第10話 正面突破
この第10話は、アルムという存在の「異常さ」が、
一時的に霞んでしまうほどの出来事が描かれます。
何が正しくて、誰が間違っているのか。
それを語るにはまだ早く、
けれど確かに、何かが静かに動き出しました。
10話は、この物語における一つの転機です。
この先の展開を語るうえで、避けては通れない一話となっています。
まるで、世界が裏返ったみたいだった。
僕は──ただ、呆然と立ち尽くしていた。
木々が裂け、風が爆ぜた。
ありえない現象が、何の前触れもなく目の前に現れて──そして終わった。
僕の名前はシン・オルタナクト。
リュサニア王朝の第13王子で、それなりに魔法の訓練も受けてきた。
実戦こそ経験していないけど、これまで見聞きしてきたどんな魔法とも、今のは違った。
「……あれは……」
言葉が、喉の奥に詰まる。
ノンナ様は僕より先に外へ出ていた。
そのノンナ様でさえ、少女の姿を見て目を見開いたまま動けずにいる。
それだけで、異常事態だと理解できた。
黒髪の少女は、風に逆らうように立っていた。
その腕の中には──ぐったりと力の抜けた、もう一人の少女。
小さく、細く、そして……壊れそうだった。
淡いダークブラウンの髪は風に舞っていたけど、彼女の表情は見えなかった。
(……生きてる?)
そんなことさえ一瞬、疑ってしまうほどだった。
だけど、微かに上下する胸の動きに、ようやく息を吐く。
その姿は、まるで“連れ去られた姫”だった。
違うのは──運んできたのが、まるで竜のような幼い少女だったこと。
僕はただ、風の残滓のなか、茂みの奥から立ち尽くすしかなかった。
ノンナは、目の前の光景に言葉を失っていた。
あまりにも現実離れした少女の登場――それが何を意味するのか、頭が追いつかない。足元は地面に縫い付けられたように動かず、ただその場に立ち尽くしていた。
──その時。
藪の奥から、ひとつの気配が動いた。
鋭く目を細め、目の前で無防備に立ち尽くすノンナの姿を捉えると、ためらいもなく一歩を踏み出す。
(……あれが、ノンナ?)
手が、魔力を帯びていく。 一撃で沈めるつもりだった。まるで背を向けた敵に矢を射るように。
だが、その瞬間。
「……っ!」
藪の中にいたもうひとつの気配――サディが、息を飲んで立ち上がる。
ノマに気づいた。 その視線に、ただならぬ焦りが宿る。
ノンナは目の前の異常な光景──木を貫いて現れた黒髪の幼い少女──に一瞬心を奪われかけたが、すぐに背後の気配を察知した。
──来る。
草が揺れ、空気が熱を帯びた。
ノンナはすぐさま魔力を走らせ、無詠唱で迎撃の魔法を展開しようとする。
同時に、藪からノマが飛び出した。
彼女の掌には赤熱した魔力。
詠唱はすでに終わっている。
狙いは──ノンナの心臓。
だが──
ノンナが放とうとした魔法も、ノマがぶつけようとした炎も。
発動しなかった。
光も、熱も、生まれない。
沈黙。
ノンナの目が見開かれる。
ノマもまた、動揺を隠せずにいた。
「……は?」
唇が震え、指先が魔力を呼ぼうとする。
けれど、なにも起きない。
ノマは焦り、すぐに懐刀を抜き出す。
魔法が使えないなら、直接斬る──
動きに迷いはなかった。
──その瞬間。
藪の影から飛び出すもう一人の少女。
ノンナも魔力が発動しないこの状況に戸惑いながら、咄嗟に身を引いた。
異常な空間に、ただ空気の重さだけが残っていた。
ノマがノンナに刃を突き立てようとした、その刹那。
「──させるか!」
鋭い声とともに、シンが横から割って入った。
鍛えられた動きで懐刀を抜き、ノマの刃を正面から受け止める。
ギィィン、と金属音が森に響いた。
「……チッ!」
ノマが舌打ちする、その直後。
藪の中から何かが走り出す音。
──ヒュンッ。
鋭く飛んできた刃がノマの手に突き刺さり、ナイフがはじけ飛んだ。
次の瞬間、サディが飛び出してくる。
体ごとぶつかるようにノマを地面へと押し倒した。
「どけ! サディッ!!」
ノマが怒鳴る。
その声は、まるで何かに取り憑かれたかのように怒りで震えていた。
「目の前にいるんだぞ……両親の敵が!」
サディは無言のまま、ノマを力でねじ伏せている。
アルムはその光景を、遠巻きに眺めていた。
ノンナが近づき、ノマの頭に杖を振り下ろした。
──ゴンッ。
音が鳴る。ノマは抵抗もできず、その場に沈んだ。
……静寂。
空気が止まったような時間の中、アルムはただ呆然と立っていた。
腕の中のともえは、目を閉じてぐったりとしていた。
30分も走り続けたうえに、訳の分からない騒動に巻き込まれて。
何もかもが非現実のようで、それでいて妙に体温だけが現実だった。
(……え? なにこれ)
(エルフが……なんか叫んでた? でも言葉、わかんないし)
(ていうか、この人たち、ノンナに会いに来たんじゃないの? なんで争ってんの?)
