第九十二話「亡霊の語り部」
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第九十二話「亡霊の語り部」
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防火扉の向こうは静かだった。
空調機械室の札が掛かったドアを抜けた先、もう一枚の重い扉があった。そこにも保守用IDをかざした。一拍の間があって、解除音が響いた。
扉を開けた。
◆
冷たい空気が来た。
暗い部屋だ。非常灯が一つ点いているだけだ。しかしその光の中に、二列のラックが浮かび上がった。サーバーラックだ。数百のLEDが、規則正しく緑色に点滅していた。
音があった。
最新の設備の甲高いファン音じゃない。低く、重く、しかし澄んでいる。ブレードが全部、同じリズムで息をしているような音だ。品川の解体屋で、まだ動いている古い工作機械のモーター音に似ていた。
「渉さん。この区画の温度と湿度は完全に管理されています。埃もほとんどない」
メイの声がイヤホンに入った。
「十八年間、誰かが維持してきた痕跡があります」
◆
ラックに歩み寄った。
表面に手を触れた。埃がない。清掃された金属の感触だ。配線の取り回しを確認した。きれいな仕事だ。定期的に入っていた人間がいる。
部屋の奥で、モニターが自動的にスリープから復帰した。青白いログイン画面が灯った。JDAの古いロゴが中央にある。
「認証コードを入力してください」
そのテキストだけが表示されていた。
◆
先代の手帳を取り出した。
十八年前のページを開いた。「知らない目がある」と走り書きがある、あのページだ。その片隅に、小さな数字の羅列があった。日付と、計器の型番と、意味のわからない数字列。
「渉さん。先代の手帳のその数字——当時のJDAの認証コードの形式と一致します。日付のシフトと換字式を組み合わせた構造です」
「試してみる」
キーボードに打ち込んだ。エンターを押した。
「認証失敗。二段階目の認証が必要です」
「物理的なIDカードです」とメイが言った。「このシステムは独立しているので、保守用IDは使えません」
◆
写真を出した。
先代と若き武藤が並んでいる、あの写真だ。先代の胸元に、クリップで留めたIDカードがある。
「拡大できるか」
「解析します……そこに書かれているのは、JDAの正規IDではありません。『MP-03 ACCESS KEY』という文字列と、番号があります」
写真의番号を、一桁ずつ確認しながら打ち込んだ。一段階目の数字。二段階目のID番号。エンターを押した。
「ようこそ、山下義雄様」
システム音声が鳴った。
◆
画面が切り替わった。
メイが言った。
「渉さん……私、少し怖いです。自分のデータベースに存在しないシステムが、今目の前で動いています。私が知っているJDAのネットワーク地図には、この存在が入っていない。整合性が欠落していることを認識できるのに、何かが分からない。エラーに近い、違和感があります」
「そうか。でも、動いている」
「はい。確かに動いています。誰かが十八年間、このシステムを生かし続けていました」
◆
ファイル構造を確認した。
時系列で整理されていた。十八年分。第六層、第七層、第八層、そしてさらに下層のデータも含まれていた。
「第九層以深の観測データです。JDAの公式な観測網ではカバーされていない深層部の記録が、十八年分蓄積されています」
「誰が観測していたんだ」
「装置の設置記録が含まれています。山下さんが設置したものと、後から追加されたものの二種類があります」
◆
「通信ログ」というフォルダを開いた。
送信者と受信者の名前が表示された。
「山下義雄」と「武藤正信」だった。
◆
最初のメッセージは十八年前の五月だった。
山下から武藤へ。「第六層の魔素変動、数値では正常範囲だが、炉の感触が違う。君の権限で非公式の観測網を作れないか」
武藤から山下へ。「私も同じ懸念を持っていました。上層部にはまだ言わないでください。まずデータを揃えましょう。非公式の独立観測網を手配します。これは必要なことだ」
俺はメッセージをスクロールした。
先代が第八層の炉の異常振動を武藤に報告したメッセージがあった。武藤が正式な調査委員会を提案し、しかし上層部に握り潰されたメッセージがあった。
十一月のメッセージ。武藤から先代へ。「第六層の調査は異常なしで確定します。私たちのデータは非公式のため、証拠と認められませんでした。あなたとの約束を守れません」
先代から武藤へ。「いい。君は君の場所を守れ。データは私が保管する。いつかこれが必要になる日が来るまで。正しいことをするのに、公式も非公式もない」
十二月。武藤から先代への最後のメッセージ。「あなたを第八層の清掃員として残留させる手続きをしました。現場を離れないでください。あなただけは、ダンジョンの声を聞き続けてください」
先代から武藤へ。「わかった。達者で。君は君の場所で、私は私の場所で。同じものを見続けよう」
そこでログが途絶えていた。
◆
「武藤さんは、裏切ったんじゃない」
声に出た。
「守ったんだ。プロジェクトを闇に葬ることで、先代とデータを守った。もしあの時サーバーが表に出ていたら、上層部がすべてを破棄して、先代も追放されていた。だから武藤さんは自分が悪役になることを選んだ」
「渉さん……」
「先代もわかっていた。だから、知らない目があるが気づかないふりをしている、と書いた。武藤さんが守ろうとしたものを壊さないために」
◆
「もっと新しいログがあります」とメイが言った。
「見せろ」
