
次の瞬間。
端末に向かう指が、一気に動き始めた。
やがて指の動きは止まり、ポインタが最後のボタンの上で止まった。
数秒。
深谷さんは静かにクリックした。
場面は変わる。
机の上に置かれた一台の端末。
短い着信音とともに、通知が表示される。
新着メール 一件。
端末の持ち主は、メールを開いた。
件名:ご相談したいことがあります
……
お疲れ様です。深谷です。
ご相談したいことがあります。お時間をいただけませんでしょうか。
本日十七時に、上の階の休憩スペースでお待ちしております。
よろしくお願いいたします。
メールを読み終えた人物は、静かに画面から目を離した。
その表情は、いつもと変わらなかった。
だが、ほんのわずかに眉が動いた。
結城さんの声が、記憶の中で続いた。
「そのときは……」
「一番相談したくない人に相談しなさい」
メールを読んでいたのは――
日向さんだった。