(……ここ、帰ってきた場所のはずなんだけど)
(お母様とお父様がいるかもしれないと思って……だから戻ってきただけで……)
目の前で繰り広げられていた戦いは、まるで意味がわからない。
言葉も意図も、全部通じてない。
ノマを無力化したサディの顔も、シンの表情も、みんな険しい。
(ちょっと待って。ほんとに、なんなんだよこれ)
アルムの心の中で、どこか冷えた感情がぽつりと呟く。
(……来なきゃよかったかも)
ノンナは、倒れたノマを無言で見下ろしていた。
その目には怒りも、迷いもなかった。ただ、冷たい決断の光だけが宿っている。
彼女はそっと右手をかざし、魔法を発動しようとした。
だが──沈黙。空気は震えず、魔力は流れ出ない。
(……今の状況では、魔法は使えない……)
一瞬の判断。ノンナは迷わず、手にしていた杖を構え直すと、ゆっくりと振りかぶった。
その動きには、一切のためらいがなかった。
──その時だった。
「……ご、ごめんなさい……!」
サディが声を発した。ノマの上に乗ったまま、小刻みに肩を震わせながら、
片言のリュサニア語で、必死に言葉を紡ぐ。
「ノマ……わたし、とめた……ノマ、かってに……わたし、ノンナ、ころしたく、ない……」
その声は泣いてはいない。けれど、どこか必死で、今にも崩れ落ちそうなほど切実だった。
ノンナの杖が止まる。
少女の細い体と、その瞳に映った罪の意識が──彼女の決断に、わずかなヒビを入れた。
ノンナは杖を下ろしたまま、まっすぐにサディを見下ろすように見つめた。
その瞳に揺れはなく、ただ淡々と──だが鋭く、問いが投げられる。
──エルフ語で。
「練習したの? リュサニア王朝の言葉」
サディは少しだけ顔を上げかけたが、すぐに視線を逸らした。
「どうして? 誰に習ったの? 誰にも言われなかったの? “敵国の言葉なんて捨てろ”って」
サディがわずかに口を開こうとしたが──
「それで……どうして助けようとしたの?」
「あなたたちの国じゃ、私は“怨敵”のはずよね。
子どもの頃からそう教わるんでしょう?」
「その子──ノマって言ったかしら。
彼だって私に復讐しに来たんでしょ?」
ノンナはさらに一歩、サディに近づいた。
「……あなたも知ってるんでしょ?
