第八十五話「見えない封鎖線」
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第八十五話「見えない封鎖線」
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資材庫の棚を開けた。
空だった。
グリスの缶が一本と、フィルターが二枚。それだけ残っていた。先週まであった補充分がない。
「渉さん。週次補充の物資が保留ステータスになっています。発注元はJDA調達部、武藤理事の直轄部署です」
「そうか」
「グリス切れまで、このペースだと四十八時間です。フィルターは五日分。配線材の予備はほぼ尽きています」
棚を閉めた。
特に何も言わなかった。
◆
JDA本部の執務室では、武藤が画面を眺めていた。
操作は単純だった。調達システムの画面を開き、第八層向けの物資リクエストを「一時保留」に設定する。マウスを数回クリックするだけだ。
武藤はその画面を閉じ、椅子にもたれた。
「どれだけの職人であろうと、グリスが切れ、フィルターが詰まれば機械は止まる。物理には抗えない」
久我が頷いた。
「一ヶ月が限度でしょう。遅くとも、それまでに音を上げて出てきます」
武藤は窓の外を見た。
「今回は規則でも手続きでもない。物理だ」
◆
俺は先代のマニュアルを開いた。
附録のページ。「緊急時の物資調達について」という項目があった。
先代の几帳面な文字で、こう書いてあった。
「物流が止まったら、ゴミを見ろ。宝の山だ」
その下に、具体的な内容が続いていた。
「第七層の機兵残骸には、密封されたギアボックスが多数ある。中の潤滑油は二十年以上経過しているが、密封状態なら使用可能。旧式の軸受けには、現代の低粘度油より適合する場合もある。俺が試した結果、コア炉C系統の軸受けには、旧油のほうが運転音が落ち着いた。新品より良い場合がある」
俺はページを閉じた。
「メイ。第七層のスクラップマップを出してくれ。ゴーレム系の機兵が集中しているエリアを」
「……わかりました」
◆
第七層のスクラップ置き場に降りた。
広い空間に、破壊された機兵の残骸が積み上がっている。十年以上前の攻略で倒されたものだ。ほとんど誰も来ない場所だ。
スクラップマップを確認した。先代が手書きで書き込んだものだ。機兵の型式と、使用可能な部品の場所が細かく記してある。
「ゴーレム型、C-7区画に三体」
歩いた。
残骸の前に立った。胸部装甲が破壊されて、内部が露出している。ギアボックスが見えた。
工具で外装を開いた。ギアボックスの蓋を外した。中に油が入っていた。
指先を入れて確認した。
粘度があった。劣化は少ない。密封が保たれていたからだ。
「これは使える」
◆
採取の作業を始めた。
グリスガンを使って、ギアボックスから潤滑油を抜き出す。容器に移す。
同じ作業を、別の機兵でも繰り返した。
作業をしながら、先代の手記のことを考えた。
先代も同じことをやっていた。いつか物資が止まる日を想定して、第七層の残骸に何があるか調べておいた。それをマップに書き残した。
俺が今日やっていることは、三十年前に先代が準備したものを使っているだけだ。
小林が息を切らせてやってきた。
「親方! 物資が全部止まったって……!」
「知ってる」
「で、でも、どうするんですか」
「そこのゴーレムの左脚を外せるか。駆動部に油が残ってるはずだ」
「……え?」
「前に教えたな、外し方は」
小林は工具を手に取った。
俺は配線材の採取に移った。機兵の制御ケーブルを引き剥がす。被覆は劣化しているが、導線は生きている。
「小林。俺たちは新品がなきゃ何もできない職人じゃない。あるものを使う。それが基本だ」
「……はい」
「それに」
採取したケーブルを手の中で確かめながら言った。
「昔の機材のほうが、使える部品が多い。最近のは一体成型で、壊れたら全部交換だ。古いほうが直しやすい」
◆
コア室に戻って、採取した油を濾過した。
茶こしと古い布で不純物を除去する。容器に移す。
先代のマニュアルに、濾過の手順が書いてあった。「目の細かい布で二度漉せ。温めてから使うな。常温で使え。旧式の軸受けは熱に弱い」
その通りにやった。
「メイ。予備庫のB-3棚を開けてくれ」
「旧式の洗浄式フィルターです。先代が廃棄しないで残していたものです」
取り出した。使い捨てフィルターより目が細かい。洗浄すれば繰り返し使える。
水洗いして乾かした。元の位置に戻した。
「先代は、なぜこれを残していたんだと思う」
「……備えていたのでしょう」
「そうだな。先代は、いつか物資が止まることを想定していた。だから使い捨てに切り替えず、これを取っておいた」
◆
配線材の処理に取り掛かった。
機兵のケーブルは太い。断面積が大きい分、電気抵抗が低い。最近の配線材より電圧降下が少ないはずだ。
劣化した被覆を剥いて、絶縁テープを巻き直した。必要な長さに切る。
