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第八十八話「名もなき職人の選択」

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第八十八話「名もなき職人の選択」

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 武藤の解任から数日後。


 朝の点検を終えて手帳に記録をつけていると、メイが言った。


「渉さん。JDA理事の笠原謙三氏がお見えです。お一人です」


 笠原の名前は石倉から聞いていた。中立派の筆頭。武藤の解任動議を主導した老理事。


「通してくれ」



 現れたのは、細身のスーツを着た白髪の男だった。背筋が伸びている。どこか柔和な空気がある。武藤のような鋭さはない。


「佐藤渉氏だな。私は笠原謙三。JDA理事をしている。突然お邪魔して申し訳ない」


「佐藤です。どうぞ」


 笠原はコア炉を見上げた。しばらく、唸りに耳を澄ませていた。


「……これが第八層の炉か。報告書で数字は見てきたが、実物はまた違う」


「現場ですから」


「そうだ。現場でなければ、わからないことがある」


 笠原は炉から視線を外し、俺に向き直った。


「単刀直入に言おう。私は君に、JDAの正式な第八層管理責任者への就任を依頼したい」



 俺は手帳を閉じた。


「年俸は現在の五倍。予算編成権も与える。人員配置も可能にする。武藤が去った今、JDAは現場を大切にする組織に変わらねばならない。君には、その象徴になってほしい」


 笠原の言葉には誠意があった。武藤の時と違った。あの時は管理権を奪いに来ていた。今回は、渡そうとして来ている。


「笠原理事」


「なんだ」


「ありがたい話です。あなたが本気で現場を考えてくれていることも、わかります」


「しかし」と笠原が先を読んだ。


「その話は受けられません」



 笠原は眉をわずかに動かしたが、表情は穏やかなままだった。


「理由を聞いてもいいか」


「管理責任者になれば、俺は第八層の管理をしなければならなくなる。予算を組み、人員を配置し、報告書を書き、会議に出る。それは、炉のそばを離れるということです」


「炉のそばを……」


「俺の仕事は、この炉の音を聞き、温度を掌で測り、異変を感じ取ることです。それは管理職の仕事じゃない。清掃員の仕事だ」


 俺は炉に手を当てた。二十年分の振動の記憶が、掌にある。


「清掃員だからこそ、炉の声が聞こえる。管理職になった瞬間に、その耳は鈍くなる。それは、俺がこの二十年で学んだことです」



 笠原はしばし考え込み、それから口を開いた。


「しかし、君が正式なポストに就かない限り、第八層の予算も人員もいつまた削られるかわからない。また誰かが君を排除しようとすれば、同じことが繰り返される。そのリスクについては、どう考える」


「また誰かが来るなら、その時はその時です。俺はまた、同じように記録を残し、現場を守るだけです」


 笠原が少し笑った。


「武藤は、君がそう言うと思っていたようだ。最後まで君の言動を理解できなかった、とつぶやいていたらしい」


「武藤さんは、俺を組織の文脈で見ていた。俺は炉の文脈でしか動いていない。そこがずれていただけです」


「なるほど」



 笠原は少し間を置いてから言った。


「管理責任者が必要なら、他に適任者はいるか」


「います」


「誰だ」


「小林です。DTSから出向している若手の」


 笠原が記憶を手繰る様子を見て、俺は続けた。


「まだ若い。経験は俺や先代には及ばない。でも、あいつは現場で学ぶことを知っている。管理職についても現場を離れずに仕事ができる。そういうやり方を、これから作っていける人間です」


「君が指導するのか」


「俺はこれまで通り、清掃員としてここにいます。小林が管理業務でわからないことがあれば、いつでも炉のそばに来ればいい。現場で教えます」


 ロッカーから手帳を取り出した。擦り切れた表紙。びっしりと書き込まれたページ。二十年分の点検手順と、数値化できない現場の感覚を、できる限り言葉にしたものだ。


「これも小林に託します。俺が二十年かけて書き足してきた、第八層の点検手順書です。先代のマニュアルに俺が現場で学んだことを追記したものだ」


 笠原が受け取り、ページをめくった。


「これは……素晴らしいものだ」


「すべてじゃありません。本当に大事なことは、現場でしか伝えられない。でも、これを読んでから現場に立てば、学び方は変わるはずです」



 笠原は手帳を閉じて俺に返した。


「わかった。小林くんを管理責任者として正式に推薦しよう。ただし条件がある」


「なんでしょう」


「君には引き続き、第八層にいてほしい。肩書きは清掃員のままで構わない。しかし、JDAは君の存在を正式に認知する。第八層技術顧問という非常勤のポストを新設する。報酬は発生する。会議には出なくていい。現場にいるだけでいい」