その子が誰かの“仇討ち”に来たってことくらい」
「その“誰か”は……たぶん、私が殺した人」
「それでもあなたは、その子を止めた。
──どうして?」
ノンナの鋭い問いに、サディはしばらく俯いたまま沈黙していた。
だが──
震える唇が、ゆっくりと動き出す。
「……ワタシ……」
その声は、ぎこちなくも真っ直ぐだった。
エルフ語ではない。
片言の、リュサニア王朝の言葉。
「ワタシ……へいわ……ホシイ。たたかい、イヤ……」
ノンナの目がわずかに細められる。
「タタカイ……バカ。みんな、くるしい。こわい。
だから……オウチョウのコトバ、オボエル。ツタエル、ため……」
サディは胸元を強く握りしめた。
「ノマ……トモダチ。でも、コロスは……マチガイ。
だから……トメタ……」
その言葉は拙く、文法も崩れていた。
だが、必死に伝えようとする意志だけは、確かにあった。
サディの視線は、まっすぐノンナの瞳に向けられていた。
(こいつら、何を言ってるのか、まったくわからない)
言葉の意味も、声の強さも、全部ばらばら。誰が誰に怒ってるのか、誰が何を守ってるのか──意味がわからない。
(さっきの女の子、あの上に乗ってるエルフ、なんか……騒いでるけど)
(魔法も飛んでこないし、別に巻き込まれる感じじゃなさそう)
アルムはそっと視線を動かし、家の扉のほうを見た。
(このまま終わるの待つのもめんどくさいし……もう、勝手に入ってよう)
誰に声をかけるでもなく、誰にも気づかれないように、静かにノンナの家の中へ足を踏み入れた。
(お母様とお父様、ここにいるかもって思ったから来たのに……これじゃ探すどころじゃないじゃん)
扉が静かに閉まる音だけが、その場に残った。
ノンナは無言のまま、サディをしばらく見つめていた。
その目には、哀れみも、敵意も、ただ静かな判断が宿っていた。
やがて口を開く。
「……提案があるの。あなた、私の家に住まない?」
サディが戸惑いを浮かべるより早く、ノンナはエルフの言葉で続ける。
「あなたがここにいる限り、カリュディアも簡単には手を出せない。
私はカリュディアと戦う気はないし……それに、もし望むなら、リュサニア王朝の文化も言葉も教えてあげるわ。
ここにいれば、そういう“橋渡し”もできるかもしれないでしょう?」
一拍置き、表情を崩さぬまま、ノンナは冷ややかに言い添えた。
「……でも、あなたがそれを拒むのなら。残念だけど、あなたの“下の子”はここで殺すわ」
サディが息を飲む。
ノンナの目はノマの方へと移っていた。
「敵対の意思を持つ者を、逃がすわけにはいかない。
魔法も使えるようになったみたいだし……見逃せる理由がないのよ」
その声はあくまで静かだった。
感情は、ほとんど感じられない。
「──どうする? エルフ」
サディは視線を落としたまま、ぽつりと口を開いた。エルフ語で──
「……あの……帰っても、たぶん……もう、誰も……待ってないから。
……だから……ここに、いても……いい、かなって……」
言葉の途中で何度もつかえ、語尾が消えそうになる。
それでも、なんとか続けようと、目をぎゅっと閉じて言った。
「……ノマが……助かるなら……私、ここに……いる、から。
それに……あの……言葉……リュ、リュサニアの……言葉……ちゃんと、話せるように……なりたい、です……」
ノンナの目を見れないまま、声はどんどん小さくなる。
でも、その震える声には、はっきりと意志が宿っていた。
ノンナは無言で杖を構えると、ノマの首筋に軽く触れた。
小さな光が一瞬だけ点り、すぐに消える。
続けてサディの額にも杖を当て、今度は淡い追跡の光がにじんだ。
「……その子、ノマと言ったかしら。
今つけたのは爆破魔法。私が望めば、即座に発動する。条件はそれだけ」
視線をサディに向ける。
「あなたには、追跡魔法を付けた。これで、どこにいても居場所はわかる。
その子を国まで連れ帰るといい」
一拍の間。
「ただし、逃げ出したり、勝手な真似をすれば──
その子を爆破する。理解できたなら、それでいい」
ノンナの声に感情はなかった。命令でも、脅しでもなく、ただ事実として告げる声だった。
サディは、気を失ったノマを静かに背負い、森の奥へと歩き出した。
その先にあるのは、彼女たちエルフの故郷――国境の向こう側。
その背中は小さく、足取りも重い。それでも、彼女は一歩ずつ確かな意志で進んでいた。
しばらくして、ふと足を止めると、くるりとノンナの方を振り返った。
そして片言のリュサニア王朝の言葉で、はっきりと名乗った。
「……わたしは、サディ・ゲーティン、です」
それだけを言うと、サディは再び前を向き、森へと消えていった。
ノンナは静かにその背を見送り、やがて後ろを振り返る。
──だが、そこにアルムの姿はなかった。
「……あれ?」
と、そこでシンがノンナに声をかけた。
「ノンナ様、さっきの黒髪の少女……たぶん、ノンナ様の家の中に入っていきました」
その言葉に、ノンナは小さく息をつき、自宅へと向かって歩き出した。
その後を、シンも静かに追いかけていく。
こうして、嵐のような出会いの場は、一度静けさを取り戻した。
ちなみに、みんなが言葉も魔法も飛び交わない緊迫の場面をくぐり抜けるなか……
ともえさんは終始、ぐったりしてました。
運ばれ、抱えられたまま。
彼女の存在は、まさに“嵐の中心の静けさ”──ある意味この回で一番癒やしだったかもしれません(?)




