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第八十七話「決定的証拠と墜落」

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第八十七話「決定的証拠と墜落」

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 今日も朝五時に起きて、点検を始めた。


 コア炉の圧力、正常。排気温度、正常。振動数、正常。発電機の軸受け温度、正常。


 手帳に数値を書き込みながら、メイの声を待った。


「渉さん。JDA本部の臨時理事会が開会しました。石倉参与が証言台に立っています」


「そうか」


 ペンを止めなかった。



 理事会の議場では。


 石倉が証拠台に、擦り切れた手帳を置いた。


「これは、第八層清掃員が二十年間にわたり記録し続けてきた、手書きの作業日誌です」


 場内が静まった。


「改ざんが行われたとされる先週木曜、午前三時十七分。この日誌の記録は、炉内圧力七一二kPa、排気温度四三八度。正常範囲内です」


 石倉はアクセスログとの比較データを広げた。


「問題のログには、その同時刻に保守用IDがコア炉の安全リミッターを解除したとあります。しかし、同時刻の入域センサーには、そのIDの反応が第七層にあります。人間は同時に二か所にいられない」


「さらに、ログが示す炉内圧力九四〇kPaという数値が実際にかかっていたなら、安全弁が作動して排気口から魔素が放出されていたはずです。しかし、周辺環境モニターには一切の異常記録がない」


 笠原老理事が「物理的にありえない数値というわけだな」と言った。


「その通りです」と石倉は答えた。「デジタルデータは改ざんできても、二十年分の手書きの記録を後から捏造することは不可能です。紙の劣化、インクの褪せ方、筆跡、すべてが一致していなければならない。この手帳こそが、第八層の真実です」



 第八層では、俺は発電機の点検に移っていた。


 軸受けの温度を掌で確認する。わずかに熱い。許容範囲内だが、今週末に増し締めをしておく必要がある。メモ帳に書いた。


「渉さん。桜井法務部次長が証言台に立ちました」


「ふむ」


 温度を再確認した。問題なし。



 桜井が読み上げた。


「セキュリティ担当官の宣誓供述書を読み上げます。『武藤理事より、第八層のアクセスログを修正し、佐藤渉が安全範囲外の操作を行ったように見せかけるよう、直接指示を受けた。久我課長補佐も同席していた』」


 場内が大きくどよめいた。


「今回の改ざん行為は、JDA就業規則第五十八条の公文書偽造に該当します。さらに、捏造データが理事会の正式な議事の根拠として使用されたことは、JDA定款第三十一条の虚偽報告に違反します」


 桜井は武藤を見据えた。


「これらの行為が一理事の単独指示によって行われた場合、責任は当該理事個人に帰属します」



 武藤が証言台に立った。


 顔には疲労が濃かったが、目には最後の光がまだあった。


「弁明の前に確認したい。石倉参与の報告は私情を含まないか。佐藤渉への肩入れではないか」


「正式な監査報告です」と石倉は答えた。


「……よかろう。指示を出したことは認める」


 場内の空気が変わった。


「しかし、私の行動はすべてJDAを守るためだ。第八層という最重要施設が無法者の手に委ねられている異常事態を正すために、私はあらゆる手段を尽くした。手段に瑕疵があったことは認める。だが動機は、ただJDAの安全と秩序を守ることだけだった」


 誰も答えなかった。


 笠原が重い口を開いた。


「武藤くん」


 老理事の声は、怒りではなく深い落胆に満ちていた。


「君は組織の正義を口にしている。しかし、君がやったことは組織のルールそのものを破壊することだ。ログを改ざんし、捏造データを理事会に提出し、無実の人間を犯罪者に仕立て上げようとした。それが組織を守ることか」


