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第八十九話「静かな現場と、動く地底」

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第八十九話「静かな現場と、動く地底」

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 小林が管理責任者になって、十日が経った。


 今日も朝の点検を終えて、手帳に数値を書き込んでいると、小林が来た。タブレットを持っている。


「親方、月次報告書の草稿ができました。確認してもらえますか」


 タブレットを受け取った。


 グラフが並んでいた。コア炉の圧力と温度の推移。発電機の出力データ。消耗品の使用量。カラフルで、数値が細かく、きれいにまとまっていた。


「よく作ったな」


「ありがとうございます。今のJDAの様式に合わせて、グラフのフォーマットを——」


「一つ聞く」


「はい」


「今朝の炉の状態は、どうだった」



 小林が少し止まった。


「……え、それは数値を見れば」


「お前が見ていた数値の話じゃない。炉の音の話だ」


「音……」


「今朝、炉の低周波が少し変わっていた。昨日より音が詰まっていた。気づいたか」


 小林が困った顔になった。


「……気づきませんでした」


「報告書は完璧に作れても、炉の音を聞いていなかったんだな」


「す、すみません。報告書の締め切りが明日で、データを集めるのに集中していて……」


 タブレットを返した。


「小林。お前が書きたいのは、数字か。炉の状態か」


 小林が黙った。


「数字は炉の状態を記録するためにある。炉の状態を知らずに数字だけ並べても、それは点検記録じゃなくて、グラフのデコレーションだ」


「……はい」


「報告書は後でいい。まず炉の音を聞いてこい」



 小林が出ていった後、俺は作業着の袖をまくった。


 配管の下の錆を落とす作業が残っていた。ワイヤーブラシを取り出した。


 第八層技術顧問。笠原理事がそう呼んでいる。


 でも俺がやっていることは変わらない。錆を落として、油を差して、ボルトを締める。それだけだ。


 ブラシを当てた。ガリガリという音が通路に響いた。


 錆が落ちた。下から金属の地が出た。


 問題ない。腐食はここだけだ。



 午後、先代の手帳を引っ張り出した。


 今年から使っている新しい手帳と、先代の古い手帳を並べた。


 比較したい数値がある。コア炉の魔素流入量の変動パターンだ。


 先代の記録を開いた。二十年前のページ。几帳面な筆跡で数値が並んでいる。


 渉が来てからの記録と照合した。


 大まかな傾向は同じだ。季節による変動、昼夜の差。そこは変わっていない。


 ただ。


 一つだけ、気になることがある。



 ここ三週間の魔素流入量の変動だ。


 振れ幅が、去年より少し大きい。


 一回の変動で、プラスマイナス〇・〇四程度。去年は〇・〇二だった。先代の記録をさかのぼると、こんな数値は滅多に出ていない。


 ただし、平均値そのものは正常範囲内だ。


 センサーの警告も出ていない。


 メイに確認させたが「異常なし」という判定だった。


 でも。



 炉に手を当てた。


 振動を感じた。


 いつもと同じ振動だ。特に変わったところはない。


 しかし。


 振動のリズムが、ほんのわずかだが不均一だった。


 一秒ごとに計測すると、〇・九九、一・〇〇、〇・九八、一・〇一。数値は正常範囲内だが、こういうバラつき方はあまりない。


 先代の手帳に戻った。


 類似した変動パターンが記録されていないか、ページをめくった。



 見つかった。


 十八年前の記録だ。


 「炉の振動リズムに軽微なバラつきを確認。原因不明。経過観察」


 その後のページを読んだ。


 翌週の記録。「バラつき継続。第六層で魔素流の局所的な滞留を確認。関連の可能性あり」


 さらに翌週。「第六層の滞留が拡散。炉の振動は正常に戻った。第六層の影響だったと推測する」


 俺は手帳を閉じた。


 十八年前の先代は、炉の軽微なバラつきから、第六層の異変を早期に察知していた。


 今の俺が感じているバラつきが、同じ原因によるものかどうかはわからない。



 小林が戻ってきた。


「親方。炉の低周波、確認しました。確かに少し詰まった感じがします。どこに原因があるんですか」


「まだわからん」


「えっ」