 しばらく考えた。


「その条件なら」


 笠原が手を差し出した。握り返した。



 第七層の発電機前に、小林を呼んだ。笠原も来た。


 小林は息を切らせてやってきて、笠原を見て直立不動になった。


「小林」


 手帳を差し出した。


「これを受け取れ」


「これは……親方の手順書じゃないですか」


「そうだ。今日からこれはお前のもんだ。それから、お前は今日から第八層の管理責任者だ」


 小林が固まった。


「え……え? なんで俺が……親方がなるべきです。なんで……」


「管理責任者はな、会議に出たり、予算を組んだりする仕事だ。俺はここで炉のそばにいたい。それが俺の仕事だ」


「でも俺なんかが……」


「現場を知ってる管理職ってのは、これからのJDAに必要な人材だ」


 小林がまだ何か言おうとした。


「それに」


 俺は手帳を指さした。


「これはな、俺だけのもんじゃない。先代が俺に託して、俺が育てて、今度はお前に託す。そうやって、第八層は守られてきた」


 小林は手帳を両手で受け取り、うつむいた。肩が震えていた。


「……俺、ちゃんとやれますか」


「わからん。やってみなきゃ、誰にもわからん」


「困ったら」


「ここに来い。俺はいつでもここにいる。炉のそばで、いつもの仕事をしてる」



 夕暮れに、笠原がゲートを出る前に立ち止まった。


「佐藤くん。管理職を断ったのは、現場にいたいからだけか」


「……先代が、こんなことを言っていました。名もなき職人でいろ、と。名前がつけば、名前を守ろうとして、現場を見失う、と」


笠原はしばらく黙っていた。


「俺は、佐藤渉という名前を売りたくない。ポストもいらない。俺がここにいる理由は、自分で決めているからです。組織に決められた肩書きじゃなく、自分の意志で、自分の仕事をする。それが、清掃員としての俺の矜持です」


 笠原が深く頷いた。


「山下氏は、いい後継者を選んだ。私はそう思う」


 軽く手を上げて、笠原は去った。



 夜、コア室で新しい手帳を開いた。


 先代から引き継いで書き続けてきた手帳は小林に渡した。これは今日から始まる一冊だ。


 今日の日付を書いた。炉内圧力、排気温度、振動数、発電機の状態。数値を並べた。最後に「異常なし」と書いた。


「渉さん」とメイが言った。


「なんだ」


「管理職の昇格も、年俸の五倍も、惜しくなかったんですか」


「惜しくなかったと言えば、嘘になる。金があれば第八層にいい機材が入れられる」


 炉を見上げた。


「でも管理職になれば、俺はここを離れる。会議に出て、予算を組んで、報告書を書いている間に、炉はどんどん変わっていく。それをデスクの上だけで判断しなきゃいけなくなる。それは俺の仕事じゃない」


「管理職になっても、現場に来ることは……」


「たまに来るのといつもいるのは違う。俺はいつもここにいたい。朝五時に起きて、炉の音を聞いて、温度を掌で測って、異変をその場で手を打つ。そういう仕事を、これからも続けたい」


 手帳を閉じた。


「俺は、名もなき清掃員でいい。名もないからこそ、誰にも縛られずに、自分の仕事ができる」


「渉さんは、私が知る中で、最も自由な人です」


 俺は少し考えた。


「自由か。それも悪くないな」


 横になった。天井にコア炉の青い光が揺れていた。


 監視もない。妨害もない。


 ただ炉が動いていて、俺がそのそばにいる。それだけだ。


 明日も朝五時に起きる。


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           〈第八十八話 了〉

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【次話予告】

 翌朝、小林が管理責任者として初めての報告書を書いていた。

 「親方、この書き方でいいですか」と聞いてきた。

 渉は発電機の点検をしながら答えた。

 「数字は正確か」

 「正確です」

 「なら問題ない」



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【あとがき】

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 第八十八話、お読みいただきありがとうございました。


 「清掃員だからこそ、炉の声が聞こえる」という渉の言葉が、この話の核心です。


 管理職になることで失われるものがある。毎朝五時に起きて炉の音を聞く習慣。温度を掌で測る感触。異変に気づいた瞬間に手を打てる即応性。それらは「現場にいること」と一体の能力です。管理職になれば失われる。だから渉は断った。その論理は感情ではなく、職人としての合理的な判断です。


 笠原と武藤の違いを意識して書きました。武藤は管理権を「奪いに来た」。笠原は「渡しに来た」。同じ「組織の人間」でも、現場への向き合い方がこれほど違う。笠原が渉の断りを受け入れられたのは、渉の論理を「理解しようとする耳」を持っていたからです。


 手帳を小林に渡す場面は、この作品を通じて渉が一番「継承者」として行動する瞬間です。先代が渉に渡したように、渉は小林に渡す。しかし渉は現場を離れない。「困ったらここに来い。俺はいつでもここにいる」という一言が、継承の本質を表しています。


                   (作者)


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