作業しながら思った。
物資が止まって、初めて気づいたことがある。
最近の消耗品は、第八層の旧式設備に必ずしも合っていなかった。環境規制で変わったグリスの配合が、古い軸受けに馴染みにくかった。使い捨てフィルターの目が粗すぎた。細い配線材では電圧降下が起きていた。
新品を使い続けることが、必ずしも「良い点検」ではなかった。
「先代の油は、旧式の機械に合ってた。だから第八層のコア炉は、今の油より先代の油のほうが調子がいいかもしれない」
「……試してみますか」
「試す。比較データを取ってくれ」
◆
午後、軸受けに採取した旧式油を注入した。
炉を起動した。
音が変わった。
わずかだが、運転音が低くなった。振動も落ち着いた。
「渉さん。排気温度が安定しています。先週比で……二・三パーセント向上しています」
「そうか」
「振動数も低下傾向です。これは……物資停止前より良い状態です」
工具を片付けた。
武藤は「物理には抗えない」と言った。
それは正しい。物理には抗えない。
ただ、物理というのは「新品を使えば良い」という話じゃない。「その機械に合った素材を使う」というのも、同じく物理の話だ。
◆
武藤の執務室では。
久我が報告を読んでいた。
「理事……第八層のデータです」
「止まったか」
「いえ……排気温度が、停止前より安定しています。振動数も低下しています。コア炉の状態が、むしろ改善しています」
武藤は久我を見た。
「どういうことだ」
「精査したところ、資材庫の旧式在庫が動いています。十年以上前の洗浄式フィルター。それから第七層の機兵残骸から採取した潤滑油の使用痕跡があります」
武藤は答えなかった。
「第八層の設備は旧式で、新品の消耗品より……旧来の部品のほうが適合性が高い部分があるようです。その結果として……」
「結果として、改善した。そう言いたいのか」
「……はい」
武藤はデスクから立ち上がり、窓際に歩いた。
モニターには第八層の安定したデータが表示されていた。
物資を止めた。しかし炉は止まらなかった。止まるどころか、良くなった。
「佐藤渉……」
武藤の拳が、わずかに握られた。
「お前を締め上げるはずの手段が、なぜお前の職人技を際立たせる結果になる」
◆
夜、コア室に一人になった。
手帳を開いた。今日のメンテナンス内容を書いた。
「使用油:第七層ゴーレム系より採取・濾過済み。コア炉C系統軸受けに使用。運転音低下、振動数改善を確認」
「フィルター:先代保管の旧式洗浄式に交換。微粒子捕捉率向上」
「配線材:機兵制御ケーブルより転用、絶縁補修済み。電圧降下値改善」
一行書き添えた。
「先代の言っていた通り、ゴミの中に宝があった」
ペンを置いた。
コア炉の唸りが、今日は少し低かった。新しい油が馴染んできた音だ。
武藤が「物理で締め上げる」と決めた日の夜、第八層の炉は、ここへ来てから一番静かに動いていた。
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〈第八十五話 了〉
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【次話予告】
石倉から連絡が入った。
「武藤が、理事会で渉さんの一連の抵抗を問題化しようとしています。ただし……今回は流れが違う。一部の中立派理事が、第八層の稼働改善データを見て、動き始めています」
渉は手帳に明日の点検予定を書きながら答えた。
「石倉さんに任せます。俺は現場を続けます」
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【あとがき】
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第八十五話、お読みいただきありがとうございました。
「物流が止まったら、ゴミを見ろ。宝の山だ」という先代の手記が、この話の核心です。
現代の消耗品が必ずしも旧式設備に最適ではないという逆説は、現実の整備現場でも起きることです。環境規制によって変化した潤滑油の配合が、古い設計の軸受けに馴染まない。最新のフィルターの目が粗すぎて、古い冷却系統では役に立たない。「新しければ良い」という思い込みが、むしろ問題を生むことがある。
渉が物資停止を知った時「特に何も言わなかった」という描写から始めました。彼にとってこれは「問題」ではなく「確認作業」です。先代のマニュアルに答えが書いてある。第七層に素材がある。あとはやるだけだ。その切り替えの速さが職人としての渉を表しています。
武藤がマウスのクリックで物流を止め、渉が油と埃の中で油を手で濾過する。その対比は意図的に入れています。組織の力は「遠くから、きれいに」行使できる。しかし現場の力は「近くで、汚れながら」しか発揮できない。どちらが現実に近いかは、炉のデータが示しています。
(作者)