「わからないから、観察するんだ。原因を決めてから観察すると、見たいものしか見えなくなる。まず変化を感じて、それから考える。順番を間違えるな」


「……はい」


「それと、今日の炉の音の変化を、報告書じゃなくて手帳に書いておけ。感じたことをそのまま。分析は後でいい」


「手帳に……数値だけじゃなくて、感じたことも書くんですか」


「先代はそうしていた。俺もそうしてきた。数値にならないものを言葉にしておく。後で比較する時に役に立つ」



 夜になった。


 小林が帰って、コア室に一人になった。


 今日の手帳を開いた。


 点検結果を書いた。数値を書いた。その下に一行加えた。


 「炉の振動リズムに軽微なバラつき。三週間継続。先代の十八年前の記録に類似パターンあり。第六層起因の可能性を含め、経過観察を継続する」


 ペンを置いた。


 炉を見た。


 青白い光が、いつもと同じように揺れている。唸りも、いつもと同じ。センサーは「異常なし」を示している。


 でも。


 炉のそばで二十年過ごしてきた体が、なにかを言っている。


 言葉にはならない。数値にもならない。


 ただ、何かが、少し変わっている。



 先代の手帳をもう一度開いた。


 第六層の滞留が起きた時の記録を読み返した。


「メイ。第六層の今の魔素循環データを見せてくれ」


「はい。現在の第六層、魔素流は……正常範囲内です。局所的な滞留の兆候はありません」


「そうか」


「気になることがありましたか」


「今のところ、何もない。ただ、確認しておきたかった」


「……わかりました。引き続きモニタリングします」



 横になった。


 天井にコア炉の光が揺れている。


 今日の第八層は静かだった。監視もない。妨害もない。小林はまだ頼りないが、現場で学ぶ気はある。報告書のフォーマットより炉の音を先に聞くことを、今日少しわかってくれた。


 それでいい。


 ただ、この炉の微細なバラつきが、頭の隅に残っている。


 十八年前の先代は、同じような変化を感じた時、第六層の異変の前兆だったと後から記録している。


 今がそれと同じかどうかはわからない。


 でも、炉はダンジョン全体の状態を映す鏡だ。地の底の何かが動いている時、炉が最初にそれを感じる。


 少し時間がかかるかもしれない。


 でも、答えはいずれ出る。


 それまで、毎朝五時に起きて、炉の音を聞く。変化があれば記録する。それだけだ。


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           〈第八十九話 了〉

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【次話予告】

 三日後の朝、渉が点検を終えた時、メイが言った。

 「渉さん。第六層の北区画で、魔素流の局所的な変動を確認しました。数値は正常範囲内ですが……パターンが先週と変わっています」

 渉は手帳を開いた。

 十八年前のページと、今日のページを並べた。



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【あとがき】

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 第八十九話、お読みいただきありがとうございました。


 「お前が書きたいのは数字か、炉の状態か」という渉の問いかけが、今回の核心です。


 小林の空回りは、悪意のある失敗ではありません。一生懸命やっている。でも方向が少しずれている。報告書を完璧に作ることに集中するあまり、炉の音を聞くという本来の仕事が後回しになっていた。渉はそれを怒らない。ただ「順番が違う」と指摘する。感情より先に、事実を見ろということです。


 先代の十八年前の手帳との照合場面は、この物語全体のテーマである「記録の継承」が実際に機能する瞬間として書きました。先代が残した記録が、十八年後に渉の手を通じて、現在の異変の早期察知に役立っている。記録を残し続けることの意味が、ここで具体的に示されます。


 「炉の振動リズムに軽微なバラつき」という変化は、センサーには引っかからず、メイの判定も「異常なし」です。それを渉だけが感じている。数値にならない変化を体で感じ取る、二十年間炉のそばにいた人間だけに可能なことです。その「感じ」を言葉にして手帳に残す。それが次の誰かへの継承になる。


                   (作者)


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