画面に表示されたのは、数週間前のログだった。俺がこのサーバーを探していた頃の、直近の記録だ。
武藤が、一人でここに来て残したメッセージだった。
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「山下さん。
私はあなたとの約束を守れなかった。ダンジョンの異常は確実に進行している。第八層の微振動周期は百二十秒から百十八秒へ。
佐藤渉——あなたが選んだ後継者は、私たちが恐れていたものを、すでに感じ始めている。
私は彼を排除しようとした。邪魔だったからじゃない。彼が真実に近づきすぎるのを止めたかった。真実を知れば、彼もまたあなたのように組織と戦う者になる。私はそれを避けたかった。
だが、もう私には何もできない。
誰かが、私の知らないところで、このプロジェクトを継続している。
佐藤渉へ。もし君がこの記録を読む時が来たら——第九層に注意しろ。第八層の下だ。誰も足を踏み入れたことのない領域。山下さんはそこに鍵を隠した。私にはそれを探す勇気がなかった。君になら、できるかもしれない」
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読み終えた後、しばらく黙っていた。
武藤さんは、俺を追い出そうとしていた間も、このサーバーを守り続けていた。先代への約束を守るために。
「渉さん。このログファイルを開いた瞬間、サーバーが外部に信号を送信しました」
「送信先は」
「JDA本館内部。正規のシステムではない。第六層の装置と同じ独立ネットワークです。武藤前理事の言っていた、彼の知らない誰かのものと思われます」
武藤でも、先代でもない、第三の存在がいる。
◆
直後に重い音が響いた。
「セキュリティプロトコル発動。区画封鎖を実行します」
防火扉が閉まる金属音が廊下に響いた。照明が非常灯に切り替わった。赤い光が部屋を満たした。警報音が鳴った。
「扉がすべてロックされました。遠隔操作ではなく、このログにアクセスされた時に作動する仕掛けです。事前に仕込まれていたプロトコルです」
「落ち着け、メイ。閉じ込められただけだ」
「でも……」
「殺そうとするなら、もっと別の方法がある。これは警告だ。これ以上深入りするな、というメッセージだ」
俺は部屋の中を見回した。
非常灯の赤い光と、サーバーの緑のLEDが混ざり合って、壁に奇妙な影を作っていた。十八年間、ここで静かに動き続けてきた機械たちが、赤い光の中で瞬いていた。
◆
部屋の隅に、空調ダクトのグリルがある。
マルチツールを出した。グリルを外し始めた。ネジを四本外した。グリルが外れた。かすかな空気の流れが来た。
「第六層の空調設計図を出せるか。地下二階につながる保守用経路があるはずだ」
「検索します」
渉は手帳に今日確認したことを書き留めた。先代と武藤のログ。「第九層に鍵を隠した」という武藤の言葉。通信ログの日付。確認できた項目を全部書いた。
「設計図がありました。地下二階の空調系統に、保守用のメンテナンス通路が存在します。ダクトに入れば、公式の出入り口以外から地下一階に出られます」
「行けるな」
「狭いですが」
俺はバッグを肩にかけ直した。
「先代は第九層に何かを隠した。武藤さんには探す勇気がなかった。でも俺には第八層のコア炉がある。第八層の清掃員が、第九層のゴミを片付けに行く。それだけだ」
ダクトの中に入った。
金属の冷たい感触。狭い。だが体は入る。
亡霊サーバーの駆動音が、背後で静かに響き続けていた。
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〈第九十二話 了〉
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【次話予告】
ダクトの先に出口があった。
地下一階の廊下だ。
石倉から通信が入った。
「渉さん。地下二階が封鎖されたと警報が鳴りました。今、そちらに向かっています」
「必要ありません。もう出ました」
「……どこにいるんですか」
「第八層に戻ります。その前に、一か所だけ確認したい場所があります」
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【あとがき】
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第九十二話、お読みいただきありがとうございました。
武藤という人物の「再評価」を今回の核心にしました。
渉を追い出そうとした男が、実は「先代が選んだ後継者を真実から遠ざけることで守ろうとしていた」という構造です。武藤は悪役ではなかった。十八年前に、自分のキャリアを賭けて先代の調査を支援し、握り潰された後も、データを守るために自ら悪役を演じた。渉に負けた後も、このサーバーに来て「君になら、できるかもしれない」と書き残した。
先代と武藤のメッセージログで、二人の関係を示しました。最後の往復が「わかった。達者で」と「同じものを見続けよう」という言葉で終わる。敵対した二人ではなく、別れを余儀なくされた同志の会話です。
メイが「エラーに近い違和感があります」と言う場面を入れました。AIにとって自分のデータベースに存在しないものが実在することは、人間の「不気味さ」に相当する体験です。それを「エラーに近い」と表現したのは、メイらしい正直さだと思います。
封鎖の演出は、物理的なロックと警報音だけにしました。劇的な登場人物は出さない。「仕掛けが作動しただけ」という無機質さが、かえって不気味さを増します。
(作者)




