太陽のような(1)
目が覚めたとき、また縛られているなんてことはなかった。サラサラでいい香りのする布団に包まれていて、なんだか安心してしまう。微睡みの命じるままに二度寝を決意しても無理はないことだ。しかし、残念ながら見知らぬ男の声によってそれは遮られてしまった。
そろそろ起きろよ、と声をかけられて、一気に頭が冴える。布団を跳ね除けて、そちらを見ると、あのときに出会った神様がいた。相変わらず記憶に靄がかかっていたけれど、ぼんやりと思い出す。
「おはよう、ねぼすけ」
神様は大きな窓のそばに立っていた。太陽の輝く光を背負っている。明るい日の光の下で見ると、瞳も髪も真っ黒だ。金色じゃない。何がなんだか分からなかったけど、信じられないことがたくさんあるのは既に当然だった。
神様の視線は私ではない方を向いている。その先を辿ると、一人の侍女がいた。かすかな音もさせずに部屋を出ていく。寝起きの頭だといまいちはっきりしない。神様に向き直った。
「おはよう……、ええと、私はコハル。神様、ここは……」
神様は私の言葉を遮るように手を挙げる。
「その神様、ってやつなんだけど。何か勘違いしてないか?」
「勘違いって?」
「俺は神様なんかじゃない。ただの魔術師だ」
思考回路が止まる。嘘だ、と叫びたくなる。
「何で? だって、歌っていたじゃない! 神様じゃないの?」
でも、嘘を吐く必要性が見当たらない。浮かれていた気持ちが一気に沈んでいく。この世界で、一人ぼっちではなくなったかと思った。私の知っていることを受け止めてくれる方だと思った。
「確かに、まあ、歌は歌ってないこともないかもしんねえけど、俺は人間でしかない。一応。他のやつより、魔力が少ーしばかり多いだけだ。化け物と呼ばれたことはあっても、神だなんて呼ばれたことはねえよ」
「そんな……」
ただの早とちりだったのか。急に現実感が強まってくる。幸運がそこらへんに転がっているはずがないのだ。ふわふわとした地面が、泥の塊のようになって足に絡みつく。体が重い。
今度こそ、私はどうなってしまうのだろう。何もかも自分の力で潜り抜けなければいけないのは、もう嫌だ。神様にさえ出会えば、どうにかしてくれるはずだと思った。辛いことはないし、日本に帰らせてくれる可能性もあるんじゃないかって。
「ごめんなさい」
首を垂れると、短くなった髪が目に入った。首が軽い。日本では手入れを頑張っていたけれど、この世界では邪魔なだけだった。竜笛がなくなって、髪がなくなって、私から日本が剥がれ落ちて行く。
「そんな落ち込むなって。今度は俺がコハルを助けてやるよ。あそこから出してくれたのは、コハルの力だもんな」
「そんなの、どうやって信じろっていうの」
「さっきまでは、俺を全面的に信じてたくせに」
弱り目に祟り目で参っていたところに、目の前に救世主らしき人物が現れたのだから信じたくもなるというものだ! ちょっとだけむっとする。
「連れ出してやるよ。この城から。ここは俺も好きじゃないんだ」
「連れ出すって、それなら日本に帰して」
「ニホン? よくわかんねーけど、連れてってやろう」
能天気な笑顔だ。どんな事情であそこにいたのかは知らないけど、妙にむかつくやろうだ。
「適当なこと言わないでよ!」
「コハルが言ったんだろう。帰りたいなら、帰ればいい」
「帰れないの。この世界のどこにもないから」
「でも、コハルは帰りたいんだろ? なら、俺が返してやるよ」
唖然とする。こんなにはっきりと、そして、適当な物言いをする人に出会ったことがない。なんという楽天さ加減だ。私とは正反対にも程がある。
「神様じゃないのなら、あなたは誰なの。それに、ここは一体どこ」
「エノクだ。ここは、うーん、城のどっかだよ。俺たちをどうするか決めかねているらしい。かれこれ三日だ」
三日眠っていたのだ。シルヴィエはどうしているのだろう。クラエスも、一応。
「あー、ここから出るか?」
エノクが視線を窓の外へ投げかける。私の位置からはひたすらに青い空と、尖塔しか見えない。
「どうやって?」
この真昼間、どうやって逃げるというのだ。すぐに見つかるに決まっている。
「飛んで?」
エノクが困ったように、首にかけられている金色の環をいじる。金属の武骨さを感じる首飾りだ。
「と、飛ぶって、私は人間なんだけど。高跳びとかも得意じゃないし」
「高跳びってなんだ? とにかく、俺も人間だっつうの。ただ、できないこともないかもしれないなぁって」
ベッドから両足を下ろす。頭がくらりとする。だけれど、三日寝ていた割になかなか元気だ。妙にすっきりしていている。でも、まだ背中の傷は痛む。
私の動きに合わせて、白いネグリジェが足元を隠した。着ている服なんて今更どうでもいい。エノクの隣に並んで、窓から外を覗く。地面は意外な程に遠くて、高くて、そして、ばっちり二人の兵士が立っていた。騎士と言うのかもしれないけど、どちらにもしても見張りであることには変わりない。平和な庭園のように見えるのに、そこだけ雰囲気が違う。
唐突に一人の兵士が上を向いた。視線が合う。ついでに睨みつけられる。これ以上バルコニーに出るなと警報されているかのようだ。
「決めるのなら、早く。そろそろあの侍女が誰かを呼んで来るぞ。機会は今だけだ」
「さっきの……」
あの人も見張りだったのだ。
どこかに行ってしまおうか。でもこの城にはやり残したこともあると思う。
「聖女さまに会いたいの」
ネグリジェの長い袖に隠れた右腕のその先。どこに行くにしても、日本に帰るにしても、このままでは嫌だ。治してもらわなきゃ。そうじゃなければ、私は今まで何の為に頑張って来たんだろう。裏切られて、裏切って、それを繰り返したのは希望に縋っていたかったから。
「聖女かぁ。問題はないかと思うけどな」
エノクは金の環をより強く握りしめた。その言葉に首を傾げる。どうしてと聞こうと思ったそのとき、ちょうどよくノックの音が聞こえた。そして、失礼致します、という声とともに誰かが入ってくる。現れたのは先ほどの侍女だ。そして、その後ろから現れたのは、白金の髪を持つ女性。
「初めまして、になるのでしょうか。小春さん」
僅かに金の色を帯びた髪は、きらきらと輝いている。真っ白の装束に身を包み、色がはっきりしているのは琥珀色の瞳ぐらいだ。遠慮がちに口を開いたその人は聖女さまに間違いないだろう。あの日見た姿と同じ色彩を持っている人はそんなにいないと思う。
いきなりのことで、言葉が出てこない。腕を治して欲しいとか、あなたも地球から来たの、とか。どうやって帰れるか知っている? とか、どれから先に言えばいいのだろう。間違えたくない。
「会えて嬉しいです。私は、……斉藤華と申します。もしよろしければ、一緒に食事を取りませんか?」
西洋人形のような彫りの深い顔立ちには似合わない名前である。それでも、懐かしい響きが嬉しくて、顔がにやけそうになってしまう。もちろん一も二もなく頷いた。私たちはこの世界でたった二人の異邦人なのだ。