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第九十三話「鍵の在処」

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第九十三話「鍵の在処」

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 鉄格子を内側から押した。


 音を立てないようにゆっくりと開け、外に出た。夜の空気が来た。地下二階の完全に管理された空気とは全然違う。湿り気と冷たさがあって、草の匂いがかすかにする。


 立ち上がった。膝と肘にダクトの埃がこびりついていた。手で払ったが、あまり取れなかった。まあいい。


「渉さん、ご無事で」とメイが言った。


「何時だ」


「午前二時十七分です。第八層のコア炉は安定しています。小林さんは仮眠室で休んでいます」


「そうか」


 工具バッグを肩にかけ直した。手帳を確認した。サーバー室で書き写した内容が読めた。第九層。先代が鍵を隠したという場所。



 石倉が来たのは、十分ほど後だった。


 スーツを着て、懐中電灯だけ持っていた。いつもの書類鞄はない。彼は俺の全身を一度見て、深く息を吐いた。


「地下二階の警報は、君か」


「ええ」


「そうか」


 それだけだった。石倉は壁に背を預け、懐中電灯を消した。追及しない。彼らしかった。


「聞くべきかどうか、迷っている」と石倉が言った。「聞けば私は監査部参与として、君の行動を公式に把握したことになる」


「それを公式にしたくないなら、聞かないほうがいい」


「……そういうことだ」


 沈黙があった。夜風が通用口の隙間を抜けた。


「それでも教えてくれるか」と石倉が言った。「地下に何があった」



「先代と武藤さんが、十八年前に隠したサーバーです。そこで二人が何を恐れ、何を守ろうとしたか、全部書いてありました」


「武藤が、山下さんを守っていたのか」


「ええ。あの人は、組織に屈したふりをして、ずっと一人で先代の遺産を守っていた。俺を排除しようとしたのも、危険から遠ざけるためだったんだと思います。それが彼のやり方だ」


 石倉が黙った。しばらくして、静かに言った。


「私はずいぶん長く、彼を誤解していたらしい」


「誤解されることを選んだんだと思います。武藤さんは」


 また沈黙が来た。


「石倉さん。武藤さんのサーバーに、もう一つ情報がありました」


「なんだ」


「第九層です。先代が、そこに鍵を隠したと」



 石倉の表情が変わった。


「第九層は、公式には存在しないはずだ」


「知っています」


 石倉が腕を組んだ。長い沈黙があった。


「私は監査官だ。公式には第九層など存在しないと言うべき立場だ」


「ええ」


「だが、一個人としては——君がこれから第九層を探すというなら、止めはしない」


「止めないんですか」


「私にできるのは、君の背中を見送ることだけだ。そして、君が戻ってきた時に『おかえり』と言うことだけだ。それしか、今の私にはできない」


 俺は少し間を置いた。


「それで十分です。戻ったら、またコア室で会いましょう」



 JDA本館の一階に、旧資料室がある。


 かつて施設管理部の資料庫だったが、今は誰も使わない。石倉と別れてから、そこに立ち寄った。先代が第九層のために何かを残しているとしたら、ここにもあるはずだと思った。直感だ。だが、職人の直感は、外れないことが多い。


 非常灯だけ点いた薄暗い部屋に入った。壁の棚を端から見ていった。古い図面、使わなくなった計測機器の木箱、無数のファイル。ほとんどは正式な管理台帳に載っているものだ。


 棚の奥に、一際古びた木箱があった。表面に何も書いていない。だが、俺にはわかった。品川の古い工場で使われていた型の木箱だ。先代が第八層でも使っていた同じ型だ。


 開けた。


 古い図面が数枚と、ノートが一冊と、一本の工具が入っていた。


 工具は先代が第八層で使っていた型の、魔素計測プローブだった。ただし先端が改造されていて、長いケーブルが取り付けてある。深い場所に降ろすためのものだ。


「渉さん。そのプローブのケーブルは百五十メートルあります。通常の観測用とは全然違います」


「第九層は深いんだろう」


「おそらく」



 図面を広げた。


 手書きで書き込まれたルートがあった。第八層のさらに下へ続く坑道路だ。「未確認」「要注意」という走り書きが随所にある。先代の筆跡だ。


 ノートを開いた。


 先代の几帳面な文字だった。


「第九層は、ダンジョンの最深部ではない。ここは『観測点』だ。ダンジョンの心臓の鼓動を、最も近くで感じ取れる場所。しかし、ここは危険だ。魔素の濃度は第八層の三倍。通常の防護服では保たない。何より——ここには意志がある。ダンジョンそのものの意志なのか、かつてここにいた誰かの意志なのか、私にはまだわからない。だが、もしこのノートを読む者がいるなら、覚えておけ。第九層には扉がある。その鍵は、私が隠した」