 武藤は答えなかった。


「最初、君が第八層の標準化を提案した時、私はある程度理解した。現場の属人性を排除し、組織として持続可能な体制を築く。それは組織人として正しい発想だと思った」


 笠原は一呼吸置いた。


「しかし、いつの間にか君のやり方は変わっていた。佐藤渉を排除すること自体が目的化していた。組織の正義を掲げながら、実は私怨で動いていた。違うか」


 武藤の肩が、わずかに落ちた。


「私は、武藤正信のJDA理事としての適格性を問う動議を提出する」



 採決が行われた。


 武藤派の理事たちも、一人、また一人と手を挙げた。かつての同盟者たちが、黙って武藤を切り捨てていった。


「可決されました。武藤正信理事は本日付で理事職を解任。JDA資料管理部付への異動を命じます」


 武藤はゆっくりと証言台を離れた。


 その背中を見送りながら、石倉は無表情だった。笠原は深いため息をついた。桜井は複雑な顔をしていた。



 廊下を一人で歩きながら、武藤は独り言を言っていた。


「……なぜ、清掃員如きに負ける」


 答えはなかった。窓の外の都市だけが、夕日に染まって無言だった。


「組織を守るために、組織のルールを破った。矛盾している。だが……他に方法があったのか」


 彼の脳裏に、渉の言葉が蘇った。


 「ダンジョンは、組織の論理では動かない」


「そうか……お前は最初からわかっていたのか。組織の論理が、お前に通用しないことを」


 彼の足音だけが、長い廊下に虚ろに響いた。



 夕方、メイが言った。


「渉さん。石倉参与から正式な連絡が入りました。武藤正信理事が本日付で理事職を解任されました。新たな配属先は資料管理部です」


 俺は配管のボルトを確認していた。


「……そうか」


「渉さん、よかったですね」


「明日の点検箇所の確認をしておく」


 手帳を開いた。朝五時、コア炉の圧力と温度。第七層の発電機の軸受け増し締め。小林への確認事項。順番に書いた。


「渉さん……もう少し、何か感想はないのですか」


 俺は少し考えた。


「武藤さんは、武藤さんのやり方でJDAを守ろうとした。それは俺のやり方とは違う。でも目的だけは、同じだったのかもしれない」


「だから、よかったとは言えないんですか」


「敵が倒れたからといって喜ぶなら、俺たちは戦いのために仕事をしていたことになる。俺たちの仕事はそうじゃない」


 手帳を閉じた。


「第八層を守ることだ。それだけだ」



 夜になって、武藤が第八層のゲートに来たと、監視カメラがとらえたとメイが言った。


 もう権限のない男が、ゲートの外から中を見ていたらしい。


「会いに行かなくていいですか」とメイが聞いた。


「話すことはない。あの人はあの人の道を行く。俺は俺の仕事を続ける」


「許したのですか」


「許してはいない。記録を偽造しようとしたことは忘れない。でも憎んでもいない」


「どうして」


「わからん。自分でも」


 少し間があった。


「でもな、メイ。この炉は武藤さんが来ようと来まいと、変わらず動いている。俺が守ってきたのは、この炉だ。武藤さんと戦うためじゃない。その違いが、俺を静かにしてくれてるんだと思う」



 簡易ベッドに横になった。


 天井にコア炉の青い光が揺れていた。


 武藤正信という男が、もうこの場所に関わることはない。それはただの事実として、俺の中に収まった。


 明日も朝五時に点検が始まる。


 第七層の発電機の軸受けも見る。小林に先週教えた打音検査の確認もする。午後には補修用立坑の状態を記録しておく。


 やることは変わらない。


 誰が来ようと、誰が去ろうと、第八層のコアは動き続ける。それを守ることが俺の仕事だ。それだけが、俺をここに縛り付けている理由だ。


 目を閉じた。


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           〈第八十七話 了〉

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【次話予告】

 翌朝、石倉から連絡が来た。

 「渉さん。中立派の笠原理事が、あなたの入域資格の復活と、第八層の管理体制の正式な見直しを提案するそうです。ついては、あなたに直接話を聞きたいと言っています」

 渉は点検の手を止めずに答えた。

 「朝の点検が終わったら伺います」



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【あとがき】

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 第八十七話、お読みいただきありがとうございました。


 石倉が手帳を証拠台に置く場面を、この話の核心にしました。擦り切れた表紙。手書きの数字。それは「モノ」として理事会の場に存在した。デジタルデータが争われる場に、「物理的な真実」が置かれた瞬間です。


 武藤の墜落は「自壊」として描きました。外側から壊されたのではなく、彼が信頼していた「組織のシステム」が、そのまま彼を排除する側に回った。渉を組織的に排除しようとした手続き——解任動議、採決、多数決——が、今度は武藤自身に適用された。笠原がその皮肉を「私怨で動いていた」と静かに断じるシーンが、今回で一番書きたかった場面です。


 「なぜ、清掃員如きに負ける」という武藤の独り言は、彼が最後まで渉との「差」を理解できなかったことを示しています。渉は武藤と戦っていなかった。第八層の炉を守っていただけです。その非対称性が、武藤の問いを宙に浮かせています。


 メイが「よかったですね」と言い、渉が「明日の点検箇所の確認をしておく」と答える場面が、渉という人間のすべてだと思っています。


                   (作者)


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