第18話
第18話 侍女との距離
傾いた太陽の光が、やわらかく差し込んでいた。
白いカーテンが、静かに揺れる。
昼の明るさを失いかけた光は、どこか落ち着いていて、穏やかだった。
ミラベルは、ソファに腰掛けていた。
手には一冊の本。
ページをめくる。
音は、小さい。
それでも、この部屋でははっきりと聞こえる。
他に、音がないからだ。
視線を落とし、文字を追う。
だが――。
(……また)
内容が、頭に入ってこない。
指が、少しだけ止まる。
ページをめくる間が、わずかに遅れる。
それでも、整っている。
本を読む、という姿勢も、仕草も。
この部屋の中では、それが“正しい”。
背後で、布の擦れる音がした。
振り返らなくても分かる。
侍女たちが、ベッドを整えている。
古いシーツを回収し、新しいシーツを伸ばす。
皺を消し、整えていく。
無駄のない動き。
音すら、最小限。
その中で――ほんの僅かな、乱れが。
「あ……っ」
小さな声。
すぐに消えそうなほどの。
視線を向ける。
ノエルだった。
シーツの端が、わずかに歪む。
引く力が、ほんの少しだけ足りない。
それだけ。
だが、この空間では、それは“乱れ”だった。
「申し訳ございません」
すぐに頭を下げる。
動きが、ほんのわずかに遅れる。
「……やり直しなさい」
淡い声。
感情のない指摘。
「はい」
短く、応じる。
ノエルは慌ててシーツを引き直す。
今度は、迷いなく。
ぴんと張られる布。
皺は消える。
整った。
ミラベルは、それを見ていた。
助けることは、できるだろうか。
声をかけるべきだろうか。
ほんの一歩、踏み出せば届く距離。
けれど――。
何も、しない。
できなかった……してはいけない気がした。
動きたくても、動けない。
この空間の中で、自分がどこまで許されているのかも。
ただ、見ている。
それだけだった。
やがて作業は終わる。
ベッドは、何もなかったかのように整っている。
乱れは、消えた。
(……違う)
消えたのではない。
消されたのだ。
視線が、自然とノエルへ向く。
彼女は何事もなかったように立っている。
だが、その指先は、わずかに力が残っていた。
ほんの少しだけ。
そこに、人の温度があった。
――――――
その頃、マルクスは兄エドアルドと共に王の執務室へ呼ばれていた。
「以上が、ヒースの森での任務報告です」
マルクスが言い終える。
「封印が揺らいだ時はどうなる事かと思ったが。マルクス……お主を向かわせて正解だった。良くやってくれた」
「はっ。王族の務めを果たしたまでです」
静かな部屋。
重厚な机。
弱い光が、三人の影を落とした。
「パルス伯はどうしている」
低い声が落ちる。
「拘束済みです。抵抗はありません」
答えたのは、エドアルドだった。
まっすぐに立ち、揺らぎはない。
「処分を進めるべきかと」
間を置かずに続く。
迷いはない。
判断は、すでに下されている。
「……急ぐな」
アルベルト王は静かに言った。
短い沈黙。
「反逆です」
エドアルドの声は変わらない。
「例外は不要です」
正しい。
疑いようもなく。
「例外ではない。順序だ」
「感情に訴える必要はありません」
「感情ではない。理を大切にしろと言っておるのだ」
アルベルト王は目を伏せたまま告げる。
その言葉には、重みがあった。
しばしの沈黙が三人の間に流れる。
「では、尋問を継続します」
エドアルドが言う。
わずかな間を挟んで。
「パルス伯の持つ知識は、我が国の資産としてすべて回収いたします」
淡々と、感情はない。
必要なことを、必要なだけ行う。
「……やり過ぎるな」
アルベルト王の声が落ちる。
「必要な範囲です」
即答だった。
価値観の差は、そこにあった。
それでも、ぶつからない。
どちらも、正しいからだ。
静寂が戻る。
やがて切り出したのはアルベルト王だった。
「……例の娘は」
わずかに視線を上げる。
その動きは小さい。
だが確かに、目の前の息子達の表情を探るようなものだった。
「エドアルド、お主に預ける。――マルクス、守るためだ。エドアルドが最適であろう」
エドアルドは、変わらない。
揺らぎはない。
「問題ありません。結ばれたと報告を受けています」
淡々とした声。
「自分も――問題ありません」
マルクスも続ける。
「ならば、計画通りに」
迷いはない。
それだけで十分だった。
それ以上の説明は、必要ない。
決まっている。
すでに、組み込まれている。
アルベルト王は、わずかに息を吐いた。
「……守るためだ」
――――――
夕食の席。
静かに整えられた長机。
灯りはやわらかく、影を落としている。
皿が置かれる。
音は、小さい。
正確に。
無駄なく。
ミラベルは席に着いていた。
目の前に並ぶ料理は、美しい。
香りも、温度も、すべてが整っている。
完璧だった。
ナイフとフォークを取る。
手は、迷わない。
教えられた通りに動く。
視線を落とす。
その先にあるのは、料理。
――ただ、それだけ。
ふと、視線を横にずらす。
ノエルが立っている。
他の侍女たちと同じ位置、同じ姿勢。
だが――。
視線が、泳いだ。
他の侍女たちが壁の装飾のように動かない中。
食事を喉に通そうとするミラベルを「心配そうに」追った。
ほんの一瞬、僅かな時間だ。
すぐに逸らされる。
整えられる。
他の侍女たちと同じように。
それでも。
(……この子は、違う)
その仕草だけで、充分だった。
(一度、ノエルと二人になれる時間があれば良いのだけれど)
この場所は、閉じられている。
整えられ、守られ、何も失わない代わりに――何も選べない。
でも、ノエルなら、ミラベルの求めた答えを言ってくれそうな気がした。
ナイフが、皿に触れる。
小さな音。
ミラベルは、そっと視線を落とした。
指先が、無意識にペンダントに触れる。
ペンダントは冷たく、森にいた頃のような脈動を返してはくれない。
守られている檻の中では、石までもが、沈黙していた。
――まだ、足りないのだ。
選ぶには。
ここから出るには。
何かが決定的に、足りていない。
燭台の灯りが、静かに揺れる。
動いているのは、手だけだった。
つづく
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