 ノートを胸にしまった。プローブを工具バッグに入れた。図面を折って内ポケットへ。


「先代、全部用意してたんだな」



 第八層のコア室に戻った。


 小林は仮眠室で眠っていた。規則正しい寝息が聞こえた。


 メイが言った。


「第九層に関するデータを整理しました。JDAの公式データベースには存在しない空間ですが、先代の観測記録と地下二階のサーバーのデータを突き合わせると、ある事実が出てきます」


「なんだ」


「第九層にあたる物理空間は存在します。しかしそれはダンジョンの構造上、存在しえない場所です。深度計算の矛盾があります。岩盤の層を完全に貫きながら、空洞が維持されている。通常の地質学では説明できません」


「第九層の魔素流は、ランダムではなくパターンがあります。周期も波形も——まるで呼吸しているかのような規則性です。そしてそのリズムは、第八層のコア炉の微振動周期と同調しています。第九層は、第八層のコア炉と何らかの形で繋がっている可能性があります」


「それから——渉さん。第九層では私の通信が届かない可能性が極めて高いです。魔素濃度が高すぎて、電磁波が歪みます。渉さんは完全に一人で、あの場所に降りることになります」



 工具バッグの中身を確認した。


 魔素計測プローブ、予備の作業手袋、懐中電灯二本、手帳とペン、先代のノート、先代から引き継いだ図面。


 コア炉を見た。青白い光がいつも通り揺れていた。


「メイ、頼みがある」


「はい」


「俺がいない間、第八層を守ってくれ。小林が困ったら助けてやれ。炉の点検は毎朝五時に、いつも通りやるよう伝えてくれ」


「もちろんです。小林さんには何か伝言がありますか」


「炉の音を聞け、と。それだけでいい」


 バッグを肩にかけた。


「渉さん。一つ聞いていいですか」


「なんだ」


「なぜそこまでして第九層に行くのですか。先代の遺志もわかります。鍵のこともわかります。だが、それがなぜ、渉さんの仕事になるのですか」


 俺はしばらく考えた。


「清掃員の仕事は、ゴミを片付けることだ。先代が十八年前に、片付けられなかったものを残した。それを片付けるのは、次の清掃員の仕事だ。それだけだ」


「……わかりました」



 コア室の扉を開ける前に、仮眠室の方を振り返った。


 小林の寝息が聞こえた。あいつは今日も真面目に働いて、疲れて眠っている。報告書も書いた。炉の音を聞く訓練もした。ちゃんとやっている。


 俺が戻るまで、あいつならここを守れる。


 炉を見た。


「行ってくる」


 扉を開けた。


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           〈第九十三話 了〉

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【次話予告】

 第八層の最深部、コア炉の裏側に、古い坑道の入口があった。

 先代の図面通りだ。

 入口に蓋がされていた。錆びついたボルトが四本。

 バールを出した。



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【あとがき】

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 第九十三話、お読みいただきありがとうございました。


 石倉との会話場面が書きたかった回です。「聞けば私は監査部参与として、君の行動を公式に把握したことになる」という一言で、石倉という人物のすべてが表れています。彼は知っている。しかし公式に知ることを選ばない。それが彼にできる最大の支援です。


 旧資料室の木箱の描写に「品川の古い工場で使われていた型の木箱」と書きました。渉が一目でそれとわかる理由は、品川で二十五年間、同じ型の木箱を使ってきたからです。道具への馴染みが、先代の痕跡を見つけさせる。


 メイが「なぜそこまでして第九層に行くのですか」と聞く場面を入れました。AIであるメイには、渉の動機が完全には理解できない部分があります。「清掃員の仕事は、ゴミを片付けることだ」という渉の答えは、それ以上でもそれ以下でもない。しかしその単純さの中に、渉という人間の全てが入っています。


 小林が眠っている描写をラストに入れました。師が命がけの決断をしている横で、弟子は何も知らずに眠っている。その対比が、渉の孤独と、同時に「弟子に預けた安心感」を表しています。


                   (作者)

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